2024.6.16「見えないものに Ⅱコリント4:16-18」

この世の多くの人たちは目に見えるものしか信じません。私もかつて、「神を見せてください。見たら信じます」と言いました。しかし、よく考えると目に見えるものは、信じる必要はありません。そこにあるものを確認するだけです。目に見えないからこそ、信じる必要があるのです。この世には目に見えないものがたくさんあるのに、唯物論者のようなことを言います。きょうは、目に見えないものに目を留めることの大切さについて聖書から学びたいと思います。

1.神の備え

 Ⅰコリント4:18「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」このところには、見えるものと見えないものの比較が示されています。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くと書かれています。だから、パウロは見えるものではなく、見えないものに目を留めると言っているのです。では、見えるものとは何なのでしょう?また、見えないものとは何なのでしょう。聖書はもともと何章とか何節と分けられているわけではありません。これは、後代の人、ある説では聖書を印刷する人が、章とか節があると便利だからと付けたと言われています。そうすると、このⅡコリント4章18節は、Ⅱコリント3章で言われていること、そしてⅡコリント5章で言われていることと関連しているということです。まず、最初はこれらの文脈から「見えるものと、見えないものが何か」ということを調べたいと思います。

 まず、見えるものというのは、肉体であり、外なる人のことです。パウロは「外なる人は衰える」(Ⅱコリント4:16)と言っています。でも、その前の4章7節では「土の器」と言っています。「土の器」という賛美があります。あの賛美を歌っていつも思うのですが、土の器は落とせば割れます。でも、火のような試練は大丈夫です。なぜなら、土の器は火の中をくぐってできているからです。土の器は衝撃には弱いけど、火には強いのです。それはともかく、Ⅱコリント5章には、肉体のことを「地上の住まいである幕屋」にたとえています。かつてイスラエルの民は荒野を旅していたときがありました。そのときは、幕屋(テント)で生活していました。幕屋は雨風、日光に当たると朽ちて行きます。私たちの肉体はなぜ衰えるのでしょう?それは有害な宇宙線や紫外線をいつも浴びているので、細胞の再生がおかしくなるのです。いわゆる老化であり、美肌コラーゲンやサプリメントでも止めることはできません。では、見えないものとは何でしょう?4章16節に「内なる人は日々新たにされ」と書かれています。少し前には土の器に対して「宝」(4:7)と言っています。Ⅱコリント5章には「神が下さる建物」と書かれています。これを「人の手によらない永遠の住まい」と言い換えています。幕屋(テント)は一時的であり、しばらくたつと朽ちてしまいます。一方、建物buildingは恒久的です。コンクリート製の建物の寿命は50年位だと言われています。コンクリート自体は持ちますが、水回りの配管や電線がダメになるのです。でも、パウロが言っているのは石の建造物です。ヨーロッパに行くと200年、300年経ってもいまだ健在な建物がたくさんあります。ヨハネ14章でイエス様は「私の父の家には住む所がたくさんあります」と言われました。伝統的な解釈は天における住まい(大邸宅)であると考えられています。しかし、ウィットネス・リーは「あれは私たちの栄光のからだのことである」言っています。確かにⅡコリント5章の「永遠の住まい」と同じことばです。

 Ⅱコリント5:1-4「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。」これらの聖句から分かることは、私たちの外なる人、幕屋は朽ちてなくなってしまうということです。パウロは早くこの幕屋を脱いで、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。でも、「その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません」とはどういう意味でしょう。裸とは私たち自身のこと、霊魂ではないかと思います。霊魂は内なる人のことであり、地上では肉体を着ています。やがて肉体は衰え、朽ちてしまいます。パウロは「その肉体を早く脱ぎたい」と切望しています。このことに対して、すばらしいニュースがあります。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」父なる神さまが、私たちに建物、人の手によらない永遠の住まいを備えていて下さることです。どういう意味でしょう?キリスト教の救いは霊魂だけではないということです。それだけだと裸の状態です。父なる神さまは永遠の住まい、栄光のからだを私たちのために備えて下さるということです。それは復活の体、栄光のからだです。

 イエス・キリストは死んで3日目によみがえられました。蘇生したのではなく、死なない栄光のからだによみがえられたのです。パウロはそのことをⅠコリント15章で「地上のからだに対して、天のからだ」と言っています。Ⅰコリント15:50「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」そのため神さまは、私たちに朽ちないからだ、栄光のからだをイエス様のように与えてくださるということです。パウロは「この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着る」と言っていますが、それは肉体の復活のことです。キリスト教の救いは霊魂だけではありません。この世の宗教のほとんどがそれです。しかし、私たちの場合は、終わりの日、この肉体が復活することが、贖いの完成なのです。私たちは目に見える外なる人、肉体だけに目を留めてはいけません。神の備えてくださる建物、新しい復活のからだに目を留めることが大事なのです。

 

 

2.神の存在

第二は、見えないものに目を留めることの大切さについて、別の方面から考えたいと思います。もう一度お読みいたします。Ⅰコリント4:18「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」パウロが「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」と言っていますが、これは私たちの考え方を変えるようにというチャレンジではないかと思います。冒頭でも申し上げましたが、世の人たちは、目に見えるものしか頼りません。目に見えるものとは、科学的であり、合理的であると考えられているからです。ヨーロッパに啓蒙主義が興り、科学が発展していくにつれて合理的になっていきました。その結果、霊とか奇跡、神の存在まで否定するようになりました。私たちが福音を伝えるとき一番ネックになるのが、「目に見えるものがすべてである」という合理主義と自然科学に影響された考えです。「神さまがいるんですよ。天国はあるのですよ」と言うと、「子どもじゃあるまいし」と馬鹿にされます。ジョン・レノンがImagineを歌ったとき、一方では大うけし、他方では放送禁止になったそうです。なぜなら、国家や財産、宗教や天国を否定しているからです。大体の歌詞が「想像してごらん、天国なんか無いって。地面の下に地獄なんか無くて、頭の上にあるのは空だけ」と歌っています。私たちは想像力をそのように使ってはいけません。私たちは目に見えないものに目を留める、つまり想像する必要があるのです。

ヘブル11:3「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」信仰は目に見えないものを信じる神さまがくださった能力です。私たちの身体には五感があります。見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐです。これらはすべて物質に関係しています。でも、この世の中には、見えなくても、聞こえなくても存在するものがたくさんあります。たとえば、私たちの目は可視光線だけです。紫外線や赤外線は見えません。もちろんX線など放射線も見ることができません。キューリ夫人がはじめて、放射線を発見しノーベル賞を2回もいただきました。でも、その代償で被爆して66歳で亡くなりました。現在は放射線測定器で、どのくらいの線量なのか分かります。音波も人間の耳で聞こえるのは、20から20,000ヘルツだと言われています。それより低い音も、高い超音波も聞こえません。私たちの回りにはたくさんの電波が飛び交っています。電波には長波、中波、短波、極短波、マイクロ波などがあります。目には見えませんが、私たちの回りにテレビ用の電波や携帯の電波が飛び交っているのです。なのに、霊的なものが存在しているとは信じないのです。ヨハネ4:24「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と書いてあります。神さまは霊なので、目には見えません。日本語訳は「御霊」となっていますが、本来は「霊」です。私たちの霊によって、神さまと交わることができるのです。アダム以来の人間は、この霊が死んでいるか、休眠状態です。そのため、神さまご自身と神さまのことに関してはさっぱりわかりません。

ソビエト連邦時代のある小学校の話です。ある先生が教室に入るなり、「この中に神を信じているヤツはいないだろうな」と言ったそうです。すると、一人の少年が「神さまはおられます」と手をあげて答えました。先生は真っ赤な顔をして答えました。「宇宙に行ったガガーリン少佐は『あたりぐるっと見回しても、神はいなかった』と言ったことを知らないのか」とものすごい剣幕で答えました。少年は平然な顔をしながらこう答えました。「聖書に『心のきよい者は神を見る』と書かれています。おそらく、ガガーリンは心がきよくなかったのではないでしょうか?」これは逸話ですので真意はどうか分かりません。でも、マタイ5章に「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」と書いてあります。心はギリシャ語カルディアであり、heart心です。mind頭ではありません。mind頭は理性とも言えます。しかし、heart心は心情であり、心で感じることです。私たちが神さまと出会う、キリストを信じるときというのは、心が飢え渇いているときです。心が貧しくなったり、悲しんだり、絶望したりするときです。幸せいっぱいで笑っている時は、神さまが見えないのは不思議です。旧約聖書に「伝道者の書」がありますが、仏教のような虚無的なところがあります。伝道者7:2,4「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。…知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」この書物には、「喪中の家に行けば、何かを心に留める知恵が与えられる」と言っています。人生の空しさ、はかなさを体験すると、神さまの世界が見えてくるということでしょう。まさしく、神さまは「人の心に永遠を思う思いを授けられました」(口語訳伝3:11)。

ヘブル11:3「この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります」。見えないものというのは、神のことばです。そして、この神のことばから、見える世界が造られたのです。創世記1章を見ると分かりますが、「光あれ」と神さまが言われると、光がありました。神さまがことばを発すると、陸地が現れ、植物、動物が現れたのです。科学者たちがいうビックバンでもないし、進化論でもありません。神さまが存在の源であり、見えないことばによって、見えるものを創造したのです。言い換えると、目に見える物質の前に、目に見えない霊なる神さまがおられたということです。確かに創世記2:2「神の霊がその水の面を動いていた」と書かれています。私たちは神さまから造られた存在であり、神さまが作られた物質的な世界で生きています。なのに、「創造者なんかいない、自然にできたんだ」と言っています。人類の歴史を考えると紀元前15世紀から紀元後17世紀までは、神さまと神さまの創造を疑っていませんでした。それ以降の人たちは、頭が良くなって「神はいない」と言い出したのです。皮肉なことに、科学が発展すればするほど、「この世界は創造者がいなければなりたたない」と考える人が増えているようです。最先端の物理学者たちは、something greatと言っています。でも、信仰がなければ本当の神さまは分かりません。

 

3.神の臨在

 人が神さまの存在を認めたら救われるか、というとそうではありません。世界に「神はおられる」と信じている人が90%はいるでしょう。共産主義のロシアや中国でも、「神はおられる」とどこかで思っているはずです。世界に数えきれない宗教があるのは、「神はおられる」と信じているからです。でも、物理学者たちが、something greatと言っても、キリストの神さまと出会わなければ、ニューエイジにはまってしまいます。ニューエイジの神は宇宙の大霊だからです。そこには私たちを愛しておられる神はいません。人格のない、無のような存在です。ですから、「私は神の存在は認める」という人がいても、喜んではいけません。その人に次の質問をしたら良いと思います。「あなたが信じる神はどこにおられますか?」と聞けば良いのです。もし、その人が「遠くどこかに存在しています」と答えるなら、救われていない人です。なぜなら、神の存在は悪魔でも信じているからです。ヤコブ2:19「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」アーメン。問題は、その人が神さまを信じて、そのお方に従っているかどうかです。神の存在は信じていますが、従うつもりはありませんというのは、信じていない人の言うことです。人はどうして神さまを信じないのでしょうか?人が神さまを認めると、神さまに従わなければならなくなります。そのため、頭だけで神の存在を認めても、心はまったく神さまから離れているのです。頭と心はたった、30センチしか離れていませんが、霊的にはものすごい距離があります。教会に来ている求道者たちは頭で信じていても、心で信じていません。人間はなんと器用なのでしょうか?どうぞ、頭でも心でも神さまを信じてください。

 人が神さまをキリストによって信じるとどのようになるでしょう?あなたの中に神の霊が入り、あなたは神とともに歩む人になります。その人は神の存在に対しては疑問を抱きません。むしろ、神が私と共におられるだろうかという神の臨在に心を留めるようになります。Ⅱコリント4章でパウロが「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」と言いましたが、これは見えない神が私と共におられることに目を留めよということなのです。つまり、神の臨在を常に求めるということです。神の存在と神の臨在は同じようですが、違います。神さまはどこにでもおられる偏在の神さまです。しかし、あなたのところに臨在されると、そこには救いの御業が起こります。イエス様は神がともにおられるお方、インマヌエルなるお方でした。福音書を読むとわかりますが、イエス様が行かれるところどこでも、癒しや奇跡が起こりました。5つのパンと二匹の魚で男性だけでも5000人が食べ飽きることができました。目が見え、耳が聞こえ、足なえが歩き、死人さえよみがえりました。イエス様はマタイ28章で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われました。これは弟子たちのことだけではなく、キリストを信じているあなたのことでもあるのです。キリストを信じている人であるなら、もれなくキリストがあなたと共におられます。

 イエス様は復活された後、たびたび弟子たちの前に現れました。使徒1:3「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」言い方を換えますと、イエス様は現れては消え、消えては現れたということです。イエス様は復活した日曜日の夜、弟子たちの前に現れました。そのときは弟子トマスがいませんでした。他の弟子たちがトマスに「私たちは主を見ました」と言いました。トマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じません」と言いました。次の日曜日の夜、トマスがそこに加わっていました。戸には鍵がかけられていたのに、イエス様が弟子たちの真ん中に立って「平安があるように」と言われました。それからトマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスは「私の主、私の神よ」と言いました。トマスは驚いたでしょう。一週間前、自分が言っていたことを、イエス様がそこにいて聞いておられたからです。ヨハネ20:29「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」イエス様のおことばがきょうのメッセージの答えです。見て信じるのはだれでもできます。見ないで信じる人が幸いであり、祝福されるのです。イエス様が弟子たち、私たちにおっしゃりたいのは、「見えなくても、あなたと共にいますよ」ということなのです。

 パウロは「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みの事です」(コロサイ1:27)と言いました。距離的に最も近い「共にいる」とはどのような状態のことを指すのでしょう?それは御霊によって私たちの中にいるということです。ヨハネは「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(Ⅰヨハネ5:12)と言いました。変な言い方ですが、私たちはキリストを内に持っているのです。だからパウロはⅡコリント4章で「この宝を土の器の中に入れています」と言ったのです。ですから、私たちはどこに行こうとも、どんな状態であろうともイエス様が私たちと共にいらっしゃるのです。私たちを内側から励まし、力を与え、そして語ってくださるのです。エマオの途上の弟子たちのように「心が内に燃える」経験をするのです。ジョンウェスレーやスポルジョンも同じような経験をしています。見えるものは一時的です。見えるものとは、手で触れる物質です。私たちの外なる人、肉体です。見えないものとは、聖書のみことばであり、神さまご自身です。天の御国もまだ見えません。でも、信じていると,やがて見えるときが来ます。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります」。その時になれば、父なる神、イエス様を真近かで拝することができます。先に天国に入っている兄弟姉妹たちと再会することができます。先に行った自分の妻や夫、子どもにも会うことができます。この世では死は最も辛い出来事です。でも、私たちには希望があります。終わりの日には、年老いたからだではなく、不自由なからだでもなく、互いに栄光のからだを持って再会できるからです。