2024.6.30「エレミヤと書記バルク エレミヤ書36章」

  • 本日の中心聖句 

 

<エレミヤ36:25-28 >

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36:25

エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。

36:26

王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、主は二人を隠された。

36:27

王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような主のことばがあった。

36:28

「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。

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エレミヤ書を順に見ています。本日は、エレミヤと書記バルクのお話です。

私たちが日ごろから読み親しんでいる、「聖書」に関わるお話をします。

 

エレミヤ書は、年代順ではなく、主題によって並べられています。

36章は、ヨシヤ王の息子エホヤキム王時代の出来事が書かれています。

 

南ユダ王国最後の善王と言われるヨシヤ王が死に、後を継いだ王たちは神に背き墜ちていきました。

まず、ヨシヤの子、エホアハズが王になりましたが、3か月でエジプトに連れて行かれて死にました。

同じくヨシヤの子エホヤキムが代わって王になりました。彼は11年間エルサレムで統治しました。

 

ところがこの頃には、エジプトだけではなくバビロニアが力をつけて来て、南ユダは両国に挟まれて、非常に苦しい立場にありました。

 

それでもエレミヤは繰り返し、主からの御言葉を預言しました。

主は、悔い改めないユダの民たちに、バビロン捕囚というさばきを与えることを決められました。

彼らに敢えて試練を与え、主に立ち帰らせるためでした。

 

<エレミヤ29:11>で、主が語られている通りです。

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わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。

それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

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主は、憐みもくださり、「70年後に帰還できる」と語られました。

◆エレミヤと書記バルク

①霊感された書物

 

36章を見ていきましょう。

<エレミヤ36:1-4 >

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36:1

ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなことばがあった。

36:2

「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。

36:3

ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

36:4

それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記した。

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エレミヤには「バルク」という弟子がいました。

彼は終始エレミヤのそばを離れず、忠実に仕えました。

エレミヤの預言を書き留める筆記者であり、朗読者でした。

歴史家のヨセフォスによると、バルクは高貴な家の出であり、優秀な人物だったそうです。

 

エレミヤはバルクに、主からの御言葉を口述し、巻物に筆記させました。

内容は、エレミヤがヨシヤ王に仕えて預言を始めた時から、23年間に渡る期間の御言葉です。

 

エレミヤはこの時、エホヤキムから危険視されて、主の宮への出入りを禁じられていました。

そこで、エレミヤの代わりに、バルクが主の宮に巻物を届けました。

そして、首長たちや、王の側近たちの前で読み上げました。

 

彼らはその内容に恐れおののきました。

悔い改めなかったユダの民が、バビロンに捕囚されるというさばきの内容だったからです。

彼らは、このことは必ずエホヤキム王に伝えなければと言いました。

そして、エレミヤとバルクの身を心配して、エホヤキムの怒りに触れないように、身を隠すようにと言いました。

 

そしてついに、エホヤキム王の前で、その巻物が読まれました。

エホヤキム王は悔い改めるどころか、なんと、その巻物を焼き尽くしました。

 

<エレミヤ36:23>

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36:23

ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、

巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。

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父親のヨシヤ王の時に、律法の書が出て来ましたが、ヨシヤはそれを読んだとき、衣を引き裂いて悔い改め、主のおしえを実践していきました。

ところが、その父を見てきたはずのエホヤキムは、どうでしょうか。

悔い改めるどころか主の御言葉を記した書物を焼き尽くすという、とんでもないことをしました。

 

そこで、本日の中心聖句です。

<エレミヤ36:25-28 >

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36:25

エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。

36:26

王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、主は二人を隠された。

36:27

王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような主のことばがあった。

36:28

「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。

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エレミヤとバルクは、身の危険を感じましたが、主が隠してくださいました。

そして主の命令通り、再び御言葉を書き記し、更に主によって新たに加えられた御言葉も書きました。

 

エホヤキム王は、これほど直接的に主の御言葉を聞いておきながら、全く信じようとしませんでした。

エホヤキムは、11年間王でしたが、バビロンのネブカドネツァルによって捕らえられ、殺されました。

 

一方、エレミヤとバルクは、命の危険を冒してまでも、この巻物を二度に渡って完成させました。

そして、その働きがあったからこそ、現代の私たちは、このエレミヤ書を読むことができます。

聖書は、ただの書物ではなく、霊感された書物です。

 

<Ⅱテモテ3:16-17>には、こう書かれています。

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3:16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

3:17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

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聖書を繰り返し読んでいると、読むたびに、同じ個所であっても、新しい発見や感動があります。

おそらく、主がその時々に語ってくださるからでしょう。

 

聖書は、霊感された書物です。

 

今の私たちは、日本語に訳された聖書を手に取って読むことができます。

しかし、長い歴史の中では、聖書を自国の言葉に訳しただけで、処刑された殉教者がたくさんいます。

 

エレミヤとバルクはじめ、聖書を整えてくださった偉大な先人たちに感謝しましょう。

そして何よりも、私たちの心に深く語ってくださる主に感謝しましょう。

 

◆エレミヤと書記バルク

②対話がもたらす理解

聖書を理解するには、「聞く」「読む」「対話する」といった様々な方法があります。

ローマ書の有名なみことばです。パウロはこう言いました。

 

<ローマ10:16-17>

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10:16

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。

10:17

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

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「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

とパウロが語った時代は、一般の人は文字を使わず、ほとんど口述で物事を伝えました。

ですから、「聞く」という表現になっているのですが、今では「読む」ということも入ると思います。

 

しかし、古代ギリシャ哲学者のソクラテスは、文字を嫌いました。

書き言葉は記憶を破壊すると考えたからです。

 

確かに、何かに書き留めておけば、記憶しておかなくてもいいやと思ってしまいますね。

記憶力はどんどん衰えます。

 

そしてソクラテスは、相手と問答をすることにより、互いに理解を深め、互いに成長すると考えました。

よって、彼の著作は一冊もなく、すべてプラトンやクセノポンなどの弟子たちが書き記したものです。

 

これらは、ただ教えを聞くというのではなく、「生きている会話」、対話によってもたらされる理解です。

ソクラテスは、「書きとめられた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙だ」とまで言いました。

 

ソクラテスはギリシャの神々を信じていましたが、仏教にも、禅問答という教育方法があります。

キリスト教にもカテキズムという問答形式の書物があります。

 

確かに、問答形式で会話すると、より相手や物事の理解は深まります。

自分の心の思いを言語化する作業は、かなり頭を使います。

ましてや相手に理解してもらう言葉となると、かなりハードルが高くなります。

しかし、そのことによって、自分自身の考えがはっきりと整理されていきます。

 

このように、聞くこと、対話することも大切ですが、聖書の神様は文字も大切にされました。

ハイブリットです。

聖書に出てくる主が書かれた最初の文字は、石の板に書かれた十戒ではないでしょうか。

 

<出エジプト31:18, 32:15-16>

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31:18

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。

32:15

モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。

32:16

その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。

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『さとしの板』 は以前の聖書では、『あかしの板』 と書かれていましたが、石でできた板です。

この石の板は、現在よく使われている、『タブレット』 という名前の語源です。

タブレットは、ラテン語ですが、モーセが授かった石の板が、その由来となっています。

 

主は、四十日四十夜モーセと語られ、石の板に契約のことばを書き記されました。

このことからも、主は対話も文字も大切にされていることが解ります。

 

ソクラテスは偉大な哲学者でしたが、その思想を文字によって伝えたのは、弟子たちです。

プラトンは、「ソクラテスの弁明」、クセノポンは、「ソクラテスの思い出」など書き残しました。

弟子たちが文字にして残さなければ、ソクラテスはこんなに有名にはなっていなかったでしょう。

 

余談ですが、古代ギリシャの哲学者は、みんな身体を鍛えていて、ムキムキマッチョだったみたいです。

プラトンは、アテナイでも有名なレスラーだったそうです。

クセノポンは軍人で、ムキムキマッチョ。

ソクラテスも身体を鍛えるのが好きだったみたいです。

 

ソクラテスは妬まれて無実の罪を着せられて、ドクニンジンを飲んで処刑されてしまいましたが・・・

このルイ・デビットの絵画には、弟子たちに囲まれてドクニンジンを飲むところが描かれていますが・・・

痩せてはいますが、しっかり 『シックスパック』(筋肉が鍛えられて六つに割れている)です。

 

『②対話がもたらす理解』 ここで言う対話とは、神との間だけではなく、兄弟姉妹、また違う宗教や考えの人と語ることも含まれています。

 

聖書を聞く、読む、そして対話することを実践して、自分自身の御言葉の理解を深めていきましょう。

 

◆エレミヤと書記バルク

③御言葉を霊で受け取る

 

聖書を読む時に大切なのは、頭で理解するだけではなく、御言葉を霊で受け取ることです。

もともと本能で動くタイプの人や、感覚で物事を受け取る人は、これは得意なことかもしれません。

 

よく、男性は聖書を頭で理解し、女性は感覚で理解すると言われますが、最近はこんな発言も、LGBTQに引っかかるのでしょうか?

 

先日、スケートボード(ストリート)の堀米雄斗選手(25歳)の滑りをテレビで見ました。

堀米選手は、東京オリンピックで金メダルをとりましたが、最近は調子が上がらず苦しんでいました。

パリオリンピックの選考があった、中国の上海大会では、まさかの予選落ち。

 

今回最終選考のハンガリーのブタペスト大会は最後のチャンス。まさに崖っぷちの状態で挑みました。

しかし最後に大技を決めて、見事優勝し、パリオリンピック出場の切符を手に入れました。

 

なぜ、この話をするかというと、彼の新しい大技を見て感動したからです。

彼は、細い手すりの上を滑り降りる時、バックから入って360度回転して、バックから着地するという、大技をくりだしました。

解説者の話だと、彼は全く手すりや足元が見えない状態で滑っていると言っていました。

 

この技は、私たちが想像もできないくらい、激しいトレーニングを積んで取得したものでしょうが・・・

これは一種の霊的な何かが働かないと出来ないのでは?・・・とさえ思いました。

 

まあ、キリスト教とはぜんぜん関係ない話なのですが・・・。

 

そういう特別な霊的な感覚は、クリスチャンは主との交わりの中で感じることができるのではないでしょうか。

エレミヤとバルクの話に戻りますが・・・神は霊です。

 

<ヨハネ4:24>

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神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

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エレミヤは霊である主と特別な深い交わりを持っていました。

霊と霊で交わることができる特別な関係です。

巻物が火で焼かれた後、彼らはエホヤキムの追手によって、捕らえられそうになりました。

 

<エレミヤ36:26 >

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王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、主は二人を隠された。

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ここで、「主は二人を隠された。とあります。

これは霊的な意味では、主の御手の中に隠れて、主にとどまるということを意味しています。

 

私たちも、御霊と真理によって神を礼拝しましょう。

エレミヤとバルクのように、霊と霊で主と交わる日々を送りましょう。

 

イエス様は、十字架に架かられる前に弟子たちに語られました。

 

<ヨハネ 15:4-5 >

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15:4

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

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ぶどうの木であるイエス様に、枝としてとどまり、③御言葉を霊で受け取りましょう!

多くの実を結べるように、祈っていきましょう!

聖書を与えてくださった主に感謝しましょう!

霊感された聖書を読み、対話して理解を深め、霊と霊で主と交わっていきましょう!