2024.6.23「新生から聖化へ ガラテヤ5:16-17」

心理学では分からない分野があります。それは霊の存在と霊の生まれ変わりです。人が根本的に変わるのは、心理学では不可能です。クリスチャンとは霊が新しく生まれた人のことです。これを新生と言います。でも、そのままでは良くありません。生まれつきの魂である肉が霊の支配を許しません。クリスチャンには二種類います。肉的なクリスチャンか、霊的なクリスチャンかのどちらかです。霊的なクリスチャンとは魂が砕かれ、霊の言うことに従っている人です。

1.新生

 新生は霊的に生まれることであり、これは自分の内になされる最大の奇跡と言えます。アダム以来、人間はすべて霊的に死んでいるか、霊が眠っている状態で生まれてきます。宗教改革者たちは、「人間は完全に堕落して、自分で神を見出すことができない」と言います。この世の人たちは、人間に正しい教育を施すなら、罪を犯すことはないと考えています。しかし、それは不可能です。いくら倫理道徳を教えても、人間は自然に悪いことをするのです。エレミヤ17:9口語訳「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」キングジェームス訳を直訳すると、「心はすべてのものより欺くもので、すさまじく邪悪である」となります。つまり、私たちの心は修復できないくらい汚れており、たとえていうなら、使い古した雑巾です。雑巾をきれに洗って、アイロンをかけても、雑巾は雑巾です。森の石松が「馬鹿はしなきゃ、治らない」と言ったそうですが、人間も一度死なければなりません。キリスト教は生まれ変わりの宗教です。古い人が一度死んで、生まれ変わるということです。では、どうしたら人は生まれ変わることができるのでしょうか?

 ヨハネ3章で、ニコデモがイエス様にこう尋ねています。ヨハネ3:4「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」高齢に達していたニコデモが「もう一度、この私が母の胎に入って生まれ変わるなど不可能です」と言いました。イエス様は「御霊によって生まれるのです」と答えました。でも、ニコデモは「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」と言いました。イエス様は「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか」とあきれ返っています。ニコデモはサンヒドリン議員の一人であり、宗教家で、人生経験も豊富でした。しかし、彼のように立派な人物であっても、霊的に生まれなければ、神の国に入れないということです。これはこの世の教育の限界です。知識や宗教では、人は救われないということです。では、どうしたら良いのでしょう?イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われました。この世に誕生した人はだれでも、肉体を持っています。でも、それでは神の国に入ることはできません。なぜなら、神の国は永遠であるので、朽ちていく肉体では不可能なのです。また、私たちはアダムの罪、先祖の罪、自分自身が犯した罪によって、このままでは神の国に入れません。つまり、一度、古い人に死んで、霊的に生まれ変わる必要があるのです。これを新生と言います。

 新生はイエス・キリストを救い主として信じると、そうなります。とても簡単です。私たちがキリストを信じると、聖霊が私たちを生まれ変わらせて下さるのです。イエス様は「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」(ヨハネ3:8)と言われました。風と御霊、つまり聖霊は似ているということです。両者とも肉眼では見えません。また、両者とも私たちの思い通りになりません。風は見えませんが、吹く音が聞こえたり、木の葉が動くのが見えます。同じように、聖霊は見えませんが、その人に吹くと、霊が生まれ変わり、何らかの変化が現れるということです。私は1979年4月15日、午後9時半頃、イエス様を心に受け入れました。職場の先輩から9時間も個人伝道され、根負けして「じゃ、信じるよ」と言いました。次の朝起きるとどうでしょう?カーテンを開けたら、生垣の緑が輝いて見えました。葉っぱの葉脈が神の作品であると感動しました。心の中に光が入ったような感じがし、喜びでいっぱいになりました。私は人が変わり、口を開いたら、神さまのことばかりでした。彼女と友人は私がキリスト教にかぶれてしまったと思い、私から去って行きました。洗礼を受けてから、酒もたばこもやらなくなりした。お薬に使用前、使用後がありますが、まさしく私がそうでした。私に福音を伝えた職場の先輩が一番驚いていました。先輩は冗談半分で、私がいつか「『塩狩峠』の映画のように、小さな教会で子どもたちにお話するようになる」と言いました。

 ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』という本で、魂が三つの部分でできているように、霊も三つの部分でできていると述べています。少しその本から引用します。霊は、良心、交わり、直覚からなっている三つの部分、あるいは機能があります。「良心」は容易に理解できます。善悪を識別することは、良心の一つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とする事は、良心の別の働きです。「交わり」を理解するのも容易なことです。交わりとは、神と私たちが交わることです。私たちの霊の内でこのような機能によって神に触れることができます。簡単に言って、交わりとは神に触れることです。しかし、「直覚」を理解することはそんなに簡単ではありません。直覚とは、直接的な感覚、あるいは直接的な認識を持つことを意味します。私たちの霊には理由、環境、背景に関わらず、直感なるものがあります。それは理由のない感覚、すなわち「理由づける」ことのできない感覚です。それは神からの直感であり、神からじかに知らされることです。この機能がいわゆる霊の直覚です。このように良心、交わり、直覚の機能によって霊というものが分かります。引用は以上です。

 パウロが霊について述べている箇所を二つ開きます。ローマ8:16「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」ローマ9:1,2「私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」これら2つの聖句から何が言えるでしょうか?一方では、聖霊が私たちの霊とともに証をします。他方では、私たちの良心が聖霊と共に証をします。このことから、良心が私たちの霊の一機能であることが分かります。Ⅰコリント5:3「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました」と書いてあります。この霊と言うのはパウロの霊であり、パウロの霊が罪人をさばくのです。さばくというのは、罪があるか、義であるかどちらかに定めるということです。ですから、良心は霊の中にあると言えます。旧約聖書のイスラエルは罪を犯しても簡単に悔い改めませんでした。たとえ、一旦は悔い改めても、すぐまた罪を犯しました。本当にイスラエルの民の心は頑なでした。「頑な」というのは、霊がかたくなであり、良心に無頓着であるという意味です。言い換えると良心が死んでおり、まったく機能していないということです。そのため、エゼキエル書はいつか、心が新しくされることを預言しています。エゼキエル11:19「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」石の心とは、頑なな心です。一方、肉の心とは、神さまに聞き従う柔らかい心です。そのことは、新しい霊を与えることによって可能になるのです。ヨハネ3章で、イエス様が言われた、霊的に新しく生まれるとはこのことを言っているのです。

 新生した人、つまりクリスチャンになると罪に対して敏感になります。これまでは、何とも思わないでしていた事なのに、「それは罪ですよ」と霊が教えてくれます。ある教会では、「イエス様を信じます」と告白するとき、「これまで犯してきた罪も一緒に悔い改めるのですよ」と指導します。もし、救われるために自分が犯した罪を悔い改める必要があるなら、それは行いによる救いになります。人が救われるための悔い改めとは、自分が罪人であることを認め、まことの神に方向転換することです。霊的に死んでおり、何が罪であるか分からないので、罪の悔い改めは無理なのです。よく、Ⅰヨハネ1:9が入信のときに引用されます。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」このみことばは、既にキリストを信じて神の子どもになっている人たちへのものです。このみことばは、新生したクリスチャンに対してのものであり、まだイエス様を信じていない人のためのものではありません。霊的に死んで、罪に無感覚な人がどうして、罪を悔い改めることができるのでしょう?新生して、霊が、良心が目覚めた人が罪の悔い改めが可能になるのです。ヨハネは黙示録3章で「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」と命じています。これは、キリストの贖いと父なる神の愛を体験したものが、できることなのです。見えない神の働きで、私たちが体験する奇跡は、新生です。死んでいた私たちの霊が新しく目覚め、神さまのことが分かり、世界が新しく見えることです。それまでは、神さまの存在に全く無関心でしたが、救われた喜びとともに飢え渇きが与えられます。それは、神のいのちが与えられた証拠、新しく生まれ変わった証拠です。

2.聖化

 結婚のハネムーンのように、救いにもハネムーンの期間があります。人によって個人差はありますが、数か月間は、天にも昇るような喜びがあります。ところがどうでしょう?喜びも束の間、心の内側に争いが生じます。どんな争いでしょう?ガラテヤ5:16,17「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」日本語の聖書に「御霊」とありますが、これは聖霊なのか、私たちの霊なのか原文では分かりません。聖書協会共同訳は「霊によって歩みなさい…肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する」と訳しています。原文のギリシャ語がどちらか分からなのに、聖書を訳す人が大文字のSpiritにするか、小文字のspritにするか決めているところがあります。私たちの霊の部分に、聖霊が臨在しており、これら二つを分けることができません。もう一度、戻りますと、しばらく経つと私たちの内側に葛藤が起るということです。それは私たちの生まれつきの魂と、生まれ変わった霊との戦いです。生まれつきの魂は、しばしば肉と呼ばれています。肉と言うのは、肉体のことではなく、神から離れた独立的な魂のことを言います。魂は3つの部分に分かれています。考える働きをする知性、感じる感情、選択する意志の3つです。救われる前の私たちは、神さまに全く相談せずに、考え、感じ、選択して生きてきました。それなのに、霊が生まれると、これらに指示を出すようになります。だから、パウロは「この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります」と言っているのです。

 Ⅰコリント2章と3章には、この世には三種類の人がいると書かれています。第一は生まれながらの人です(Ⅰコリント2:14)。この人は、神から離れているので、霊的に死んだ状態です。神から完全に独立して生きているので、生まれながらの人は自然に罪を犯してしまうのです。生まれながらの人には魂があり、そこで考えたり、感じたり、選んだりすることができます。第二は肉に属する人(Ⅰコリント3:1)。この人は新生を体験し、内側の霊が生きています。でも、魂は生まれ変わっていません。魂は変革させられる必要があります(ローマ12:2)。でも、この魂は主導権を霊に与えることはしません。自分で考え、自分で感じ、自分で選ぶという生き方を改めようとしません。肉は生まれつきの性質ですが、必ずしも醜悪ではありません。美しい肉もあります。品行方正で、道徳的な肉もあります。でも、決定的な違いは霊には従わないという頑固さを内に秘めていることです。後で説明しますが、魂が砕かれないままの人は、救われていても、神に逆らった生き方をしています。その証拠に、不品行や争い、憤り、ねたみ、泥酔など肉の働きが顕著です。その人の生き方は、この世の人と全く変わりません。第三は霊の人です。日本語の聖書は「御霊に属する人」となっています(Ⅰコリント3:1)。ガラテヤ5章では、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです(ガラテヤ5:24)と書かれています。つまり、古い人が十字架につけられていることを認め、自らの意思で肉を十字架に付ける人です。言い換えるとそれは魂の砕かれた人のことを指します。「御霊に属する人」は肉的なクリスチャンに対して、霊的なクリスチャンと言えます。

 ウォッチマン・ニーが『霊の解放』という本を書いています。ウォッチマン・ニーは、私たちの魂が砕かれることを2つの例をあげて教えています。第一の例はヨハネ12章の「一粒の麦」です。イエス様は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)と言われました。ご存じのように麦は堅い殻によっておおわれています。これは魂を表わし、中の実は霊です。死ぬとは、地面に落ちて殻が破られることです。イエス様は他の箇所で「自分のいのちを愛する者はそれを失う」と言われましたが、自分の魂を失うなら、内なるいのちが出てくるということです。第二の例はナルドの香油です。石膏のつぼは私たちの魂です。そして、ナルドの香油は私たちの霊です。石膏のつぼが砕かれなければ、純粋なナルドの香油は流れ出ません。奇妙なことに、香油よりも石膏のつぼの方が価値があると思って、大切にしている人がまだ多くいます。ある人は自分をとても重要な人物だと思って、自分の聡明さを大切にします。もう一人の人も自分を重要な人物だと思って、自分の感情を大切にします。他の人々も他人と比べてすぐれているとか、雄弁だとか、行動が機敏だとか、判断が正確だとかということを意識して、自分を重んじています。しかしながら、私たちは骨董屋ではありません。私たちはただ香油のかおりをかぐことを願っている者たちです。外なる人である魂が砕かれなければ、内なる人である霊が出てこないのです。

 では、神さまはどのように私たちの魂を砕いて、内側から霊が自由に出てくるようにされるのでしょうか?言い換えると、どのようにして肉的なクリスチャンが、霊的なクリスチャンになることができるのでしょうか?それには私たちがすべきことと、神さまがすべきことの2つがあります。第一は私たちは自分を神さまに捧げる必要があります。これを献身と言いますが、必ずしも牧師や伝道者になることではありません。ローマ人への手紙6章には「死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に捧げなさい」(ローマ6:13)と書いてあります。献身とは、私たちが自分を喜んで神の御手の中に置くということです。これが聖化の出発点です。第二は聖霊の管理が必要です。ウォッチマン・ニーは管理とか、按排と言っています。一緒に奉仕をしていた聖協団の小笠原牧師は「お取扱いを受ける」と言っておりました。ホーリネス教団では「きよめられる」と言いました。神学生の頃、「きよめられている」とか「きよめられていない」と聞くと無性に腹が立ちましたが、今では「ああ、このことを言いたいのだろうな」と分かるようになりました。ウォッチマン・ニーは『霊の解放』で、こう述べています。「ひとりの人が救われるや否や、聖霊の管理が始まるのです。しかし、私たちの献身がなされて始めて、聖霊は自由に管理することができます。人が救われた後、まだ献身もせず、主よりも自分のほうをずっと愛しているときでさえも、聖霊は自由に働くために、人を支配の下におき、その魂を砕こうと働いておられます。ついに、あなたは自分ひとりで、また自分のために、生きることができないと悟るときがきます。あなたが得たかすかな光の中で、神のみ前に来て「私はあなたに自分自身をささげます。生きるにも死ぬにも、私は自分自身をあなたの御手にささげます」と言います。ここに献身の重要性があるのです。献身によって聖霊は自由に働くことがおできになるのです。」

 ウィットネス・リー著『命の経験』の「聖霊の管理」という項目がとても参考になりました。「残念なことに、私たちの間にはこのような厳しさで聖霊による管理を受けている人を多く見たことがありません。ある人は聖霊によって管理されればされるほど、ますます頑なになり、自分自身の中にたてこもって行くのを私たちは見ます。聖霊の管理の最終結果は、いつも私たちは取り壊され、粉砕され、無に帰せられることです。聖霊の管理は不完全な人が完全になるとか、もともと貧しい状態の人が良い状態になるという意図を持っていません。反対に聖霊の管理は、無傷な人を打ち砕いて粉々にするためであり、また完璧な状態の人をめちゃくちゃにするために与えられるのです。もし、ある人がいつも柔和であるならば、聖霊の管理はその人がもはや柔和であることができない程度にまで彼・彼女を掻き乱すでしょう。もし、だれとも争ったことがない人でしたら、聖霊はその人を掻き乱して、その人が争わざるを得ないようにさせるでしょう。聖霊は私たちの外側にあるあらゆる種類の環境を用いて、私たちを管理し砕きます。」

聖霊の管理には一時的なものと、長期間のものとがあります。短期的なものはほんの短期間だけのもので突然やってきて、すみやかに去っていきます。プライドを傷つけられるようなことが起きたら、「ああ、聖霊の管理を受けているんだな」と感謝しましょう。長期の管理は、たいてい私たちがいつも接触する環境、たとえば家庭、職業、教会や親族の中にあります。旧約聖書のヤコブはとてもずるがしこい人でした。ヤコブは、父と兄エサウを欺いて長子の権を得たあと、家を逃げ出し、叔父のラバンの世話になりました。ところがラバンはヤコブよりもずるがしこい人で、12年間も労働の実を奪い取りました。ヤコブが砕かれるためには、2人の妻と叔父のラバンが用いられました。神さまは、ある兄弟にけんか好きの妻を与えます。神さまは、ある姉妹に非常に理不尽な夫を与え、毎日耐えられないほどの苦しみを与えるでしょう。家族の中の子どもも管理の手段です。従業員は解雇できますが、子どもは自分が好きでも好きでなくても一緒に暮らさなければなりません。教会もまた人が厳しく管理される場所です。神さまはとても特殊な兄弟と姉妹を、私たちと一緒になるよう按配されます。彼らは主を愛し献身した兄弟姉妹ですが、一風変わった性格を持っています。彼らはいつも私たちと衝突して、私たちを苦しめます。これもまた聖霊の長期の管理です。聖霊は私たちの魂が砕かれ、神の主権に従うことを願っておられます。神さまは、自分の生まれつきの考え、感情、意志、あるいは才能に頼らないで、聖霊に頼ることを願っておられます。なぜなら、私たちの砕かれた魂から、聖霊のきよさ、聖霊の愛、聖霊のいのちが流れ出るからです。神さまが、私を砕くために配剤してくださった人たち、親、夫や妻、子ども、職場の上司、教会の兄弟姉妹、牧師に感謝しましょう。