2024.6.9「苦しむことの幸い 詩篇119:67-71」

だれでも苦しみは避けたいものです。しかし、人生において様々な苦しみを受けることがあります。ひどい場合はそれがトラウマになって、その後の人生に大きな影響を与えてしまいます。世の中では「七転び八起き」とか、「失敗は成功のもと」などと言いますが、とりかえしのつかない失敗であったらどうなるでしょう。今もなお、過去のトラウマや罪責、あるいは喪失の苦しみの中で生きている人がいます。きょうは「苦しむことの幸い」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

1.おきてを学ぶため

 詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」詩篇の記者は「苦しみにあったことは私にとって幸せでした」と言っています。英語の聖書はgood for meとなっています。「良かった」と言っています。でも、「苦しみ」とは何でしょう?英語の聖書で最も多い訳はI was afflictedです。これは受身形になっていますが、精神的・肉体的に苦しめる、悩ます、悲しませる、辱めを受けるという意味があります。新共同訳は「卑しめられたのは私のために良いことでした」と訳しています。私たちの過去の人生を振り返ってみてどうでしょうか?私たちは誰しも、多くの苦しみを受けて来たことでしょう?その中の大多数は潜在意識の奥底に沈み込み、顕在意識には滅多に上ってこないでしょう。ところが、私たちの人生に決定的なダメージを与えた苦しい出来事があるはずです。それは、何度も何度も思い返され、映像化され、憑きまとって離れない状態かもしれません。それは、いわゆるトラウマというものです。医学的にトラウマ(心的外傷)は、突如として記憶によみがえりフラッシュバックするなど、持続的に著しい苦痛を与えることが分かっています。クリスチャンであるなら、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)というみことばを知っていることでしょう。確かにみことばはそう言っていますが、心の深い所に刻まれたトラウマはそう簡単には消えません。私は何冊かの脳科学者の本を読みましたが、トラウマは頭にだけ記憶されているのではなく、体の臓器や全細胞に記憶されていると言います。体の臓器や全細胞こそが、潜在意識(無意識)ではないかとも言われています。しかし、私たちの意識(前頭葉)は司令塔であり、潜在意識の有害なトラウマの記憶を、正しい考えに置き換える機能があると言っています。つまり、潜在意識に「これはこういうことなのだ」と教えるということです。

 ところで、詩篇の記者は「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」と言っています。ここに記されている「おきて」とは何でしょう?現代の日本ではあまり「おきて」なとどいう言葉は使いません。実は詩篇119篇は、神のおきてである律法を賛美している書物です。「おきて」に似た表現が、たくさん出ています。たとえば、みおしえ、さとし、戒め、さばき、仰せ、定めなどです。英語の聖書は71節をcommandmentsとか、statutes, decreesと訳しています。Commandmentsは掟、戒め、十戒です。Statuteは法律、規則です。Decreeは法令、定めです。やはり、日本語で最もふさわしい訳は「おきて」だと思います。聖書的に訳すと、神様が守るべきこととして定めた事柄です。総合的に言うなら、私たちは苦しみに会わないと、神様のおきてを学ぶことができないということです。日本では、「痛みを通して学ぶ」と言ったりします。あるいは「高い授業料を払った」と言ったりします。私たちは頭では分かっていても、ついつい、「これくらいは良いだろう」と高をくくるところがあります。ところが、失敗したり、損害を受けると、「ああ、次からはこうしよう」と反省します。そうなると、失敗から学ぶことになるので、良いことです。でも、こういうことはある程度、軽度なことです。言い換えると、取り返しのつくことです。科学や工学、医学、スポーツ、芸術、あらゆることが失敗を克服して、改良して、より良いもの、より完全なものができてきます。そういう意味では、失敗は成功のもとです。

 でも、私がきょう言いたいことは、私たちの人生に決定的なダメージを与えた苦しい出来事です。トラウマになっており、何度も何度も意識上にぶりかえしてきて、今もなお自分を苦しめている出来事です。これまでも説教で、トラウマからの解放ということを取り上げて来ました。エリヤハウスのテア先生は「トラウマとは心臓が止まるのと同じである。あなたの心臓に動くように命じなさい」と教えて下さいました。イエス・キリストは死んだ人をよみがえらされました。同じように、死んでしまっている記憶の部分が解放されるように求める必要があります。主の御手が触れてくださり、囚われ人が解放されるように願い求めるしかありません。しかし、きょう言いたいことは、「あの苦しみによって、私は主のおきてを学ぶことができました」という深い悟りのことです。言い換えると、「あの苦しみと痛みを通して私は貴重なことを学ぶことができた。あれはあれで良かったんだ」と思い返すことです。これはトラウマの癒しよりも、もっと上を行っているのではないかと思います。英語の聖書はit was good「良かった」ですが、日本語は「苦しみにあったことは私にとって幸せでした」と言っています。「幸せでした」とまで言えたなら、すごいことです。

 私はこの説教を準備する際、「これまでの自分にとってのトラウマ的出来事ってどんなことだろうか?」と考えてみました。不思議なことに、「ああ、ほとんど説教の証に使っているじゃないか」と驚かされました。父親の家族への虐待、高校のときボクシングで敗れたこと、洗礼を受けた直後、彼女から別れを告げられたこと、オリンピックの記念切手を兄が奪ったこと…などなど、説教の例話に用いさせていただきました。ということは、私が得たマイナスの体験がとっても役に立ったということです。もし、私が健全な家庭に育ち、品行方正であったなら、こんなたくさんの体験談は生まれなかったと思います。ローマ8:28のみことばのように、すべてのことが益になったという感じです。でも、正直言って、あと3つくらいは話していません。それは教会の出来事に関係しているからです。でも、それらも含めて、トラウマ的な出来事は「私にとって幸せでした。それにより主のおきてを学ぶことができた」と納得がいきます。いや、「あのことで、私は主のおきてを学んだんだ」と考えたら、トラウマの度合いがぐっと低くなりました。つまり、軽くなったということです。英語で傷痕のことを、scarといいます。scarがstarになった。傷痕が星になったということです。ハレルヤ!礼拝でまだ証していないトラウマ的なものがありました。私はそのことのお蔭で、時間を守るようになりました。私が20か21歳のとき、ロックバンドのチケットを建設会社の同僚にお願いしました。彼は東京に住んでいたので、お願いしました。新宿駅でその切符を受け取る約束していましたが、1時間も遅刻してしまいました。約束の場所に行くと同僚の姿はありませんでした。彼の実家に電話したら、お母さんが出て、人を1時間も待たせるなんて常識はずれ、みたいに言われました。その時、ものすごい恥を受けたという感じがしました。もちろん私に非があるのですが、同僚ではなく、彼のお母さんから嘲笑的なお叱りを受けたことがたまりませんでした。それ以来、恥の記憶がずっと残りました。でも、「ああ、時間は守らなければならないんだ」と教えられました。つまり、恥的なトラウマが益になったということです。

 水野源三さんという詩人がおりました。彼は9歳とき赤痢の高熱で全身まひの体になり、言葉を話すこともできません。12歳のとき、初めて聖書に触れ、13歳で洗礼を受けクリスチャンになりました。お母さんが示す50音の板に、自分の瞬きで伝える、瞬きの詩人です。彼は『苦しまなかったら』という詩を作っています。「もしも私が苦しまなかったら神さまの愛を知らなかった。もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら神さまの愛は伝えられなかった。もしも主なるイエス様が苦しまなかったら神さまの愛はあらわれなかった」。もう1つ『悲しみよ』もご紹介いたします。「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前が来なかったなら、強くなかったなら、私は今どうなったか。悲しみよ、悲しみよ、お前が私をこの世にはない大きな喜びが、変わらない平安がある、主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」。…苦しみや悲しみのない人生があれば良いにきまっています。でも、そのことによってイエス様に出会い、神さまの救いを得ることができたら、元がとれるのではないでしょうか?究極的な苦しみや失敗の解決は、あのことがあって永遠のいのちを得られたということです。水泳の北島康介選手はオリンピック2大会で金メダルを得ましたが、北京のときは「なんも言えねえ」でした。クリスチャンはイエス様を信じて、永遠のいのちをいただきました。いろんなことがあったけど、「あのことがあって救われたので、なんも言えねえ」ではないでしょうか?この後、私たちは天の御国、千年王国に行くことが決まっています。その場所は地上で得られなかった報いを受ける場所です。この地上でとりかえしのつかない失敗や喪失があったかもしれません。絶対に赦せないトラウマ的な被害を受けた人もいるでしょう。でも、千年王国ではすべてのマイナスがチャラになり、プラスになります。イエス様がペテロに「今は分からなくても、後で分かるようになります」(ヨハネ13:7)と言われました。それは私たちにも同じです。天の御国、千年王国ですべてのことが解決されます。

2.訓練を受けるため

 もう一度お読みします。詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」聖書にTEV訳というのがあります。これは、 Today’s English Version「今日の英語訳」です。その聖書が、My punishment was good for me, /because it made me learn your commands.「懲らしめが良かった。あなたのおきてを学ぶことができたので」と訳しています。苦しみや悲しみ、辱めは、人から受けたものがほとんどでしょう。私たちが受けたトラウマのほとんどが自然災害や事故を除いては、人から受けたものです。そのため、憎しみや憤怒、罪責、悔しさ、恥の意識がいつも伴います。トラウマを受けたとき、そのような感情も体験することになります。ところが、もしそれらが「懲らしめ」となるとどうなるのでしょうか?「神さま、トラウマを受けた人に、それがあなたの懲らしめなんてひどいじゃないですか」と反論したくなります。もちろん、多くの場合、私たちはトラウマ的な出来事の被害者です。その被害が報われていないので、いつまでも苦しんでいるのです。第一のポイントで、「来るべき御国、千年王国でそれが報いられるのですよ」とお伝えしました。でも、TEV訳では、「懲らしめ」と訳されています。これは私たちに何らかの非があったとしか考えられません。それらの出来事は、自分のせいだったのでしょうか?私たちはどうしても、善か悪か、加害者か被害者か、考えてしまいます。その世界から抜け出すことができません。でも、視点をちょっと変えて見るのも良いかもしれません。リビングバイブルは「結局、神様から懲らしめられたことは、この上ない幸いだったのです。 おかげで、はっきり、目をおきてに向けることができました。このおきてこそ、山と積まれた金や銀より価値あるものと思えます」と訳しています。リビングバイブルも「懲らしめ」と訳しています。

 ちょっと頭が変になりそうですが、新約聖書にそのようなことが書かれているかどうか調べてみました。ヘブル12章にありました。5節から11節まで抜粋させていただきます。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。…11節「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。…この短い聖書箇所に、「訓練」ということばが、7回も使われています。訓練は英語の聖書は、chastening

、discipline、punishedと訳されています。どれもこれも、「懲らしめ」と訳すことができます。前の新改訳聖書は「すべての懲らしめ」と訳していました。訓練だと、生易しい感じがします。でも、主の懲らしめが、私たちへの訓練であり、鍛練なんだと理解すべきなのでしょう。箴言にこのようなことばがあります。箴言3:11、12「 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」翻訳の是非を気にしていると、前に進みませんので、前に進みます。

 とにかく、主が私たちを懲らしめて、矯正することがあるのだということです。それも、「わが子」として、父として懲らしめているのだということです。もし、そうであれば、詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」ということが可能になります。では、聖書に、そのような懲らしめにあたるような苦しみを受けた人物がいるのでしょうか?信仰の父と呼ばれるアブラハムはどうでしょう?アブラハムとサラは待ちきれず、人間的な方法で、イシュマエルという子を産みました。その後、13年も沈黙が続き、アブラハムが99歳になったときやっと、イサクが生まれました。ローマ人への手紙もヘブル人への手紙も彼の不信仰を責めてはいません。でも、イシュマエルはアラブ人の先祖であり、この先、イスラム教によって、ずっとキリスト教会が苦しむことになります。ヨセフはどうでしょう?彼は17歳のとき兄弟たちから妬みを買い、エジプトに売られ、奴隷生活を余儀なくされていました。彼が受けた苦しみは懲らしめなのでしょうか?詩篇105:18-20「ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。彼のことばがそのとおりになるときまで主のことばは彼を錬った。王は使いを送ってヨセフを解放した。諸国の民の支配者はそうして彼を自由にした。」「練る」ということばは、「精錬する、試す」という意味です。彼は牢から解放された後、エジプトを治める者になりました。詩篇105篇の解釈によると、ヨセフに苦しみを与えたのは兄弟でもエジプト人でもなく、主ご自身であるということです。ダビデはどうでしょう?彼は17歳のとき、次期イスラエルの王になるという油注ぎを受けました。しかし、サウル王の妬みを買い、13年間も荒野や洞窟の逃亡生活を余儀なくされました。彼は30才でユダの王になり、数年後イスラエルの王になりました。でも、自分が戦場に出なくても良くなったので慢心して罪を犯しました。前半の苦しみはサウルのせいですが、後半の出来事はダビデの罪であり、その結果、彼の家から剣が絶えないようになりました。新約聖書ではどうでしょう?弟子のペテロはイエス様を決して裏切らない、死んでも着いて行くと誓いました。でも、イエス様が捕えられた時、3度もイエス様を知らないと否んでしまいました。彼は全く砕かれてしまいまいました。イエス様が復活後、私を愛するか」と3度も問われたとき、「あなたがご存じです」としか言えませんでした。

 少しまとめてみたいと思います。私もこれまで受けた苦しみやトラウマを10ケくらい上げてみましたが、被害者的なものが半分、自分の過失から生じたものが半分ありました。しかし、それらを全部含めて、主の御手の中にあったということは間違いありません。確かに自分のせいでなくて、一方的に受けたというトラウマ的な苦しみがあるでしょう。でも、それらを含めて、神さまは私たちを練って、試して、懲らしめる道具にしてくださいます。どうしてでしょう?ひどいじゃないですか?」と言いたくなります。ヨブという人は正しい人でしたが、10人の子供と全財産を一瞬にして失いました。さらには、健康を失い、妻と友人たちからひどく裁かれました。彼は自分の生まれた日を呪いました。でも、彼の心の中にどんな思いがあったでしょう。「私は悪くない、正しい。私は主と議論してみたい」と思っていました。ヨブ記は42章までありますが、そのほとんどが苦しみと悩みの記事です。主が38章でヨブに答えられますが、苦難の意味は答えていません。40章でヨブは「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです」と降参しました。つまり、私たちはアダム以来の罪があるので、自我が強い存在です。神さまは私たちの魂を砕くために、私たちを苦しめ、懲らしめ、試すようなことをなされるのです。私たちの魂をきよめ、主に全くより頼む者にするのです。その時、主は人や環境、サタンすらも試練の道具として用いるのです。でも、それは、わが子を愛する父としての懲らしめであり、訓練なのです。何のためでしょう?ヘブル12:10「私たちをご自分の聖さにあずからせようと訓練されるのです」、ヘブル12:12「それによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」とあります。Ⅰペテロ1章で言われているように、まるで、金を精錬するように、私たちを火のような試練を通らせるのです(Ⅰペテロ1:6-7)。金を精錬するときに、最後に取り除かなければならないのが銀だそうです。金はベストですが、銀はセカンド・ベストです。私たちは「たとえ金まで行かなくても、銀でも良いだろう」と妥協してしまいます。しかし、私たちの霊の父はOKとは言いません。懲らしめと訓練の手と休めないのです。

 ある日曜日の早朝、血圧を測りながらテレビをつけました。何の気なしに見ていたら小崎登明というカトリックの神父さんが話をしていました。彼は17歳のとき、長崎の原爆に遭遇し、母と妹を亡くしました。彼はトンネルの作業をしていたので、助かったのですが、あたりは地獄さながらの光景でした。彼は長崎の修道院に入り、神学の勉強をしました。ところが、腎臓結核になり、片方を摘出しましたが、まもなく、もう片方の腎臓も腐って膿が出てきました。小崎青年は神父に、「神さまに仕えたいと願っているのに、どうしてこんなに苦しまなけばならないんですか?」と口から吐くように言いました。修道院の神父は「良いんですよ。苦しむことは良いんですよ」と答えました。私は血圧を測りながら、なんというひどいことばだと思いました。「小崎青年が、苦しみが軽くなるように願っているのに、苦しむことが良いことだとは、ひどい」とテレビを消しました。その後、小崎登明神父は有名な人であることを知り、本を購入して、もう少し調べました。そのことばの真意は「病気はお恵みであり、苦しみによって霊魂はきよめられ、霊魂は神さまの御心に叶うようになる」ということでした。「苦しむことは幸いでした」と言っている詩篇のことばと同じだなと思いました。私たちが苦しむことは父なる神さまの願いではありません。多くの場合、私たちが神さまのみこころや法則に従っていないので、そうなるのです。でも、神さまはそこから私たちが大切なことを学ぶように願っておられます。なぜなら、私たちは痛みを通してでなければ学べないほど愚かな人間だからです。でも、苦しみや痛みの中に座り込んで、文句を垂れていた頃と比べたら、幾分か成長したのだと思います。詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました