2024.6.2「魂の三要素 マタイ22:37」

主イエスは「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。このところには、心、いのち(魂)、知性と三つあります。これは旧約聖書からの引用なので、魂の三要素を述べるには無理があります。旧約聖書では心と魂が混在しているので、よくわからないところがあります。心理学は霊も魂も認めないところがありま。しかし、心の問題はよく研究しています。彼らは心を「知性、感情、意志」と三つに分類しています。今日は、この順番で魂を構成している三つの要素を順番に学びたいと思います。

1.知性

 ローマ12:2「心を新たにする」と書かれていますが、日本語聖書ではどの心なのか、良く分かりません。この心はギリシャ語でヌース、英語の聖書ではmindになっています。マインドは思い、考え、思考のことです。魂の重要な要素は知性であり、考えるということです。ロダンの彫刻に「考える人」という作品があります。また、パスカルは「人間は考える葦である」と言いました。では、どこで私たちは考えているのでしょうか?解剖学的に言いますと、頭の前の部分、前頭葉であります。考えるためには、この前頭葉がとても重要なのです。5年前、私は事故で二回ほど、硬膜下血腫というのをやりましたが、考えをまとめる力がものすごく低下したのを覚えています。前頭葉はコンピュータで言うとCPUみたいなところです。外部からの情報は、海馬や脳梁を通って大脳皮質に一瞬に達します。その時、扁桃体は過去の感情の記憶を呼び起こして、そのことも同時に伝えます。大脳皮質に保存されているあらゆる記憶も呼び起こされ、司令塔である前頭葉に達します。解剖学的に説明するととてもすばらしいのですが、実際に私たちのマインドはそうではありません。多くの場合、私たちのマインドは混乱していたり、心配事に執着していて、100%正常に機能できるかというとそうではありません。また、朝起きて午前中は良く回転しますが、午後になるとだんだん機能が低下してきます。また、年を取ると物事をまとめる力はありますが、大脳皮質の神経細胞の繋がりが弱くなり、記憶を呼び出すことが困難になります。どこかに記憶が保存されているのですが、それを取り出すのが困難になってきます。「アレ、アレ」と代名詞だけが出てきます。

また、フロイトと言う人が潜在意識を発見しました。無意識とも言われていますが、90%以上占めています。顕在意識、私たちが表面で考えているのは10%も満たないということです。90%以上は無意識中で考えており、そこからいろんな思考やアイディアが湧き上がってくるということです。私たちは眠ると意識が休みます。ところが、無意識の分野は24時間休みなく働いています。時々、夢を見ますがそれは、無意識の世界から湧き上がってくるものです。睡眠はとても重要で、寝ている間、グリア細胞がお掃除しています。脳細胞の不要なものを排除し、大切なものだけを並べ替えているのです。箴言に「あなたの心を見守れ」と書いていますが、知性の座である頭脳を守る必要があります。コンピュータで「ゴミを入れるとゴミが出る」という格言があります。私たちはゴミのような情報を頭脳に入れるべきではありません。ピリピ4:8「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい」とあります。この世の中の不条理な出来事、悲惨な事故、ありえない空想物語を頭(思い)の中に入れてはいけません。私たちの頭(思い)を健全に保つ責任があります。なぜ、思いがそれほど大切なのでしょうか?箴言23:7「彼は、心のうちでは勘定ずくだから」というみことばは、英語の聖書では、For as he thinks in his heart,となっています。直訳すると、「彼は心の中で考えているような人なのだから」という意味です。簡単に言うと、その人の考えているものを総合したものが、その人自身なのだということです。マインド・コントロールということばがあります。偽預言者やカルトにマインド・コントロールされたらどうなるでしょう?その人の生き方、人生そのものが支配されてしまいます。それだけ、自分が何を考えているのか、何を思っているのかということが重要だということです。

 ところで、アダムとエバが食べてはならない木から食べたとき、霊が死んで、魂が異常に発達しました。魂の中に知性つまりマインドも含まれています。堕落する前の人間は、とても謙遜であり、神さまから正しい情報を得ながら判断して生活しました。ところが、神さまに頼らず、自分で考え、自分で判断するようになったのです。確かに神のように知的になったかもしれません。でも、罪が影響し、偏見やゆがみ、混乱もやって来ました。確かに人間は霊長類と言われ、頭が良くて何でもできます。でも、その知性を誤用して、悪いことをします。また、知性は人を高慢にさせ、学校の勉強ができて、学問ができれば素晴らしい人間なのだと思わせます。箴言に「神を恐れることが知識のはじまりである」(箴言1:7)と書いてあります。神を恐れない、知性や知識は人類を破滅に向かわせてしまいます。それは、個人の人生においても同じことです。私たちはへりくだって、創造主なる神から知識や知恵を求める必要があります。私たちがキリストを信じると、霊が新生して、機能しはじめます。霊は直覚、交わり、良心の3つの働きがあります。直覚intuitionは、あなたの思いにひらめきや創造力、アイディアを与えてくれます。神さまは全知全能です。聖霊も神ですが、あなたの霊に働きかけ、直覚intuitionを与えてくれます。世の人々に隠されている知恵や英知があなたの思いに映し出されるとしたら、何と幸いでしょう。旧約聖書のヨセフ、ダニエル、ソロモン、そしてイエス様がそうでした。

 神さまは私たちにマインド、知性を与えてくださいました。それは、物事を考えるという能力です。現代人はテレビやスマホから簡単に情報を得て、深く考えません。本を読んだり、静かに瞑想することもありません。いつもガーガー耳元で音楽がなり、SNSでこの世の人たちと通信しています。スマホやパソコンは便利ですが、神さまとの繋がりを阻止する悪魔の道具になっています。私たちのマインド、知性は全知全能なる神さまとその霊に繋がる必要があります。イエス様は「知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。

2.感情

 感情は英語でemotion, feelingと言います。聖書では感情を司るところは、心と言われています。心はギリシャ語でカルディア、英語ではheartです。でも、なぜheartと言うのでしょうか?heartには心臓という意味もあります。昔の人は、感情の座が頭ではなく、内臓にあったと考えていました。マタイ9章で、イエス様が「群衆を見て深くあわれまれた」と書かれています。「あわれまれた」は「内臓を食べる」という言葉から来ています。それが、可哀そうに思う、同情する、憐れむになりました。ギリシャ語の名詞形は「内臓、心臓、肺臓、肝臓、腎臓」です。それらが感情の座であるとみなされていました。それが心なのです。心、つまり感情は頭ではなく、体の内臓で感じているらしいということです。しかし、脳の解剖学的に言うと、感情の中心はやっぱり頭の中にあります。頭の内部、大脳辺縁系と言われるところです。そこには、先ほど申し上げた扁桃体や海馬、脳梁があるところです。特に扁桃体は記憶の図書館と言われ、これまで生きてきた感情的な記憶のほとんどがおさめられています。特に恐怖体験やトラウマがそこに保存され、それが海馬と脳梁を通って大脳に運ばれると、ビデオループのように再体験することになります。大脳皮質に、しっかり悪い出来事が記憶として刻み込まれるので、絶対、忘れられなくなります。さらに、脳の細部にはホルモンやペプチド、アドレナリンを出す視床下部と脳下垂体があります。そのところから分泌されたものが脳と体全体に行き渡ります。喜び、幸福感、悲しみ、怒り、不安、恐れ、ストレス…あらゆる感情が消化機系統、関節、冠動脈などの血管、筋肉、皮膚、そして免疫細胞に影響を与えています。脳だけではなく、体全体が潜在意識であるという学説もあります。最近読んだ本で『感情の分子』というのがあります。科学者たちが神経ペプチドとopioidアヘン受容体というのを発見しました。昔は頭と体が電線のように繋がっていると考えていました。ところが、リガンド、ホルモン、神経ペプチドが細胞間に情報を与えていると言うことが分かりました。その結果、頭脳と身体が一体であると分かったのです。

 ところで感情、ハートのことを考えたいと思います。旧約聖書に心と体が繋がっていることが啓示されていました。箴言17:22「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。」とあります。少し前の訳は「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」とありました。昔から、病は気からと言いますが、それは本当です。キャロライン・リーフの本にかいてありました。「調査によると、約87%の病気が私たちの思考生活が原因であり、おおよそ13%が食生活や遺伝や環境からくるものです。研究者たちは慢性的な病気は、私たちの文化で流行している有毒な感情と決定的につながっていると言います。」九州に釘宮義人牧師がおられましたがこのようなメッセージをしています。「笑えば病気がなおる」ということを、世界に初めて発表したのはノーマン・カズンズという人でした。彼はもともと医事評論家でしたが、その彼自身が実に膠原病という難病にかかったのです。彼の膠原病は特に治療が困難なタイプだったそうですが、彼はこの病気を「ワッハッハ」と笑うことによって治癒期間を三分の一にちぢめたのです。これが世界的に有名になりました。最近では倉敷市の医師・伊丹仁朗医学博士が、癌の患者さんを大阪なんばの劇場に連れていって、漫才、漫談や吉本新喜劇を三時間見せて笑わせたことがあります。伊丹先生はその直前と直後に患者さん方の血液検査をしました。するとナチュラル・キラー細胞といって、癌細胞を攻撃破壊するリンパ球の一種ですが、その細胞がすべての患者さんの血液中で、笑う前の数値より後の数値のほうがはっきりと良い結果を示していたそうです。笑うことは明らかに癌などをやっつける力になるのです。」実際に、釘宮牧師の奥さんが肺がんになり医者からも治らないと言われました。ところが、お笑いのビデオを朝昼晩、見て笑ったら癌が消えたそうです。

 きょう申し上げたいことは、感情を正しく取り扱うことが非常に大事だということです。日本人は世界で珍しいほど、感情を表に現さない民族です。大陸的な人たち、たとえば韓国や中国の人たちは怒りや悲しみを素直に表現します。大声で何か言い争っていますが、お昼は一緒にご飯を食べに行きます。日本人は一度でもその人と喧嘩したら、疎遠になるでしょう。アメリカ人もとても表情豊かです。驚きや喜びを顔だけではなく、体全体で表現します。日本人はそうでもありませんが、アメリカ人の眉毛は5センチくらい上がったり下がったりします。日本人は感情をストレートに出すことが恥であると思われています。よく「感情に走らないように」「感情的にならないように」と注意されます。このような感情の抑圧が体全体に悪影響を及ぼしてしまいます。日本には鬱がとても多いですが、心理学者たちは内に秘められた怒りが原因であると言っています。感情は中立的なものであり、感情そのものが悪いのではありません。何かを考えているので、その考えが感情を生み出すのです。そのため感情だけを変えようとしても無理です。たくさんの抗鬱剤や精神安定剤がありますが、薬物療法だけではダメなのです。そのような感情を生み出している考え、つまり怒り、不安、恐れ、憤慨、悲しみ、罪責、トラウマ体験などが原因しているのです。感情を抑圧したり、脳の神経を変えたりせず、感情をもたらしている原因そのものを解決しなければなりません。しかし、カウンセリングはとても時間がかかるので、ついついそのような対症療法をしてしまうのです。

 しかし、聖書にはその解決法があります。神さまの無条件の愛と受け入れ、赦しを受けることによって癒されます。最も感情に害を与えているのは拒絶の経験です。親からの拒絶、友人や親しい人からの拒絶が原因しています。拒絶から反抗心、憤慨、嫌悪、憎しみがやってきます。それらは加害者を呪う行為ですが、実はその毒を自分が飲んでいるのです。キリストの十字架は私たちのすべての罪、罪責を赦して下さいます。さらには、自分に危害を加えた人を赦すことができるようになります。イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)と言われました。イエス様ご自身も「父よ、彼らをお赦し下さい」(ルカ23:34)と祈られました。その祈りは、自分だけではなく、加害者に対する祈りでもありました。赦しは、心の癒しをもたらす決定的な解決であり、どこにもない神さまの薬です。

3.意志

 意志は意思とも言います。英語ではwillであり、「みこころ」とも訳されています。東京2020オリンピックでたびたび「最後は気持ちだ」、「気持ちで勝利するしかない」という表現を聞きました。その度に、私は「気持ちは感情であり、意志とか気力と言うべきだろう」とテレビに向かって言い返しました。子どもや家内からは「パパ、聞き飽きた」と言われました。冒頭でも申し上げましたが、日本語はこういう心理的な用語には無頓着であり、語彙も乏しいようです。俳句や短歌のように、自然を描写する表現は豊富ですが、内面を直接言い表す語彙はとても少ないと思います。日本は単一民族なので、曖昧というか、はっきり言わない所に美徳を置いているのかもしれません。その点、西洋は多民族であり、また哲学的に論証しようとするので、どうしても自分の考えを言い表す語彙が豊かになったのではないかと思います。もう一度、まとめたいと思います。魂には3つの要素があります。第一の知性はmindです。これは何かを考えること、思考するということです。第二の感情はheartです。これは、emotion, feelingであり、内面的に感じることです。肉体的も感じるという表現を使いますが、喜びや悲しみなどのように心で感じることです。第三は意志willです。これは何かを願う、決心する、選択するということです。私たちは四六時中何かを選択しながら生きています。

 さて、第三に意志willついて考えたいと思いますが、これは知性や感情よりも説明が難しいかもしれません。なぜなら、日本人は限定的にはっきりと言わない民族だからです。阿吽の呼吸で分かってもらえるような気がするからです。でも、願うこと、決心すること、選択することはとても重要です。マタイ8章にツァラト(昔はらい病)に冒された人がイエス様のもとに来てこう言いました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」。イエス様は手を伸ばして彼にさわり、「私の心だ。きよくなれ」と言われました。説教者として「心と訳すのはどうかな?」と思います。英語の聖書は、Lord, if You are willing(主よ、あなたは意志しますか?)に対して、I am willing.(私は意志します)となっています。何度も言いますが、「意志する」という表現は日本語的ではありません。しかし、「心」はもっと曖昧です。英語のwillは「意志で定める、決意する、欲する、望む、言い残す」という意味があります。これは魂の3つの要素である、意志が行うことであります。私の家内が私と結婚するとき、「覚悟した」そうであります。私はそのことばを聞いて、とても感動しました。「選択した」とか「合意した」ではなく、「覚悟した」のです。私は英語のwillが妥当だと思いました。私たちがイエス様を信じたときも、私たちの意志を用いて「信じる」と告白したのではないでしょうか?意志と決断は共通した概念であると思います。結婚も信仰告白も、ちゃんと決断しないので、あとでいい加減になるのです。それは入学するとき、入社するとき、住居を構えるとき、出産するとき、入院手術を受けるとき、そして死を迎えるときも意志し、決断することがとても重要です。決断とは後ろの橋を焼くことであり、「もう後戻りしない」という覚悟であります。

 でも、私は意志力を言うつもりはありません。人間は罪がありますので、意志を変えたり、意志通り進む力がありません。解剖学的に言うと、意志は知性と同じ場所、前頭葉でなされます。たとえば私たちが何かを買う時、ある一定の手順を負ってから決断します。第一は知性によって、その製品の性能とか価格を考えます。第二はそれを持ったら快適になるか、良く見えるか、幸福になるか感情が作動します。第三は買うか買わないか、決断します。一見、合理的に見えますが、実はそうではありません。私たちが物事を決断する前頭葉のすぐ近くに、opioidアヘン受容体があります。モルヒネ作用を現すペプチドを受け止める、受容体が前頭葉にたくさんあります。この受容体にアヘンやモルヒネが入ると、bliss無常の喜び、この上ない楽しさをもたらすのです。麻薬中毒だけではなく、ギャンブル、ショッピング、性的なものあらゆる幸福感を受け止める受容体が前頭葉にたくさんあるということは、私たちが何かを決断するとき、無常の喜び、この上ない楽しさを与える方を選択してしまうのです。分かっていても、やめられないのは、そのためです。opioidアヘン受容体が刺激されているのです。テレビショッピングでは、この方法を用いて私たちの感情に訴えます。この感情が私たちに「買おう」という動機を与えるのです。ちなみに、説教も結論の部分は感動するようなお話を持って来ます。人間が決断するのは、知性ではなく、感情が大きく作用しているからです。動機、つまり意志に決断を与えるのは、知的な情報ではなく、最後は喜びや幸福を与える感情であることを忘れてはいけません。

私たちは自分の意思力を過信してはいけません。私たちは決断しても心変わりしたり、優柔不断であったり、いい加減なところがあるからです。キリスト教用語に「堅忍」ということばはあります。最後まで信じ通すということです。どうしたら正しい決断をし、一度、決断したことを守り抜くことができるのでしょうか?私たちは自分の意思力を過信してはいけません。そうではなく、新しく生まれ変わった霊に頼るのです。私は何をやっても三日坊主でありましたが、信仰だけは40年以上続いています。ちなみに結婚も続いています。それは自分の意思ではなく、神さまが私を支え、導いておられるからです。ガラテヤ5章でパウロは「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」と言いました。私たちは新しく生まれても魂には肉という罪を犯す傾向がまだ残っています。知性は乏しく、感情は不安定で、意志は薄弱です。しかし、そこに生まれ変わった霊が魂に働くとどうなるでしょう。直覚は知性にひらめきや想像力や知恵を与えてくれるでしょう。交わりは感情を支え、喜びや希望や慈愛を与えてくれるでしょう。良心は正しい決断を与えてくれます。その場限りの快楽や欲望に負けなくなります。イエス様は「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という最も大切な律法を教えられました。私たちにひとり子イエスを与えるほど愛しておられる神様が、全身全霊をもって、私を愛しなさい」と命じておられるのです。これは不可能な命令ではなく、聖霊によって恵みによって可能になります。ある人が言いました。「人は愛されることによって平安を得、愛することによって満足を得るということです。」