2016.3.20「キリストの十字架 ローマ3:19-26」

 きょうから受難週に入ります。普通でしたら、福音書からイエス様がどのような苦しみを受けて十字架で死なれたのかというストーリーを語ります。しかし、きょうはもっと神学的な立場からキリストの十字架について学びたいと思います。言い換えれば、人間の側から見た十字架ではなく、神さまの側から見た十字架であります。尚、本日のメッセージは、ウォッチマンニーが書かれた『神の福音』を参考にしています。来週はイースターですが、これもまた、ウォッチマンニーの書物を参考にしてお届けしたいと思います。彼は福音とは何かということをだれよりも深く教えておられるからです。

1.神の義

 神は愛です。聖書の最大の啓示は、神が愛であるということです。すべてのクリスチャンが知るべき最大のことは神が愛であるということです。ヨハネ3:16前半「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。このみことばから、神さまが愛であることと、そのひとり子をお与えになったことが深い関係にあることがわかります。なぜ、ご自分のひとり子を与えることが、神ご自身の愛なのでしょうか?この問題を解くためには、神さまのもう1つのご性質を知らなければなりません。それは、神は義であるということです。パウロは「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」と言いました。そうです。義なる神さまは、1つの罪をも見過ごすことができず、必ず罰しなければなりません。もし、神さまが「あなたは罪を犯したのですか?よろしい、もう失敗してはいけませんよ」と罪を見過ごしたら、神の義が成り立ちません。愛なる神さまが、人を救いたいと願うときに出くわす最大の困難は人間の罪です。この世の中には、義の伴わない愛がたくさんあります。自分の子どもを愛するがために、不正に得た金銭を与えることもあるでしょう。本来なら許されないところを、賄賂をもらって、便宜を図ってあげることもあるでしょう。人を捕まえる警察でも、同僚の罪には目をつぶるかもしれません。昨年、可愛い教え子に、司法試験の内容を教えた大学教授もいました。彼らは多くの愛を持っていますが、彼らのしていることは義ではありません。神さまは私たちを救いたいがゆえに、ご自分を不義にまで陥れることはできません。神さまは、ご自身の義によって私たちを救わなければなりません。神さまはどのようして、不義に陥らないで、罪人を義とすることができるのでしょうか?

 ローマ3:21-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」パウロは律法を行って義とされる別の道があると言っています。もちろん、律法を行って義とされる人はひとりもいません。それは不可能です。でも、このところには「イエス・キリストを信じる信仰による神の義を、すべての信じる人に与える」と書いてあります。神さまは義ですが、なんとご自分の義を与えるというのです。だれに、でしょう?イエス・キリストを信じる人に、であります。ヨハネ3:16後半「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。ヨハネは救われることを、滅びないで永遠のいのちを持つことだと定義しています。一方、パウロは神の義をいただくことが救いだと言っています。前者は生命的な見方で、後者は法律的な見方です。神さまはイエス・キリストを信じる者に、ご自身の義を与えると約束されました。神さまは義なるお方なので、嘘はつきません。確実に、イエス・キリストを信じる者に無代価の赦しを与えるというのです。元来、無代価の赦しと言うものは存在しません。罪に対しては必ず刑罰が伴い、ときには死をもって償わなければなりません。しかし、イエス様が私たちに代わって血を流して、罪の代価を払ってくださったのです。これを罪の贖いと言います。

ウォッチマンニーは、分かり易いたとえ話を『神の福音』という本に書いています。ある兄弟は名ばかりのクリスチャンで、よく人から借金をしていました。私は彼が他人のお金にいい加減であることを知っていました。私は貸さないであげようと思いましたが、彼のためにそれは良くありません。それで、私は彼に支払期日を定めさせました。期日がやって来た時、私はことさら手紙を書いて、その期日が来たことを思い出させました。彼はその手紙を受け取ると、私に会いに来ました。私は彼の話をさえぎり、「あなたの妻が話があるようだから、家に帰って妻に会うように」と告げました。彼は家に帰りました。実は、彼が私に会いに来る前に、私は彼の負債と同じ額を彼の家に持って行き、それを彼の妻に渡したのです。私は彼女に、夫が家に帰って来た時、私が彼の負債と同額のお金を彼に送ったので、それで借金の負債を返済すべきであることを、彼に告げるように言いました。夫が家に着くと、妻は私が話したことを彼に言いました。彼はその包みを開いて、自分の負債と同額のお金があるのを見ました。彼は次に何をすべきか理解しました。彼は私の家に戻って来て、そのお金を私に返しました。この行動の中に、愛を見ることができ、義を見ることができます。もしこの人が払うことを強いられたのでしたら、そこには愛はありません。しかし、もし私が彼に払わなくても良いと言うなら、私は不義になるでしょう。なぜなら、私はこれが借金であることをはっきりと言っているからです。私自身が不義であるだけでなく、彼に悪い影響も与えます。次からは、彼はもっと無責任になるでしょう。こうして私は成すべきことをしました。

 イエス・キリストが地上に来られたのは、神の義を満たすためでした。愛だけであって義がないのでしたら、イエス様は地上に来る必要はありませんでした。そして十字架は不必要だったでしょう。義の問題のゆえに、イエス様は来なければなりませんでした。神さまは義であるので、罪を裁かないわけにはいきません。また、神さまは愛なので、罪ある人を救いたいと願います。この相反する問題を神さまはどうしたのでしょうか?神さまご自身が人の罪を負って、刑罰を受けるということです。神ご自身が私たちに代わって、裁きを受けてくださいました。それが十字架であります。十字架は神の義が現される場所です。神さまがどれほど罪を憎んでおられるかを私たちに示しています。神さまは罪を裁くことを決心され、御子を十字架に付けるという大きな代価を払われました。神さまはご自身の義を放棄されず、御子を死に渡しました。ここに神の愛があります。神さまが罪の刑罰を取り去るために、私たちの代わりに罪を担ってくださったのですから、義と愛の両方があります。私たちは無代価で赦されたと言うかもしれません。しかし、無代価の赦しというものはありません。神さまにとっては、罪の贖いがあってはじめて赦しがあるのです。キリストが私たちの代わりに十字架で裁かれたので、私たちに救いがやってきたのです。そして義なる神さまは、キリストを信じる人に、ご自身の義をお与えになられます。これが救いです。

2.キリストの贖い

 最初に私たちが知らなければならないことは、イエス様が神さまであることです。神さまでなければ、罪を担うことができないからです。しかし、イエス様が第三者として身代わりに死なれたということでは決してありません。神さまが第一当事者、人は第二当事者、イエス様が第三者と考えてはいけません。ある人たちはこういう福音を宣べ伝えているかもしれません。債権者が神さまで、負債者は私たち人間です。負債者は、借金を払うお金がありません。債権者は非常に厳しく、支払を迫ります。しかし、債権者の息子が出てきて、債権者に代わって借金を支払い、負債者が解放されるという物語です。もしこれが正しければ、神さまは意地悪い方で、イエス様が恵み深い方となります。この例話からは、神さまが世を愛されたということを見ることができません。ヨハネ3:16前半「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。永遠の昔から、神さまにはひとり子がおられました。この父なる神さまは神さまはであり、ひとり子はもちろん神さまです。ひとり子を私たちは御子イエスと呼んだり、イエス・キリストと呼んでいます。父なる神さまが、ご自分のひとり子を与えたということは、イコール、自分の分身、自分のいのちを与えたということです。父なる神が御子を与えたのは、私たちを愛して救いたかったからです。ですから、イエス様は、父なる神さまと同じ当事者なのです。ウォッチマンニーはこう述べています。「キリストの贖いのみわざとは何でしょう?キリストの贖いのみわざは、神ご自身がやって来て、ご自身に対する罪を担われたことです。言い換えれば、ナザレのイエスが神でなければ、彼は私たちの罪を担う資格はないでしょう。ナザレのイエスは神でした。彼こそ、私たちが罪を犯した対象である神です。私たちの神は自ら地に下って、私たちの罪を担われたのです。これが主イエスの十字架でのみわざです。」アーメン。

 ひとり子なる神が罪を担って、代価を払うということは分かりました。でも、罪の報酬は死です。もし、ひとり子なる神がこの世に来られ、罪の結果を担うのであれば、彼は死ななければなりません。しかし、神は死ぬことができません。なぜ神が人にならなければならなかったのでしょうか?それは、神が人の体を取って、罪を担って死ぬためです。ヘブル10:5-6「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。』」神さまがキリストのために体を備えられたのは、キリストがご自身を全焼の捧げものと罪の捧げものとしてささげることができるためでした。今やキリストはご自身の体をささげて、人の罪を対処されます。ですから、御子イエスは人となって、この世に来て、十字架に釘づけられたのです。人となられたイエスは、神の律法を全うされました。イエス様は肉体を持っていたので、私たちと同じような誘惑を受けたでしょう。しかし、罪を犯さなかったと聖書に書いてあります。イエス様は律法を守られ、罪を犯さず、義なるお方でした。だからこそ、イエス様は私たちの罪の身代わりになって死ぬことができたのです。なぜなら、罪がある人は、他の人の罪を負うことができないからです。でも、罪のないお方が、人の罪を負うということはたやすいことではありません。Ⅱコリント5:21 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロは、イエス様は罪を知らないお方であり、罪を負ったというよりも、罪そのものとなったと言っています。これは大変なことであります。もし、罪を負ったなら、父なる神から断罪され、捨てられてしまいます。イエス様は十字架に行く前に、ゲツセマネの園で、血のしたたりのような汗を流されて祈りました。苦しみもだえて「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈りました。杯を飲むというのは、自分が人類の罪を負い、刑罰を受けて死ぬということです。肉体を持ったイエス様は「そんなのは、いやだ」と正直に訴えました。最後に「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られました。この「しかし」があったからこそ、私たちへの贖いが成し遂げられたのです。

 イエス様を十字架につけたのはだれでしょう?福音書を読む人はだれでも、ユダヤ人が彼を異邦人に渡したのであり、異邦人が彼を十字架につけたということを知っています。聖書にはローマ総督ピラトが十字架に渡したと書いてあります。ペテロは使徒2章でこのように言いました。使徒2:23「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」ペテロはユダヤ人たちに「あなたがたが十字架につけて殺した」と言いました。確かに人はイエス様を十字架に釘づけました。しかし、イエス様はこのように言われました。ヨハネ10:18「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」確かに人がイエス様を十字架につけて殺しました。しかし、イエス様は神さまによって十字架に付けられ、私たちに代わって罪を贖われたのです。言い換えると、イエス様を十字架につけたのは人ではなく、神でした。十字架は神のみわざでした。イザヤ53:5-6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」アーメン。人々は「十字架から降りて来い。そうしたら信じるから」と言いました。イエス様は降りるつもりだったら、降りられました。でもそうすれば、贖いが成り立たなくなります。十字架にイエス様をとどめていたのは釘ではなく、イエス様ご自身だったということです。イエス様は「ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開きませんでした」。だまって、私たちの罪を負って、神さまによって裁かれたのです。十字架こそが、イエス様が死を通して贖いを成就される道でした。十字架は神のみわざです。神さまがイエス様を遣わして、罪の贖いをなさってくださったからです。

3.贖いと身代わり

 昔、塩狩峠という映画がありました。永野青年が路傍伝道をしていた伝道師の家に行きました。その家の壁に十字架の絵がかかっていました。永野青年は、その家でイエス様が神の子であることを信じると告白しました。すると、伝道師は、「キリストを十字架につけたのはあなた自身だということを、分かっていますか」と聞きました。永野青年は「とんでもない、僕はキリストを十字架につけた覚えなんかありません」と答えました。すると、伝道師は「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ。あなたがイエス様を十字架につけたんですよ」と言いました。永野青年は「まさか、私はイエス様を十字架につけてはいませんよ」と反論しました。すると、伝道師は「それだったら、あなたとイエス様とは何の関係もありません」と言いました。永野青年は「僕は明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何年も前のことではありませんか。どうして明治生まれの僕が、キリストを十字架にかけたなどと思えるのでしょうか」と答えました。私は小説でもそのところを読みましたが、「論理の飛躍があるなー」と思いました。一般に、福音を提示するとき、「あなたの罪が、イエス様を十字架につけたのですよ」と言います。でも、「どうして2000年前のキリストの十字架の死が、現代の私と関係があるのか」ということです。そこには、頭で理解できない深い淵があって簡単には「十字架は私の罪のためです」とは言えません。もちろん、今の今だったら、そう言えます。でも、多くの人たちは、そのところで迷っているのではないでしょうか?

 ウォッチマンニーは、「贖いと身代わり」は違うと言っています。彼は「主イエスのみわざは贖いのみわざです。しかし、この贖いのみわざの結果が、身代わりです。贖いは原因であり、身代わりは結果です。贖いの範囲は非常に大きいです。しかし、身代わりの範囲は同じ大きさではありません」と言っています。Ⅱコリント5章には、「ひとりの人がすべての人のために死なれた。また、キリストがすべての人のために死なれた」と書いてあります。興味深いことに、すべての人の罪のために死なれたとは言っていません。ただ、すべての人のために死なれたと言っています。つまりこういうことです。イエス様が十字架上で贖いを成就されたとき、この贖いのみわざは根本的に人とは無関係でした。贖いは人とは関係ありません。贖いとは神さまがこの世に来て、罪の問題を解決されることです。いったん罪の問題が解決されると、贖いのみわざがなされます。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」とあります。贖いは世全体、すべての人のためでありました。そのような贖いには、救われていない者でさえみな含まれます。しかし、聖書にはこのようにも書かれています。Ⅰヨハネ2:2前半「この方こそ、私たちの罪のため」とあります。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」このところにも、私たちの罪を負われたと書いてあります。すべての人とか、彼らの罪を負ったとは書いてありません。一人称の「私」もしくは、「私たち」の罪であります。マタイ26:28「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」このところには、「多くの人」のためであって、「すべての人のため」ではありません。どういう意味かと言うと、イエス様はすべての人々のために十字架で死なれました。すべての人のために罪を贖われたということです。しかし、それですべての人が救われるわけではありません。キリストの贖いを自分のものとして信じなければなりません。信じた人がはじめて「キリストは私の罪のために死なれました。キリストの死は身代わりです」と言えるのです。Ⅰコリント15章には使信が記されています。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」と自分たちの信仰を告白しています。つまり、キリストの贖いを信じたものが、はじめて「私たちの罪のために死なれた」と言えるのです。 

 さきほどの塩狩峠のお話しに戻りたいと思います。伝道師は永野青年自身がキリストを十字架につけたと信じなければ本当の信仰でないと言いました。永野青年は「僕はキリストを十字架につけた覚えなんかありません」と言いました。キリストは十字架につき贖いをなされました。しかし、それは人間が関わる余地のないことであり、神さまがご自分の義を満たすために一方的になさったことです。キリストはすべての人を贖うために死なれました。しかし、そのキリストを救い主として信じるときその人は贖われます。いわば、その人は贖われて、奴隷市場から出た人なのです。キリストを信じたら、「ああ、キリストは私の罪のために死なれたんだ。私の身代わりだったんだ」と言えるのです。聖歌402「丘に立てる荒削りの」という歌があります。「丘に立てる荒削りの十字架にかかりて、救い主は人のためにすてませり命を」とあります。まさしく、イエス様は人のために十字架にかかって命をすてられました。後半、「十字架にイエスきみ、われを贖いたもう。十字架の悩みはわが罪のためなり」。後半はイエス様の贖いをいただき、救われた人が「十字架の悩みはわが罪のためなり」と告白しているのです。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」よみがえりのことは次週学びますが、主イエス様は私たちの罪のために死に渡されたのです。アーメン。