2016.5.8「エペソのペンテコステ 使徒19:1-7」

 イエス様は復活してから40日間、弟子たちの前に現れました。そして、父のもとにお帰りになられました。その10日後、地上に聖霊が注がれました。使徒の働き2章に記されていますが、120人の弟子たちの上に聖霊が臨んで、異言や預言を発したのであります。その日がちょうど、ペンテコステの祝いの日でした。五旬節とも言いますが、大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫がはじまるという日でした。その日、ペテロが説教すると3000人の人たちが救われました。彼らは教会の初穂であり、ペンテコステの日から教会がスタートしたと言っても過言ではありません。しかし、エペソにはペンテコステの出来事を知らない人たちがいたのです。

1.ヨハネのバプテスマ

使徒の働き18章の終わりをみて分かりますが、アポロという人物がエペソに福音を伝えに来ました。アポロはとても雄弁で、聖書に通じていました。使徒18:25「この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」彼は聖書の知識に富んでおり、人々に教えることもできました。しかし、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。何だか現代の神学者や神学校の教授を想像してしまいますが、致命的な欠陥があるような感じがします。アポロはその後、コリントなどの町があるアカヤに旅立ちました。その後、パウロがエペソに渡ってきました。パウロが幾人かの弟子たちに出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。すると彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと、「ヨハネのバプテスマです」と答えました。私たちはマタイ3章からバプテスマのヨハネが、ヨルダン川で人々に洗礼を授けたシーンを学びました。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。人々は自分の罪を告白して、彼からバプテスマを受けました。それがヨハネのバプテスマであります。でも何が足りないのでしょうか?ヨハネのバプテスマで、罪の赦しは受けられるかもしれませんが、聖霊を受けることができなかったのです。バプテスマのヨハネは「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。…その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。つまり、イエス様が聖霊のバプテスマをお授けになるお方なんだということです。

ここで問題になる表現があります。パウロが言った「信じたとき、聖霊を受けましたか」という表現です。キリスト教会にはペンテコステ派の人たちがいます。彼らも「信じたとき、聖霊を受けましたか」と聞きます。福音派の人たちは「ええ、受けましたよ」と答えます。すると、ペンテコステ派の人たちは「それでは異言を話すことができますか?」と聞きます。すると、福音派の人たちは「いいえ」と答えます。すると彼らは「では、あなたは聖霊を受けていませんね」と言います。福音派の人たちは「いいえ、信じたとき聖霊を受けていますよ」と答えるでしょう。すると彼らは「そんな馬鹿なことはない」と怒り出します。私は両方の立場が分かるつもりであります。第一の問題は「聖霊を受ける」という表現であります。第二の問題は「ペンテコステのようなことが繰り返し起こるのか」ということです。まず、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか」という問から考えたいと思います。エペソの人たちは、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。パウロは「ヨハネは、自分のあとから来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。つまり、罪の赦しのバプテスマは受けても、主イエスの名によるバプテスマは受けていないということです。ということは、聖霊がその人の中に入っていないということです。もし、人がイエス様を信じて、主イエスの御名によってバプテスマを受けるなら聖霊が内に入り、その人は新生します。その意味から言うと、「信じたとき、聖霊を受ける」のです。でも、それはいわゆる聖霊のバプテスマではなく、「内住の御霊」ということができます。パウロはⅠコリント12章で「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません」と言いました。また、ローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」とも言いました。つまり、クリスチャンであるならば、もれなく聖霊を内にいただいています。内側に聖霊を持っていないクリスチャンなど存在しないということです。

また、問題はエペソに伝えられた福音は不完全だったということです。ヨハネのバプテスマは罪の赦しを得るためのバプテスマでした。ところが、主の御名によるバプテスマは信仰の証としてのバプテスマでした。パウロがエペソに来たときは、ペンテコステの日から20年以上たっていたと思われます。聖霊は地上におられたのです。ただし、ヨハネのバプテスマでは、その人の中に聖霊が入らないということです。その人が信仰告白して、主の御名によるバプテスマを受けるなら、その人に聖霊がお入りになるのです。21世紀の今は、ヨハネのバプテスマを受ける人はいません。みんな主の御名によるバプテスマを受けて、聖霊を内にいただきます。ところがある人たちは、「父、子、聖霊の御名によって」ではなく、「主の御名によるバプテスマが有効なんだ」と言います。それは屁理屈であり、どっちでも良いのです。マタイによる福音書もちゃんと霊感されていますし、「使徒の働き」もまたそうであります。なぜ、三位一体ではなく、「主の御名によるバプテスマ」になっているのか私にはわかりません。でも、重要なことは、エペソは例外だったということです。私たちはイエス様を信じてバプテスマを受けるとき、ちゃんと聖霊を内にいただいています。Ⅰコリント12:13「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」アーメン。私たちクリスチャンは聖霊によって新しく生まれ、キリストのからだなる教会に組み入れられているのです。私たちは信じたときに、聖霊を内側に受けたのです。このお方は、私たちを慰め、励まし、世の終わりまでともにいてくださるのです。アーメン。


2.
聖霊のバプテスマ

前のポイントでヨハネのバプテスマと主の御名のバプテスマがあると学びました。ここで問題になるのは「聖霊のバプテスマ」という用語であります。さきほど、「聖霊を受けましたか」というパウロの質問がありました。実は、ペンテコステ派は、「聖霊のバプテスマ」イコール、「聖霊を受ける」と解釈しています。それはどういうことかというと、ペンテコステの日、弟子たちが受けた聖霊のバプテスマと同じ体験をするということです。確かに、パウロから手を置いて祈ったら、同じようなことが起りました。使徒19:6-7「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。」このことから、ペンテコステ派の人たちは、「イエス様を信じるだけでは不十分で、聖霊のバプテスマという意味での聖霊を受けなければ一人前のクリスチャンではない」とまで言います。彼らは洗礼日の他に、受霊日まで明確にします。「異言が出ないならば、半人前のクリスチャンなんだ」と言われたらどうするでしょうか?私は前にも申し上げましたが、聖霊を受けるという意味には二種類あると思います。第一は内側に受ける、ギリシャ語で言うとエンであります。イエス様はヨハネ14章で、「私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」と言われました。使徒パウロは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)と言いました。何度も言いますが、イエス様を救い主として信じるとき、キリストの御霊、聖霊が私たちの内側に宿ります。これを内住の御霊と呼んでいます。そして、聖霊に満たされるというのは、キリストの御霊によって満たされるということです。そのことによって、ガラテヤ5章にあるような、さまざまな御霊の実、人格的な実があふれてきます。

では、聖霊を受けるという第二の意味とは何でしょうか?それは上から受ける、ギリシャ語でいうとエピ(エフィ)であります。復活の夜、イエス様から息を吹きかけられ「聖霊を受けよ」と言われたとき、11人の弟子たちは聖霊を内側に受けたのではないでしょうか。でも、それだけでは力がありませんでした。弟子たちは迫害を恐れて、よみがえられたイエス様を証することができませんでした。天にお帰りになる前、イエス様はこのように弟子たちに言い残しました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ここには、「着物のように、力を着せられる」というニュアンスがあります。同じようなことばが使徒1章にもあります。同じルカが書いたのですから、そうかもしれません。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」このところには、「上から臨まれる」エピ、英語ではuponと書いてあります。ルカ24章と使徒1章に共通して言えることは、「力」であります。弟子たちは、力を受けるために聖霊を上からいただく必要がありました。弟子たちは聖霊の力によって、世の終わりまでキリストを証し、奇蹟やしるしを行ったのであります。

では、上から聖霊を受けるとはどういうことなのでしょうか?旧約聖書の時代は、新約と違って、「内側に聖霊を宿す」つまり、霊的に生まれ変わるということがありませんでした。「内住の御霊」は、キリストが昇天し、父のみもとから助け主、聖霊をお遣わしになってから実現したのです。では、旧約聖書の時代はどのように聖霊が働いていたのでしょうか?一番分かり易いのはサムソンの例であります。サムソンは士師(さばき司)の一人でした。彼は人格的にかなり問題がありましたが、神さまによって用いられました。士師14:6「このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。」このところに、使徒1:8と同じ表現があります。And the Spirit of the Lord came mightily upon him,「彼の上に霊が下った」のであります。そうすると、彼は超人的な怪力が与えられ、子やきでも引き裂くかのようにライオンを引き裂きました。サムソンは、この後、何度も危険にさらされますが、そのたびに「主の霊が激しく彼の上に下って」怪力が与えられ敵を打倒しました。ところが、彼の長い髪の毛が切られたらどうでしょう?もう、その力は出てきませんでした。なぜなら、主が彼から去っていたからです。でも、最後に、もう一度、チャンスが与えられ、自分の命と引き換えに大勢のペリシテ人を倒すことができました。サムソンだけではありませんが、旧約聖書の時代も聖霊が働かれました。でも、それは一時的であったということです。また、上から臨む聖霊は、人格というよりも、力とか奉仕に関係があるということです。つまり、上から聖霊が臨まないと、神さまの奉仕ができないということです。イエス様ですら、公生涯の前に「私の上に主の御霊がおられる」と聖霊によって福音を伝え、ミニストリーをしたのであります。

おもに福音派の人たちは、「聖霊を受ける」イコール、「信じるとき内側に聖霊を受ける」という意味で考えます。また、おもにペンテコステ派の人たちは、「聖霊を受ける」イコール、「聖霊のバプテスマ、聖霊を上からいただく」と捉えるのではないかと思います。私は30年近く、ビリー・グラハムの『聖霊』という本の立場を取っていました。ビリー・グラハムはその本の中で、「御霊によるバプテスマが新生の時に起こる。聖霊のバプテスマとは御霊の満たしに属する」と書いてあります。だから、クリスチャンは改めて聖霊のバプテスマを求める必要はないのだ、と言います。これは、「聖霊のバプテスマ」という用語の解釈から来ていますので、ちょっと複雑になります。おお方の福音派はビリー・グラハムの立場を取っていると思います。私もそうでした。ところが、チャック・スミス牧師が『聖霊について教えてください』という本を2002年に出版しました。彼は「聖霊のバプテスマと新生とは同じではない」と言っています。さらに、彼はギリシャ語の前置詞、「エン」と「エピ」を使って説明しています。「あなたが主イエスを受け入れた瞬間に、聖霊があなたの中に入って来られ、あなたの内に住まわれはじめた。エン(内に)の状態になったのだ。使徒1:8の弟子たちの経験は、エピ(上から)聖霊が臨まれたのだ。このエピの状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態だ。聖霊があなたの内におられるエンとは違う。上に臨まれるエピは、グラスから水があふれ出ている状態である。彼らはエピの体験である聖霊のバプテスマを体験しなければならない」と言いました。私は2年くらい、チャック・スミス師の本をほうっておきました。しかし、ウィットネスリーの『命の経験』を読んだとき、よく分かりました。彼の本にこう書いてありました「ペンテコステの時から、聖霊の内側と外側の経験が、完全に成就されました。この時以来、聖霊の働きを望む人たちは、聖霊の内住と外側の注ぎの両方を同時に経験することができます。」アーメン。と言う訳で、私は、クリスチャンは聖霊を内側にいただくだけではなく、上からもいただく必要があると考えます。なぜなら、神さまのために仕えるために、上から力として聖霊を受ける必要があるからです。

3.標準的なクリスチャン

ウィットネスリーは「ペンテコステ以来、聖霊の働きを望む人たちは、聖霊の内住と外側の注ぎの両方を同時に経験することができる」と言いました。ということは、上から力として聖霊を受けるということはありえないことではないということです。むしろ、それはクリスチャンとして標準的なものだということです。初代教会は今の私たちと違って、両方を普通に体験できたのではないかと思います。たとえば、ガラテヤ教会の人たちはどうだったでしょうか?ガラテヤ3:4「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか」。文脈から、ガラテヤ教会の人たちは、律法ではなく、信仰によって御霊を受けました。おそらく、その時、大きな経験、つまり奇蹟的な体験をしたと思われます。そのような体験をした人たちが、「肉(人間の力)に頼るのはおかしいだろう」とパウロが言っているのです。また、ヘブル6章にも同じようなことが記されています。ヘブル6:4-6「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば…」とあります。おそらく、ヘブルの人たちも、天からの賜物とやがて来る世の力を体験したのでしょう?だから、「そういう体験をした人たちが堕落することなどありえるだろうか?」と言っているのであります。

もちろん聖霊による体験は人それぞれであり、それを神学的な教理にすることはできません。多くのペンテコステ派のように「異言を語らなければ、聖霊のバプテスマを受けたことにはならない」と言ってはいけないと思います。また、多くの福音派のように「たとえ力があっても、愛がなければ無益だ」と聖霊の賜物を軽んじるような言い方もよくありません。第一に、聖霊の賜物と人格とは違います。サムソンの例からもわかります。また、世界では奇蹟やしるしを行う伝道者がたくさんおられます。では、彼らが人格的に問題がないか、というとそうではありません。神さまは人格に関係なく、ご自分の主権によって霊的な力や賜物をお与えになられます。ただし、私たちは与えられた賜物に対しては、忠実でなければなりません。一番問題なのは、極端に走ることです。何ごともバランスが必要です。ここで、私が申し上げたいことは、体験を第一に求めてはいけないということです。体験よりも重要なのは、信仰であります。私たちは神さまのご栄光のために、自分をささげる必要があります。「主よ。私をあなたにささげます。どうかあなたの御用のためにお用いください。そのために、あなたは聖霊による力をくださると約束されました。どうか、弟子たちにそうであったように、上から聖霊を臨ませてください。アーメン」と祈るのです。そうすれば、神さまが必ず、そのようにしてくださいます。

また、このことは個人で祈り求めることもできますが、霊的な指導者から祈ってもらうとより効果的です。使徒19章にもあるように、パウロが手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれたからです。手を置くということを、キリスト教会では「按手」と呼んでいます。パウロもテモテにこのように注意しています。Ⅱテモテ1:6「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」テモテもパウロから按手してもらって、聖霊の力と賜物を受けたと信じます。でも、霊的な力が弱っていたのではないかと思います。だから、パウロは神の賜物を、再び燃え立たせるように注意したのでしょう。私はたくさんの聖会に出席しました。最後に、「恵みの座」というものがあり、講師が手を置いて祈ってくださいます。ですから、いつ上から聖霊を受けたのか分かりません。ただ言えることは、聖霊は確かに私の上に臨まれ、主の注ぎはあるということです。ただし、按手は誰でも良いというわけではなく、教会が認めている先生でないと怖いです。なぜなら、悪いものも一緒に受ける可能性があるからです。エペソの人たちのように霊的な指導者から祈ってもらうとより楽であります。「楽」というのは英語でeasy簡単という意味です。でも、easy come easy goという諺もあります。簡単に得たものは、簡単に手放してしまいます。現代のクリスチャンに最も必要なものは「霊的な飢え渇き」であろうと思います。クリスチャンであるなら内側に聖霊はいらっしゃいます。でも、「どうか私を聖霊で満たしてください」「どうか力としての聖霊が私の上に臨みますように」と切なる飢え渇きをもって求めるべきではないでしょうか?ルカは「求めなさい。そうすれば与えられます」と言いながら、「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」聖霊こそが、私たちが求めるべき最上のものです。

もし、「内住の御霊」と「上からの聖霊」とどっちが大切かと言われたなら、「内住の御霊」でしょう。なぜなら、キリストが聖霊によって自分の中に住んでいてくださるからです。この内住の御霊が私たちを内側から慰め、助けてくださいます。でも、私たちは神さまに仕えるために力も必要です。弟子たちがそうであったように、私たちは上からの聖霊をいただきましょう。パウロは「霊に燃えて主に仕えよ」と言いました。私たちは奉仕のための、聖霊のパワー、聖霊の原動力が必要です。そのためには飢え渇きをもって、主に求めようではありませんか。