2016.5.15「~神への畏敬~詩篇145篇17-21節」

<詩篇145篇17-21節>(新改訳)

145:17

【主】はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

145:18

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに【主】は近くあられる。

145:19

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

145:20

すべて主を愛する者は【主】が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

145:21

私の口が【主】の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

 

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キリスト教の暦では、本日がペンテコステ礼拝の日となっておりますが、諸事情により先週に繰り上げしていただくことになりましたのでご了承ください。鈴木先生は最近、新約聖書のマタイの福音書から説教されていますので、本日は旧約聖書の詩篇から、みことばを取次がせていただこうと思います。

 

「旧約聖書は苦手だな~。」と思っている方もいらっしゃるかと思いますが、旧約聖書はとても大切です。世界三大宗教と言われている、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、実はみんな同じ旧約聖書を教典のひとつとして用いています。つまり、みんな同じ唯一の神を信じているということです。

 

その点では共通しているわけですが、それにも関わらず現在お互い相容れない敵対関係のようになってしまっているのは、その他に使っている教典の違いがあるからです。キリスト教は新約聖書を使い、ユダヤ教はタルムードなどのラビ文献を使い、イスラム教はコーランを使っています。

 

ご存知の通りキリスト教徒は、父なる神、御子なる神、聖霊なる神による三位一体の唯一の神を信じています。三位一体を説明するのは難しいので割愛しますが、旧約聖書を読む時には、新約聖書とのつながりについても意識していただけたらと思います。単純に、「旧約聖書は古い契約。イエス様は新約聖書になってや~~っと登場してくる御子なる神様で、新しい契約。」といったものではない、ということです。イエス様は、ヨハネの福音書の1章に書かれているように、世の初めから神とともにおられました。ですから、旧約聖書の中にも、イエス様はおられるということです。

 

では、それらを踏まえて詩篇145篇を読んでいきたいと思います。

詩篇は全部で150篇ありますので、145篇は詩篇のクライマックスに向かうところの最初の箇所となります。原語のヘブライ語では、各節の頭がアルファベットになっている、「いろは歌」のようです。先ほど読み上げていただいたのは、新改訳ですが、新共同訳だと、「いろは歌」だということが、よく解ります。

御一緒に新共同訳の方を朗読してみましょう。

 

<詩篇145篇17-18節>(新共同訳)

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145:17

主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。

145:18

主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし

145:19

主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。

145:20

主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。

145:21

わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。

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17-20節には、神がどのような御方か、私たちにどのような関わりを持ってくださり、何をしてくださるのか、ということが書かれています。21節では、だからこそ私は主を証し、とこしえに賛美したいのだと言っています。

 

今日はこの箇所から特に、19節の「主を恐れる者」とは、どういう人のことなのか?「神への恐れ」とは、どういう「恐れ」なのか?ということについて中心に考えてみたいと思います。

 

聖書に書かれている「恐れ」には、①神に対する恐れ、②罪から来る刑罰への恐れ、③人に対する恐れ、の3種類があります。「恐れる」という漢字は、新改訳聖書では「恐れる」と書き、新共同訳聖書では「畏れる」と書きます。つまり、聖書が語っている「神に対する恐れ」とは、「神への畏敬」です。敬う心です。「神に対する恐れ」とは、私たち人間が自我を捨ててへりくだり、神を敬い礼拝し、賛美して褒め称えることなのです。

 

では新改訳にもどって、まず詩篇145章17節、

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【主】はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

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◆①聖書の神は人格的な御方であり、今も生きておられます。

 

ここでは、神様のすべての道は正しく完全であるだけではなく、そのすべての御業は慈しみと恵みに満ちていることが語られています。神様が、「すべての道において正しく完全であるだけ」の御方であれば、私たちはその正しさゆえに行きどころがなく、恐怖心を抱き、ただただ神の怒りに触れないように震え上がるだけです。しかし、聖書の神様は人格的な御方であり、「すべてのみわざにおいて恵み深い」御方なのです。

 

何をやっても的外れで神様の道において正しくない歩みを続けている私たちに、神様は大切なひとり子であるイエス様を与えてくださいました。それは最大の恵みです。また、イエス様が私たちにしてくださったひとつひとつの御業は、愛と恵みに満ち満ちています。ですから、神様は恐れ多い御方ですが、恵み深く私たちを、その神様のふところに抱いて慈しんでくださる御方なので、畏敬の心を持つことができるのです。

 

しかし残念ながら、この神観は、日本の文化とは全く噛み合いません。日本人は古くから八百万の神を信じ、祖先崇拝をします。神も仏も混同され、死んだ人が神になったりもします。信心深い行いをすれば、「ご利益(ごりやく)」があり、不信心だと「祟り」があると考えます。そこには、神を求めたり、愛したり、信頼したりという人格的な交わりはありません。聖書の祝福や呪い、さばきとは違います。ただ訳が解らず恐ろしいのです。

 

私も以前は間違った神観を持っていました。

クリスチャンホームで育たなかった私は、当たり前のように、八百万の神を信じ、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の仏様をありがたく思い、死んだご先祖が守ってくれると思っていた、ごちゃまぜの神観でした。

御葬式といえば、御寺のお坊さんに来てもらって御経をあげてもらうし、お正月といえば家族で近所の神社に初詣に行きました。その神社のお祭りがあれば地域をあげて盛り上がりましたし、子どもだった私は御神輿について行ってお菓子をもらったりしました。その神社の氏子の家庭に中学2年の女子がいれば、その女子はその年に限り、お祭りの時に巫女さんになれるというので、アルバイト代目当てで同級生の女子と赤と白の袴を着て、嬉しそうに御札を売ったりもしました。

今考えれば、中学2年の女子たちは神社の神への捧げものとして召集されたってことだったんですが、よくわかってなかったとはいえ、偶像の神に捧げられてしまったとすれば、なんだか複雑な気持ちです。

クリスチャンは私の育った地域にはひとりもいなかったと思います。家から少し遠いところに、カトリックの聖カタリナ女子校はありましたが、異質な学校があるといった感じでした。それなのにクリスマスには、近所の子ども会の行事でクリスマス会があって、クリスチャンはひとりもいないのに、キャンドルサービスをして、「きよしこの夜」を厳かに歌って、おみやげにケーキをもらって帰るという子どもにとっては楽しい行事がありました。

 

私だけではなく、クリスチャンホームで育たなかったみなさんは、多かれ少なかれ、私と同じような体験はしてきたのではないでしょうか。

そういうわけですから、私の神観というのは、「何だかわからないけど、神様は物凄く超越した力を持っていて、何だかわからないけど、ありがたくて恐い。」といったもので、祖母や母からは、何か悪さをする度に「罰(ばち)が当たるよ!崇(たた)りがあるよ!」と脅され、なにか信心深いような真似事をすると、「御利益(ごりやく)があるよ。」と言われました。

ところが、キリスト教にふれ、聖書の神様の存在を知ったときに、「待てよ」と思ったのです。「なんか著しく自分は間違ってなかったか?」「自分どころか、家族中、地域中間違ってなかったか?」と思ったのです。

聖書の神様は、私たちに聖書を通して啓示を与えてくださり、私たちと人格的に関わってくださっています。

 

私たちに理解できる言葉でご自身がどのような御方かを示してくださっています。そしてイエス様は、今も生きておられ、私たちに模範を示してくださり、どのように人生を歩んで行けば良いかを教えてくださっています。聖霊なる神様はそんな私たちに、生きる力を与え導いてくださっています。

 

八百万の神はそんなことは示してもくれないし、教えても導いてもくれませんでした。私は、ただ自分の思うままに、自己実現のために拝んでいただけでした。そこには表面的な達成感はありましたが、どこかザラザラしていて現実的なのに、なぜか全部が嘘くさく、魂や霊が打ち震えるような喜びや慰めはありませんでした。

 

私は聖書の神様に出会って、心から喜び、慰めを得ることができました。そして、主に信頼することができました。これが聖書の神観です。ですから、私は聖書の神様に感謝して、八百万の神も、仏も捨てました。

 

◆②神の御前では、隠しおおせるものは何もありません。

 

<詩篇145:18-19節>

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145:18

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに【主】は近くあられる。

145:19

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

145:20

すべて主を愛する者は【主】が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

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ここには、「主を呼び求める者」「主を恐れる者」「主を愛する者」への祝福が記されています。

「主を呼び求める者」すべてに、主は近くにいてくださり、

「主を恐れる者」の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救ってくださいます。

「主を愛する者」は主が守ってくださいます。悪者はすべて滅ぼされます。

 

ここで大切なのは、主を呼び求め、主を恐れ、主を愛する時に、自らを隠さずにさらけ出し、へりくだることです。なぜなら、神様の御前では、何ひとつ隠しおおせるものはないからです。被造物である私たちを造ってくださった創造主なる神様は、私たちの罪、汚れ、弱さ、傲慢さ、愚かさ、すべてご存知です。

そして、私たちの切なる願いも、叫びも、すべて聞いてくださっています。

 

  • 主を呼び求めましょう。

 

<イザヤ書65章24節>にはこう書かれています。

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彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

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主はこのようにすべてご存知で、呼び求める者の近くにいてくださいます。

 

  • 主を恐れましょう。

 

<詩篇111篇10節>にはこう書かれています。

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【主】を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。

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畏れ多い神様を知るごとに、私たちは自らの未熟さを知り、ますますこうべを垂れ、へりくだる心を持つことができます。

 

  • 主を愛しましょう。

 

このことは、<申命記6:5>で

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心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。

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と、神様ご自身が第一の戒めとして私たちに求めておられることです。

主を呼び求めることも、主を恐れることも、主を愛することが大前提となっています。

 

◆③「神を恐れること」と、「神を愛すること」とは切り離せません。

 

<ローマ8:28>にはこう書かれています。

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神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

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すべての祝福は、神様を愛することから始まっています。

もしかしたら、「愛する」というよりも、「お慕いする」と言った方が、神様を畏れ敬う感じがして、しっくりするかもしれませんね。でも、聖書には「主を愛する者」と書かれているので、「私は神様を愛してお慕いします!」とダブルで宣言するというのはいかがでしょうか。

愛しているからこそ、お慕いしているからこそ、主を畏れ敬うのです。

 

最後に、<詩篇145:21>にはこう書かれています。

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私の口が【主】の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

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これは、主なる神様が、私たちにしてくださっている御業を思い起こし、そのことを私たちが証し、世界中の人々が、世々限りなく、とこしえに聖なる御名を褒め称えますように!!との願いです。

 

このみことばで詩篇145篇は締めくくられています。

続く詩篇146篇-150篇は、「ハレルヤ詩篇」と言われていて、神への賛美の大合唱が続きます。

 

このみことばの通り、私たちは主の誉れを語って福音宣教に励み、すべての人が聖なる御名を世々限りなくほめたたえる日が来ることを信じて、神への畏敬の心をもち、感謝して賛美しつつ、神の国の到来を待ち望みましょう。