2016.7.3「十字架の力 Ⅰコリント1:18」

 きょうは亀有教会創立67周年の記念礼拝です。Ⅰコリント1章に「十字架のことばは力である」と書かれています。十字架にはどのような力があるのでしょうか?きょうは3つのポイントで学びたいと思います。第一は「贖いの十字架」です。十字架で流されたイエス様の血潮はすべての罪咎、罪責感を取り去る力があります。第二は「きよめの十字架」です。十字架は私たちの古い人である罪の源、そしてアダムから来た一切のものを遮断する力があります。第三は「日々の十字架」です。イエス様は「日々、自分の十字架を負って私について来なさい」と言われました。クリスチャンは救いを受けてはいますが、肉という罪を犯す性質が残っています。だから、日々、肉を十字架に付ける必要があります。十字架はこの肉を死なせてくれる力があります。

1.贖いの十字架

 ローマ3:23-25a「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」「罪」という概念は、日本にはありません。日本人は「人に迷惑をかけなければ良い」という社会的な罪概念だけです。しかし、聖書で罪とは、神に対する背き、違反、汚れであります。ダビデはイスラエルの立派な王でありましたが、姦淫と殺人の罪を犯しました。罪を隠していた時は、「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」(詩篇32:3)と言っています。神さまは全世界と人間を造られた創造主です。罪を犯すというのは、人にではなく、まず神に対して犯していることを理解しなければなりません。そのため、ダビデは「私はあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇51:4)と告白しています。ですから、罪の赦しを受けるときは、人ではなく、まず神さまから赦しを受ける必要があります。もちろん、被害を与えたときは、人や社会への償いは必要です。でも、それは2番目です。パウロは、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と言いました。「すべての人」の中にあなたも入るでしょうか?「いいえ、私はダビデのような大きな罪は犯していませんよ」と言うかもしれません。「罪はない」「罪を知らない」という人のために、神さまは律法をお与えになりました。律法は神からの戒めであり、命令です。イエス様は山上の説教で、「実際に罪を犯していなくても、思っただけで罪になるんだ」と律法の真の意味を教えました。人を憎んだり、情欲を抱いて異性を見たり、欲しいとむさぼるのも罪であります。そうなると義人はひとりもいなくなります。

 私たちは、神さまから罪が裁かれ、永遠の滅びに行く運命でありました。ところが、神さまは御子を遣わして、御子に私たちの罪を負わせ、御子を罰したのです。それを十字架の贖いと言います。「贖う」は、初めは失われた土地を親戚が買い戻すという意味でした。次第に、罪ある者を赦すために、だれかが罪の代価を払うという意味になったのです。旧約時代は、動物が代わりに血を流すことによって、罪が贖われました。なぜなら、罪は命である血でしか贖うことができなかったからです。イザヤ書53章には、メシヤが神から打たれ、苦しめられることによって罪咎が赦されると預言されています。そのメシヤというのが、イエス・キリストです。パウロは、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになった」と言いました。義なる神は1つの罪をも見過ごしにはなされず、必ず裁かなければなりません。しかし、神さまは愛なるお方なので、何とか人間の罪を取り除いて、和解したいと願いました。そのため、御子イエスに全人類の罪を負わせ、裁いたのです。「なだめの供え物」とありますが、キリストの血によって、神の罪に対する怒りがなだめられたのです。同時にキリストの十字架によって神の義が満たされたのです。そして、神さまはキリストを信じる者を義とされると約束されました。ハレルヤ!神さまは救いのために、キリストによってすべてのことをなされました。私たちがなすべきことは、キリストによってなされた贖いを受け取るだけで良いのです。

 もし、人がこのキリストにおける贖いを受け入れたらどうなるのでしょう。すべての罪が赦され、神さまから義と認められます。これは法律用語であり、私たちの実質ではなく、神との関係において義とされるということです。そうすると、私たちを訴える咎めがなくなります。罪を犯すと3つのものが私たちを訴えます。第一は神さま、第二は良心、第三は悪魔です。キリスト・イエスによる贖いを受けたので、神さまは私たちを受け入れてくださいました。ヘブル10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」とあります。第二の良心、つまり罪の呵責はどうでしょう?ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。キリストの血によって心から咎めが去ります。第三の私たちを訴える悪魔はどうでしょうか?ヘブル2:14-15「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。キリストが十字架で死なれたとき、同時に、私たちを訴える悪魔のかしらが砕かれたのです。もう、悪魔は私たちの罪を訴えることはできません。なぜなら、キリストがすべての罪を支払ったからです。もし悪魔が私たちを訴えるなら、「キリストのところへ行ってくれ」と言えば良いのです。多くの人が罪責感、罪悪感のゆえに心の病気になっています。その人がカウンセラーのところへ行くと、「あなたは悪くない。親が悪いんだ、あるいは社会が悪いんだ」と言います。でも、決して良くなりません。癒しと解放のために3つのことが必要です。1つ目は、それは自分が犯した罪であることを認めるということです。2つ目は、イエス・キリストが私の罪ために十字架で死なれたことを信じることです。3つ目は、良心にキリストの血の注ぎを受けることです。すると、すべての罪責感、罪悪感が取り去られます。私たちは自分の良心よりも、悪魔の訴えよりも、神の約束を信じるべきであります。キリストの十字架の贖いによって、すべての罪は赦されました。アーメン。

2.きよめの十字架

 「きよめ」という用語自体が誤解を招きますので、少し説明させていただきます。16世紀、マルチン・ルターは「信仰義認」ということを聖書から発見しました。18世紀、イギリスのジョン・ウェスレーが「聖化、きよくされる」ということを聖書から発見しました。Ⅰヨハネ3:6a「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。」とあります。これも同じ意味で、継続的に罪を犯さなくなる、きよくなるということです。救いも信仰でありますが、いわゆる「きよめ」も恵みであり信仰です。ある教団は劇的なきよめの体験を追求しますが、そうなると罠にはまります。なぜなら信仰が先で、体験は後から来るものだからです。私はウォッチマンニーの『キリスト者の標準』に書かれている内容を支持しています。その本には、「罪のゆるし」と「罪を犯すその人自身」とに分けられています。罪のゆるしとは、sins行為罪が赦されるということです。罪を犯すその人自身というのは、アダムから受け継いだ、sin罪の性質から解放されるということです。私たちは天国に行くまで、sin罪の性質はあります。これは罪を作り出す工場みたいなものです。「臭いところは元から断たなけりゃダメ」と言われるように、1つ1つの罪ではなく、罪の工場を破壊する必要があります。これが、きよめの十字架という意味です。

 ローマ人への手紙を見ますと、ローマ5:12から単数形の罪、sinについて記されています。「アダムの違反によって、すべての人が罪に定められた」と書かれています。イエス・キリストは最後のアダムとして、この世に来られました。イエス様は、罪のかわりに恵みを、死のかわりに永遠のいのちを与えて下さいます。では、どのように私たちはアダムの罪から解放され、いのちにあずかることができるのでしょうか?パウロは「イエスにつくバプテスマを受けた私たちはその死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか?」と言っています。つまり、私たちがイエス様を信じて、バプテスマを受けたとき、キリストと一緒に死んだということです。また、キリストがよみがえられたとき、私たちもキリストと一緒によみがえったということです。ローマ6:5-7「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」「古い人」というのは、アダムに属するすべてです。この地上に生まれた人は、すべてアダムに属する人であり、古い人です。このままですと、イエス様を信じて罪赦されても、また罪を犯して、しまいには滅んでしまいます。旧約聖書のイスラエルがそうであり、彼らはいくら罪赦されても、また同じことを繰り返しました。新約における恵みとは、古い人が一度死んで、新しい人になるということです。自分で古い人を殺すことはできません。キリストにバプテスマされる、一体化されると良いのです。パウロは、それはキリストに接ぎ木されることだと言っています。私たちは、アダムという木につながっていました。ところが、アダムの木から切り取られ、一瞬死んで、今度はキリストの木に接ぎ木されたのです。どこが変わったのでしょうか?命の源が変わりました。古い人とは、アダムの罪、アダムの命、アダムの資源という意味です。しかし、古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅びたのです。そのことによって、アダム以来の罪から解放されます。そして、今度はキリストとともによみがえるのです。つまり、あなたはキリストという木に接ぎ木されました。これからは、キリストきよさ、キリストの命、キリストの資源にあずかるようになるのです。

 罪からの解放、つまり罪のきよめも信仰であります。私たちはイエス様の十字架を信じて救われました。十字架の贖いは神さまとキリストがなさったことです。それを私たちは信じて救われたのです。そして、私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられました。そのことを信じて罪からきよめられたのです。2つとも同じ恵みであります。同時に受ける人もいれば、ガラテヤの人たちのように、あとから分かる人がいます。ガラテヤの人は信仰によって救われた後、何かをしなければならないと思いました。自分の力で、律法を守り、きよい生活をしようと努力しました。しかし、ますます泥沼にはまり込み、最後には救いすらも分からなくなりました。「自分の力で、律法を守り、きよい生活をしよう」ということを「救いを肉で仕上げる」と言います。それは不可能です。なぜなら、古い人である肉でやっているからです。一度、古い人に死んで、新しくなるなら希望があります。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。これも、ローマ6:6と同じことを言っています。ガラテヤ書もローマ書も、古い人を自分で十字架につけるとは言っていません。私たちは信じてバプテスマを受けたとき、古い人がキリストとともに十字架に付けられたのです。私たちはイエス様を信じたとき罪赦されました。同じように、自分がキリストとともに十字架に付けられたことを信じるのです。死ぬのではなくて、死んだことを認めるのです。すると、そうなります。

 私は東京聖書学院で学んでいた時、自分の罪と汚れに嫌気がさしていました。母教会は恵みと赦しであふれていましたので、ほとんど気づきませんでした。しかし、聖書学院ではみことばから、罪が責められました。どこの聖書箇所からも「きよめられなさい」というメッセージでした。「ああ、こんな自分に死にたい。きよめてください」と祈りましたが、無理でした。基礎科卒業後、『キリスト者の標準』を読んで、わかりました。ローマ6:11「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」「思う」とは、ギリシャ語でロギゾマイ「数えなさい」という意味です。これは、自分がすでに死んでいることを額面通り受け止めなさいということです。私たちの古い人の死は、意志や努力によって実現されるのではなく、主イエスの十字架のみわざを受け入れるときに実現するのです。罪の赦しを受けると同じ方法で、罪からの解放を受けることができるのです。

3.日々の十字架

 イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と言われました。ということは、十字架は一回の出来事ではなく、自分から負うべき十字架もあるんだということです。ところで、ウォッチマンニーの『キリスト者の標準』の本には、古い人の死をこのようにたとえています。政府が徹底した禁酒運動をするためにはどうするでしょうか?国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやブランディなどのびんを1つ残らず壊してしまえば、それで問題は解決するでしょうか?びんだけ処理しても醸造工場をそのままにしておけば、酒類の生産は継続し、恒久的な解決は望めません。飲酒問題を恒久的に解決しようと思えば、国中の醸造工場、蒸留装置などが取り除かれなければなりません。同じように、イエス様の十字架の贖いは、罪の生産物を処理しました。しかし、罪を生み出す工場をたたかなければなりません。それはアダムから来た古い人を死なせることです。イエス様と共に十字架につけられ、工場である古い人が一掃されました。ハピーエンドにしたいところです。ところが、人々は酒瓶を縁の下や車のトランクに隠していたのです。いつかは底をつくでしょうが、しばらくはちびりちびり飲むことができます。パウロはローマ7章において、肉の問題を述べています。パウロはこの肉を「私のうちに住む罪」と言っています。パウロは罪赦され、古い人に死んだはずです。なのに「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)と絶望しています。

 ところが、ローマ8章からは肉に対する解決が記されています。肉とは何でしょう?肉とは古い人の残り粕です。縁の下や車のトランクに隠された酒瓶です。でも、肉はどこにあるのでしょうか?ウィットネスリーという人が『命の経験』という本に、そのことを詳しく述べています。私たちは外側から、肉体と魂と霊の3つでできています。魂はギリシャ語でプシュケー(いのち)ですが、「自分の思い」とも言うことができます。魂の内側には霊があり、そこに聖霊が宿っています。ウィットネスリーは、私たちの霊と聖霊が混ざり合って区別がつかない状態であると言っています。たしかに、「御霊によって歩みなさい」とありますが、神の霊なのか、私たちの霊なのかわりません。そして魂の外側には肉体があります。ウィットネスリーは「この肉体に、サタンの毒である肉が宿っている」と言います。ですから、私たちの魂が、内側の御霊に従うのか、あるいは外側の肉に従うのか迷っているということです。ローマ8:6「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。回復訳という聖書はこの箇所を「肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安である」と訳しています。私たちは絶えず肉には「いいえ」を言い渡し、霊には「はい」と従うべきです。そうすれば、いのちと平安がやってきます。でも、私たちは肉とは何かを知らなければなりません。肉は大きく分けて3つから成り立っています。第一は、腐敗した肉です。これは不品行、汚れ、好色、敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみなどです。みなさんの中に憤りはないでしょうか?それは肉です。第二は、「わたし」という自我です。ガラテヤ書で、「私はキリストと共に十字架につけられた」と言いました。なのに、どうしてまだ生きているのでしょうか?確かにそのとき私たちは一度、砕かれました。ウォッチマンニーはビスケットのたとえで説明しています。彼がテーブルの皿にあった、ビスケットを3つに割りました。それから注意深くもとのように合わせて、こう言いました。「これは、見た目には異常はないようです。しかし、このビスケットは決してもとのままではありません。ひとたびあなたの背骨が折られると、以後あなたは神からのちょっとしたタッチにも砕かれるようになるのです」。でも、私たちは油断すると、神さまの思いではなく、「わたし」という自我で生きようとします。みなさんの心はビスケットのように処理されているでしょうか?第三は生まれつきの能力です。生まれつき知恵や知性のある人がいます。生まれつき雄弁な人もいるでしょう。生まれつき音楽の才能のある人もいます。では、こういう人がそのまま神さまに用いられるか、というとそうではありません。なぜなら、生まれつきの能力は、すべてアダムに源を置いているからです。ですから、どんな良いものでも一度は十字架の死に渡す必要があります。その後、アダムではなく、御霊に源を置いてそれらを用いるのです。あるものは取り去られ、また自分に全くないものが新たに与えられる場合があります。神の前にどんなにすばらしい奉仕をしたとしても、それが肉であるならば神には届きません。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません」とあるからです。

 イエス様は「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と言われました。これはどういう意味でしょう?これは肉を毎日、十字架につけて死なせるということです。繰り返しになりますが、第一は、腐敗した肉です。毎日、不品行、汚れ、好色、敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみを十字架につけます。そうすると、いのちである愛、喜び、平安などの実があらわれてきます。第二は「わたし」という自我です。毎日、わたしを十字架につけるのです。これは自分のいのちを否定するということです。そうすると、いのちである御霊が進むべき道を示してくださいます。第三は「生まれつきの能力」です。毎日、自分の知恵、知識、才能、がんばり、真面目さを十字架につけます。そうすると神からの知恵や賜物、忍耐力が現れてきます。十字架には肉の働きを殺す力があります。パウロは「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」と言いました。でも、これは一回限りのことではなく、天国に行くまで、日々、そうすべきなのです。ある人たちは「自分は十字架によってきよめられた」と言います。またある人たちは「聖霊に満たされ、すばらしい賜物をいただいた」と言います。でも、肉が生きていることを忘れています。そのため、神の働きを途中で終えることになります。ですから、私たちは、日々自分の十字架を負う必要があるのです。そうすれば、復活の力である神の御霊が現れてくださるのです。また、十字架はしつこくやってくるトラウマや否定的な思いを消し去ることができます。どうぞ、自分でどうすることもできない恨み、失望、恐れ、不安も十字架につけてください。不思議に解放されます。十字架にはそういう力があります。また、十字架の直後には、必ず復活が伴うこともお忘れなく。十字架の力を再発見し、勝利の道を歩み続けたいと思います。