2016.7.31「~神様の一般恩恵~使徒の働き17章24-28節a」

<使徒の働き17章24-28節a>(新改訳)

17:24

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

17:25

また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

17:26

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

17:28

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 

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本日は、福音の伝道や宣教について、「神様の一般恩恵」から考えてみたいと思います。

 

使徒の働きの17章には、パウロがギリシャのアテネで伝道説教をした出来事が記されています。これは、パウロの3回に渡る伝道旅行のうちの、第2回目の時のことです。テサロニケのユダヤ人たちに迫害され、そこから逃れるために立ち寄ったのがアテネでした。アテネは古代世界の学芸の中心地でしたし、自由都市であり、有名な高等教育機関もありましたが、パウロの時代にはかなり斜陽化していました。

 

過去の遺産で生き延びているアテネでは、偶像崇拝が盛んであり、パウロはその様子を見て心に憤りを覚えていました。先ほどお読みした箇所は、パウロがそこで思いがけず「アレオパゴス」(「アゴラ」広場、市場を見下ろす丘の意)、評議会が行われていた場所で、伝道説教の機会を得たという記述です。

 

アテネでのパウロの伝道は、結果的には目覚ましい成果は得られませんでしたが、その説教から、私たちは大変多くのことを学ぶことができます。なぜなら私たちが住むこの日本は、アテネと同じく偶像に満ち溢れているからです。パウロは、他の神々とは違う、唯一の創造主である神様の「一般恩恵」について語り、聴衆を説得しました。

 

私たちも、この「神様の一般恩恵」を知り、神様がどのような御方かを深く理解したうえで、未だイエス様の救いを受けることができない人々のために、愛し仕えていく必要があります。

 

はじめに17章24-25節を見てみましょう。

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17:24

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

17:25

また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

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◆①神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方

 

パウロは、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりませんし、人の手によって仕えられる必要もない。」と語ります。当時アテネには神殿がたくさんあり、無数の神々の像が町のあらゆる所に置かれていました。しかし、そのような神殿にはまことの神はお住みにはならないし、人の手によって神々の像のような物を祀ることも、神に仕えることも、この万物を造られた神には必要のないことだと語りました。

 

私たちが住むこの日本も、アテネと同じです。私たちの周りには、神社や寺が無数にありますが、主なる神様は、そのようなところにはお住まいにならないし、偶像をいくら崇拝しても、まったく無駄であることが、ここから理解することができます。なぜなら、神様ご自身がすべての基であり、無から有を造られるお方であり、モーセに「『わたしはある』という者である。」(出3:14)と言われた、いのちの創造主なる神だからです。

 

そして神様は私たち人類に、いのちを与えてくださっただけではなく、「恩恵」を与えてくださっています。神様の恩恵(恩寵とも言います)には、「特別恩恵(恩寵)」と「一般恩恵(恩寵)」があります。

 

「特別恩恵」は、主イエスの十字架の贖いによって与えられる救いの道であり、永遠のいのちの約束、天国への希望です。それは、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れ、告白した者に与えられる特別な恩恵です。これは、神様からの一方的な恵みであり、信仰によって価なしに与えられるものです。私たちの努力によって得られるようなものではありません。

 

 神様は、その「特別恩恵」の他に、「一般恩恵」をも与えてくださっています。マタイの福音書の5章45節でイエス様は、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」と語られました。神様は、自然界の恵みをどの人にも等しく与えてくださっています。

 

 また他の「一般恩恵」としては、私たち人間は、創世記の1章25-26節に書かれているように、神の似姿に造られたということを忘れてはいけません。アダムとエバの罪によって、堕落してしまった人類ではありますが、神様の特質である、愛や良心、善意や正義の心を失ってはいません。信仰心も残っています。

 

そして重大な「一般恩恵」としては、憐れみ深い神様は、ただちに人類を滅ぼすことはなさらず、私たちが悔い改めることを期待して、忍耐をもって待ってくださっているということです。そして、イエス様の救いを受け入れることを望んでおられます。それゆえに、私たちクリスチャンが成すべきことは、ひとりでも多くの人が、神様の「特別恩恵」を得られるように祈り求め、イエス様の福音を伝えることです。

 

イエス様の福音を伝える伝道や宣教には様々な方法があります。私たちの信仰の大先輩たちは、真摯に祈り求めて、与えられた場所や方法でこれまでも伝道や宣教に取り組んでこられました。しかし、ほとんどの場合は私たち人間の思いとは別のところで、聖霊なる神様が働いてくださり、驚くべき方法で祝福されたということが多いのではないでしょうか。

 

そこで問われるのは、神様にどれだけ信頼しているかということです。神様の御計画は計り知れませんが、それでも私たちがしっかり心に留めておかなければならないことがあります。それは、「主なる神様がどのような御方か」ということです。まことの神を知らずに間違った信仰を持ち続けている人々や、キリスト教を否定する人々にも理解していただけるように、しっかりとした対話ができなければなりません。

 

そのためには、まことの神について明確に伝えることができる聖書の土台の他に、「相手の立場や文化も神様の一般恩恵によって成り立っているのだ」ということを大きな広い視点で理解し、ある程度までは受け入れるという、神様からの知恵も必要です。

 

パウロはアテネでの説教の冒頭にこのように言いました。

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17:22

そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。

17:23

私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

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パウロは、ユダヤ人たちに対して宣教する時には、ユダヤ人が精通している旧約聖書からのみことばを引用します。ここアテネでは、まず、アテネの人々に対して、「宗教心にあつい方々」だと切り出しました。この言葉はギリシャ語原語では、「<ギ>デイシダイモネス」 と言って、「迷信深い」とも訳せる言葉です。ですから、良い意味にも、軽蔑するような感じにも受け取れます。しかし、ここではパウロはアテネの人々の関心を引くために、良い意味で使ったと思われます。

 

そして、『知られない神に』と、道ばたの祭壇に刻まれた碑文を取り上げて、その『知られない神』を、唯一まことの神ついて述べ伝えるための導入としました。このようにパウロは相手の信じる神を頭ごなしに否定することはしないで、相手の文化を受け入れながらも、まことの神について宣べ伝えようとしました。

 

パウロは実のところは、17:16に書かれているように、アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じていました。そしてパウロのような熱い性格だと、「アレオパゴス」の評議会で語る機会が与えられたなら、まず、真っ先に厳しい言葉で偶像崇拝を拒絶しても不思議ではありません。

 

しかし、パウロは憤りを抑えて、第一コリントの9:19-20で、

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9:19

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」

9:20

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。

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と、パウロ自身が語った言葉の通りに、神様からの知恵をもって、教養の高いギリシャ人の文化を理解し、神様の一般恩恵という広い視点から、相手の立場や文化も受け入れ、そのうえで真理を語ろうとしました。

 

◆②神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 

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17:26

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

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私たち人間は、ひとりの人からはじまっています。神様の目から見れば、ユダヤ人も異邦人も区別はありません。私たちが、この時代に、この国に生まれ、この地に住んでいるのは、すべて神様がお定めになったことなのです。偶然ではなく、意味があってのことです。

 

それは、人間のすべての営みの根底に超越された神様が介入しておられることに私たちが気付くためです。神様の「一般恩恵」によって生かされている私たちに、唯一絶対の神を「求めさせるため」であり、「神様を探り求め、神を見いだす」ためです。それは、神様がすべての人に期待されていることなのです。

 

私たちクリスチャンは、この日本では人口の1%未満しか存在していません。しかし、偶像崇拝や祖先崇拝をする日本人の中にも、「一般恩恵」による、信仰心があります。神を畏れる心があります。だからパウロは、「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」と語ったのです。

 

求める者には、神様の方から近づいてくださいます。神様は、「一般恩恵」によって与えてくださっている信仰心を、偶像の神ではなく、真実まことの唯一の神御自身に向けるように望んでおられます。しかし、難しく考える必要はありません。みなさんの周りにおられる未信者の方には、このように伝えてください。

 

「神様は私たちに特別な恵みを与えるために、私たちに多くのことをお求めにはなりません。ただただ、幼子のように神様を慕い求め、空っぽの両手を広げて恵みを受け取れば良いのです。」と。大切なのは、難しい知識ではなく、神様を信頼して、イエス様の恵みに感謝して自分自身を明け渡す心です。

 

そして、イエス様の福音を伝える時に大切なのは、すべての営みの根底に唯一まことの神が介入しておられるという実感、それと神の愛とイエス・キリストの恵みです。

先ほどお話ししたマタイの福音書5章45節の前後でイエス様はこのように語られました。

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5:44

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

5:45

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

5:46

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

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イエス様は、自分が愛している者だけに神様の特別恩恵があればいいというお考えではありません。天の父なる神様は、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」御方ですから、私たちもどの人に対しても、敵や迫害する人であっても、愛するように、祈るようにと教えてくださっています。

 

神様がこんなにも忍耐をもって人類を滅ぼさずに待っていてくださっているのですから、 たとえイエス様を否定し、迫害するような人が近くにいたとしても、私たちはその人たちを否定するのではなく、受け入れて、愛し、救いに導かれるように祈り求め、福音を宣べ伝えなければなりません。

 

3日前に、土浦ゴスペルクワイヤーの初期のころのメンバーだった女性が亡くなりました。ご主人の転勤で大分に行かれ、高熱が出たために抗生剤の点滴を打ったところ、アナフィラキシーショックを起こしてしまい、そのまま亡くなりました。44歳でした。小学校2年生と幼稚園のお嬢さんがいらっしゃいます。彼女には、10数年、いろんな人がゴスペルを通して伝道してきましたが、信仰告白には至りませんでした。

 

聞くところによると、彼女の亡くなったお父さんはクリスチャンだったそうです。しかしお母さんは、アンチキリストだったそうで、彼女はお母さんに気を使って、告白をしなかったようです。彼女の身近にいたゴスペルディレクターの友人は、「伝道は日々真剣勝負だと、改めて実感したよ。」と、とても残念がっていました。

 

私たちは、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなければなりません。(Ⅱテモテ4:2)

 

◆③私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 

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17:28

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

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 この言葉は、実はパウロの言葉ではなく、クレテ人エピメニデスの詩の引用です。この詩は異教の神々を語ったものなので、それを唯一まことの神を伝えるために引用しても良いのかどうかはわかりませんが、ギリシャ人の気を引くためには良かったのかもしれません。

パウロは知識のある人だったので、アテネでの伝道説教で、このように果敢な挑戦をしています。しかし、私たちは気を付けなければなりません。パウロ自身が第一コリント8:1で語ったように、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」という言葉を忘れてはなりません。人を説得するために、知識は必要かもしれませんが、信仰の土台がしっかりしていなければ、その知識に押しつぶされることもあるのです。

 

ここでひとりの興味深い人物を紹介しようと思います。

 

不干斎ハビアン(1565年-1621年)という人です。この人は、豊臣秀吉の時代から、徳川幕府の二代目の将軍秀忠の時代まで生きた人です。ちょうど、NHK大河ドラマ「真田丸」の時代の人ですね。この人は、「神も仏も捨てた宗教者」として有名な日本人で、大変興味深い人です。様々な哲学者や神学者たちがこの人の研究をしています。

 

ハビアンはもともと禅宗の僧侶でしたが、1583年、高槻のキリシタン大名の高山右近のもとで、禅僧からキリシタンに改宗しました。秀吉の正室、北の政所の侍女であった母親と共に受洗したようです。1586年イエズス会の修道士となったハビアンは、1605年京都にて、キリスト教護教論書、『妙貞問答』を記しました。

 

この『妙貞問答』は、本当に気持ちいいくらい痛快に、仏教、儒教、神道を理路整然と批判した本で、いかにキリスト教が素晴らしいかを記した本です。登場人物は、妙秀という仏教徒の尼と、幽貞というキリシタンの尼の二人で、問答形式で妙秀の質問に幽貞が答えるという形です。

 

ところが、ハビアンは突如として転んでしまい、キリスト教を棄てて修道女と駆け落ちをしました。彼の心の内にいったい何がおこったのかは現代となっては解りませんが、彼は棄教しただけではなく、長崎にて、キリシタン弾圧に協力をしました。そして、『妙貞問答』とは全く真逆の、キリスト教を痛烈に批判している、『破堤宇子』という著作を刊行し、それを将軍秀忠に献上しました。

 

『妙貞問答』も『破堤宇子』も、現代の言葉に訳されて刊行されていますし、ネットにもチラホラ上がっていますので、興味のある方は読んでみればよいかと思いますが、私の考えでは、ハビアンは知識に押しつぶされてしまった人ではないかと思います。そして、ハビアンのキリスト教信仰は実は本物ではなかったのではないかとも思うのです。

 

ハビアンは、すべての営みの根底に唯一まことの神が介入しておられるという実感と、神の愛とイエス・キリストの恵みを知ることができなかったのではないでしょうか。パウロには、揺るがない信仰が土台にありました。ですから、異教の神々を語ったことばを引用しても、しっかりとイエス・キリストの福音を宣べ伝えることができました。

 

確かにすべての息のある者は、神様の大きな御手の中に生き、動き、存在しています。神様と共に生きることこそ、私たち人間の存在する意義なのです。神様は愛をもってこの地上のすべての人が主に立ち返ることを望んでおられます。イエス様がその神様の愛を示してくださいました。それはすべての人に注がれている恩恵です。

 

決して変わることのない、見捨てることのない、永遠の愛なのです。その愛を受け取り、感謝し、愛する人々に、すべての人々に、神の知恵をもって、イエス様の福音を語り伝えていきましょう。