2019.7.21「よみ ルカ16:19-28」

 人は死んだらどうなるのでしょう?生物学者は「人は死んだら無になる。なぜなら、脳が死ぬと意識もなくなるからだ」と言うでしょう。しかし、世界中どの国、どの民族においても、死後の世界を信じています。死後の世界を信じていないのは、僅かな唯物論者たちだけです。そういう人たちも、お葬儀のときは何かの宗教にお世話になります。日本でも、人が亡くなったら「他界」したと言います。どこかで魂が生きているという考えがあるからでしょう。きょうは、死後の世界を、聖書からシェオール、ハデス、パラダイスと3つのポイントでお話しします。

 

1.シェオール

 

 旧約聖書では「よみ」をヘブライ語で「シェオール(abyss深い淵)」と言います。最初にこの言葉が出てくるのが、創世記37章です。父ヤコブは息子たちから、ヨセフが獣によって裂き殺されたと告げられました。そのときヤコブは「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」(創世記37:35)と言いました。また、よみに下った魂には希望がないことも記されています。ヨブ記7:9「雲が消え去ってしまうように、よみに下る者は、もう上って来ないでしょう。」旧約聖書では善人も悪人も死んだらよみに下ると考えられています。共通して言えるのは、人が死んだ後は、魂としてよみで生きているということです。預言者サムエルは年老いて死にました。ところが、サウル王がなんとかサムエルに相談したくて、変装して霊媒師のところへ行きました。サウルは彼女に「サムエルを呼び出してもらいたい」と願いました。彼女は「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます」と言いました。サムエルはサウルに「なぜ、私を呼び出して、私を煩わせるのか」と叱った後、このように言いました。「主は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私と一緒になろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される」。サウル王はそのことばを聞いて、驚き、倒れて地上に棒のようになりました(Ⅰサムエル28:20)。「私と一緒になろう」とは、サウルが敵に殺されたあと、よみでサムエルと一緒になるということです。

 伝道者の書では「生きているうちに楽しみなさい。よみに行ったら何もないから」と言っています。伝道者9:9-10 「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」伝道者の書は、「生きているうちにいっぱい楽しめ。何でもやってみなさい。でも、空しいよ」と中途半端な言い方をしています。でも、「死んだら終わりだ」とは書かれていません。伝道者11:9「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」死後にさばきがあると告げています。私たちはレストランでメニューを見て、何でも注文できます。ステーキでも、山海珍味、好きなものを腹いっぱい食べられます。でも、最後にレジで清算しなければなりません。死後にさばきを受けると思うとぞっとします。

 人々はよみから助けを求めています。詩篇16:10「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」このみことばは、ペテロがイエス・キリストのよみがえりのときに引用しました。ホセヤ13:14「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」パウロは、このみことばを引用し、世の終わりにキリスト者が復活すると預言しています。本来、よみには全く希望がないのですが、何かがきっと起こるということです。もし、よみの世界をひっくり返すお方がおられたなら何と幸いでしょう。旧約聖書は、死の問題を解決してくれるお方を待っています。よみ、シェオールの大筋の理解です。

 

2.ハデス

 

 ルカ16章で、「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目をあげると」と書いています。英語の聖書にはhell地獄と訳していますが、正確には地獄でありません。ギリシャ語の「ハデス」は、ギリシャの「黄泉の神」から来ています。ハデスは死人の行くところであり、ヘブライ語のシェオールにあたります。何度も申し上げますが、よみは地獄ではありません。死者の魂が一定期間いるところです。新約聖書においては、死んだ魂が後によみがえり、神の前でさばきを受けると書いてあります。ヨハネ5:28,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」さばきというは、地獄のことであります。現時点において、地獄はまだ来ていません。世の終わり、キリストが来られた後に現れます。イエス様はよみがどういうところなのか、ルカ16章で教えています。ある人は「これはたとえ話だろう」と言いますが、あまりにもリアルです。恐らく、イエス様はよみに行かれたことがあるのでしょう。臨死体験をした人が、「死後の世界はある」と言っていますが、まずは聖書から学びたいと思います。このルカ福音書16章を読みますと、人は死後、よみ(ハデス)に下っても、意識や感覚があるということが分かります。

 唯物論者たちは、「死はすべての意識が停止することだ」と言います。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。人はからだを殺す力を持っていますが、たましいを殺す力を持っていません。神を信じていない人たちは「意識はすべて、肉体の脳の中にあって、死ぬと止まる」と主張します。しかし、聖書の啓示から、「脳が死んでも、意識は残っているので脳が人格ではない」ということが分かります。この金持ちは肉体的に死んでから、ハデスに下りました。彼の肉体的な目はすでにありません。しかし、アブラハムのふところにいるラザロが見えました。両者の間には越えられない淵がありましたが、はるかかなたにいるアブラハムとラザロが見えました。彼がアブラハムとラザロを識別できたということは、生前の記憶があったということです。彼は熱いという感覚もあり、「炎の中で、苦しくてたまりません」と叫んでいます。「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください」と願っていますので、渇きや欲求もあります。最後に、「ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と家族のことを心配しています。彼は死にましたが、魂はハデスにおいてなおも生きています。その魂には、記憶、肉体のような五感、意志、願い、家族への思慕が備わっています。このところからも、私たちの本体は肉体ではなく、魂であることがわかります。肉体が死んでも、魂はハデスで生き続けているということです。

 そもそも死というのは何なのでしょう?ヤコブ2:26「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」このところから、聖書的に死は、たましいと肉体が分離することだと分かります。創世記35章には、ラケルが難産のため死ぬときの様子が記されています。「彼女が死に臨み、そのたましいが離れさろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名付けた」(創世記35:18)。このところからも、死というのは、たましいが肉体から離れることであると分かります。医者や生物学者は、鼓動の停止や脳死など、生体反応がない場合、死亡を確認するでしょう。彼らは肉体的な死を確認できても、魂のことは感知できません。なぜなら、魂は目に見えないし、医療機器でも測定できないからです。医学的には証明できませんが、臨死体験をした人は、自分のからだがベッドに横たわっているのが見えるそうです。医者が蘇生を諦めて立ち去り、放置された自分のからだを天井から見たという人がたくさんいます。それで、自分の肉体に入ったときに生き返ったということです。パウロはⅡコリント5章で、肉体を幕屋(テント)にたとえています。そして、自分自身が幕屋の中に住んでいるということです。そして、死というのは、その幕屋を脱いで、主のもとに行くことだと言っています。つまり、私たちの本体は肉体ではなく、魂だということです。肉体は魂の入れ物に過ぎないということです。

 ルカ16章にもどりますが、ハデスは地獄ではありませんが、地獄の一丁目みたいなところです。彼は火炎の中で苦しんでいます。英語の聖書にはtormentと訳しています。tormentは、苦痛とか苦悩と言う意味です。しかし、古くは拷問と訳されていました。ギリシャ語はバサノイスになっており、「拷問による審問、拷問の苦痛、責苦」という意味です。彼はまだ地獄には落ちていませんが、「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。指先一滴の水で良いから舌先を冷やしてほしい」と願っています。また、「兄弟たちがこの苦しみの場所に来ないように」と求めています。つまり、人は死んだら無になるのではなく、ハデスにおいて拷問のような苦しみがあるということです。仏教にも同じような思想があります。日本では夏のお盆のとき、死者をお迎えします。お盆ということばは略称であり、正式名称を「うらぼんえ」と言うそうです。古代インド語(梵語)の「ウランバナ」から来たもので、倒懸(とうけん)、逆さ吊りの苦しみと言う意味があります。生前の行いが悪いため「餓鬼道」や「地獄道」に落ちた人の苦しみを救うため、その人に代わり功徳を積み、その功徳を他の衆生(しゅじょう:生きとし生けるもの)に施す供養で、「逆さに吊るされるような苦しみを除く」という意味を持つ行事となっています。仏教では人は死んだら、地獄のようなところで修行しており、お盆のとき数日間だけ、お休みをいただくという考えがあります。本来、こういう考えは釈迦の教えにはありませんでした。おそらく、キリスト教の教えから来たものではないかと思います。それにしても、希望がありません。

 でも、「何故ラザロはアブラハムのふところで安らぎ、金持ちはハデスで苦しんでいるのか?」ということです。その主な原因は、金持ちは神さまのことに全く無関心であったということです。また、貧乏人ラザロが門前で施しを求めても、気にも留めませんでした。金持ちは「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました」(ルカ16:19)。紫の衣や細布は高貴な人が着るものです。「毎日ぜいたくに遊び暮らす」ということから、神さまを全く礼拝していなかったことを暗示しています。おそらくラザロは貧しい中でも、神さまを礼拝していたと思われます。なぜなら、「ラザロ」と名前が憶えられているからです。彼が死んだときには、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。一方、金持ちは名前が記されていません。それは、神さまとの関係がなかったということです。彼が死んだとき、さぞ盛大な葬儀がなされたことでしょう。ところが、聖書には「死んで葬られた」と一言だけです。彼が目をあけると熱い炎の中にいました。何故、彼がそんなところに行ったのでしょう?それは、神さまに対して無関心であったからです。日本人は「宗教には関わらない」という人がいます。その人は過去に嫌な経験があったのかもしれません。積極的に福音を信じない人もいますが、この人たちの罪は無関心です。私は車で一方通行のところに入って、切符を切られたことが2,3回あります。そのとき私は「え?看板あったの?知らなかったよ」と言い訳しました。でも、許してはもらえませんでした。福音は2000年前から宣べ伝えられているのです。言い訳はできません。

 同じルカ16章の前半には、「不正な管理人のたとえ」が書かれています。主人は抜け目なくやった不正な管理人をほめています。ルカ16:9「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」この金持ちは多くの財産やお金を持っていました。しかし、その富を用いて神さまと関係を持つことをしませんでした。だから、永遠の住まいには迎えられなかったのです。私たちは生きているうち、キリストによって神さまと関係(コネクション)を持ちましょう。キリストによって罪の赦しをいただき、神さまと和解しましょう。そうすれば、この肉体が死んでも、行くところがちゃんとあります。アーメン。

 

3.パラダイス

 

 ルカ16章から、ハデスには上と下の階層があることがわかります。金持ちはハデスにおりました。しかし、彼が目をあげるとはるかかなたにアブラハムとラザロがいました。彼は「ラザロをよこしてください」とアブラハムに願いました。するとアブラハムは「私たちたちとおまえたちとの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」(ルカ16:26)と言いました。つまり、ハデスの上の階と下の階は、大きな淵があって行き来できないということです。旧約聖書のダビデなどの多くの善人は、同じハデスでも、上の階にいるのではないかと思います。また、悪人はハデスの下の階にいるのでしょう。しかも、ハデスにはさらに深いところ「pit穴」があります。イザヤ14:15「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」これは、神に逆らい、堕落した御使いたちのことです。ひょっとしたら、悪霊たちがよみの魂を苦しめているかもしれません。イエス様は死んでよみに下られました。イエス様は死者の魂がいるところまで下ったということは、エペソ人への手紙、Ⅰペテロにも書かれています。ある人たちは、「これはセカンド・チャンスであり、イエス様は死んだ人に対して、もう一度、福音を語るためによみに行かれたのだ」と主張します。私はそれを否定するつもりはありませんが、本当の目的は別にあると信じます。

 では、エペソ人への手紙を引用したいと思います。エペソ4:8-10「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──」。文脈的にはパウロが、キリストの賜物を教会の指導者たちに与えたということを述べています。しかし、詩篇68篇のみことばをイエス・キリストが成就したということも述べています。つまりこれは、「イエス様がよみにくだり、復活するとき、よみの一部を引き上げられたのではないか」ということです。多くの捕虜というのが、よみの上部にいた人たちのことでしょう。そして、そこをパラダイスにしたのではないでしょうか。パラダイスというのは、「楽園」という意味ですが、義人のたましいが復活のときまで滞在する場所であります。イエス様は十字架の片方の犯罪人に「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ23:43)と言われました。使徒パウロは「第三の天、パラダイスに引き上げられた」(Ⅱコリント12:2-4)と言っています。つまりは、イエス・キリストが復活し、昇天なされてから、よみに大変革がもたらされたということです。つまり、旧約聖書の義人たち、そしてイエス様を信じて死んだ人は、よみではなく、パラダイスに行くということです。私は天国ということばはあいまいで使いたくありません。キリスト者は死んだら、パラダイスに行き、よみがえって御国(千年王国)に入るのです。そして、悪人とキリストを信じなかった不信者は金持ちと同じよみに下るのです。そこは地獄ではありませんが、火炎が足元まで迫っている苦しみの場所です。その人たちは御国(千年王国)の後によみがえり、神の前に立ち、最後の審判を受けるのです。前者を第一の復活と言い、後者を第二の復活と言います。第二の復活は、希望はほとんどありません。自分の義で神さまの前に立つことのできる人が果たしているでしょうか?

 ある人たちはセカンド・チャンスを期待しています。「福音を聞かないで死んだ魂が、もう一度、救われるチャンスがあるのではないか」と言います。私はゼロだとは思いませんが、よみに行った魂の願いだけは知ることができます。彼はアブラハムにこのように願いました。ルカ16:27,28「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」ある人たちは、「私の父や母がよみにいるなら、私だけ信じて天国に行くわけにはいきません。私も父や母がいるところに行きます。だから信じません」と言います。しかし、彼らは子どもや孫たちが同じ場所に来ないように願っているのです。アブラハムは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と言いました。実際、ラザロがよみがえりました。しかし、ユダヤ人は信じないばかりか、ラザロも殺そうと相談しました(ヨハネ12:10)。ゴードン・リンゼイという人が『ハデス』という本でこのように述べています。ハデスにおける金持ちの体験についてキリストが語っておられることは、とても厳粛で重要なことなのです。人間はだれでも、「その場所(ハデス)に行かない」という決心をもし今までしたことがなければすべきなのです。なぜなら、人間の魂は死んでからどこかに行かなければならないからです。そして、その場所がハデスとならないようにすることが、最も大切です。しかし人間はだれも、自分の力で自分を救うことはできません。人間はキリストのもとに行かねばなりません。キリストは、ご自身のもとに来る人をだれでも受け入れてくださる、と約束しておられます。なぜならキリストがこう言われたからです。ヨハネ6:37 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

 天国は死んでから行くところではありません。天国は神の国として、ここに来ています。神の国とは神の支配であり、キリストを信じたら直ちに入ることができます。今、地上で信じなければ、死んでからでは不可能です。救いは生命保険と似ているところがあります。生命保険は生きているうちに入らなければなりません。ある人は、「死ぬ直前に信じるから」と先延ばしにしています。でも、人は死ぬ直前になると、死を恐れて、信仰のことなど考えられないそうです。イエス様は「光あるうちに」とおっしゃいました。私は25歳でイエス様を信じて救われました。あの時から永遠のいのちを持っています。余生ということばがありますが、25歳以降は余生を送っています。なぜなら、地上の人生よりも、向こうの人生の方がはるかに長いからです。矛盾しているようですが、永遠の問題が解決したなら、短い地上の人生を楽しく、慈しみを覚えながら生きることができます。クリスチャンとは体半分を永遠の御国に入れながら生きている存在です。