2016.12.11「ありえないこと ルカ1:5-13」

 きょうは二人の人物が登場します。最初はザカリヤです。彼はバプテスマのヨハネの父です。バプテスマのヨハネは奇蹟的に誕生しました。なぜなら、ザカリヤの妻は不妊の女性であり、しかも高齢だったからです。もう一人はマリヤです。彼女はイエス様の母です。イエス様も奇蹟的に誕生しました。なぜなら、マリヤは処女であり結婚したことがなかったからです。両者ともクリスマスに関係がある人物ですが、一人は信仰がなくて、もう一人は信仰がありました。神さまは私たちにありえないこと、つまり奇跡を起こそうとしておられます。

1.ザカリヤの不信仰

 バプテスマのヨハネの誕生は奇跡的でありました。ルカ1:5-7「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」このところに、「ザカリヤの妻エリザベツは不妊の女だった」と書かれています。しかも、二人ともかなり年をとっていたようであります。イスラエルでは「不妊の女性は神さまの祝福がないからだ」と考えられていました。ところが、聖書では不妊の女性からすばらしい人物が誕生したという記述はたくさんあります。たとえば、イサクを生んだサラもそうでした。ヨセフを生んだリベカもそうでした。サムソンを生んだハンナもそうでした。どれもこれも、神さまが奇跡を起こしてくださった結果であります。エリザベツは不妊であり、さらに高齢でありました。ある時、ザカリヤは一人で神殿の中に入り奉仕をしていました。真っ暗な神殿であかりを灯し、香をたいていました。その時です。主の使い、天使が彼の前に突然現れました。

 ルカ1:13-17「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」驚くべきことに、天使は不妊の妻エリサベツが男の子を産むと告げました。そればかりではありません。名前がヨハネと決まっており、どういう一生を過ごすか、どのような神さまの計画があるかまで告げました。神さまの計画を一番良く言い表すことばはdivine destinyです。神さまの運命、神意であります。きょう来られている方々ひとり一人にも、divine destiny神意があることを覚えていただきたいと思います。バプテスマのヨハネのdivine destinyはイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせること。また、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するということでした。

 そのようなすばらしい預言をザカリヤは天使から聞きました。彼はどうしたでしょう?ルカ1:18 「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」ザカリヤは簡単に言うと「そんなのありえない」と疑ったのです。そのため、神さまのさばきが下りました。ルカ1:19-20「御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』ザカリヤはバプテスマのヨハネが生まれるまで、差別用語で申し訳ありませんが、おし(唖)になりました。ザカリヤは疑いましたが、それでもバプテスマのヨハネが二人を通して生まれるという約束は変わりませんでした。残念ながら、ザカリヤは10か月ものが言えず、話せなくなりました。もし彼が、口がきけたなら、天使から言われたことを吹聴して、それこそバプテスマのヨハネが誕生しなくなる恐れも出てきます。不信仰に対するさばきではありましたが、一定の期間だったということです。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?ありえないことが起こるようなとき、私たちもザカリヤのように疑うのではないでしょうか?ザカリヤは2つの理由で、天使の預言を否定しました。第一は妻エリザベツが不妊の女だったということです。彼女も「私は不妊だ」と言うし、お医者さんも不妊だと言うし、周りの人々もそうだと言ったのかもしれません。彼女は「私は不妊で一生過ごすのです」というレッテルを貼っていました。それも1つの信仰であります。第二は両者とも高齢であったということです。ザカリヤは「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と断言しています。アブラハムとサラのことを忘れたのでしょうか?それよりも、知識と経験から「年なので子どもは無理」という考えが固まっていたのでしょう。それも1つの信仰であります。ここで注目すべきことは、天使のことばです。天使は「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と言いました。このところから分かることは、ザカリヤは子どもが生まれるように祈っていたということです。何年か何十年間か分かりませんが、「主よ、どうか子どもが与えられますように」と祈っていたのです。ですから、ザカリヤは全く不信仰だったという訳ではありません。ある時まで、信じていたのですが、「妻は不妊であり、自分たちももう年だ」と分かった時から、祈りをずっとやめていたということです。神さまはザカリヤの祈りをちゃんと受け止めていました。神さまは「今がそのときだ」と天使を遣わしたのに、肝心のザカリヤはその願いを捨てていたのです。

 このところから私たちは2つのことを理解しなければなりません。第一は、私たちの祈りはどんな祈りであっても神さまのところに届いているということです。第二は、神さまの時があり、そのときも信じて祈っているかということです。たとえて言うと、品物をくださいと注文しました。ところが長い間、待っていても来ません。ある時、宅配人が品物を届けにきました。でも、不在だったので、持って帰って行きました。ザカリヤもそういう状態でした。神さまは真実なお方なのですが、私たちの方が不真実だということです。そこにはいろんな理由があるかもしれません。でも、せっかく祈っていたのに、途中でやめていたという事実がそこにはあります。ありえないことが起こるかもしれません。しかし、それはかなり前ではありますが、自分が祈っていたことなのです。私たちの方はとっくに諦めて祈りをやめていました。でも、神さまの方は覚えておられ、時が満ちた時、叶えてあげようとされます。イエス様はルカ18章で、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われました。

2.マリヤの信仰

 ザカリヤへの告知の6か月後、御使いガブリエルは処女マリヤに現れました。ルカ1:28-33御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」天使はザカリヤと同じようなことをマリヤに告げています。まず、生まれる子どもの名前がイエスと決まっていました。では、その子どものdivine destiny神意は何でしょう?その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」バプテスマのヨハネの神意は、イスラエルの子らを主に立ち返らせることでした。そして、イエス様の神意は、彼が王となり、その国を永遠に治めるということでした。いと高き子と呼ばれるという意味は、「神の子」でありメシヤであるということです。天使の告知から、イエス様は人間として生まれるけれども、本当はいと高き神の子であり、やがて永遠の御国を治める王になることが分かります。

 この天使のことばに対してマリヤはどう答えたでしょうか?ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」一見、ザカリヤと似ていますが、マリヤは違います。ザカリヤは「エリザベツが不妊の女で、自分たちも年なので不可能です」と疑いました。しかし、マリヤはその理由が知りたくて、単純に天使からさらなる情報を求めているのです。マリヤは「自分はまだ結婚していないのに、どうしてそのようなことになりえましょう」と聞いています。マリヤの質問に対して、天使がこのように答えました。ルカ1:35-37「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」天使は聖霊によってその子は生まれるのであり、それは神の超自然的な力であると言いました。さらに、不妊の女と言われていたエリザベツも「あの年になって男の子を宿しています」と告げました。天使はマリヤに信仰を持たせるために、エリザベツの奇蹟的な懐妊を知らせました。そして天使はザカリヤの時のように、怒ってさばいていません。ただ、理由を補足しただけです。それに対して、マリヤはどのように応答したのでしょうか?

 ルカ1:38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」すごい、もう十分ですとばかり、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自分を明け渡しました。ザカリヤは「そんなことありえないでしょう」と疑いました。しかし、マリヤは「たとえありえないことでも、この身になりますように」と信じました。私たちは一言で「信じる」と言いますが、その背後にはもっと深い要素が含まれています。まず、マリヤはザカリヤのように前から「メシヤを生むことのできる母にしてください」とは祈っていませんでした。それよりも、「婚約中のヨセフと早く結ばれたい」と願っていたことでしょう。ところが、婚約中に妊娠したならどうなるでしょう?ヨセフが「ああ、聖霊によって身ごもったのですね」と言うでしょうか?また、ユダヤでは婚約中に他の男性の子どもを産むということは姦淫であり、石打ちの刑で殺されました。現代では、そういうことがあるかもしれませんが、当時は十戒を破った罪で処罰されました。マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。しかし、頭の中ではいろんなことがよぎったのではないかと思います。でも、そのようなものを全部、捨てて、自分を主のためにささげたのです。つまり、信仰はことばだけではなく、全生活、全人生がかかっているということです。そして、ある時は多大な犠牲、支払うべき代価も伴うんだとういことです。でも、マリヤはそのようなマイナス要素を全部蹴飛ばして、メシヤの母になることを選びました。

 マリヤは、メシヤの母になることがどんなにすばらしいことか自ら歌っています。ルカ1:46-48「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」マリヤは自分をどのように見ていたのでしょうか?自らを「卑しいはしため」と呼んでいます。また、御使いガブリエルに対しても「私は主のはしためです」と言いました。「はしため」とは何でしょう?ある辞書には「召使いの女、はした者、下女」とありました。しかし、当時は、女性が自分をへりくだって言う時に使っていたようです。はしための男性版は、「しもべ」です。モーセやパウロも自らを主のしもべと言いました。ですから、これを差別用語と片付けるのではなく、神さまの前に自分を差し出す時の心の態度だということでしょう。もちろん、私たちは神の友であり、王子であり、王女です。でも、神さまから何か使命を賜ったとき、「私は主のしもべです」「私は主のはしためです」という態度が重要なのではないかと思います。そこに主である神さまへの全幅の信頼と、献身と、信仰があるからです。現代は、献身ということばも死語になりつつあります。献身的などというと、とっても暗いイメージがあります。でも、神さまへの献身は、特権であり、報いがあり、とても喜ばしいことです。だから、マリヤは「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と歌ったのです。ローマ・カトリックはマリヤを礼拝の対象にまで高め過ぎました。そういう極端は間違っていますが、私たちはマリヤの献身と信仰を学ぶべきではないかと思います。

3.ありえないこと

 ありえないこととは、私たちの常識や経験、科学や神学を越えることがらであります。聖書にはこのようにたくさんのありえないこと、奇跡が記されています。ところが、現代の教会やクリスチャンがそれらの奇跡を信じているかというとそうではないということを気づかなければなりません。まず、第一に現代の教会やクリスチャンは天使の存在を信じてはいますが、当時のように活躍はしていないと思っています。キューピトのように可愛らしくて、おとぎ話に出てくるような存在だと思っている人もいます。しかし、このテキストに出てくる御使いガブリエルは天使長の一人で、聖書では大事な知らせを伝えるときに出てきます。天使のギリシャ語はアンゲロスですが、「知らせを持っている」「知らせる」という言葉から来ています。現代においても、天使が私たちに何かを知らせて導いてくれる時があるかもしれません。第二は、両者とも奇跡的な誕生です。バプテスマのヨハネは、不妊の女性と高齢の男性から生まれました。イエス様は処女マリヤから生まれました。ザカリヤは「ありえないこと」と疑いました。一方、マリヤは説明を求めた後、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。マリヤの態度ことが、ありえない奇跡を受け止める姿であり、信仰です。神さまは私たちに理性とか常識を与えて、これを用いるように願っています。しかし、自然を越える超自然的な出来事に対しても心を開くように求めておられるのではないでしょうか?第三は、divine destiny、神意です。神さまは両者が生まれる前から、名前を決めており、さらにどのように一生を過ごすべきか、何をやり遂げるべきかまで計画しておられます。計画というよりは神さまが定めたdivine destiny神意であります。私たちの場合は、名前は両親が決めますが、その生き方はどうでしょう?両親の願いや本人の願いもあるでしょう。でも、その根底に神さまが定めたdivine destiny神意があるとしたらどうでしょう?やはり、私たちは心を開いて、神さまに求めるべきではないでしょうか?

 最後に私たちはマリヤのようなありえないことに対する心の態度が必要です。ルカ1:29「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」さらに、ルカ2:19「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」さらに、ルカ2:51「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」これらに共通することばは、「じっくり考える」「よく考える」ということです。マリヤはありえないことに対して、何も考えないで飛び込んだわけではありません。それは本当なのか、信じるに値するものなのか、じっくり考えた結果だったということです。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える。」という格言があるようです。人によって慎重な人と、とにかくやってみる人がいるかもしれません。でも、神さまの奇蹟、ありえないことを期待することも必要です。ザカリヤのように私たちの祈った祈りは、神さまの前に届いているのです。ところが、現実の様々な問題や障害によって、「無理だな」と取り下げてしまっているかもしれません。神さまはありえないことを起こしてくださる力ある神さまではないでしょうか?結果は、願っていたものとは違うものであるかもしれません。でも、父なる神さまは、最善なものを子どもである私たちに与えたいと願っているのではないでしょうか?イザヤ55:9-11「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」アーメン。

 ジョエル・オスティーンの妹のリサさんは、何年間も辛い不妊治療を受けました。結婚前、教会の事務所で働いていたとき、牧師である父宛ての小包が届きました。開けた瞬間、爆発し大きな怪我を負いました。その事件はテキサスのヒューストン中に知れ渡りました。その時、腹部を痛めたことがありました。お医者さんは、その時の怪我が原因ではないかと言いました。もう、子どもを授かるのを諦めていたとき、見本のベビー・オムツが送られてきました。ご主人が開けると可愛いオムツが2つ入っているではありませんか。ご主人はパッケージに「私たちの双子のために12月17日」と書きました。それまで、二人は養子についても祈っていました。数か月後、リサさんの友人から突然、電話がありました。その人はある講演で一緒に話したことのある姉妹で、マーシー(あわれみ)のミニストリーをしていました。彼女は「普通はこういうことはしないけど、ぜひあなたに知らせなくては」と思って電話したそうです。17歳の女性が双子の赤ちゃんを宿しているけど、自分では育てられないということでした。養子先を願っているけれど、1つだけ条件があり、身内に双子がいるこことでした。なんとリサさんのご主人は双子だったそうです。二人は、この間の2つのオムツと言い、身内に双子という条件と言い、これは神さまからの贈り物に違いないと思ったそうです。早速、かわいい女の子の双子が与えられました。自分たちの祈りとは違ったけれど、祈りが答えられました。私たちは祈りをやめるべきではありません。神さまが聞いていて下さるからです。神さまからのありえないことを受け取りましょう。