2016.12.18「いのちの光 ヨハネ1:1-14」

 初めは、このタイトルを「やみvs.光」としましたが、ゲームみたいな感じがしてやめました。なぜなら、やみと光が対等なイメージがあるからです。聖書は「やみはこれに打ち方なかった」とはっきり言っています。これはゲームとか空想でなく、現実であるということです。ところで、クリスマスは、イエス様がこの地上で誕生したことをお祝する日であります。ところが、ヨハネ1章では、イエス様がこの地上に来られる前は、どんなお方で、何をされていたかを記しています。「降誕」は、「降りて誕生する」と書きますが、イエス様はその前にどこにおられたのでしょうか?

1.いのちの光

 ヨハネの書き出しにはイエス・キリストがこの地上に来られる以前のことが記されています。1:1-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この地上に来られる前、イエス様は何と呼ばれていたのでしょうか?「ことば」と呼ばれました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、「ロゴス」と呼ばれています。直接的には、「初めにロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」となります。さらに、この方、ロゴスによってすべてのものが造られたと書いてあります。このところには神さましか持つことのできない特性が2つ記されています。第一は初めからおられた方、永遠性あるいは先在性です。第二はすべてのものを造られた創造主であるということです。はっきりヨハネは「ことばは神であった」と書いています。14節に何と書いてあるでしょうか?「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」アーメン。ことばが人になったお方は、神のひとり子であり、イエス・キリストであります。聖書をそのまま読むならば、イエス・キリストは永遠から神と共におられて、すべてのものを造られた神さまであると言うことが分かります。キリスト教の異端の人たちが、何と言おうと、「ことばは神であった」と書かれています。ただし、この神は、人となられた神の子イエス・キリストだということです。

 さらにヨハネはロゴスなるイエス・キリストがどのようなことをされたのか明記しています。ヨハネ1:4「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」このところに、「いのち」ということばが2回出てきます。いったいどのようないのちなのでしょうか?英国のイングリッシュ・バイブルというのがあります。All that came to be was alive with his life, and that life was the light of men.直訳しますと、「すべてのものが彼のいのちによって生かされた。そして、そのいのちは人間の光であった」ということです。このところに「世」ということばが何度も出てきます。ヨハネ3章に「神さまは世を愛された」と書かれています。私たちは勘違いしていますが、この世に生きているのは人間だけではありません。創世記9章には、洪水の後、神さまとノアが契約を結んだことが記されています。「わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出す」(創世記9:15)とありますように、神さまは人間とだけではなく、すべて肉なる生き物と契約を結ばれました。つまり、聖書で「世」と言ったとき、人間だけではなく、海や空、陸の動物も含まれているということです。創世記1を見て分かりますが、動植物はことばによって造られ、いのちが与えられました。そして、人間は神さまの手で造られ、そして鼻から息を入れられました。人間には動物と違って、肉体的な命だけではなく、霊的な命が与えられています。

 さらに9-10節を見てみましょう。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」英国のイングリッシュ・バイブルをもう一度、引用させていただきます。He was in the world; but the world, though it owed its being to him, did not recognize him.直訳すると「世は彼に存在を負っているのに、彼を知らなかった」と書いています。さきほど、すべての生き物にいのちを与ええたのはいのちであるロゴスであると申し上げました。言い換えるといのちであられるキリストが人間に命を与えたのです。そういう意味では、人間の命はキリストに負っているということです。言い換えると、世話になっている、恩恵を被っているということです。ところがこの世の人たちの多くは進化論を信じています。彼らは生物は自然に発生したんだと言います。何十億年も前に原始のスープからアミノ酸が偶然に絡まって、生物が誕生したと言います。それがだんだん進化して動物が誕生し、さらに人間になったと言うのです。彼らは神さまの創造ではなく、偶然に生物が誕生し、偶然にそれが人間に進化したのだと言います。でも、ヨハネは、イエス・キリストはすべての生物にいのちを与える、いのちそのものだと言っています。そして、「そのいのちは人間の光であった」と述べています。どうでしょう?あなたは、神がいなくて、偶然に自然にできた人間として信じているでしょうか?それとも神さまが手造りし、キリストを通して命を与えた人間として信じているでしょうか?人間はいくらがんばっても生命を作り出すことはできません。生命を作られたのは創造主なる神さまです。さらに、神の被造物の冠である人間には霊が与えられ、その人間を照らすまことの光はイエス・キリストであります。私たちはまことの光であるキリストによって照らされてはじめて、自分がだれであるのか本当の自分が分かるのです。

イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光、いのちの光です」。讃美歌にありますが、「低きも高きも」です。上流の人も下流の人もです。生まれつき不遇な人も、生まれつき恵まれた人もです。確かにこの世は平等ではありません。しかし、神さまはどんな人にも救いを与える、まことの光、いのちの光です。不遇でどん底のような人生の人こそ、高く引き上げられ、豊かな恵みを受けられるのです。そういう意味で神さまは平等です。この世で報われない人には、御国の報いをもって飽かせて下さるお方です。

2.やみの支配

 ヨハネ1:5「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」光はロゴスですが、「やみ」とはだれのことなのでしょうか?また、5節の出来事はいつのことなのでしょうか?このところは「ことばが人となる」前のことです。おそらく、このことは私たち人間が造られる前のことではないかと思います。ところで、ヨハネ1章1節の書き出しは「初めに、ことばがあった」でした。「初めに」In the beginningどこかと似ていないでしょうか?創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」同じ書き出しです。しかし、その後の創世記1章2節が問題です。少し前の訳ですが、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と書いてあります。地というのは地球のことであります。神さまが1節で、天と地を創造したのに、2節では「やみが大いなる水の上にあり」と書いてあります。1節と2節の間に何かあったのではないでしょうか?これは1つの説であり、決定的ではありません。ある人たちは、1節と2節の間に膨大な時間があり、この間にサタンが堕落したのではないかと言います。『失楽園』を書いたジョン・ミルトンは、アダムとエバが造られる前に、サタンがどのように堕落したのか書いています。聖書にはそのことを示唆する文章が少なくとも2箇所あります。イザヤ書14章とエゼキエル書28章です。サタンは天使長の一人で美の極みであったと記されています。彼は高ぶって神のようになりたいと思いました。そのとき天使の3分の一を味方にして、神と戦いました。ところが神に敗れて、天から突き落とされました。その出来事が、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ということではないかと思うのです。敗れたサタンはどこへ行ったのかというと、この地上にやってきました。その証拠に、サタンは蛇に化けて、エバを誘惑しました。つまり、人間の創造以前に、サタンは地上にいたということです。

 アダムとエバはヘビの誘惑に負けて、食べてはいけない木から食べてしまいました。そして、エデンの園から追い出され、やがては死ぬようになりました。聖書で、「この世」あるいは「世」というのは神から離れた人たちのことを指しています。しかし、それだけではありません。「この世の君」、「この世の神」という存在がいます。どういうことかと言うと、本来、神さまが人間にこの世のすべてを管理するように、人間にその支配権を与えました。ところが人間が堕落したために、その支配権はどうなったのでしょう?サタンが横取りして、この世と人間までも支配するようになったのです。その証拠に、サタンはルカ4:6「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言っています。私たち人間は「神もサタンも認めない。私は自由だ、自由だ」と言っているかもしれません。しかし、私たちは罪と死とサタンに支配され、やがては永遠の滅びに行く存在であります。このところで言う「やみ」とは、サタンのことです。この世の人たちはサタンに支配されやみの世界を歩いているのです。ヨハネが第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ5:19「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」私たちは好むと好まざるにかかわらず、この霊的事実を知らなければなりません。そうしないと、救いという概念が狭くなるからです。救いというのは単に罪赦され、永遠の命が与えられるだけではありません。何から救われるか、どこから救われ、どこに行くのかということがということを知らなければなりません。

 そのことを使徒パウロが使徒26章とコロサイ1章で明確に語っています。使徒26:17-18「 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」パウロは「救い出す」ということを18節で説明しています。このところにはいくつかの段階があります。第一は彼らの目を開くということです。パウロが福音を語ると、そこに聖霊が働いて、霊的に目が開かれると言うことです。第二は「暗やみから光に」とあります。これはまさしく、ヨハネ1章が言っている事柄です。でも、暗やみとは何で光とは何なのでしょうか?続いて、「サタンの支配から神に立ち返らせ」とあります。暗やみとはサタンの支配であり、光とは神の支配という意味であります。「支配」ということばが嫌いでしょうか?支配とはギリシャ語でバシレイアであり、王国という意味です。言い換えるとサタンの王国から神の王国へと移されるということです。同じことがコロサイ1章でも言われています。コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。」原文のギリシャ語を直訳すると、「神は暗やみの権威から解放し(delivered)、御子の王国に移してくれた(transferred)」ということです。まとめて言うと、「救われる以前は、私たちは暗やみであるサタンの支配の中にありました。ところが、神さまは私たちを解放し、キリストの王国に移してくださった」ということです。つまり、クリスチャンは住んでいる世界が違うということです。この世ではなく、キリストの王国の中に住んでいるということです。

 でも、解放されキリストの王国に移されるためには、私たちがなすべき事があります。第三は「わたし(キリスト)を信じる信仰よって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされ、御国を受け継がせる」ということです。キリストを信じることが必要だということです。キリストを信じることにより、罪赦され、聖なるものとされ(義とされ)、御国を受け継ぐことができるんだということです。アダムとエバが堕落したのは自由意思でした。神である主が「食べてはならない」と言ったのに、二人は食べたのです。神さまは人間に最高のものを与えました。それは自ら決断して選ぶという自由意思です。二人は神に従うべきだという自由意思を間違って使用しました。だから、堕落しました。でも、神さまはもう一度、チャンスを与えました。キリストを信じる者を救われると約束しておられます。救われるというのは罪赦され、聖なるものとなるということです。でも、そればかりではありません。暗やみであるサタンの支配から解放され、キリストの王国に移されるということなのです。やみから光に移されることが救いなのです。

3.やみから光へ

 前のポイントで、やみから光に移されることが救いだと申し上げました。私たちはキリストを信じるだけで救われるのでありますが、今度は神さまの方から救いのことを考えたいと思います。言い換えるなら、「神さまはどのように私たち人間を救おうとされたのか?」ということです。神さまはアダムとエバが罪を犯してしまったとき、「ああ、もうだめだ」と困って頭を抱えたでしょうか?そうではありません。三位一体の神は永遠の昔から人間を救う計画を持っておられました。旧約聖書でアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルによって全世界を救おうとされました。ところがそれが失敗に終わりました。最後にどうしたでしょうか?神の御子をこの世に遣わしたのであります。これがクリスマスです。クリスマスとは神の御子が馬小屋に生まれるだけではありません。私たちは、もっと全体な視野でそのことを考えてみたいと思います。ヨハネ1:9「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とあります。でも、その前後に、光についてあかしする人が神から遣わされると書いてあります。そればバプテスマのヨハネのことであり、光についてあかしをするために生まれました。彼はイエス様より先だって活動し、メシヤの到来に備えるように荒野で叫びました。その後、ごロスなる方はご自分の国であるユダヤ(イスラエル)に生まれました。ところが、どうでしょう?ヨハネ1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。王様はもちろん、宗教家たちも、一般の民衆もイエス様を受け入れなかったのであります。最初、人々から「この人がメシヤだと」思われたこともありましたが、十字架に捕えられたとき、みんな躓いてしまいました。それどころか、「十字架につけろ」とまで叫んだのであります。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々」とありますが、ここには明らかにユダヤ人以外の人にも救いがあることを暗示しています。言い換えると、「しかし、だれであっても、この方を受け入れた人々は」となります。

 では、ヨハネが言うクリスマスとは何でしょう?ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」これがヨハネのクリスマスです。ちなみに、来週は「ヘブルのクリスマス」という題になっています。今年はクリスマス礼拝を18日にしたら良いのか、25日にしたら良いのか世界中の教会が迷っているのではないでしょうか?「ことばが人になって、私たちの間に住まわれた」これがクリスマスです。ことばとは、ロゴスであり世が造られる永遠の昔から、父なる神さまと共におられた方です。しかも、ロゴスによってすべてのものが造られ、すべて肉なるものにいのちの光が与えられたということです。人間をはじめ、息をするすべての肉なるものがロゴスなる方にいのちを負っているということです。なんと、そのロゴスなる方が、人となり、私たちの間に住まわれたということです。「人となる」はギリシャ語で、「天幕を張る」「天幕に住む」という意味のことばになっています。パウロはこの肉体を天幕にたとえています(Ⅱコリント5:1)。そして、神学的には神が人となることを「受肉」incarnationと言います。英語でcarnalは「肉体の」「肉欲の」という意味があります。ギリシャ人は肉体は悪と考えていましたので、「神が肉体を取るなんてありえない」と躓いたのであります。しかし、あえてロゴスなる神は、私たちと同じような朽ち果てる肉体を取って生まれたのであります。なぜでしょう?簡単に言うと、ロゴスなる神は「人間を救うために人間になってこの地上にやって来られた」ということです。本来なら、天から長いロープを垂らして、「これにつかまったら救ってやるぞ」と言ってもよさそうなものです。そうすれば、犠牲を払うこともないし、痛みもありません。でも、ロゴスなる神が肉体を取り、人間になるというのは大変なことであります。ある人は「それは人間がうじ虫になるようなものだ」と言いました。私はうじ虫にはなりたくありません。ロゴスなるイエス様もそう思っていたに違いありません。

 さらに続いて、ヨハネがこう述べています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「私たち」というのは、ヨハネをはじめイエス様を実際に見た人たちであります。もっと言うとイエス様の十字架と復活を見た人たち、目撃者であります。ヨハネは「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言っています。ヨハネはイエス様と3年半地上で一緒に過ごしました。だから、Ⅰヨハネ1:1「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書いています。おそらく、父なる神とそっくりだけれど、ひとり子としての神の栄光も備えておられたのでしょう。そして、その特徴は何なのでしょうか?「この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。この短いことばの中に、イエス様の人格とイエス様がなされたことが凝縮されています。パウロは使徒26章で「キリストを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ」と言っています。私たちはキリストの何を信じて救われるのでしょうか?私たちはキリストの人格となされたみわざを信じるということです。二つをまとめるとキリストの御名を信じるということです。ヨハネが言う「恵みとまこと」とは何なのでしょうか?これは、どの教会であっても一致しています。恵みとはイエス・キリストの生涯、特に死と復活を通して示された神の愛を言い表す言葉です。恵みとはキリストの死と復活を通して示された神の愛であります。私たちは神の愛である恵みがキリストによって目の前に提示されているのです。それでは「まこと」とは何でしょうか?ある人たちは「まこととは律法であって、とても厳しく、峻厳なものである」と言います。そうではありません。恵みとまことは、双子の兄弟であります。まことはギリシャ語でアレーセイヤですが、「真理」という意味です。辞書には「義、聖など、神の御旨の実行となって現されるその実践的側面」となっていました。つまり、見せかけではなく、真実にということです。私たちは不真実であり、信仰も曖昧です。でも、私たちの信仰の対象であられるお方が、真実なお方なら大丈夫なのではないでしょうか?私たちがこの救いを得られるのは、キリストの恵みでありまことであるということです。やみの中にいた私たちを救うために、光なるキリストが人になって来られたのです。