2016.12.25「ヘブルのクリスマス ヘブル4:14-16」

 世界には、有名な宗教の開祖がいます。孔子、釈迦、マホメットが良く知られています。では、イエス・キリストは宗教の開祖なのでしょうか?ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです。大祭司というのは、神さまと人間との間をとりなす仲介者です。旧約の時代は事あるごとに、きよい動物をいけにえとしてささげました。しかし、世の終わりにはイエス・キリストご自身がいけにえとなって、贖いを全うしてくださいました。ですから、私たちはこのイエス・キリストを通して、神さまのところに行けるのです。イエス・キリストはどんな大祭司なのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.もろもろの天を通られた大祭司

 ヘブル4:14「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブルの人たちは、天は3つあると考えられていました。第三の天は神さまがおられる天上であります。「天の御座」とも呼ばれています。16節には「恵みの御座」と書かれています。第二の天は私たちが住んでいる地上です。物質でできており、自然科学で証明できる世界です。第一の天は地下とか陰府と呼ばれています。死者の霊たちがいるところです。サタンは悪霊がどこにいるのかというと、第三の天と第二の天の間です。エペソ2章には「空中」と書かれています。神に対して不従順な人たちは、「空中の権威を持つ支配者」から圧迫を受けていると言う構図になります。さて、聖書には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」と書かれています。これはイエス様が3つの天をすべて通られたという意味であります。冒頭で、孔子、釈迦、マホメットの名前をあげました。イエス様だけが、3つの天を通られた大祭司であります。歴史上、イエス様の他にこのような人物は見当たりません。では、イエス様がどのようにしてもろもろの天を通られたのか順を追って学びたいと思います。

 まず、イエス様はロゴスという存在で、神と共におられました。ロゴスなるイエス様は神と共に第三の天におられたのです。しかも、天の御座に父なる神さまとおられました。ヘブル1章にはどう書いてあるでしょうか?ヘブル1:2-3「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」御子イエスを通して、この世界が造られました。そして、御子イエスが「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」ということは、神さまと全く同じ、あるいは同等であるということです。クリスマスは地上に来られたイエス様のことを御祝する日であります。私たちは「貧しい姿で馬小屋に生まれた」と賛美するでしょう。しかし、その前は第三の天で父なる神と同等の神であったことを忘れてはいけません。使徒パウロはⅡコリント12章で「第三の天にまで引き上げられ、すばらしい啓示を受けた」と書いています。ですから、私たちは神さまがおられる第三の天、神の御座の存在をはっきりと認めるべきです。

 次に第二の天、地上のことを申し上げたいと思います。私たちは地上、つまり物質の世界に住んでいます。西洋の教育を受けた人たちは、天国も陰府も認めません。そして、地上に偶然に生まれて、何十年か生きて、死んだらなくなると考えています。しかし、「多くの人たちは、人生それで終わったら空しいではないか、死後の世界はあるのでは?」と考えています。世界のあらゆる宗教は、死後の世界を認めています。でも、西洋の教育を受けた人たちは、「そんなのありえない」と否定します。日本人は頭では西洋の教育を受けていますが、心は東洋のアニミズムの世界観を持っています。どこかに霊の存在を信じているので、お盆のときに死者を迎えたり、送ったりしているのではないでしょうか?さて、イエス様はロゴスなるお方でありましたが、2000前、肉体を取ってこの地上にお生まれになられました。このことは先週学びました。神の御子が人間となられたのは何故か?それは第二のポイントで学びます。簡単に言うと、父なる神さまのことを直接、知らせるためです。私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か知ることができます。もう1つは、私たちのために身代わりに死んで、救いの道を設けるためです。イエス様は天からロープを垂らして「これに掴まれ」とおっしゃったのではありません。私たちの住むところに下ってこられ、自ら犠牲となり神さまのところに行く「道」を作られたのです。

 最後に第一の天です。これは陰府と言われているところです。旧約聖書には死んだ人が「陰府に行った」と書かれています。イエス様も十字架に死んだのち、陰府にくだられました。エペソ4:9「彼がまず地の低い所にくだられた」とあります。また、Ⅰペテロ3:19「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」イエス様が何のために陰府にくだられたのかいろんな説があります。でも、決定的なことは義人たちが住んでいた、陰府の一部をひきあげるためです。その場所が復活したときに、パラダイス(天国)になったのです。ですから、クリスチャンは死んだら陰府にいくのではなく、パラダイスに行くのです。「もろもろの天を通られた」というのは、天から地上、陰府に下ったと言う意味でありません。イエス・キリストは復活しました。陰府から引き揚げられました。その先があります。Ⅰペテロ3:22「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。イエス様はもとおられた天の御座に戻られましたが、それだけだったのでしょうか?イエス様には御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えるだけの権威が与えられました。そして、名前まで変わったのです。ピリピ2:9-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」旧い契約でイスラエルの人たちは神さまのことを「主」と呼びました。しかし、新しい契約では、イエス・キリストが「主」と呼ばれるようになったのです。「イエス・キリストは主である」とは信仰の告白です。だから、ヘブル書は「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と勧めているのです。

2.私たちの大祭司

 ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」私たちの大祭司というととても身近な感じがします。でも、それはヘブルの手紙の受取人だけではなく、「私たちすべての」という意味でもあります。なぜ、そのように言えるのでしょうか?このところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と書かれています。もし、大祭司なるイエス様が罪を犯したなら、私たちの身代わりになることはできません。そのためイエス様は、おとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。イエス様はアダムの罪を受け継いでいません。また、生きている間も、父なる神さまと共に歩み、罪を犯しませんでした。でも、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。私たちが生まれてからどのような試みに会うでしょうか?イエス様は赤ん坊から生まれたので、嬰児、幼児、少年、青年、成人の気持ちが分かります。両親に育てられ、30歳まで大工の仕事をしました。小さい時から律法を学び、宮もうでをし、宗教的な義務も果たしていたことでしょう。残念ながら、30歳までの記録がほとんどありません。福音書をみますと、肉体を持ったイエス様は時には飢えを、時には渇きと、ときには疲れを覚えられました。男性にとって女性が誘惑ですが、イエス様を慕っていた女性たちは何人かいました。マグダラのマリヤ、マルタとマリヤ、他にもいたかもしれません。でも、イエス様は結婚をして家庭を持つということはありませんでした。おそらく、イエス様が花婿であり、教会が花嫁という考えからかもしれません。

 福音書を読む限り、第一の誘惑は荒野で悪魔から誘惑を受けたことでしょう。肉欲、目の欲、持ち物の欲に打ち勝たれました。第二はゲツセマネの園において、十字架を意味する苦い杯を飲めるかという誘惑でした。自分は何も悪いことをしていないのに、人の罪をかぶって死ぬということは困難なことでした。人々から捨てられ、弟子たちからも裏切られました。十字架刑で捕えられ、嘲笑され、殴られ、あざけられ、数えきれないほどのローマの鞭を体中に受けました。イエス様にとって最も大きな試みは、罪を負ったために、神から捨てられることでした。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」この叫びは、私たちが体験できない、神から拒絶された叫びです。イエス様は「できれば、この杯を通り過ぎさせてください」と願いましたが、十字架で罪を負い、その杯を飲み干してくださいました。私たちは家庭や仕事、果たすべき使命というものがあります。誘惑は「それらから逃げたい」ということではないでしょうか?昔は「蒸発」ということばが流行りましたが、今は何でしょう?自殺者の数は減っていません。生きること自体が辛いと考えている人がいっぱいいます。現代はうつ病をはじめとする、さまざまな精神疾患をわずらっています。10人に一人はそういう問題と戦っていると聞いたことがあります。ですから、心療内科や精神科、カウンセリングのニーズが高まっています。

 このところで、イエス様は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」と書かれています。さきほど申し上げましたが、大祭司というのは神さまと人間の間に立ちとりなす働きをする人です。でも、祭司と大祭司の違いは何でしょう?大祭司の場合は、一般の祭司が行けない、至聖所まで行くことができます。それも年にたった1度だけであります。何か落ち度があると、打たれて死ぬことがあります。大祭司は個人の罪というよりは、もっと大きな罪、民全体の罪を取り扱っていたのだと思います。イエス様は小さいものから大きなものまでをとりなしてくださる「私たちの大祭司」です。一度、人間になってさまざまな苦しみを体験されたので、私たちの弱さに同情することができます。私たちもある程度の苦しみにあいました。もし人のことを思いやることができる分野があるとすれば、自分が経験したことです。ある部分の弱さは専門家かもしれません。しかし、イエス様は神の子が人となられたので、あらゆる問題の解決が可能です。でも、私たちが最も大変な問題は死ということではないでしょうか?死に対しては誰一人、勝利したことがありません。みんな、この死に対しては敗北してしまいます。でも、イエス様が死んで復活してからは、死の意味が変わりました。乗り越えられない問題でなくなりました。

 ヘブル2:14-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。「子たち」というのは、私たちのことです。血と肉というのは、人間のことであり、弱さや病を象徴しています。また、敵である悪魔は私たちを誘惑し、死の力を持っている最大の敵です。私たちは、死の恐怖につながれている存在ではないでしょうか?なぜ、死が怖いのでしょうか?そこには肉体の死だけではなく、霊的な死、永遠の死という暗黒が隠されているからではないでしょうか?あるいは肉体の死ぐらいだったら、恐れなくて良いかもしれません。しかし、火炎で焼かれる永遠の死は無理であります。そこで、イエス様は血と肉を備え、一度死んで下さいました。そして、陰府にくだり、三日目によみがえられました。ヘブル書は、「イエス様の死と復活が、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたんだ」と解釈しています。このところには書かれていませんが、悪魔は神さまのところに行って人の罪を訴え、「この人には永遠の死が妥当だろう」と言うのではないかと思います。義なる神さまは1片の罪をもそのままにしておくことはできず、必ずさばかなければなりません。「罪の支払う報酬は死である」と聖書に書かれています。でも、イエス様が私たちのすべての罪を負い、変わりに裁かれました。そのとき、神さまの義が満たされ、罪ある人間を裁かないことにお決めになられました。大祭司なるイエス様が「私に免じてこの人を赦してやってください」と願うなら、父なる神さまは聞いて下さいます。その結果、その人はたとえ死でも死の中に留まることはありません。イエス様のようによみがえさせられます。そのため、私たちにとって死は恐ろしい死ではなく、天の御国に入る時となりました。そして、終わりの日に滅びた肉体が栄光のからだに復活するのです。だから、主にあって死は終わりでなくなりました。

3.罪を取り除く大祭司

 ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」「恵みの御座」というのは、まさしく神さまがおられるところ、神の御座であります。罪ある私たちがどうして、神さまのところに行けるのでしょうか?同時に私たちの中には罪責感もあり、向こうが良いと言っても、私はその価値がないと辞退してしまうでしょう。私たちは二重の問題があって、神さまのところには行けないと思うのであります。ところがここに、「私たちはあわれみを受け、また恵みをいただいて」と書いてあります。文章を読むと、あわれみと恵みは同等のもので、意味も似ています。罪と過ちによって、受ける価値のないものが、神さまの一方的なご厚意を受けるということです。問題は「いただく」という意味です。ギリシャ語の意味は「くじで得る」というのが第一の意味です。イスラエルは「くじ」は神性なもので、そこに神さまの導きがあると考えられていました。そこで「くじで得る」とは、「運命や神意によって得る、手に入れる、受ける」という意味になります。簡単に言うと選ばれた人が、得られる特別なものだということです。ですから、あわれみと恵みは、だれでもないキリストを通して与えられるものだということです。

 では、ヘブル人への手紙が言う、あわれみと恵みとは何なのでしょうか?私たちにそれらが与えられる根拠となるものは何なのでしょうか?冒頭で、「ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです」と述べました。それを証明する決定的な事柄がこのことです。ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」イエス様は神が人となられた大祭司です。このお方が、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。このことは十字架の贖い死のことですが、ヘブルの記者は、まことの聖所でなされたことなんだと解釈しています。つまり、大祭司であるイエス様が、ご自身の血をささげることにより、永遠の贖いを成し遂げたということです。そのことにより、もう動物のいけにえは不要であるということです。これまで、毎年、民の罪を赦すために大祭司が年に一度、至聖所に入りました。ところが、ヘブルの記者は「ただ一度で、永遠の贖いを成し遂げた」と繰り返し述べています。そのことにより、私たちはどうなったでしょう?イエス・キリストの贖いによって罪赦され、あわれみと恵みを得ることができるということです。旧約聖書では「私の罪を赦し、私をあわれんでください」と動物のいけにえをささげました。でも、私たちは「私をあわれんでください」と祈る必要はありません。父なる神さまは「あわれみは十字架上で、すでに成し遂げられた。乞い願わなくても、あなたにあげる。あわれみと恵みはあなたのものだ」とおっしゃるのです。

 もう1つは、神さまが「あなたを赦すよ」とおっしゃっても、私たち自身が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感であります。ある人たちは、「私が犯した罪は簡単には赦されない、一生かけて償わなければならない」と思っています。ローマ・カトリック教会には、「懺悔」とか「償い」という言葉があるようです。自分が犠牲を払うことによって、何か赦された気持ちになるのかもしれません。しかし、それは聖書が言う真理と反しています。さきほどの続きになります。ヘブル11:13-14「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」このところに、動物の血ではなく、キリストの血について記されています。キリストの血こそが、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」ということです。私たちの良心は完全ではありません。育った環境や親の教えによってゆがめられています。特に、罪に関しては「ただでは赦されない」と教えられています。このところに、「死んだ行いから離れさせ」とありますが、これは良心から罪責感を取り除く、懺悔や償いの行為です。これは死んだ行いであって、神さまのところには届かない、宗教的な行為です。人間の肉はこのような宗教的行為を好むのです。そうではありません。私たちはキリストの血を良心に受けるべきであります。そうすると良心から罪責感が取り除かれ、そして新生した霊と一緒に活動するようになります。私たちは礼拝するとき、神さまの前に出るとき、キリストの血を意識すべきであります。そうすれば、罪責感が取り除かれ、いつでも神さまの御座に近づくことができるのです。

 結論です。ヘブル4:16後半「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。私たちは霊的には神さまの御座のとなりにいます。しかし、肉体はこの地上にあります。簡単に言うと、霊的には第三の天にいますが、肉体的には第二の天にいます。問題は、第三の天と第二の天の間、空中に悪しき者たちがいるということです。悪しき者たちとは、サタンとその手下である悪霊どもです。彼らが私たちを攻撃し、あるときは圧迫してきます。キリストを信じていない人たちは、既に彼らのものですから、適当に彼らをあしらっています。ところが、キリストを信じている私たちは、彼らの敵であります。彼らは神さまを攻撃できませんが、神の子どもである私たちを攻撃してくるのです。いろんな悩みや困難、病気やわずらい、トラブルを与えようとするでしょう。だから私たちは、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく必要があるのです。「おりにかなった助け」とはちょうど良いタイミングで主が助けてくださるということです。神さまは第三の天から御使いを遣わし、さらには聖霊によって私たちを助けてくださるのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」