2017.1.1「自分の道を走る 箴言22:6」

 新年あけましておめでとうございます。きょうは、「自分の道を走る」と題して、箴言22:6からメッセージをお届けします。新改訳は「若者」となっていますが、口語訳を引用したいと思います。箴言22:6「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることはない。」きょうは、もう1つAmplified Bible英語の詳訳聖書からも引用したいと思います。Train up a child in the way he should go and in keeping with his individual gift or bent.箴言22:6の前半のみことばを3つに分解してお話しさせていただきます。

1.自分の価値を知る

英語の詳訳聖書はヘブル語の聖書を重んじんて「with his individual gift or bent」とあり、個人的なgift or bentをキープしながら指導しなさいと書かれています。これは個人的なgift or bentが生まれる前から備えられているというニュアンスがあります。では、giftとは何でしょうか?辞書には「贈り物、天賦の才能、適正、タレント」とあります。私はgiftを「賜物」と訳したいと思います。また、bentとは何でしょうか?本来bentは、「曲り」という意味です。しかし、「好み、性癖、適正」という意味もあります。私はbentをあえてスタイルと訳したいと思います。スタイルは日本語にもなっていますが、「やり方、流儀、格好、たち」という意味です。では、個人的な賜物とスタイルは一体だれが与えたのでしょうか?もちろん、祖父母や両親からの遺伝もあるでしょう?でも、創造主なる神さまがその子に与えたということが真実ではないでしょうか?詩篇139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と書いてあります。「組み立てた」は英語の聖書ではknit「編む」と書いてあります。神さまは母の胎内で、私たちの神経や細胞組織を編んでくれたのであります。そして、そこに賜物とスタイルをしこんでくれたと考えるべきではないでしょうか?この世の教育者は「子どもは白紙の状態で、親や教師が教えなければならない」と考えています。確かに知的にはそうかもしれませんが、その子に賜物とスタイルがはじめから備わっているのであります。

 私たちは神の作品です。エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。この作品という本当の意味は「製品ではなく、手作りである」ということです。手作りですから、ひとり一人違うように創られていることは当然です。私たちの指紋も、声門も、そして目の虹彩も同じ人はいません、唯一無二(ただ一つだけあって二つとない)のであります。それなのにこの世の教育はどうでしょうか?特に日本の場合は「横並びと言われ、個性と潰す」と言われます。人と違うことをしたり、言ったりすると「和を乱すな」と注意されます。発明王のエジソンが小学校に入学したときのことです。先生が生徒に「I have a粘土、I have a粘土、足すといくつになりますか?」と聞きました。エジソンは「ウン、1だ」と答えました。「なぜ?」と先生が聞くと、エジソンは「1つの粘土と1つの粘土を合わせると1つの粘土になるでしょう」と言い張りました。先生は「腐れ脳ミソ」と彼を罵倒したそうです。エジソンは入学からわずか3か月で学校を追い出され、お母さんが個人教授したそうです。入学試験では5教科が重要視されますが、それはなぜでしょうか?ケン・ロビンソンという人がある放送番組で語りました。「今の教育制度は19世紀、産業主義社会のニーズから生まれた。すぐ工場で働けるような人を育てたのだ。砂遊びでは会社で雇ってもらえない。音楽なんてダメだ!音楽家になるわけじゃないんだから。アートなんてするな。アーティストになんてならないんだから。心優しいアドバイス。でもまったくもって間違っている。学校教育は創造性を殺してしまっている」と言いました。

 神さまが生まれた時から賜物とスタイルを備えて下さっていると知ったらどうでしょう。人と比べて生きる必要はありません。私はテレビの『何でも鑑定団』が大好きで、毎回、録画をしています。あるとき、ご婦人が茶碗を持って来ました。おばあちゃんのもので、屋根裏から出したときは新聞紙にくるんであったそうです。真っ黒で1か月間、煮込んでは汚れを落としたそうです。その茶碗の鑑定はいくらだったでしょうか?なんと1千万円でした。秀吉の頃のものだったそうです。イザヤ書に「主は陶器師である」と書かれています。私たちは粘土です。主が私たちを御手でこしらえてくださったのです。ゆがんでいるかもしれません。少し黒ずんでいるかもしれません。でも、そこには手作りの不思議な趣があり、価値があるのではないでしょうか?私は子どものころ、色が黒くてよく「ベトコン」と言われました。当時ベトナム戦争がありました。また、とっても落ち着きがなくて、学校で一番、叱られました。今でも学校の時の夢を見ます。上履きの片方ないとか、体育着を忘れたとか。かばんを開けて、「きょう何曜日だろう。時間割がないなー。もう、8時半だ、遅刻しちゃう」と目がさめるときがあります。「ああ、良かった。もう学校へ行かなくて良いんだ」とホッとします。先月、大和カルバリーで「リーダーズ・サミット」が開催されました。講師の一人「べてるの家」の向谷地生良(むかいやちいくよし)さんがこのように話していました。私は中学の時、とにかく先生から殴られている生徒でした。私の人生のキーワードはひとことで言うと「殴られる」なんです。うちの長男が、小学校3年くらいのとき朝、担任の先生から電話が来ました。「息子さん、忘れ物多いですね。お父さん、ちゃんと指導してください。前の日に、ちゃんと見てください。お願いしますよ」。よっぽどだったじゃないですか、先生から電話がかかってくるというのは。みなさんだったら、そういう子どもさんに何と声をかけますか?私は息子に、「もう、あきらめろ」と言いました。先生の言ったことを真に受けて、忘れないように努力するなんて、そんな無駄な人生をずっと送っていてはダメです。それを聞いて、私は腹の底から笑いました。神さまがあなたに固有な賜物とスタイルを与えて下さったのです。そこには欠点や性格も含まれています。あなたは神さまの手作り、傑作品です。なぜなら、イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とおっしゃっているからです。神さまがあなたをそのように鑑定しておられるのですから、額面通り受け止めましょう。

2.自分を育てる

 口語訳は「子をその行くべき道に従って教えよ」となっていますが、英語の詳訳聖書はTrain up「訓練せよ」となっています。ヘブル語はもともと「ささげる、聖別する」ですが、「教える、伝授する」という意味もあります。ですから、親の意のままではなく、神さまから預かった子どもとして、教えるというニュアンスがあります。前のポイントで述べましたが、生まれた子どもの中には、個人的な賜物とスタイルが備わっています。ですから、親はそれらがうまく開花するように育てる必要があるということでしょう。「教育education」は、外側から何か知識を与えて、子どもを何かのかたちにするという意味ではありません。ラテン語では、「連れ出す、導き出す」という意味があるそうです。神さまは子どもに賜物とスタイルの種を与えておられます。子育ては、種から芽が出て、幹が伸び、花が咲いて実がなるのと似ています。パウロがコリント3章でこのように言っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」親は、「成長させて下さるのは神なんだ」というへりくだった態度が必要です。

永遠のロゴスなる方がおとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。赤ん坊から人生をスタートし、イエスという名前をつけられました。お医者さんであったルカは「イエス様は全き人として成長した」と福音書に書いています。ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」日本語の聖書ではよく分かりませんが、イエス様は3つの分野で成長したことがわかります。第一は知恵、メンタルな成長です。第二は身体的な成長です。第三は神と人から愛される霊的で社会的な成長です。第三番目において興味深いのは、愛がfavorとなっていることです。Favorは「好意、愛顧、ひいき、偏愛」という意味があります。聖書にはfavorが数多く出てきますが、ほとんど愛に訳されているのは残念です。ダビデなども、神さまからたくさんのfavorを受けた人です。イエス様も成長の過程で、「好意や愛顧」を受けなければならなかったというのは驚きではないでしょうか?おそらくイエス様も小さいときから律法を学び、みことばを暗証したと思います。なぜなら、申命記6章には「子どもたちによく教え込みなさい。」と命じられているからです。両親の子どもの養育に対する責任は少々違っていると思います。母親は受け入れ、養育するという面が強いと思います。一方、父親は子どもを励ましたり認めてあげる、つまり是認してあげる責任があると思います。そうすれば、子どもは自信をもって世の中に出て行けるからです。そして、ユダヤではある程度の年齢になるとラビに教育を任せました。ラビは父親の代わりに、聖書だけではなく人生全般に関することを教えました。ですから、親はわが子をどのラビに付かせるか、慎重に考えたと思います。

 現代は子どもをすぐ学校に行かせて、教育も人生全般も任せてしまっているのではないでしょうか?学校の先生は知的なことは教えることはできるかもしれません。でも、何のために勉強するのか、何のために仕事をするのか、何のために結婚するのか、人生の意味や目的を教えることはできません。ユダヤ人がなぜ優秀なのか?それは小さい時からみことばに親しみ、人生の良き指導者ラビから学ぶからではないでしょうか?現在、教会付属の学校があり、大和カルバリーもなさっておられるのですばらしいと思います。進化論ではなく、神さまが私たちを創られたということを知ったなら、人生のスタートが全く違ってくると思います。箴言には「主を恐れることは、知識の初めである」と書かれています。残念ながら、私をはじめこの世の学校教育から、無神論から、クリスチャンになった方々が大勢いるのではないでしょうか?そして、ちゃんと親からFavor(好意、愛顧)を受け、母からの養育、父からの是認を受けて育てられた人がどれくらいいるでしょうか?私はエリヤハウスというところで数年学びましたが、「多くの人が本当の父親をさがしている」と教えられました。エリヤハウス・ミニストリーの中心的なみことばは、マラキ4章「父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」です。本当の父がいなかったために、不安や恐れ、怒りに満ちているということです。でも、クリスチャンになってから、霊的な父を持つことができます。

 私は8人兄弟の7番目で生まれ、Favor(好意、愛顧)を受けないで育ちました。通信簿で5を2つとっても、長男や長女に比べられ、決してほめてもらったことがありません。だから、学校では何とか認めて欲しいと目立つようなことをしていたのだと思います。でも、それは全く受け入れられず、うるさくて授業を妨害するやっかい者として叱られました。どういう訳か、私が一番、叱られました。小、中、高と続きました。ある時、エリヤハウスの宣教師が私の説明が長いと注意しました。他の人は7,8分も話しているのに、私はまだ3分しか話していませんでした。後から「どうして私だけを注意するのですか?」と聞きました。女性の宣教師は「あなたには私を叱ってほしいという苦い期待がある」と言っていました。その時は「俺のせいか?」とムカッときましたが、「確かにそうだなー」と思いました。私は1979年2月、25歳のとき座間キリスト教会の礼拝に出席しました。その時、大川牧師は30代でしたが、そのお話しに捕えられ、4か月後洗礼を受けました。その年の12月「イエスさまの弟子になりたい」と献身を表明しました。大川先生は私を志願兵として受け入れてくださり、翌年3月から神学校の基礎科に入学しました。送り出して下さった時、ヤコブ3章から「温順」というみことばをいただきました。「温順にはteachable parsonという意味があり、だれからも教えられる心を持つように」と言われました。それ以来、私はずっと学んできました。最初は大川先生の毎週の説教をテープから書き起こしました。分厚い2冊のファイルになりました。その次はチョーヨンギ師のテープから学びました。亀有に赴任してからも、弟子訓練や教会形成、心の癒しについても学びました。でも、家内と私は大川先生が霊的な父であることを感謝しております。私は携帯を持っていますが、めったに携帯に電話がかかってきません。ところが、大川先生からたまにかかってきます。昨年12月、広尾の21世紀教会で説教のピンチヒッターを頼まれました。その時は直立不動になり、自分が何を言っているのはわからなくなります。その時のご奉仕も、直立不動でお受け致しました。

私たちはこの世に生まれた以上、養いを受けて、神さまから与えられた賜物とスタイルを開花させていただく必要があります。もし、自分の両親や学校の教師がそうでなかったなら、霊的な父、ラビをさがしましょう。それでもダメだったら、いろんなところへ出かけて自らを養いましょう。現代は本もCDもあります。インターネットでメッセージも聞けます。みことばや信仰書から自分を励ましましょう。信仰的な友人や指導者とコンタクトを取りましょう。あなたの賜物とスタイルに賛同し、協力してくれる人を神さまが必ず与えてくださいます。

3.自分の道を走る

箴言22:6「子をその行くべき道に従って教えよ」と書かれています。行くべき道とは何でしょうか?文脈から考えると、神が定めた律法のうちを歩むということかもしれません。なぜなら、後半に「そうすれば年老いても、それを離れることはない。」と言われているからです。イスラエルにおいては、十戒を守ること、心を尽くして主を愛することはとても重要なことでした。私は「律法は道路で言うなら、ガードレールあるいはセンターラインではないか」と思います。「それを飛び越えたり、はみだしたりすると危険ですよ」いうことを示しています。子どものうちから、飛び越えてはいけない限界を知らされるということはとても良いことです。昨今、とても多くの殺人事件や自殺が起きています。もし、小さい時から「殺してはならない」と教えられていたなら、ずいぶんと件数が減るのではないかとおもいます。しかし、「子をその行くべき道」とはもっと積極的な意味もあるのではないかと思います。なぜなら、神さまがそこ子に、個人的な賜物とスタイルを与えているとしたらどうでしょう?それらを開花させて、神さまのご栄光のために用いることを願っておられるのではないでしょうか?私は神さまがその人に達成してもらいたい使命や目的をdivine destinyと呼ぶべきだと思います。Destinyは日本語で運命とか定めですから、あまり良いイメージはありません。しかし、divine、神の運命というものが一人一人に与えられていると信じます。辞書をみたら、神意(神の意志)ということばがありました。つまり、The way he should go「行くべき道」とは、神意ではないかと思います。もし、その人が自分のdivine destiny神意を発見し、それが達成できるように生きるならなんと幸いでしょう。その人は、暇をもてあそぶとか、時間をつぶすとか、ぶらぶらするということがなくなります。

 ルカ福音書1章には、御使いガブリエルが二人の人物に出会って、神意を告げています。最初はザカリヤです。御使いは「不妊の女エリザベツが子どもを生む、その名をヨハネと名付けなさい」と命じました。そればかりか、その子はイスラエルの多くの子らを神に立ち帰らせるであろうと言いました。名前ばかりか、果たすべき神意まで告げています。次に御使いはマリヤに現れました。「あなたはみごもって男の子生むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」と命じました。そればかりか、その子は大いなる者となり、ヤコブの家を支配し、その支配(その国)は限りなく続くでしょう」と言いました。名前ばかりか、果たすべき神意まで告げています。もし、このようなことが私たちにもあてはまると考えるならどうでしょう?名前は両親が付けるかもしれません。でも、神さまは「その子をその行くべき道」をちゃんと計画しておられるのではないでしょうか?つまりそれが、divine destiny神意であります。使徒パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会いました。とのとき彼は、地に打倒され主の声を聞きました。パウロはアナニヤを通してdivine destiny神意を示されました。異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らに主の名を伝える器として選んだこと、また主の名のために苦しむことでした。一言でいうと異邦人伝道が彼の使命でした。パウロはいつも自分のゴールを見定め走っていました。ピリピ3:13-14「後ろのものを忘れ、前に向かって…目標を目指して、一心に走る」と言っています。

私たちも自分の与えられた道、レースを走るべきではないでしょうか?ある人は親のレースを走っているかもしれません。また、ある人は他の人たちが良いと勧めるレースを走っているかもしれません。その人たちは決して悪い人たちでないかもしれません。かえって、親切におっしゃっているのかもしれません。でも、あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。それは、人ではなく、神さまが定めたdivine destiny神意であります。ローマ12:2「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と書かれています。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。あなたのdivine destiny神意は何でしょうか?ピリピ2:13「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」と書かれています。「願い」は英語の聖書ではdesireです。ビル・ジョンソンがdeは「上から下る」、sireは「父の」という意味があると言っていました。つまり自分の願望だけではなく、父なる神さまから来る願いもあるんだということです。クリスチャンになると霊的に目覚め、パウロがそうであったように「私はこのために生きるんだ」という願いが起こると信じます。あなたはそれを「無理だ。できない」と、とっくの昔に土に埋めたのではないでしょうか?この際、掘り起こしたらどうでしょうか? 神さまはあなたに願いを与えて、divine destiny神意を完成させたいと願っておられるのではないでしょうか?あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。

 車にはナビゲーターがついています。行く先を設定すると、ナビが導いてくれます。うっかり曲がるべきところを曲がらないときがあります。するとナビガールは新しい道を示してくれます。何度間違えても、彼女に逆らっても、「いい加減にしろ。もうお前の運転にはあきあきした」などとは言いません。父なる神さまも同じです。あなたに成し遂げてもらいたいdivine destiny神意を与えておられます。そのために一切の必要を与えようとしておられます。でも、私たちは時々、道を踏みはずしたり、間違えたり、迷うことがあるでしょう。でも大丈夫です。コースAがだめだったら、コースBを示してくれます。コースBがだめだったら、コースCを示してくれます。父なる神さまは「お前には失望した」とは決しておっしゃいません。世の終わりまであなたと共にいて聖霊を内側に与えて励まして助けてくださいます。自分の価値を知り、自分を育て、自分の道を走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様の祝福がありますように。