2017.4.9「神はそのひとり子を ヨハネ3:16」

 ヨハネ3章16節はキリストの福音を凝縮している箇所として有名です。D.L.ムーディは「聖書のすべての書物が失われても、ヨハネ3章16節の御言葉さえあれば、人は救われる」と言いました。きょうは受難週にあたり、この箇所からキリストの十字架による救いについてメッセージさせていただきます。すでにクリスチャンになられている方は、福音を再確認するとともに、福音伝道の助けにしてくだされば幸いです。また、まだイエス様を受け入れていない方は、ぜひ、キリストにある神さまの愛と恵みをいただいてください。

1.神の義と神の愛

 『輝く日を仰ぐとき』という聖歌があります。1節と2節は「太陽と月を眺めるとき、雷が鳴り渡るとき、森で鳥のさえずりを聞くときまことの神を思う」と歌っています。これは神さまの偉大さ、一般恩寵を賛美しています。しかし、3節は「御神は世人を愛し、ひとりの御子を下し、世人の救いのために十字架にかからせたり」と歌っています。自然界を見ただけでは神さまが愛であることは分かりません。しかし、「父なる神がひとりの御子を十字架にかからせた、そこに神の愛がある」と賛美しています。なぜ、父なる神がひとりの御子を十字架にかからせる必要があったのでしょう?私たちは神さまが愛である前に、神さまが義であることを知ならければなりません。義のない愛は、本当の愛ではありません。神さまが「どんな罪でも赦すよ」と言った時から、神さまは神さまでなくなります。神さまは義なるお方ですから、1つの罪をも見過ごすことはできません。罪に対しては刑罰が伴います。刑罰を受け、罪を償ってはじめて、神さまは赦すことができるのです。たとえば、子どもが野球をやって、ボールが飛び込んで家の窓ガラスを割ったとします。持ち主は、その子に弁償させるでしょう。その子が無理であれば、親に弁償させるでしょう。でも、持ち主は「子どもがやったことだからと許す」とします。子どもを許しました、でも窓ガラスは割れたままです。持ち主はガラス屋さんを呼んで、直してもらいます。修理代が1万円かかりました。これが罪の赦しなのです。つまり、罪に対しては代償が伴うということです。この世では、損害賠償をしたり、何年間か刑に服する必要があります。神さまは私たちの創造者であり、主です。私たちが犯すすべての罪は、対・人という面だけではなく、対・神さまという面もあるということを忘れてはいけません。たとえば、ある人が不道徳なことをしたとします。日本人は「人に迷惑をかけていなければ良い」と言ったりしますが、神さまに対してそれは罪を犯していることになるのです。

 ところで、ヨハネ3:16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。神がひとり子を与えたというところに、2つのポイントがあります。第一は、ひとり子を人間として誕生させたということです。第二はひとり子を十字架に渡したということです。神さまには永遠の昔からひとり子がおられました。ひとり子は父と一体であり、分身にみたいな存在です。アダムが罪を犯した時に、ひとり子を遣わすという計画が既にありました。創世記3章にありますが、アダムとエバに「皮の衣を作って着せた」と書かれています。エデンの園ではじめて動物が殺され血を流しました。その皮を二人に着せたと言うのは、十字架の贖いを象徴しています。また、「女の子孫が、サタンの頭を踏み砕く」というのはイエス・キリストに対する預言です。神さまはアブラハムの子孫であるイスラエルから世界を救おうと計画しました。たくさんの預言者を遣わして、その使命を遂げるように勧めましたが失敗しました。最後に、ご自分のひとり子を世に遣わしました。しかし、イスラエルの民は彼を十字架に渡しました。でも、それは神さまの偉大な計画であり、単なる死ではありませんでした。イザヤ書53章に「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。…しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。イザヤは、神の御子が死ぬのは、「私たちの罪のためであった。私たちのすべての咎を負ったゆえである」と預言しました。そのことが650年後に成就したのです。なぜ、イエス・キリストが十字架にかかる必要があったのでしょう?それは神さまが罪ある人類を赦すためです。言い換えると、御子イエスが十字架で人類の罪を負って死ぬことにより、罪に対するご自身の義が満たされたということです。このことによって、罪ある人類を赦して、愛することができるということです。ある人が「十字架の縦棒は罪をさばく神のまっすぐな義を象徴している。そして十字架の横棒はすべての人を受け入れる神の愛を象徴している」と言いました。まさしく、十字架は神の義と神の愛が交差するところであります。

 聖書には、イエス様が十字架で発した7つのことばが記されています。一番最初は「父よ。彼らを赦してください。彼らは、何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)という祈りでした。イエス様はご自分を殺そうとしているローマ兵と十字架に渡したユダヤ人のために祈られました。しかし、それだけではありません。イエス様は大祭司としてあらゆる時代の人たちのために、「父よ。彼らを赦してください」ととりなしてくださったのです。ヘブル人への手紙にありますが、「キリストは、大祭司として、罪のために1つの永遠のいけにえをささげたのです」。「私が血を流して命を捨てますから、父よ。全人類を赦してください」という祈りです。イエス様は十字架で罪の代価を払ったのであります。そのあと、12時から、全地が暗くなり、3時まで続きました。午後3時ころ、イエス様は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という意味です(マタイ27:46)。イエス様はこの地上に来られた目的をよく御存じでした。なのに、この期に及んで、と申しましょうか?神さまに対する疑いとも取れる不可解な叫びをなされました。不思議なのは、イエス様はこれまで一回も「神さま」と呼んだことはなく、いつも「父」でした。ある人は「これは罪人としての呼びかけである。しかも、地獄でその人が発することばである」と言いました。では、イエス様はなぜ、このように叫ばれたのでしょうか?Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロのことばから分かるように、そのときイエス様は罪人として神さまからさばかれたのです。罪を負ったがゆえに、もう、父と呼べなくなったのです。そのとき、父なる神から引き離され、罪の恐ろしさを体験したのです。まさしく、そのときイエス様は地獄に突き落とされたのです。私たちはアダムの子孫として生まれたので、神から引き離される罪の恐ろしさを知りません。しかし、イエス様は永遠の昔から御父と一体であり、離れたことがありません。それが、罪が入ったために、御父から引き離されてしまったのです。パウロは「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」と言いました。そうです。私たちが神の義となるために、イエス様は私たちから罪を取り除いてくださったのです。昨年も受難週のときに申しあげましたが、これは私たちがお願いしたのではなく、神さまと御子イエス様がなさられたことです。罪の贖いに対しては、私たちは全く参与することではなく、神さまがご自身の義を満たすために、御子を遣わしたということです。このところに、神の義と神の愛があるのです。

2.信じる者

 ヨハネ3:16後半「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」前半は、神さまの贖いが一方的になされたことをお話ししました。贖いは私たちがお願いしたのではなく、神さまが人類を愛されたからです。しかし、このままでは私たち人類は救われません。神から私たちへの和解は成し遂げられました。次は、私たちがその贖いを受け入れ、神からの和解を受け取るかどうかであります。ヨハネはそのことを「信じる」というひとことで述べています。ヨハネによる福音書には「罪を悔い改める」という表現はどこにもありません。ある教会は「これまで犯した罪を1つ1つ告白して、それからキリストを救い主として信じるのですよ」と教えています。しかし、それは不可能です。なぜなら、自分で忘れた罪もたくさんあるからです。また、自分では正しかったと思っていても、罪であったかもしれません。もし、罪を全部告白しなければ救われないとしたなら、どれだけ罪を告白しなければならないのでしょうか?使徒パウロは「恵みのゆえに、信仰によって救われたからです」(エペソ2:8)と言っています。もし、犯した罪を悔い改めるとか、何かの償いをするとか、悪習慣をやめるという条件をつけるならば、それは恵みではありません。行いによる救いを説いていることになります。残念ながら、罪の悔い改めと信仰を2つにしている教会がいまだに多く存在しています。使徒2章でペテロが「悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」ということばはどうなるのか?と言われるかもしれません。しかし、ペテロはイエス様を十字架につけた張本人・ユダヤ人に語ったのであります。私たち異邦人の場合は、「悔い改めなさい」というのは、自分が罪人であることを認めて、神さまに立ち返りなさい、方向転換しなさいという意味になります。元来、「悔い改める」のギリシャ語「メタノイヤー」は罪とは関係のないことばで、「方向を変える」「考えを変える」という意味でした。ですから、ヨハネがいう「信じる」の中には、「悔い改め」が含まれているということです。しかし、それは個々の罪を告白するという意味ではなく、「自分は罪人であり、神さまが必要である」と考え方を変えるという意味になります。

 使徒パウロはローマ3章で、そのことをもっと詳しく述べています。ローマ3:22、24「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。…ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは「永遠のいのち」と言わないで、神の義と言っています。第一のポイントで申しあげましたが、神さまは義であります。神の義は御子イエス様が罪を負って十字架で死なれたことによってあらわされました。しかし、その神さまが、キリストを信じる者に神の義を与えるというのです。これはどういう意味でしょう?「神の義」というのは日本人にはピンとこないことばであります。これは法律用語で、「罪がない、全く赦された」という意味です。しかし、同時にその人に神の義が転化されることにより、神さまの基準に達するということです。つまり、神からの栄誉を受けることができ、神さまが持っているすべてのものをいただくことができるということです。簡単に言うと、信仰によって神の義をいただくと、永遠のいのち、神の御国の世継ぎ、神の子どもとしての特権、すべてのものを受けられるということです。ですから、私たちが「救い」と言う場合、キリストを信じることによって、神さまから義と認められるということが一番重要なことなのです。

でも、ヨハネによる福音書にはどのように書かれているでしょうか?「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」となっています。このところには、「滅び」と「永遠のいのち」の2つが書かれています。実はヨハネ3章には、2つのことが多く対比されています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」「世をさばく」というのは、「滅びる」と同じ意味です。また、「救われる」は「永遠のいのちを持つ」ということです。18節「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」このところでは、「信じない者はすでにさばかれている」とまで言っています。「滅び」、あるいは「さばき」とは何でしょうか?ヨハネは人が死んだら、やがて復活して神さまの前に立つと書いています。ヨハネ5:29「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」「さばき」というのは、ヨハネ黙示録20章にありますが、白い御座におけるさばきです。「死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いによってさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示録20:12,14)。イエス様は福音書で「ゲヘナ(焼却炉)」(マタイ5:29)と言っています。これは地獄であります。地獄はあるのです。でも、さばかれず地獄にもいかない方法が1つだけあります。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることない。御子を信じる者はさばかれない。」のです。ハレルヤ!私たちは死後、白い御座のさばきを受ける必要はありません。なぜなら、御子イエス様が私たちの代わりにさばかれたからです。キリストの贖いを信じている人は、義とされているので神のさばきを受ける必要はありません。パスされているのです。しかし、キリストを信じていない人は、神の義がないので、自分の義で神さまの前に立つしかありません。果たして、自分の義によって、義なる神さまにさばかれない人がひとりでもいるでしょうか?聖書は「信じる者はひとりとしてさばかれないで永遠のいのちを持つ」とはっきり言っています。「ひとりとして」ですから、「もれるひとはいない」「例外はない」「全部」ということです。ハレルヤ!

神さまは嘘をつきません。「信じるなら」と聖書ではっきり約束していますので、額面通り受け止めるしかありません。でも「信じる」とはどういう意味なのでしょうか?単純な言い方は、「もらう」あるいは「受け入れる」ということです。神さまは救いに関することはキリストにあって全部、完成してくださいました。神さまがおっしゃっていることは「このキリストをどうしますか」ということなのです。「キリストにある贖いをいただきます。」「あるいはキリストさまを受け入れます。」と求めることです。その瞬間、その人は救われて永遠のいのちを持つことができるのです。こういうことは、子どもが良くできます。大人になればなるほど、「ただより怖いものはない」と疑いが出てきて、信じようとしません。ある人は「信じた後、教会員になり、献金とかいろんな義務を負わせられる。好きなことや悪いこともできなくなり、不自由な生活を負わせられるのでは」と心配します。そして、「信じるのは死ぬ前にしよう」と言う人さえおるかもしれません。それは「永遠のいのち」の意味を知らないからです。永遠のいのちというのは、死んでからいただく「いのち」ではありません。ヨハネが言う「いのち」はギリシャ語で「ゾーエー」と言って、「復活のいのち」「神のいのち」という意味があります。これに比べ、私たちが持っているいのちは、「肉のいのち」あるいは、「魂のいのち」です。永遠のいのちは、神のいのちであり、信じた瞬間に与えられるものです。つまり、イエス様を信じた瞬間から与えられ、肉体の死がやってきても全く影響されません。死と関係なく、ずっと生きられるいのちです。でもこの「いのち」は、この地上にいるときから味わうことができます。ヨハネ10:10「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」そうです。イエス様がくださるいのちは、単なるいのちではなく、豊かないのちです。英語の聖書ではabundant lifeとなっています。Abundantというのは、「豊富な、あり余るほどの、恵まれた、満ち溢れた」という意味です。つまり、永遠のいのちは、この地上であっても効力を発するということです。つまり、天国に行ってからではなく、この地上でも天国の前味を味わいながら、生活できるということです。先ほど、献金、義務、悪いことができず、不自由な生活を負わせられるという心配がありました。しかし、永遠のいのちという神のいのちによって、そんなことは全く問題にならなくなるということです。生活も仕事も祝福され、きよめられて悪いことができなくなります。なぜなら、聖霊による自由と喜びと力が与えられるからです。

3.決断の時

 私たちはどこかで信じるという決断をしなければなりません。しかし、キリストを信じる信じ方は千差万別です。ヨハネ3章に出てくる人物はニコデモです。彼はパリサイ人でとてもまじめな宗教家でした。彼はイスラエルの教師と呼ばれていますが、サンヒドリンの議員でした。お金もあり、地位もありました。しかし、彼は飢え渇いていました。そして昼間ではなく、夜、人目をさけてイエス様のところを訪れました。イエス様から直球で、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。しかし、聖書で真理を求めてイエス様のところに来た人というのはあまりいません。ある人は病を癒していただきたくて、またある人は親しい人から誘われて、またある人は悩み事をかかえてやってきました。きょうここに来られている方も、自分で来たという人もおれば、義理で来たという人もいるでしょう。しかし、問題は救いを得たいという飢え渇きがあるかどうかです。15年くらい前になりますが、9時からジュニア礼拝を持っていました。私がギターを弾いて、メッセージをしていました。ある朝の礼拝で、中学の息子の友達が何人か来ていました。そのとき「永遠のいのち」についてメッセージをしました。最後に「君は永遠のいのちが欲しくないかい」と一人ひとり聞いてまわりました。一人の男の子は、首を横にふって「欲しくない」と言いました。私はとてもショックでした。「永遠のいのちがいらない人がいるのか?」とがっかりしました。そのとき、「きっと、その子は永遠のいのちという意味が分からないんだ」と思いました。

伝道者の書に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道3:11口語訳)と書いてあります。都会は明るくて見えませんが、数えきれない星が夜空に輝いています。その星を見ると、「ああ、永遠ってあるのかな?」と思いをはせることがあるでしょう。創造主なる神さまは、宇宙や自然界を通して、何かを私たちに語っておられます。しかし、きょうは聖書からはっきりと神さまが私たちに語っておられることばを紹介いたしました。これは神さまからの愛の招待状であります。神さまは、漠然とした何かではなく、キリストにある永遠のいのちを与えたいと願っておられます。この福音を信じる者は救われて、永遠のいのちを持つことができます。問題は飢え渇きをもって、「私にもください」と求めることです。そして、子どのものように神さまを信頼して受け取ることです。キリストを信じ、受け入れるなら、神の命、永遠のいのちが与えられます。最後に、まだ、信じていない人に語りたいと思います。ぜひ、このみことばの約束を信じて、自分のものにしてください。もう一度、ヨハネ3:16をお読みします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ひとり子イエスは神さまからの最大のプレゼントです。そして、永遠のいのちはキリストを信じる人に対する最大のプレゼントです。どうかキリストの十字架の死を無駄にしないで下さい。今は恵みのとき、今は救いの日です。きょう信じて、永遠のいのちをいただいてください。愛なる神さまはあなたを招いておられます。