2017.4.16「復活の意義 Ⅰコリント15:12-22」

 コリントの教会はキリストの十字架の贖いを受けて救われていました。しかし、キリストの復活は信じていませんでした。コリントはギリシャ哲学の影響を受けていたので、魂は肉体の牢獄の中に閉じ込められていると考えていたのでしょう。「死んだら魂が自由になるのに、なぜ、再び肉体に閉じ込められるのか、そんなのはナンセンスだ」と復活を否定していました。今日の私たちはキリストによる十字架の贖いと復活の両方を信じていると思います。でも、人はキリストの十字架の贖いを受けて救われるのに、なぜ、さらに復活が必要なのかということをお考えになったことがあるでしょうか?きょうは「復活の意義」と題して恵みを分かち合いたいと思います。

1.証拠としての復活

 私は数年前まで、キリストの十字架と復活を信じることが、救いのワンセットだと考えていました。つまり、キリストの死だけでは罪の赦ししか与えられず、プラスマイナス・ゼロの地点だと思っていました。そして、キリストの復活は私たちを義としてくださるためにあり、プラス地点に引き上げてくださるみわざだと考えていました。その根拠となるみことばは、ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このまま読むと、「主イエス様は私たちの罪のために死に渡された」、つまり罪の赦しであるように思えます。また、「私たちが義と認められるために、よみがえらされた」と考えてしまいます。それでは、罪の赦しと義とされることが、レベル的に違うことになります。でも、そうではありません。罪の赦しと義とされることは、同じことであって、表現が違うだけなのです。でも、なぜそのように間違った解釈をしてしまうのでしょうか?それは、復活が、人が義とされる目的のためであると考えるからです。つまり、主が復活されたことによって、私たちが義とされるという考えです。しかし、それは全く違っています。本当は私たちが義とされたので、主が復活されたのです。つまり、主イエスの復活が、私たちの義認の証拠であるということです。主イエスが神の義の要求を満たされたので、神さまが彼を復活させられたのです。さきほどのローマ4:25英語の詳訳聖書聖書をみますとこうなります。He was raised to secure our justificationとなっています。直訳すると、「彼は私たちの義認の保証になるためによみがえらされた」となります。つまり、私たちがキリストの復活を知るとき、「神さまはキリストの十字架で満足された。私たちはこれで義とされ、救われている」と安心することができるのです。

 それではⅠコリント15章からもう一度、そのことを考えてみたいと思います。Ⅰコリント15:4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」とあります。キリストは私たちの罪のために死なれたのです。アーメンです。でも、同じ章の14節と17節を見てみましょう。15:14「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」15:17「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」14節には「復活がなければ信仰も実質のないものになる」と書かれています。17節には「信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と書かれています。「実質のないもの」と「むなしく」は英語の聖書では両方ともemptyです。Emptyは「空虚な、無意味な、むなしい」という意味です。使徒パウロは、「キリストが復活しなかったなら、キリスト教信仰は無意味だ」と言っているのです。でも、今日の教会が、クリスチャンが、そこまで復活を重要視しているでしょうか?おそらく、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」で救いを得られると考えていると思います。伝道のときも、「キリストが私の罪のために死なれたことを信じます。アーメン」と告白してもらうでしょう。そのとき、「あなたはキリストの復活も信じなければダメですよ」とは言わないでしょう。なぜ、使徒パウロはキリストの復活にこだわったのでしょうか?テモテにも「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)と勧めています。「十字架で死なれたイエス・キリストをいつも思っていなさい」とは勧めていません。なぜでしょう?なぜ、キリストの復活がそれほど重要なのでしょうか?

 昨年のイースターでも引用させていただきましたが、ウォッチマンニー著の『神の福音』という本があります。その第一巻に「十字架と復活」について書かれていました。一般的に、教会は「あなたがキリストを十字架につけたのです」と言います。それを聞いた人は「ああ、そうだったんだ。私の罪のためにキリストが十字架で死なれたのですね」と信じるでしょう。しかし、それは全く違っていて、私たちがキリストの十字架の贖いには全く参与していないということです。キリストが十字架で罪を負って裁かれたので、神さまの義に対する要求が満たされました。次に、神さまはキリストを信じる者を義とすることをお決めになられました。ですから、私たちはこのキリストを信じるとき義とされるのです。信じた人は「キリストは、私の罪のために死なれました」と言うでしょう。でも、「本当にキリストを信じて義とされるのか?神さまは私をそのようにご覧になっておられるか」という不安は残らないでしょうか?もしかしたら、死んだ後、神さまの前に立ったとき「実は、イエスを信じるだけでは十分ではなく、良いことをしなければならなかったのです。この罪の償いはまだ残っています」と言われたらどうするでしょう?もしかしたら、天国の入口までは行けたけど、地獄に突き落とされるかもしれません。ジョン・バニヤンの本に天国の入口のすぐ脇に、地獄の入口があった」と書かれています。もし、そういう心配をして暮らしているなら、コリントの教会のように「あなたがたの信仰はむなしく、今もなお自分の罪の中にいる」ことになります。でも、そうじゃありません。復活は神さまがあなたを義と認めたことの証拠であります。何かの負債のために、お金を支払った場合、受領書をいただきます。キリストは私たちの罪の代価を全部支払って下さいました。キリストを信じるあなたは義とされるのです。だから、神さまはキリストをよみがえらせて、受領書を発行したのです。復活は、私たちへの神の受領書です。それは、その支払が十分であると認めるものです。あなたは今、ポケットに受領書を持っています。これから先、あなたが罪を犯したとしても、受領書を持っていれば安心です。キリストの贖いは十分であったので、裁かれる必要はないのです。だから、パウロはテモテに「死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」と言ったのです。イースターの日は、特別にそのことを覚える日であります。あなたはキリストを信じたことにより罪赦され義と認められているのです。そのために、神さまはキリストを復活させられたのです。アーメン。

2.初穂としての復活

Ⅰコリント15:19-20「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」世の中の人たちは、私たちは単なる希望を置いているだけと思っているかもしれません。しかし、キリスト教会の中にも、そういう人たちがいない訳でもありません。なぜなら、「キリスト教信仰とは精神的なものであり、心の支えだ」と思っているからです。つまり、その人にとっては救いかもしれないけど、他の人にとってはそうではないということです。そうなるとキリスト教信仰はきわめて個人的なものであり、主観的なものになります。確かに信仰というのは、そういう面があるかもしれません。でも、私たちが信じていることが虚構であり、事実とはかけはなれたものであるならどうでしょう?そうなると「私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」と言われても仕方がないでしょう。新改訳聖書では「今や」となっていますが、口語訳とリビングバイブル、英語の詳訳聖書は「しかし、事実、キリストは」となっています。どうして「事実」と書いているのでしょう?英国の聖書は「真実は」と訳しています。J.B.フィリップスはBut the glorious fact「しかし、栄光ある事実は」と訳しています。おそらく「事実」と言いたいのは、証言者があまりにも多かったからだと思います。15章5節に以降には、キリストの復活を見た人の名前や数が上げられています。普通、証言は2人もしくは3人で十分でした。ところが、ケパ、12弟子、500人、ヤコブ、使徒たち全部、最後にこの書物を書いたパウロであります。ということは復活は紛れもない事実であって、否定しようがないからです。つまり、私たちキリスト教信仰は、作り話や虚構ではなく、キリストが復活したという事実の上に立っているということなのです。

しかも、パウロはこのところで「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言っています。聖書では肉体が死ぬことを「眠る」と言います。私たちの魂は死んでも眠りません。ルカ16章にありますが、金持ちと貧乏人ラザロには死んでからも記憶があったことが分かります。死ぬ、つまり「肉体が眠る」ということは、いつかは目覚めるという前提があるからではないでしょうか?パウロはこのところで、「死者の復活はある」と主張しています。おそらく、パウロは旧約聖書から「死者の復活はある」ということを知っており、それが信仰の標準であると確信していたのでしょう。ところが、コリント教会の人たちは、ギリシャ哲学の影響を受けており、「死者は復活しない、肉体は一度死んだら生き返ることはない」と信じていたのです。つまり、死者の復活はキリストとは関係なく、昔から議論されていたということです。日本人は西洋の教育を受けているため、人間は死んだら消えてなくなると考えています。それは人間を生物的な物質として捉えているからです。しかし、日本人はアニミズムの国、神道の国なので、死んだ魂はどこかに行くんだと本能的に信じています。だから、人が死んだら「他界した」と言って、どこかで生きていると信じています。聖書は死んだ人の魂と死んだ人の肉体の両方を語っています。イエス様はヨハネ5章でこのように教えられました。ヨハネ5:28-29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」イエス様は善人も悪人もみんなよみがえると言われました。問題は、よみがえった後にいのちを得るか、さばきを受けるかの違いだということです。つまり、肉体的には一度よみがえるけれど、魂がいのちを得るか、さばきを受けるかどちらかだということです。できれば、私たちはさばきではなく、永遠のいのちを受ける方のよみがえりを得たいものです。

 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とありますが、これは正確に言うなら、クリスチャンとかクリスチャンでないとか関係ありません。キリストは眠った者、つまり肉体的に死んだ人の初穂として、死者の中からよみがえられたのです。つまり、死んだあと復活があるということが証明されたということです。コリント教会の人たちは「これはえらいことになった」と驚いたのではないでしょうか?なぜなら、ギリシャ哲学では、「肉体は悪なので、悪いことをしても魂には何の影響もない」と考えていたからです。そうではなく、肉体のことも責任があるからです。パウロは15章21節からこの章の終わりまで、復活のからだがどのようなものなのか克明に記しています。これを1つ1つ解説したなら午後3時くらいまでかかるでしょう。あと10分で終わるためには、短くまとめる必要があります。パウロは「キリストにあって眠った者たち」(18節)と言っているので、キリストによって義とされ、救われている人たちの将来を言っています。簡単に言うと、この肉体では永遠の世界では生きられないということです。なぜなら、この肉体は地上のためであり、朽ちて死んでしまうからです。しかし、神さまは永遠の御国で暮らせるように、栄光の体を用意しておられます。栄光の体というのは、すなわち復活したキリストのからだです。キリストは朽ちない栄光のからだに復活したのです。そのキリストが初穂として死者の中からよみがえられました。ということは、キリストにある私たちも、キリストのようによみがえらされるということです。初穂というのは、一番、最初に熟した麦のことです。広い畑から初穂が熟したということは、その後、どんどん熟していくという保証になります。つまり、キリストの復活は私たちもいずれ復活するということの、保証なのです。キリストが復活したので、私たちも同じように復活するということです。だから、私たちが抱いている希望は単なる希望ではなく、事実に基づいた希望なのです。世の人たちには、このような希望がありません。だから、死を恐れ、死のことは隠しておきたいのです。その証拠に病院に行くと4のつく部屋はありません。昔、ある病院に行ったら、4階がありませんでした。3階のあと、5階になっていました。「そこまでやる必要はないのになー」と思いました。なぜなら、病院は必ずしも治るために入ることころではないからです。半数以上の人は病院で死ぬからです。だから、私たちは生きているうちにキリストを信じて、死の問題を解決しておく必要があります。イエス様はヨハネ11章でこのように言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

3.勝利としての復活

 なぜ、復活が必要なのでしょう?キリスト教は魂の救いだけを言っていません。肉体の救いのことも言っています。言い換えると私たちの肉体が贖われることによって救いが完成するからです。私たちクリスチャンは「私は救われた、救われている」と言います。でも、それは「罪赦され、義とされている」「永遠のいのちが与えられている」という意味の救いです。しかし、私たちは、この肉体を幕屋にして暮らしているので、いろいろ問題が起こります。私たちの内なる人は日々新しいのですが、外なる人は衰えていきます(Ⅱコリント4:16)。だけど皆さん、私たちの本体は内なる人、魂です。外なる人である肉体は入れ物です。残念ながら、この世の人たちは、肉体のことしか考えていません。いろんな運動、サプリメント、化粧品、アンチ・エージング、いろいろ頑張っています。もちろん私たちも肉体をちゃんと管理し、健康に保つ必要があります。でも、この肉体は衰え、やがては死んでしまうのです。なぜなら、この肉体は地上のものであるからです。でも、神さまは私たちが天の御国で住める栄光のからだを用意しておられます。完全な救いとは何でしょう?それはこの肉体が贖われるとき、つまり栄光のからだに復活して、新しい天と新しい地において暮らす時であります。そこが私たちのゴールなのです。ハレルヤ!途中いろんなことがあるかもしれませんが、私たちのゴールはハッピー・エンドなのです。

 パウロがとても感動して述べています。Ⅰコリント15:54-57「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」パウロはまるで死に人格があるように呼びかけています。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」このところから分かることは、死は仲間ではなく、死は敵であるということです。おそらく仏教では死をそのように捉えていないでしょう。死はだれにでも来るものであり、避けがたいもの、諦めるべきものとして捉えているのではないでしょうか?でも、死が初めからあったわけではありません。人類に死が入ったのは、アダムが罪を犯してしまったからです。本来、人間は神のかたちに造られ、永遠に生きるべき存在でした。ところが、食べてはならない木から取って食べたために、人は死ぬようになりました。アダムがすぐ死んだかというとそうではありません。霊的に死んだあと、肉体が900年も生きました。930歳まで生きました。でも、死にました。私たちは長いと思うかもしれませんけど、永遠に比べたら短い年数です。Ⅰコリント15:21-22「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」アーメン。私たちキリストにある者です。私たちが復活するとき、このみことばが成就するのです。そして、そのとき死が完全に滅ぼされるのです。ですから、本当の勝利というのは、復活が起こり、死が滅ぼされる時なのです。その時、私たちの肉体は贖われ、完全に救われるのです。聖書はその実現を待っているのです。ハレルヤ!

私たちはどのような死生観を持っているでしょうか?「人間は死だらおしまいだ」という死生観でしょうか?それとも、「死は終わりではない、復活があり、勝利がある」という死生観でしょうか?実はそういう死生観を持っている人は、地上の生き方が世の人とは違ってきます。「希望はある」「報いはある」という人生で生きています。パウロは私たちをこのように励ましています。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」アーメン。私たちの信仰は死んで天国に行くだけの信仰ではありません。私たちの信仰はまだ完成はされていませんが、地上に住んでいる時から効力を発しています。簡単に言うと、この地上の生活が、永遠の生活につながっているということを実体験するということです。そのために「しかし、事実、キリストは死人の中からよみがえった」となるのです。つまり、その人は死ぬべき肉体のまとっていながらも、復活を生きているということです。復活は死後にいただくものではありますが、同時に、今、復活の命をいただいているということも本当です。だから、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とおっしゃったのです。キリストを信じる者には、聖霊によって復活のいのちが与えられていると信じます。だから、私たちは死にそうで死なない、倒れそうで倒れないのです。たとえ、病にかかるときがあっても、復活のいのちが内側から現れてくるのです。パウロは「この宝を土の器の中に入れている」と言いました。この測り知れない力というのは、私たちたちから出たものではなく、イエス様のいのちなのです。イエス様のいのちは、私たちが死に近くなればなるほど、内側から現れてくるのです。あなたも、私にも、キリストの復活のいのちが与えられています。