2017.4.23「~異邦人ルツへの神の憐れみ~」

◆聖書箇所: ルツ記1章1-6、15-17節

1:1

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

1:2

その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、

1:3

ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。

1:4

ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。

1:5

しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

1:6

そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、【主】がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。

 

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1:15

ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」

1:16

ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。

1:17

あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

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ルツ記と言えば、先ほど読んでいただいた箇所、

ルツ記1:16「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」ということばがよく知られています。ルツが姑のナオミに言ったこの言葉は、ルツがナオミに仕える姿や神への信仰をうまく表しています。

 

ルツ記のあらすじは、みなさんご存知だと思いますが、今日はルツ記を読んで神様からのメッセージをいただくとともに、少し視点を変えて旧約聖書全体からイスラエル民族と異邦人との関係についても見ていきたいと思います。

 

まずルツが描かれている時代背景は、1:1で 「さばきつかさが治めていたころ」と書かれていますので、旧約聖書の士師記の時代の出来事だと思われます。士師の時代というのは、モーセからリーダーを引き継いだヨシュアが死んだあとの時代です。

士師記にはギデオンやサムソンなど、12人の士師(さばきつかさ)たちが出てきますが、士師記21:25に 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」と書かれているほど、混乱した時代でした。政治的にも道徳的にも腐敗していて、神様への背教や偶像崇拝などが行われていました。

 

そのような暗黒の時代に、野に咲く一輪の花のようなエピソードとして記されているのがルツ記です。ルツ記のあらすじを簡単に申し上げますと、

 

①ベツレヘムに住むユダ族のエリメレクと妻ナオミ、ふたりの息子マフロンとキルヨンは、ききんのためにモアブの野に逃れ、そこに滞在した。

②エリメレクが死ぬ。息子ふたりはモアブ人の妻(ルツとオルパ)をめとるが、10年後に死ぬ。

③ナオミはベツレヘムに戻ることにした。モアブ人の嫁、ルツとオルパには、実家に戻るように勧めた。

④弟嫁のオルパは実家に戻り、兄嫁ルツはナオミとともにベツレヘムへ。

⑤ルツはナオミとの生活のためにボアズの畑で落ち穂を拾う。

⑥ボアズはエリメレクの畑の買い戻しの権利のある親類だった。(ただし二番目の権利者)

⑦ナオミの勧めで、ルツは打ち場でボアズに求婚する。

⑧ボアズは町の門で一番目の買い戻しの権利のある親類と取引をする。

⑨ルツとボアズは結婚し、オベデという息子が生まれた。オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデ。

 

というストーリーになります。この、

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

①神は律法を通して信仰者たちを守られた。

 

・・・・・ということです。

この律法というのは、買い戻しの権利についての掟で、「レビラート婚」といわれているものです。

 

「レビラート婚」とは、子どものないまま死んだ男子の兄弟は、その寡婦を妻として迎え、生まれた子に、家名、身分、財産を継がせなければならないという慣習です。この慣習は創世記38章のユダと嫁のタマルの記述や、ルツ記に見られます。また、これと同じ慣習は、ヒッタイト法やアッスリヤ法にも見られます。

 

日本でもかつては、「逆縁婚」とか「もらい婚」と呼ばれる、レビラート婚のような制度があったようです。

今大河ドラマで「おんな城主直虎」をやっていますが、戦国時代の婚姻などは本当に訳がわからないですね。

政略結婚もあって、みんなが親戚、みんなが兄弟みたいな感じです。

明治時代には「逆縁婚」が禁止された時もあったようですが、戦時中など、夫が戦死、あるいは行方不明になってしまった未亡人が生活に困窮することが無いための措置として行われていたこともあったようです。

では、聖書に規定されているレビラート婚を見てみましょう。

 

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<申命記24:5-6>

25:5

兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。

25:6

そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

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と書かれています。

この結婚が、どうしても嫌なら断ることはできましたが、断るとこのような仕打ちが待っていました。

 

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25:7

しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」

25:8

町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない」と言い張るなら、

25:9

その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」

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レビラート婚を断ったなら、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」と言わなければならない・・・とは、大変不名誉な仕打ちですね。

このことは、旧約聖書では結婚が単なる個人同士の愛情の問題ではなく、むしろ、次の世代も含む、共同体全体の問題であることを物語っています。

 

ルツ記のナオミの場合を考えると、先ほどお話した戦時中の未亡人のように、夫エリメレクに先立たれ、息子をふたりとも失ってしまったナオミの生計を確保する「保護措置」としてのレビラート婚の意味合いが強いです。

 

ナオミは夫も息子も失った自分の境遇を嘆き、それが全能者である神のさばきであると受け取っていました。

 

「ナオミ」という名前の本来の意味は、「わたしの喜び、快い」というものでしたが、ベツレヘムに戻ってきた時には、ルツ記1:20に書かれているように、「ナオミと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言っています。

 

ナオミは、「神からいただいた故郷ベツレヘムの地を捨てて、モアブの野で暮らしたことで神を怒らせてしまい、夫が死んだのではないだろうか。」と思っていたのでしょう。

そして、「それでも私はすぐに故郷に戻らずに、息子たちにモアブ人の妻を娶らせた。そのことで、息子たちも神の怒りに触れて死んでしまったのではないだろうか。」と考えていたのではないでしょうか。

 

しかし、神様はナオミとルツをお見捨てにはなりませんでした。ルツは買い戻しの権利を持つボアズと出会ったのです。レビラート婚の掟によると、ルツの場合は夫のマフロンの兄弟キルヨンも死んでしまっていたので、買い戻しの権利のある親類の人が代わってこれを成すことになります。

 

ナオミは言いました。

 

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<ルツ記2:20>

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない【主】が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

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この「買い戻しの権利」という言葉は、旧約聖書の原語ヘブル語では、「ゴエール」という言葉を使っています。「ゴエール」のもともとの言葉は、「ガアール」という言葉で、その意味は、「価をもって、以前自分の所有であったものを買い戻す。」あるいは、「復讐をもって取り戻す。」という意味があります。「ゴエール」は「ガアール」の分詞形で、「贖う者」という意味になります。

 

「贖う者」というと、イエス様の「十字架の贖い」を想い起しますが、ボアズが「異邦人を救うイエス・キリストの型である」と、よく言われる所以は、このゴエールという言葉からきています。

 

それにしてもボアズは、親切で誠実な良い人です。土地を買い戻すのにはそれなりの大金が必要です。

しかも、ボアズは、その土地を買い戻しても自分のものにはならないのです。

その土地は将来ルツとの間に生まれた子どものものとなるのです。

 

そういった損得勘定から、エリメレクの土地の第一の買い戻しの権利を持っていた親類は、権利を放棄してしまいました。ボアズは二番目に買い戻しの権利を持つ者だったので、エリメレクの家系を絶やさないために、また、ナオミとルツの生活を守るために、ルツと結婚しました。

もちろん、ボアズはルツが一生懸命姑のために働いている姿を見て、好意を持っていたこともあったと思います。

そして神様は、ナオミ、ルツ、ボアズのそれぞれの信仰に目を留めてくださり、律法を通して信仰者たちを守られました。神様は、ナオミの嘆き、ルツの姑に仕える姿、ボアズの誠実さに、レビラート婚を守ることを通して応えてくださったのです。神様の祝福は、神への恐れと愛と信仰が根底にあることが、このルツ記のレビラート婚から見出すことができます。

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

②神は異邦人をも愛し祝福してくださる。

・・・・・ということです。

聖書では、アブラハムの直系の子孫のイスラエル人以外は、みんな異邦人です。私たちも異邦人です。

 

ルツはモアブ人でした。モアブ人の祖先はアブラハムの甥であるロトとその娘たちとの間に生まれた子です。姉の子がモアブ人、妹の子がアモン人です。このことからモアブ人もアモン人もイスラエル人とは血縁関係があることがわかります。しかし彼らが信仰していた神は人身犠牲、特に幼児犠牲を求めるような神でした。

 

神様はアモン人とモアブ人を忌み嫌っておられました。

それは、イスラエルの民たちがエジプトから戻ってきた時に、モアブ人の王バラクはイスラエル人を恐れて受け入れずに、バラムを雇ってのろいをかけて追い出そうとしたからです。このことは民数記の22章に書かれています。

 

そして申命記23:3-4にはモアブ人についてこのように書かれています。

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<申命記23:3-4>

23:3

アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。

23:4

これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。

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これほどまでにモーセの時代に忌み嫌われていたモアブ人ですが、時が経ち、ルツが生きた士師の時代の頃には、比較的イスラエル人とモアブ人は友好関係を結んでいたようです。町の門でボアズが買い戻しの権利の取引をしたときも、ルツがモアブ人であるということを問題にした人はいませんでした。

 

それどころか、神は、モアブ人ルツの信仰を見て大いに祝福されました。

もともと神様は在留異国人にも憐みをかけておられました。

 

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<出エジプト22:21>

在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。

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このことからも、神は外国人であっても、イスラエルの神への全き信仰を表した者には、憐みをかけてくださり、祝福してくださる御方であることが解ります。マタイの福音書のダビデの系図には、他にも異邦人の遊女ラハブが、ボアズの母として入れられています。遊女ラハブは、ヨシュアのエリコ陥落のために手助けをした女性です。

 

神様はイエス様をこの地に遣わしてくださるずっと前から、私たち異邦人を排除することなく、目を留めてくださっています。ルツのように、「私の民」として隣人を愛し、「私の神」として、主を愛す者となりたいものです。

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

③神の律法をはき違えるのは人間の側。

 

・・・ということです。

新約聖書の福音書には、パリサイ人、律法学者たちがモーセの律法をはき違えてイエス様を敵対視していた様子が記されています。例えば彼らは、安息日に病人の癒しを行なったイエス様を訴えようとしました。

 

安息日は、神がこの世界を創造されたことを喜ばれて設けられた聖なる日、主の喜びの日です。

何が何でも働いてはならない、休まなくてはならない日ではありません。イエス様は主が喜ばれることをなさいました。癒しを必要としている人を治すことは主が喜ばれることなので、良いことなのです。

 

エズラ・ネヘミヤの時代にも同じような律法のはき違えと思えるようなことが起こっています。

エズラ・ネヘミヤ記は旧約聖書の歴代誌の後に記されている書物です。
♪歴代、エズ、ネヘ、エステル書♪

サウル、ダビデ、ソロモン王の統一王国時代、そして分裂王国時代、バビロン捕囚が終わって、イスラエルの民が故郷エルサレムに70年ぶりに戻って来た時の記録です。

 

エズラはアロンの子孫でモーセの律法に通じている学者でした。

エズラがペルシャからエルサレムに着いた時、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人たちが忌み嫌うべき国々の民(外国人)と雑婚している。」と聞き、律法の書に従って、すべての異邦人を追放しました。

 

夫婦は引き裂かれ、外国人の血が混ざっている子どもも、すべて追放されました。

このエズラ記、ネヘミヤ記に記されている雑婚に関する政策は大変無情なものでした。

 

中には偶像崇拝を行なわず、ルツのようにイスラエルの神に仕えた異邦人の妻もいたはずでしょう。家族ごと、イスラエルの神に仕えていた者もいたはずでしょう。そのような者たちを無情にも引き離した政策は、当時雑婚をしていたイスラエル人たちにとっては、神の憐みや祝福とはかけ離れたものだったことでしょう。

 

実はルツ記に関してこのような説があります。

ルツ記が書かれたのは、エズラ・ネヘミヤの無情な政策に対する「抗議」だったのではないかという説です。

「モアブ人のルツが、自分の故郷と宗教を捨てて、彼女の夫の家に忠誠をつくし、ダビデの系図に入れられた。」という事実を想い起こさせることで、無情なエズラ・ネヘミヤの政策に対して抗議をしたのではないかと考える人がいます。

 

これには賛否両論ありますが、「ルツ記は何のために、誰に向けて書かれたのか」ということを考えた場合、注目したいのは、このルツ記が聖書66巻の「正典」に入れられているという事実です。

旧約聖書39巻、新約聖書27巻がまとめられた時には、その都度、神様が介入なさったはずです。

ルツ記が聖書の正典に入れられた意味を考えてみると、神様の御心が解ってくるのではないでしょうか。

 

エズラ、ネヘミヤ記には、モーセの律法を遵守しようとする姿は描かれていますが、神様のことばが直接下ったというような記述は見当たりません。そのことから、当時の雑婚に対する政策は、エズラ、ネヘミヤや指導者たちの、人間的な考えによる粛清といった要素が強かったのではないかとも考えられます。

 

そんな中で、ルツ記はとても素朴で平和的な内容で、読む者の心を和ませ、豊かにし、励ましや希望を与えてくれる書物です。ルツ記の持つ世界観は、神への信頼、互いを受け入れ思いやる愛の心で満ち満ちています。

ルツ記を読むと、神様の御心とは何であるかということを改めて考えさせられます。

 

神様の律法をはき違えるのは、いつも人間の側です。十字軍、度重なる宗教戦争、ホロコースト、世界大戦など、聖書のみことばをはき違えた結果、憎しみ合い、多くの犠牲を生みました。

私たちは、神のことばである聖書を読む時に、神様の御心をはき違えることがないように気をつけたいと思います。私たちの思い込みで、せっかく神様が私たちにくださろうとしている、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の御霊の実を結べなくなったとしたら、何のためのみことばでしょうか。

 

今、日本は北朝鮮の問題でざわついています。私たちクリスチャンは、いつの時でも、このルツ記の世界観をもって、平和的な解決がなされるように、祈り求め、働きかけていきたいと思います。

 

◆ルツ記から私たちが知り得ることは、

①神は律法を通して信仰者たちを守られた。

②神は異邦人をも愛し祝福してくださる。

③神の律法をはき違えるのは人間の側。

 

神様の御心を知ることができますように!!