2017.7.2「上からの霊 ルカ24:49-53、使徒1:8」

 去る6月4日はペンテコステ礼拝の日でしたが、マタイによる福音書からの連続講義でした。正直に言うと忘れていたということです。クリスマスとイースター、そしてペンテコステは教会の三大祭りなので、やっぱり失礼かと思いました。本日は当亀有教会の創立記念礼拝(68年目)であります。ペンテコステの日、聖霊が下って、教会が創立されたのですから、あながち間違っていないと思います。きょうは「上からの聖霊」と題して、ペンテコステに関するメッセージをさせていただきます。

 

1.内住の御霊

 クリスチャンであるならば、もれなく命としての聖霊を内側にいただいています。イエス様を信じて、心に迎え入れている人は、聖霊を受けているということなのです。その根拠となるみことばがこれです。ローマ8:9「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」パウロは逆説的に言っていますが、キリストを信じている人は、もれなくキリストの御霊を持っているということです。でも、なぜ「キリストの御霊」と言うのでしょうか?聖霊とキリストの御霊とは一体どこが違うのでしょうか?ヨハネ14章から16章まで、イエス様は「御霊」について弟子たちに話されました。イエス様はまもなく天にお帰りになろうとしていました。しかし、イエス様は「あなたがたを捨てて孤児にしない」と言われました。そして、ヨハネ16章でこのように言われました。ヨハネ16:7「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」そうです。イエス様の代わりに、父のもとから遣わすのが、助け主、聖霊であります。助け主、聖霊は、キリストと全く同じお方です。違うのは「父、子、聖霊」という位格(ペルソナ)が違うだけです。なぜ、益になるのでしょう?イエス様がこの地上におられたときは肉体を持っておられました。イエス様がガリラヤにいると、エルサレムにいることはできません。しかし、キリストの御霊によって来られると、どこでも同時にいることができます。マタイ28章の終わりに「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と書いていますが、それは聖霊によって可能なのであります。神さまが共にいるということが、聖霊が私たちの中に住むことによって実現されたのです。一番近いところは、そばではなく、私たちの内側であります。

 では、聖霊はどのようにして、私たちの内側に住むことが可能になったのでしょうか?また、いつからそのことは実現されたのでしょうか?旧約聖書の時代は、聖霊は「神の霊」としておられました。父なる神がこの世界を造られたとき、また人間を創られたときも、神の霊が参与していました。私はアダムが罪を犯す前までは、神の霊は内側におられたと信じます。人が罪を犯してから異変が起こりました。創世記6:3「そこで、主は、『私の霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。』」とあります。そのため旧約聖書の時代は、聖霊は内に住むということはありませんでした。特別な人たちの上に一時的に聖霊が留まっていただけです。内側ではなく外側です。最も顕著な例はサムソンです。士師記14:6「このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。」と書いてあります。サムソンの怪力の源は、聖霊でした。「主の霊が激しくサムソンの上に下った」という表現が何度も出てきます。また、ダビデの上にも聖霊がおられたと思います。ダビデはこのように祈っています。詩篇51:11-12「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」ダビデは有能な司令官であり、琴の名手であり、多くの詩篇を書きました。しかし、それらの能力は聖霊によって与えられたものでした。ソロモンは特別な知恵が与えられていましたか、それは聖霊のゆえでした。箴言1:23「私の叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたに私の霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」旧約聖書の時代は、聖霊は外にはおられても、人の中には住んでおられませんでした。その証拠に、イスラエルの人たちは、いくら神さまから正されても、罪を重ね続けました。彼らには律法を守る力が全くありませんでした。しかし、希望の預言が記されています。エゼキエル36:26-27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。私はあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。私の霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行わせる。」

 

 このことが、ヨハネ3章に言われている聖霊による新生です。私たちはイエス様を信じると、死んでいた霊が新しく生まれます。霊的に生きた者となり、霊なる神さまと交わりを持つことが可能になります。では、聖霊は私たちのどこにお住まいになるのでしょうか?それは、新しく生まれた私たちの霊に聖霊が宿るのです。旧約聖書ではモーセの幕屋のことが記されています。神さまはどこに臨在されるかと言うと、聖所の奥の間、至聖所です。たとえて言うなら、外庭は私たちの肉体です。聖所は私たちの魂(心)です。そして、至聖所は私たちの霊です。そこに、神の霊、聖霊が臨在されるのです。私たちの一番中心、奥の奥に、聖霊様がお住みになります。ところが、私たちの生まれつきの魂が、聖霊様に聞き従うことを嫌がります。ガラテヤ書に「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうのです」と書いてあります。クリスチャンになると、平安で幸せになるかというとそうではありません。しばらく葛藤が続いた後、肉を十字架につけ、御霊によって生きることが一番良いことであると学びます。エペソ5章には「御霊に満たされなさい」と書かれていますが、それは聖霊に支配されて、聖霊によって歩みなさいということなのです。クリスチャン生活の勝利の秘訣は何でしょう?内に住んでおられる聖霊様を認め、歓迎し、従いましょう。新約時代、最もすばらしい恵みは、聖霊が私たちの内に住んでおられることです。

2.上からの霊

 さらに、私たちは上からの霊をいただく経験が必要です。イエス様のことを考えてみましょう。イエス様はおとめマリヤに宿ったとき命としての聖霊を内側にいただき、聖霊に満たされていました。イエス様が30歳になられたとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。マタイ3:16「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」とあります。これは、イエス様がこれから神さまのために働こうとした時、聖霊を上からいただいたということです。イザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ…」とあります。イエス様は力としての聖霊を上から受けたので、福音宣教と病の癒しと悪霊の解放ができるようになったのです。イエス様はご自分の神としての力ではなく、聖霊によって様々なミニストリーをしたのです。これは、私たちもイエス様のように聖霊を上からいただいたなら、同じことができるという保証です。だから、イエス様は弟子たちに聖霊を上から受けるまで、エルサレムにとどまるように命じたのです。ルカ24:49「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」まるで聖霊を着物でも着るかのように言われています。ルカは福音書の続編「使徒の働き」も書きました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」とあります。英語の聖書にはcome upon you「上から」となっています。信じたとき聖霊が内側に住むのは、in「中に」です。そして、聖霊が上に臨まれるのは、upon「上から」です。私たちはinだけではなく、uponの経験も必要なのです。なぜなら、そのことによって奉仕の力、証の力、悪霊を追い出す権威が与えられるからです。

 イエス様が昇天されて10日後、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に降りました。注目すべきことは、120人には二種類の人たちがいたということです。第一のグループは既に聖霊を内側にいただいていたけれど、ペンテコステの日に聖霊が上から臨んだという人たちです。第二のグループはペンテコステの日に聖霊が内側に住み、上からも臨むことを同時に経験した人たちです。第一のグループとは、ユダを除いた、11人の弟子たちです。ヨハネ20章に記されていますが、彼らはイエス様が復活した日曜日の夕方、部屋に集まっていました。戸が閉じてあったのに、イエス様が入ってこられました。ヨハネ20:22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」イエス様が息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われとき、11人の弟子たちは内側に命としての聖霊をいただいたのです。いわゆる、それは内住の御霊です。でも、そういう弟子たちにイエス様は、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」とお命じになられました。なぜなら、そのままでは力がないからです。彼らが世界の果てにまでキリストの証人になれたのは、ペンテコステの日、上から聖霊をいただいたからです。使徒の働き2章に、ペンテコステの描写があります。使徒2:2-4「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」激しい風と炎は聖霊による力を象徴しています。また「舌」は福音を語り、キリストの証人になることを象徴しています。彼らはこのとき、聖霊に満たされました。

 私は福音派で育ったので、「聖霊のバプテスマ」ということばを使うのをためらっていました。ビリーグラハムは『聖霊』という本で「聖霊のバプテスマ」のことを書いています。ペンテコステ以来、すべての人はイエス様を信じるとき、聖霊を受けるということです。そして、聖霊に満たされることが「聖霊のバプテスマ」であると言います。私も長い間、そのように信じていました。でも、ウィットネスリーは、「イエス様を信じてから内側に聖霊で満たされるのと、聖霊のバプテスマによって外側から満たされるのは違う」と言っています。前者はギリシャ語で「プレロー」であり、内側で満たすという意味です。エペソ5章の「御霊に満たされなさい」というのは、この「プレロー」です。それは「霊の中で満たされなさい」という意味です。後者の「プレソー」はギリシャ語で、外側で満たすという意味です。たとえば人が水でバプテスマされるとき、水槽の中にドブンと入ります。するとその人の外側が水で満たされます。同じように聖霊によってバプテスマされるとは、外側で聖霊に満たされるということです。使徒の働き19章にありますが、パウロがアナニヤから手を置いて祈ってもらいました。その時、再び目が見えるようになり、聖霊に満たされました。その「満たされる」は「プレソー」であり、外側の満たしのために、聖霊が注がれたということです。バプテスマのヨハネは「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになる」と言ったのはそのことです。でも、ペンテコステ以来、命として内側に聖霊をいただくのと、力として外側から聖霊をいただくのが同時に起る場合もあるということです。なぜなら、11人を除いた120人の人たちは2つのことを同時に体験したからです。使徒の働き10章に書いてありますが、コルネリオたちも2つのことを同時に体験した人たちです。しかし、各時代を通して、多くの人たちは救われた時に内側に命としての聖霊の経験をしただけで、しばらくたってから外側の力としての経験をしています。そればかりか力としての外側の経験を全くしていない人もいます。でも、重要なことがあります。だれでも内側の命としての経験なしに力としての外側の聖霊を経験することはできません。第一のステップは、イエス様を信じて内側に聖霊を受けることです。霊的に新しく生まれ変わると言うことです。第二のステップは、神さまに用いられるべく、力としての聖霊を上からいただくということです。ルカ11:13「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」これは、聖霊の2つの経験をしたルカが言っていることばです。マタイには特に書いていませんが、ルカはあえて「聖霊を下さらないことがありましょう」と書いています。ルカが言うように、私たちが求めるべきものの中で最も良きものは聖霊です。

3.按手の力

 按手は元来、手を置くという意味です。しかし、この場合の按手は英語でimpartationと言います。Impartationは分与、授与、伝達、伝授という意味です。第二のポイントで「上から力としての聖霊をいただく」ということをお話ししました。ペンテコステの日は、天から120人の人たちの上に聖霊が臨みました。これは一方的に、神さまから与えられたということです。使徒の働き4章にも、「弟子たちが祈ると一同は聖霊に満たされた」と書いてありますが、これも一方的に、神さまから与えられた上からの聖霊です。でも、聖書を見ると、だれかが手を置いて祈ると、聖霊に満たされた、つまり、上から力としての聖霊をいただいたという記事がたくさんあります。さきほど、「アナニヤがパウロの上に手を置いて祈ったとき、聖霊に満たされた」と言いました。使徒の働き8章はピリポによるサマリヤのリバイバルが記されています。ピリポは信徒でありましたが、福音を宣べ伝え、癒しを行いました。その後、エルサレムからペテロとヨハネが遣わされてきました。使徒8:16-19「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。神学的に、サマリヤの人たちが主イエスの御名によってバプテスマを受けたとき、命としての聖霊を内側にいただいたと言えます。でも、ここでは「聖霊がまだだれにも下っておられなかった」と書いてあります。これは力としての聖霊が下っていなかったという意味です。どうしたでしょう?「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」とあります、これはいわゆる聖霊のバプテスマ受けたということです。その結果、異言や預言など顕著なしるしが現れたのでしょう。だから、シモンはお金を持ってきて、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と願ったのです。でも聖霊はお金では買えません。

 同じようなことが使徒19章にも書いてあります。エペソの人たちは、バプテスマのヨハネの悔い改めのバプテスマしか知りませんでした。だから、だれにも聖霊が与えられていなかったのです。エペソの人たちは、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。その時、内側に命としての聖霊が宿ったと信じます。パウロはそのままにしておきませんでした。使徒19:6「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」パウロが手を置いたとき、聖霊が上から臨み、聖霊の賜物が現れたのです。つまり、力を得たということです。これは水のバプテスマではなく、聖霊のバプテスマと言うことができます。パウロがローマに生きたかった1つの理由は何でしょう?ローマ1:11「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」これが、Impartation、聖霊の力の分与という意味です。パウロはテモテのことをとても心配しています。Ⅰテモテ4:14「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」テモテは長老たちから按手を受けました。その時、預言によって聖霊の賜物をいただいたようです。Ⅱテモテ1:6「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」どうも、テモテは聖霊の賜物を疎かにしていたようです。それが、消えかかっていたということです。Ⅰテサロニケ5:19-20「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません」とあります。だから、パウロはもう一度、按手して、燃え立たせたいと言っているのです。

 トロントのリバイバリストで有名なランディ・クラークという使徒的な方がおられます。彼は高校生のときひどい交通事故にあい、顎の骨が砕け、あばら骨も折れ、内臓も損傷しました。ところが、バプテスト教会で開かれたリバイバル集会で奇跡的に癒されました。砕けていた顎の骨が一瞬にくっつき、歩けるようになりました。彼はやがてバプテスト教会の牧師になりますが、ある時、ヴィンヤードの牧師たちから祈ってもらいました。そのときImpartationを受け、強い電気に打たれたようになりました。1994年1月20日、トロント空港の近くの教会で講演を頼まれました。4日間の予定だったのですが、何百万人もの人々に影響を与えるリバイバルが始まりました。ランディ師は癒しだけではなく、Impartationを与える先生です。彼が按手すると、人々は電気に打たれたようになり、その後、癒しや奇跡のわざを行う人に変えられます。彼から按手を受けた人が、南米やアフリカの国々、イスラム教の国々に遣わされます。するとそこですばらしい癒しや奇跡のわざが起こります。彼はある本で「失われたImpartationの教義を回復する」と書いています。初代教会にあった按手による聖霊のバプテスマがどうしてなくなったのか?現代の教会が「使徒たちが天に帰り、聖書が完成した今は、めざましい癒しや奇跡は終わった」という休止の神学を信じていることを嘆いておられます。しかし、そういう教会や牧師が聖霊の力に触れると変えられるのです。去る5月ファイヤー・カンファレンスがあり、3日間、聖霊の力をもっと受けたいと叫びまくりました。そこで教えられたことは、飢え渇きだということです。私たちは聖霊をかき混ぜていただく必要があります。上からの聖霊は一度きりではありません。何度も何度も満たされる必要があります。あなたは聖霊に飢え渇いているでしょうか?預言者エリシャはエリヤを追いかけました。なぜなら、エリヤがまもなく天に引き上げられることを知ったからです。エリヤは「私はあなたのために何をしようか?私が取りさられる前に、求めなさい」と言いました。エリシャは「あなたの霊の、二つの分け前をください」と願いました。エリヤが竜巻に乗って天に上って行ったとき、エリヤの外套が落ちてきました。すかさず、エリシャはその外套を着ました。その時、エリヤの霊がエリシャの上に留まりました。エリシャはまさしく、エリヤの二倍の奇蹟を行うことができました。エリヤの外套とは、まさしく上からの聖霊です。私たちはエリシャのような飢え渇きが必要です。クリスチャンであるなら聖霊は内におられますが、さらには聖霊を上からいただきましょう。神からの力、神からの油注ぎをいただきましょう。