2017.10.29「~主の日のしるし~ ヨエル書2章28-32」

◆聖書箇所: ヨエル書2章28-32

 

2:28

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

2:29

その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

2:30

わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。

2:31

【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

2:32

しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。

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鈴木先生は新約聖書から連続講解説教をされているので、私は今回も旧約からお話させていただきます。

前回、前々回のメッセージは、「ルツ記」と「ホセア書」一書全体を取り上げる、「一書説教」でした。

今回も一書説教で、「ヨエル書」全体を取り上げます。

 

「ヨエル書」は全体で3章しかありませので、旧約聖書の「預言書」の中では、「小預言書」と分類されている短い書物です。

 

前回お話した「ホセア書」は小預言書の中でも、14章というボリュームがある預言書でした。

そしてホセアという預言者がどのような人物であったかということについても詳しく書かれていました。

 

しかし、「ヨエル書」はヨエル自身のことについては何も書かれておらず、冒頭の言葉、「ベトエルの子ヨエル」ということしか解りません。

 

「ヨエル」という名前は、「ヤハウェは神」という意味です。

旧約聖書のヘブル語で「hwhy (ヤハウェ)」と書かれている聖四文字は、唯一神を表します。

「ヤハウェは神である」と宣言しているような名前を持つ「ヨエル」です。

いったいどんな人物だったのでしょうか。

 

「ヨエル書」は少し恐ろしい感じの終末預言について書かれています。

ただ淡々と「いなごの襲来」と、「主の日」について預言するヨエルからは、ルツやホセアのような、情熱的で、どこかほっこりするような印象の人物像はどうも浮かびません。

これは私の勝手なイメージですが、脇目もふらず研究に没頭する学者のような人だったのかもしれません。

 

ただヨエル書は、先ほど読んでいただいた箇所が、使徒の働き2章16節-21節でペテロが引用しているほど、イスラエルの人々にとっては大切な預言書でした。

本日の説教題の「主の日のしるし」とはいったい何のことをさしているのでしょうか。

現代の私たちの世界と照らし合わせて「ヨエル書」をじっくりと見ていきましょう。

◆①ヨエルの時代、すべての国民への警告

 

1章では、「いなごの大襲来」を通して、すべての国民に警告を発しています。

先ほども触れましたが、ヨエル書というと、「いなごの来襲」と、「主の日」というキーワードが印象的です。

「いなご」を意味する言葉は旧約聖書には10種類ほど出てきます。

ヨエル書にはその中の4種類ほどが出てきます。1章4節をご覧ください。

 

そこには、「かみつくいなご」「いなご」「ばった」「食い荒らすいなご」と4種類出てきます。

 

中近東などで十数年に一度「いなご」や「ばった」の大群が襲ってくるそうですが、それらは農作物をすべて食い尽くすほどの害虫です。

 

最近では2~3年前にロシア南部の地域を襲った「いなご」の大群のニュースが話題になっていました。80万ヘクタール(東京ドーム約17個分)の土地の農作物が荒らされ、ロシア当局は非常事態宣言を出しました。

 

原因は地球温暖化の影響ということらしいですが、その「いなご」の大きさは8センチ、大きいもので12センチもあったということです。

 

日本では「いなごの佃煮」などで食用とされる小さな「いなご」のイメージですが、12センチもある大きな「いなご」が何百万匹も襲ってきて、農作物を食い尽くすのですから、本当に恐ろしいです。

 

ヨエル書1章の「いなご」について、昆虫の「いなご」ではなく、他国からの侵略軍の比喩だと考える人もいますし、黙示録に書かれている「いなご」から、終末的な解釈をする人もいますが、ここではヨエルの時代に、文字通り「いなごの大来襲」があったと考えてよいと思います。

 

こんな話をすると、「いなご」の話ばかり印象に残ってしまいそうですね。

 

とにかく、ヨエル書1章では、このような「いなご」の来襲によって、人々は悲嘆のどん底に陥ったことが記されています。そして1章15-16節には、

 

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<ヨエル1:15-16>

ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。

私たちの目の前で食物が断たれたではないか。

私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。

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と書かれています。「いなご」の来襲は、すべての国民への警告でした。

私たちの目の前で食物が断たれ、私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせました。

ヨエルはここで「いなご」と「主の日」を関連付けています。

 

ヨエルは1章~3章すべてに、「主の日」について言及しています。

 

※「主の日」とは、「神が人間の歴史に絶大な主権と力をもって介入される時」のことです。

 

おそらく、1章と2章のはじめの「主の日」は、ヨエルの時代に起こったことか、近い将来の出来事であり、本日の聖書箇所である、2章後半の「主の日」は、終末の時、イエス様の再臨の時を表していると考えられます。

 

1章と2章のはじめでは、さらに激しい「いなごの大来襲」による破壊がおこり、火が荒野の牧草地を焼きつくし、水の流れが枯れ、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、太陽も月も暗くなり、星もその光を失います。

 

ヨエルは、ヨエルの時代に実際に起こった「いなごの大来襲」を体験して、これが神の怒りによるものであることを知りました。

 

そして、もっと恐ろしい破壊的なさばきが行われる「主の日」が近づいているということを警告し、シオン(エルサレム)の人々に、シオンで角笛を吹き鳴らし、断食をし、民を集め、悔い改めの集会の召集をするようにと呼びかけました。

 

そして、南ユダの人々の悔い改めに主が応えてくださることを預言しました。

次に2章後半です。

 

◆②人は主の日のしるしを無意識に感じとっている。

 

2章前半までは、ヨエルの時代に起こった出来事について預言されていましたが、後半からは、終末、イエス様が再び来られる再臨の時の出来事を預言しています。

 

いよいよ私たちに深く関係してくる預言です。

まず、本日の聖書箇所、2:28-29節。

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2:28

その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

2:29

その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

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これは、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下った時に成就したのか、あるいはペンテコステで部分的に成就し、終末まで継続していくのかは諸説あります。

 

しかし、肝心なのは、旧約時代は神の霊は特別な人、モーセや預言者などの神の人にだけ注がれていましたが、ペテロの時代からは、性別、年齢、身分や国に関係なく、すべての人に神の霊が注がれているということです。

 

これがどんなに素晴らしいことかを、私たちは再認識する必要があると思います。

私たちには聖霊なる神様が注がれているのです。大いに歓迎して受け取りましょう。

 

そしてヨエルは2章30-31節で、再臨の時が近づいたときの「主のしるし」としてこのようなことが起こると言っています。

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2:30

わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。

2:31

【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

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天と地に現れる不思議なしるし、「血と火と煙の柱」とは何でしょうか。

戦争などの人為的なものから来るものなのでしょうか。それとも自然災害などによるものなのでしょうか。

「太陽はやみとなり、月は血に変わる」とは、天変地異が起こるということなのでしょうか。

 

最近、天変地異も多いですが、人為的な破壊もたくさん見られます。

主の大いなる恐るべき日が近づいているのでしょうか。

 

車いすの物理学者として有名な、イギリスのホーキング博士は、「人類の未来はあと1000年で終焉を迎える」と未来予測をしていましたが、今年に入ってこの予測を全面的に見直し、その結果、「人類に残された時間はせいぜい100年しかない」と、一気に900年も縮めて修正しました。

 

ホーキング博士は、なぜそのように予測したのでしょうか。

ホーキング博士の発言を要約すると、「核戦争を招きかねない危険な世界の政治情勢、地球温暖化の問題。そして人工知能など科学の進歩は、労働者を必要とせず、社会的には失業者が増えて破壊を招く。労働者、中産階級、政治家の隔たりは避けられず、地球にとって最も危険な時期が来た。」と語っています。

 

みなさんはこの未来予測、「地球はあと100年」について、どう考えますか。

100年というと、私の孫の時代です。短すぎます。

しかしおそらく、この問題に関して楽観的に観る人は少ないと思います。

みんな心のどこかで、今の世界の状況について、「いつ何が起こっても不思議ではない」と感じているのではないでしょうか。

 

また、天変地異についても、自然災害や異常気象も日増しに増えて来ていることを考えると、「あと100年」というのはあり得ることではないでしょうか。

 

こんな危険な状態なのに、私たちはあまり深く考えないようにして生きています。なぜでしょうか。

それは、「人はいつかは必ず死ぬ」という事実と同じくらい、「主の日がいつかは必ず来る」ということを無意識に知っているからです。知っているからこそ打ち消そうとするのです。

 

私たち人間は神に似せて造られたがゆえに、生まれつき不思議な力を秘めていると私は考えています。

それは、平和な日常の中でも無意識に終末を感じ取っているという、預言的な力のことです。

 

ですから、ヨエル書に記されている「主のしるし」についても、「ああ、書かれていることは、いつかそのうち起こるだろうな。」と心のどこかで感じ取っているのです。

 

それはイエス・キリストを救い主だと信じている人も、信じていない人も同じです。

 

そこで、私たちが決断することは、ヨエル書の次の聖句、

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2:32

しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。

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この「主の名を呼ぶ者」、主に立ち返り、「御名を呼び求める者」になるか、ならないかという決断です。

「主の名を呼ぶ者」には、絶対的に永遠に変わらない希望と平安と祝福を、神様は用意してくださっているとヨエル書は語っているのです。

 

それなのになぜ、人は真の神様から目を背けようとするのでしょうか。

それは、人の心はシンプルには造られていないからです。

 

◆③福音はシンプル。しかし人の心はシンプルではない。

 

福音を伝えること自体は、実にシンプルです。

「イエス・キリストは救い主です。悔い改めて信じてイエス・キリストは救い主だと告白しましょう。」

しかし、人の心はそんなに単純ではないので受け入れられません。

 

なぜなら人の心は、喜びと悲しみだとか、希望と絶望などは表裏一体に造られているからです。

 

解りやすく言えば、私たちは、「このような平和な幸せはずっと続くわけではないだろう」という、恐れとか諦めてしまう心と同時に、「こんな争いや不幸はずっと続くわけではない」と、前向きに考える心をあわせ持っているということです。

 

ヘンリー・ナウエンは有名なカトリックの司祭ですが、著書の中で人の心についてこのように語っています。

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  • ヘンリJ.M.ナウエン 『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』

 

「悲しみと踊りが互いに触れ合うところ」 3月28日

泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時があり」(コヘレト3:4)。悲しむことと踊ることを完全に分けることは出来ません。

一つが、必ずしも、もう一方に続くわけではありません。実際には二つの時が一つの時となるかもしれません。

一方が終わりもう一方が始まるはっきりとした時点が示されることなく、悲しみが喜びに変わり、喜びが悲しみに変わるかもしれないのです。

 

しばしば、悲しみのための空間が踊りによって作り出される一方で、その踊りの振り付けは悲しみによって生み出されてゆきます。私たちは親友を失って涙にくれながら、味わったことのない喜びを見出したりします。

 

また成功を祝う喜びの談笑のただ中にあって、深い悲しみに気づくことがあります。悲しむことと踊ること、悲嘆と笑い、悲しみと喜び。これらは、悲しい顔のピエロと嬉しそうな顔のピエロが一人であるように一つのものです。

 

こういう顔のピエロが、時に私たちを泣かせまた笑わせるのです。私たちの人生の美しさは、悲しみと踊りが互いに触れ合っているところで見えるものとなることを信じましょう。

 

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このようにヘンリー・ナウエンは、悲しむこと、踊ること、悲嘆と笑い、悲しみと喜びをひとつのものとして捉えています。悲しみと喜びは別々のものではなく、完全に分けることはできないのではないかというのです。

 

私もそう思います。

人は笑い転げていても、実は心の中は悲しみで一杯の時がありますし、反対に悲しみの涙にくれていても、心には希望と喜びが溢れていたりもします。そのような心の深みは、神様が人間にのみ与えてくださったものです。

 

人の心はシンプルではありません。だからこそ人はユニークな存在だと言えます。

ヘンリー・ナウエンはそれを「人生の美しさ」と言います。

 

私たちの心は「主の日」が来るのを恐れながらも待ち望む、最後の審判の時が来ないでほしいと思いつつ、早く来てほしいと願っています。

一見矛盾していますが、これが人間です。「人生の美しさ」なのかどうかは、わかりませんが・・・。

 

主に立ち返り、「御名を呼び求める者」になるか、ならないか、信仰を持つか持たないかという決断についても複雑な心の動きがあります。

 

私たちが、大切な人にイエス様の福音を伝える時も悲しみと喜びの両方があります。

聖霊の注ぎを受けて、思い切って福音を伝える。けんもほろろに突き放され玉砕する。泣きそう。悲しい・・。

でも、真実をきちんと伝えたんだという喜びと、いつか受け入れてくれるのではないかという期待もあります。

 

反対に、相手が福音を受け入れてくれた時は本当に素直に嬉しい。「やった!ハレルヤ主に感謝します!」

と喜ぶと同時に、「もっと早くに伝えればよかった。もっとたくさんの人に伝えることができたならいいのに。」と思います。ついに伝えられないままで、亡くなってしまった人のことなど考えると、悲しくなってくるのです。

 

福音を伝えられた側の人も同じです。「もう二度とキリストについて語ってくれるな。放っといてくれ!」と言いながらも、神の圧倒的臨在や、真理、希望について、実はものすごく感じていたりもします。

 

福音はシンプルですが、人の心は単純ではないのです。

だからこそ、あえて単純に聖書のことばを受け取り、素直に、愚直に伝えたいと思いませんか?

 

ヨエル3章では、「主の名を呼ばない者」、つまり異教徒へのさばきが語られます。

そして、主の名を呼ぶ者には祝福が記されています。

 

ヨエル書を読んで私たちが改めて知ることができるのは、「主の日」は必ずやって来るということです。

そして、主なる神様は「主の名を呼ぶ者」をみな救ってくださるということです。

主はイスラエル民族だけではなく、すべての民を招いてくださっているということです。

そのことを、心を込めて伝えればよいのです。

 

先ほど、「主の日」とは、「神が人間の歴史に絶大な主権と力をもって介入される時」のことだと言いましたが私たちは、もっとイエス・キリストの出現を人類の歴史全体の出来事として捉える必要があると思うのです。

 

主なる神様は、ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださり、十字架の贖いと復活の勝利により、信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。

 

イエス様の出現は、神が人間の歴史に絶大な主権と力をもって介入された、「主の日」「その日」とも表現できる出来事です。

そしてこの恵みは、世のすべての人々へ与えられている希望です。

 

主はすべての人々を招いてくださっているのです。

「キリスト教は、遠い外国の宗教でしょ?」と思っている人たちに、「いいえ。イエス様の恵みはあなたのものです。」と伝える必要があります。

 

主は「恐れるな」と言ってくださっています。

私たちは、不穏な動きが世界で起こるたびに、「これは主の日のしるしではないか」、「主の日が近いのではないか」と感じて、焦りながら、なすすべもなく過ごすのではなく・・・

 

すべての国民が主の御名を褒めたたえる時が来るように願い求め、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」という主からのメッセージ、そしてイエス・キリストの福音を広く宣べ伝えていくために、私は今、何をすべきなのかということについて、神に祈り求めていきましょう。