2017.12.17「ヘブル書のクリスマス ヘブル8:6-13」

 紀元前を表すB.CはBefore Christ 「キリスト以前」という意味です。また、紀元後を表すA.Dはラテン語から来ており「主の年において」という意味です。歴史が2つに分けられたと同じように、キリストを境にして、聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれています。聖書の「約」は契約の「約」です。キリストは、古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てるために来られたのです。そのため、古い契約を終わりにするため、キリストは死ぬ必要がありました。クリスマス、神が人となってこの地上に生まれたのは、死ぬためでありました。

1.古い契約

 ヘブル人への手紙はキリストが来られた理由を独特な表現で述べています。キリストは古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てられました。そのため、大祭司・キリストは十字架で血を流し、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。今や律法の行ないや犠牲や儀式は不要だということです。私たちはキリストの血を通して、いつでも神さまに近づくことができるようになりました。私たちは異邦人ですので、古い契約における様々な人間の要求については知りません。ところが、古い契約の中で生きて来た人たちは、納得がいきませんでした。律法の行ないや犠牲や儀式を無視したり、軽んじることは罪だと思っていたからです。そのため、ある人たちはせっかく恵みによって救われたのに、古い契約に戻ろうとしました。なぜなら、ユダヤ教から救われた人たちが、「律法の行ないや犠牲や儀式も必要だ」と言い出したからです。一方、私たち異邦人は、あまりにも簡単に救いが得られるので、恵みに慣れっこになってしまう危険性があります。英語で、easy come, easy goということ諺があります。直訳すると「得やすいものは失いやすい」です。でも他に「あぶく銭は身につかない」という訳もあります。せっかく、キリストがご自身の尊い血潮によって買い取られたのに、粗末にしてしまったら申し訳ありません。私たちは恵みの背後にどのような犠牲があったのか、また、私たちが置かれている立場がどんなにすばらしいのかを知る必要があります。そうすれば、easy come, easy goにはならないと思います。

 まず、第一に私たちは古い契約とは何なのかということを学びたいと思います。古い契約とは主である神さまがイスラエルと結んだ契約です。出エジプト記19章にそのことが書かれています。エジプトを脱出したイスラエル人はシナイ山のふもとに集まりました。だからシナイ契約とも呼ばれています。でも、この契約は律法を守るという条件付きでした。出エジプト記20章から23章まで、十戒をはじめとするたくさんの律法が記されています。それを聞いたイスラエルの民は何と答えたでしょうか?「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。ところが、モーセがなかなか帰ってこないので、人々はアロンに「私たちのために神を造って下さい」とお願いしました。モーセが山から下りてくると、人々が金の子牛に全焼のいけにえをささげ、飲み食いし、踊っているではありませんか。モーセは怒って、主からいただいた石の板を投げ捨てて砕いてしまいました。旧約聖書はこの先、ずっと続きますが、イスラエルはモーセの律法を守ることができませんでした。そればかりか、主なる神さまを忘れて、カナンの偶像を拝んでしまいました。旧約聖書はイスラエルの神への背きの歴史と言っても過言ではありません。北イスラエルが滅,び、さらには、南ユダも滅ぼされようとしたとき、主は預言者エレミヤとエゼキエルに語られました。そのことばが、ヘブル8章にあります。ヘブル8:7-9「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。」ヘブル書は、古い契約に欠けがあったとはっきり言っています。イエスラエルも悪かったのですが、古い契約にも欠けがあったというのです。そもそも、イスラエルに律法が与えられたのは何故でしょうか?

 律法の必要性は人類の先祖、アダムとエバが神さまに背いたところまで遡ります。最初、アダムとエバは主なる神さまと親しく交わりを持っていました。親しい交わりのもとで、何をしたら良いのか、何をしたら悪いのか判断していました。ところが、二人は知識の木から実を取って食べました。それは神さまに聞かないで、自分たちで善悪を決めるということを選んだということです。それ以来、人類は神さまから独立し、自分で考え、自分で行動し、自分の力で生きるようになりました。しかし、それでも人間は自分の行いで神さまの正しさに到達できると自負していました。残念ながら、それは不可能でした。神さまはイスラエルを選び、祭司の国にしようと考えました。イスラエルを通して、世界の国々を救おうとされたのです(出エジプト19:5)。彼らと契約を結ぶとき、律法を与えました。民たちは「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と何度も答えました。しかし、イスラエルの民は律法を守らず、偶像の神に仕えました。しかし、この律法はイスラエルだけではなく、自分の行いによって神に受け入れてもらおうとするすべての人に与えられたものです。パウロはこのように述べています。ローマ3:20 「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」だれでも自分は正しいと思っています。多くの場合、それは自分よりも悪い人と比べています。どのくらいで良いのかという絶対的な基準はありません。ところが、神の律法をその人にあてるとどうでしょう?みんな罪人です。だれひとり神の前に義と認められないのです。つまり、肉で生まれた者はだれひとり、神の前に立って義とされるがなく、さばかれるのです。律法を行うことよって得られる救いの道はゼロであり、すべての人が神にさばれ、御国には入れないということです。しかしパウロは律法とは別の道が与えられると書いてあります。ローマ3:21-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

2.新しい契約

 第一のポイントの結論のところで、イエス・キリストのお名前が出て来ました。行いによる神の義ではなく、信仰による神の義があるということでした。これはイスラエルだけではなく、すべての人に与えられる約束です。もう一度、ヘブル人への手紙に戻りたいと思います。ヘブル8:10-12「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」かつて、律法は石の板に記されていました。律法自体は完璧であり間違いはありません。それを行なえない人間に問題がありました。神さまは、不完全な人間と契約を結んでしまいました。だから、主ご自身「初めの契約には欠けがあった」(ヘブル8:8)と認めているのです。そのため神さまは契約の結び方を新たに変える必要がありました。第一は、石の板によって外から与える律法ではダメだったということです。第二はモーセなどのような人間ではなく、もっと完全な仲介者が必要であったということです。まず、第一の方から取り上げたいと思います。神さまは石の板ではなく、心の板に律法を書きつけることを考えました。もし、心が新たに変えられるなら、他の人から「主を知れ」と言われなくても、分かるということです。同時に、律法を守る力も内側に与えられるということです。つまり、外からの律法では人間はダメで、内側が変えられることによって律法を守ることができるということです。ローマ8:2-3「いのちの御霊の原理が罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」とあります。人は聖霊によって生まれ変わることによって、自然に律法を守れるようになるのです。

 第二は仲介者の問題です。旧約聖書には「契約」と言われるものがたくさんあります。聖書は契約に満ちています。アダム契約、ノア契約、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約などです。シナイ契約の時は、モーセが仲介者となりました。このとき、イスラエルに守るべき律法が与えられたのです。一方、新しい契約は、キリストが仲介者になりました。キリストは神の子であり、1つの罪も犯しませんでした。そして、キリストが大祭司となり、ご自身をいけにえとしてささげられました。両者が契約を交わすときは必ず、きよい動物を2つに分けて、血を流す必要がありました。神の子であるキリストは、一回で永遠の贖い成し遂げられたのです。キリスト以降は、動物のいけにえは不要となったのです。ヘブル9:12「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。私たち人間が仲介者として契約を結ぶなら、完全に守るという保証はありません。アダムも、ノアも、アブラハムも、モーセも、ダビデもみんな不完全でした。だから、完全な仲介者になることができませんでした。しかし、罪のない、まことの大祭司であるキリストが仲介者になってくださったのです。イエス・キリストは真実なるお方です。父なる神さまもそのことをお認めになっておられます。つまり、新しい契約は不完全な人間ではなく、完全なるキリストが仲介者になって結んでくださったのです。その時、私たちはどこにいたのでしょう?「教会はキリストのからだである」とパウロが言いました。私たちがイエス様を信じると、キリストのからだに組み入れられます。キリストが神さまと契約を結んだ時、私たちはキリストのからだの中にいたのです。神さまは永遠なるお方なので、2000年間の隔ては問題でありません。キリストが私たちの代わりに、私たちの代表となって、神さまと契約を結んでくださったのです。私たちは不真実であっても、キリストはどこまでも、いつまでも真実なお方です。私たちは「イエス様を信じることによって救われる」と言います。しかし、私たちの信仰はいい加減です。本当は、イエス様の信仰、イエス様の真実が私たちを救ってくださるのです。だから、「自分の信仰がどの程度純粋なのだろうか?この信仰で救われるだろうか?」と内省しないでください。それよりも、「私たちが信じているイエス様の真実が私たちを救ってくれている」と考えてください。自分の信仰ではなく、イエス様の信仰を見上げて下さい。そうすれば、信仰が後からやってきます。聖書が啓示している契約の事実をそのまま受け止めるとき、信仰がやってくるのです。

 残念ながら、キリスト教会においてモーセの律法をキリストの恵み抜きに読んで、自分を苦しめています。安息日をどう守るべきだろうか?汚れた動物、たとえば「うなぎ」を食べて良いのか?身体に障害のある者や女性が神さまの前で奉仕ができるだろうか?死んだ人にさわったら、夕方まで汚れるのだろうか?ある教団は、異端ではないにしても、土曜日を安息日として公の礼拝をささげています。しかし、「何を食べて良いのか、何を食べたら悪いのか」旧約聖書のような規定があります。では、福音派の教会はどうなのかと言うと、やはり、恵みよりも律法が強調されている教会があります。その証拠に説教の最後が「〇〇しましょう」「〇〇してはいけません」「〇〇を守りましょう」などと、行ないの勧めで終わります。つまり、「今のままでは神に受け入れられていないので、もっと正しく生きなさい」ということなのです。そうすると人々に律法の呪いがかけられ、束縛された信仰生活を送るようになるのです。第二ポイントの結論として、Ⅱコリントから二か所引用させていただきます。Ⅱコリント3:6 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:14-17「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。

3.旧約から新約へ

ヘブル8:13「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」ヘブル人への手紙は、「新しい契約が来たからには、古い契約は消えて行くべきである」と言っています。では、いつから新しい契約が履行されるようになったのでしょうか?ある人たちは、「キリストが来られた時からだ」と言っています。またある人は、「福音書が書かれている新約聖書からだ」と言います。イエス様は地上に来られ、神の国を宣べ伝え、さまざまな奇跡を行ないました。また、山上の説教など実行不可能と思われる教えを説かれました。よく見ると、モーセの律法よりも実行不可能なレベルになっています。人を憎んだだけで殺人だとか、情欲を抱いて異性を見たら姦淫だと言われています。これを生身の人間が守り行おうとしたなら、全く不可能です。しかし、ある事が起こると、イエス様の教えを実行できるようになるのです。その証拠が、全く変わってしまったイエス様の弟子たちです。彼らは最後の晩餐の時まで、だれが一番偉いか、競い合っていました。しかし、エルサレムで聖霊を待ち望んでいた彼らは、「みな心を合わせ、祈りに専念していました」(使徒1:14)。あの臆病な弟子たちが、死も恐れず「イエスはキリストである」と告白しました。いつから、新しい契約が履行されたのでしょうか?そのヒントとなるみことばが、ヘブル9章にあります。ヘブル9:15-18 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」

なぜ、このみことばがそんなに重要なのでしょうか?ここには、古い契約が終わり、新しい契約が履行されるターニング・ポイントが書かれているからです。厳密に言うと、イエス様がこの地上に来られた時から、新しい契約が始まったのではありません。私たちが福音書を読むとき、山上の説教を読んで躓くのはそのためです。イエス様が教えた教えは、新しい契約のもとで、新しいいのちを受けて、初めて実行可能になるからです。一番重要なのは、イエス様の死であります。この死が古い契約を終らせ、新しい契約を発動させる要となったのです。私たちは旧約聖書の神さまは恐ろしい神さまだと思っています。なぜなら、律法を破ったイスラエルの民は殺され、滅ぼされました。もし、私たちが旧約時代に生きていたならいのちがいくつあっても足りないでしょう。ところが、新約聖書になると神さまのイメージがぐっと変わります。放蕩息子のお父さんに象徴される、無条件で愛してくださる父なる神さまです。イエス様も神さまは善なる神さまであるとおっしゃっています。でも、旧約聖書の神さまは恐ろしくて、新約聖書の神さまは優しいとしたなら、神さまは精神が分裂しているとしか思えません。「神さまにそんなことを言うなんて!」と叱られそうですが、旧約と新約の矛盾を克服しておられるでしょうか?しかし、私が名誉を挽回しなくても、神さまは一貫した神さまであり、精神が分裂しているわけではありません。まず、父なる神さまとイエス様がしなければならなかったことは、旧約のけじめをつけるということでした。ヘブル書には「初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受ける…初めの契約も血なしに成立したのではありません。」と書いてありました。このみことばから分かるように、イエス様が死なれたのは、人類の律法の違反を贖うためでした。イエス様がまことの仲介者として、十字架で罪を負って死なれたのです。Ⅱコリント5:31「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」アーメン。父なる神さまは古い契約を終わらせるために、御子イエスを罰する必要があったのです。それで、父なる神さまの人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。その結果、神さまはご自身に対する人間の立場を変えられたのです。これを「和解」と呼んでいます。和解はギリシャ語でカタラッソ―と言いますが、もともとの意味は「変える、取り換える」です。神さまは永遠に義なるお方です。罪に対しては必ずさばかなければなりません。でも、キリストの十字架の死によって、罪の代価が支払われたので、変わったのです。どう変わったかと言うと、キリストを信じる者に、ご自身の義を与えることにしたのです。ローマ3:21-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」アーメン。

最後に、いつから新しい契約が発動(履行)されたのでしょうか?キリストが死んでからです。「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって…」と書かれているとおりです。新約聖書を英語で、New Testament と呼びます。Testamentは「遺言書」という意味です。それが、「契約」とも呼ばれているのです。新約聖書は、「キリストによる新しい遺言」とも言えるのです。なぜなら、キリストが古い契約をご自身の死によって終わらせ、ご自身の血によって新しい契約を結んでくださったからです。ハレルヤ!神さまは変わりません。旧約時代も神さまは愛であり、善であったのです。でも、人間が自分の行いによって神さまに近づこうとしたので、律法の呪いを受けてさばかれたのです。しかし、私たちは新約時代に生まれました。もし、自分の行いで神さまに近づこうとしたなら、同じように律法の呪いを受けるでしょう。もう律法はキリストによって成就され、その要求が満たされたのです。私たちはキリストを信じることによって神の義が与えられました。神に受け入られるための良い行いは一切、不要なのです。良い行いは、信じた後にちゃんと与えられます。なぜなら、聖霊によって生まれ変わったなら、その人に神の種が宿るからです。その人は罪を犯すのが不自然になり、良いことをすることが自然になるのです。しかも、父なる神さまはその人に良い行いを備えてくださっています。なぜなら、その人は神の息子、娘だからです。あなたは律法の流れの中にはいません。すでに、恵みの中にいるのです。恵みを味わいつつ、神さまに従っていけるのです。