2017.12.24「世界的なメシヤ ルカ2:1-14」

 ヨハネによる福音書はキリストの出生を宇宙的に描いています。「はじめにことばがあった。すべてのものはこの方によってできた。ことばが人になった」となっています。一方、ルカによる福音書はどうでしょうか?ルカ2:1「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」となっています。ルカは、キリストの出生を世界的なものとして描いています。イエス・キリストは架空の人物ではなく、歴史の中で誕生したということです。 

1.世界的なメシヤ

 キリストが地上にお生まれになったとき、ローマがその世界を支配していました。皇帝アウグストが「全世界の住民登録をせよ」と勅令を出しました。おそらく、税金の徴収のためでありましょう。日本では秀吉が年貢を徴収するために、太閤検地というのをやりました。ローマは人頭税というものを取るために、人々を生まれ故郷に一度帰らせ、そこで登録させました。このところにヨセフとマリヤが登場しますが、イエス様の両親になる人たちです。人々は、マリヤがだれかによって懐妊したと思っていました。ヨセフは天使から御告げを受けて、聖霊によるものだと信じていたことでしょう。問題は、マリヤが臨月なのにナザレからベツレヘムに旅することでした。直線距離でも110キロくらいあります。ベツレヘムは山地でありますから、結構きつかったと思われます。聖画などを見ますと、マリヤはロバに乗っていました。亀有から北ですと、水戸までが約100キロ、南だと小田原までの距離です。ロバだと3日以上かかったのではないでしょうか?聖書を見ると、キリストがローマ皇帝やシリヤの総督に振り回されている感じがします。彼らがイエス・キリストよりも権威と力があるみたいです。でも、ルカはあえて、その当時の皇帝や総督の名前を書きました。その理由は、キリストが歴史の中でちゃんとおられたということです。ローマやギリシャの神々は出生がはっきりしていません。それは、神話だからです。他の神さまも「永遠からいた」と言うかもしれません。しかし、歴史の中にいたかは不明です。

 アポロ11号が人類史上初の月面着陸を成し遂げました。それは、センセーショナルな出来事でした。アポロ15号に乗ったジェームズ・アーウィンも月面着陸を果たしました。その時、持ち帰って来た石は「創世記の石」と名付けられました。彼はビー玉のような青い地球を見て、ヨハネ3章16節の言葉が浮かんだそうです。「神はひとり子を与えるほど、地球を愛された。地球に住む私たち人類を、神の御子イエス・キリストは命がけで愛してくださった。」彼は、月で出会ったイエスさまとその愛を、地球に住む人々に伝えなければならないと思いました。そして、NASAを離れて伝道者となりました。彼は日本にも来たことがありますが、インタビューでこのように答えたそうです。「人が月を歩いたという事実は偉大です。しかし、それよりもはるかに大切なことは、神の御子イエス・キリストが地球上を歩かれたという事実なのです」。アーメン。私がこれに加えさせていただきたいと思います。「人が月に降りたちましたが、人類の歴史は変わりませんでした。しかし、神が人となって地球に降りたちました。その時から人類の歴史が変わりました」。アーメン、アーメン(二回言いました)。

 一見、キリストが当時のローマ皇帝や総督にふりまわされているように思えます。なぜなら、これから生まれるというのにナザレからベツレヘムまで110キロも移動させられたからです。命の危険を冒すような旅でした。でも、これにはわけがありました。なぜなら、メシヤはベツレヘムで生まれなければならなかったからです。マタイ2章にそのことが書かれています。東から訪ねてきた博士たちが、エルサレムでこう尋ねています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」民の祭司長や長老たちがこう答えました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」(マタイ2:6)。これは、ミカ書の引用ですが、紀元前700年前後に発せられた預言です。イエス様がお生まれになる700年も前から、「メシヤはユダヤのベツレヘムから出る」と預言されていました。つまり、神さまはイエス様をベツレヘムで生まれさせるために、ローマ皇帝や総督を用いたということではないでしょうか?ローマ皇帝が「全世界の住民登録をせよという」と勅令を発したので、ヨセフとマリヤはユダヤのベツレヘムに旅立ったのです。ハレルヤ!そして、イエス様はベツレヘムでお生まれになられたのです。でも、ベツレヘムにはそんなに長く滞在していませんでした。8日目、エルサレムで割礼を受けた後、まもなくエジプトに逃れました。なぜなら、ヘロデ王が命を狙っていたからです。しかし、ヘロデ王が死んだ後、ナザレに戻って、そこで30歳までおられました。そのため、イエス様はナザレ人と呼ばれました。ナタナエルはピリポがメシヤと出会ったと言うと「ナザレから何の良いものが出るだろう」と答えました。ほとんどの人は、イエス様がベツレヘムでお生まれになったという事実を知らなかったと思います。だから、マタイとルカはイエス様がベツレヘムで生まれたことを書きたかったのでしょう。

 その人がどこで生まれたのか、だれの子として生まれたのか、とても気になります。この世では、出生が人生を決めてしまうところがあります。だいたい、「どこの出身です」と言うと、「ああ、あなたはこういう人ですね」みたいに枠の中に入れられます。「ああ、秋田の田舎ですか?秋田から何の良いものが出るだろう」。多くの人たちは、出生に対して、何等かの劣等感を持っているかもしれません。ここからは適用ですが、あの神の子、イエス様ですら、一人間として生まれる必要がありました。本来なら世界的なメシヤなのに、ローマ皇帝と総督に動かされて、ベツレヘムで生まれました。その後、ナザレで育ちました。イエス様は、30歳まで全く無名でした。私も、あなたも、あそこで、あの親で生まれる必要があったのです。エペソ1:4-5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちの誕生も神のご計画でした。

2.家畜小屋のメシヤ

 イエス・キリストは神の子なのに、ちゃんとしたところでお生まれになりませんでした。ルカ2:6-7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、マリヤとヨセフは馬小屋で子どもを産み、飼葉おけに寝かせたのでしょうか?その前に、本当に「馬小屋だったのか」ということです。あるホームページを見たら「イエスは馬小屋で生まれたのではない」と書いてありました。英語ではstable、「家畜小屋」となっています。文語訳聖書が「飼葉おけ」を「馬槽(うまぶね)」と訳したことから「馬小屋」と解釈したのかもしれません。とにかく、ちゃんとした宿屋ではなく、離れにあるむさくるしい家畜小屋だったのでしょう。先週までテレビで黒柳徹子さんのドラマ「トットちゃん」が放映されていました。お母さんと青森に疎開したとき、家ではなく、畑の中に立っていた小屋に移り住みました。まるでそれは掘立小屋でした。本題に戻りますが、なぜ、「マリヤとヨセフは家畜小屋だったのか?」ということです。人口調査のために生まれ故郷に帰るのですから、親戚が多かったと思います。親戚同士は助け合うものです。なのに、マリヤとヨセフには部屋がありませんでした。おそらく、マリヤは私生児を懐妊していると思われていたのでしょう?もし姦淫であるならば「石打ちの刑」ですが、ちゃんとした証拠がなかったのかもしれません。しかし、親戚中に噂は広がっていたと思います。第二は、宿屋が本当にごったがえしていたからです。宿屋の主人は、もし、マリヤとヨセフを入れるなら、他の客を追い出さなければなりません。しかも、その妻が産気づいているなら、めんどうです。だから、彼らは締め出しを喰らったのかもしれません。

 皆さんの中にベッドが飼い葉おけであったという人がいるでしょうか?伝説によると、聖徳太子は馬小屋で生まれたそうです。だから、「厩(うまや)戸の皇子」と名乗ったと言うことです。しかし、聖徳太子のブレーンであった秦河勝が渡来系であり、景教(ネストリウス派)の教えを持ち込んだのではとも言われています。それはともかく、神の御子が、飼い葉おけに寝かされていたというのは、すばらしい福音ではないかと思います。もし、イエス様が宮殿に生まれたのであれば、普通の人は会いに行くことはできません。もし、衛生的で最新設備の病院だったらどうでしょう?ガラス張りで仕切られ、羊飼いや東の博士たちも無理だったかもしれません。ばい菌いっぱいで、ほこりまみれの人たちは無理です。飼い葉おけだったら、人間も動物も面会できます。聖画を見ると、羊飼いの少年が小羊を抱いて訪れている場面もあります。当時、羊飼いは安息日を守れないので、汚れた人たちの中に入りました。なのに、一番先に訪れたのは、野宿で夜番をしていた羊飼いでした。主の使いが彼らにメシヤの誕生を知らせたというのは、すばらしいことだと思います。大手の新聞やテレビ会社ではありません。そんなに影響力もなさそうな、羊飼いたちであります。でも、彼らは伝道しました。ルカ2:17-18「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。」でも、あまり知れ渡ると、ヘロデ王から命を狙われるので、それくらいが限界だったのでしょう。

 家畜小屋、飼葉おけ、羊飼いの訪問…みんな謙遜であります。この世の王子誕生なら、宮殿、衛生設備、偉い人の訪問が相応しいでしょう。しかし、神の子イエスは、とても謙遜なお姿でお生まれになられました。そもそもの原因は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とルカが記しています。英語の聖書はno roomです。no roomは他にも使います。たとえば、だれかに呼ばれてごちそうをいただいたとします。招いてくれた人が、もっとお食べくださいとお替りを出したとします。食後のデザートかもしれません。そのとき、食べられなければ、no roomと答えるそうです。Roomは部屋のほかに、場所、空間、余地という意味があります。ある人たちは、イエス様を信じる「心の余地」がありません。もし、イエス様を心にお迎えするならば、今あるものを捨てるか、追い出す必要があります。自分の考え、自分の夢、自分のライフスタイルかもしれません。だから、「このままで良いです。結構です、大丈夫です。」とイエス様を迎え入れないのです。私も25歳のとき、苦労しましたが、一番の問題は自我でした。「もし、イエス様を信じたら、自分はどうなるんだ?俺には俺の人生がある。そんなことできない」でした。高校生の頃、友達が加藤諦三の『俺には俺の生き方がある』(大和書房1966)という本を貸してくれました。その当時、ニッポン放送のテレフォン人生相談で活躍していた早稲田大学の教授でした。彼は今、思うと聖書のことばを結構引用していました。数えてみたらこれまで230冊くらい本を書いているようです。日本人が陥りやすい問題を取り扱っているように思います。

その当時、「私はやっと人と比べない、自分の生き方ができるんだ」と自負していました。でも、心の中は混乱と劣等感で満ちていいました。ところが4月15日のイースター、職場の先輩から9時間も伝道されて、降参しました。お勧めくらいじゃ絶対信じなかったでしょう。夜の9時半頃、根負けして「じゃ、信じるよ」と言っただけです。その時、先輩が話してくれたのが、今思うとヨハネ黙示録3:20でした。イエス様が私の名を呼んで心のドアをたたいているというのです。外側には取っ手がなく、内側にしかないというのです。イエス様は紳士なので、ドアを蹴飛ばして入らない。「鈴木君がドアのノブを回してドアを開けるしかない」と言われました。私の心の中は町田のアパートのような6畳一間で、半畳のキッチンでした。カーテンに閉ざされた薄暗い部屋でした。先輩は片付けてからでなく、ありのままjust way you areで良いと言いました。「ああ、そうなのか?」と降参して、イエス様を心の中にお迎えしました。そうすると、狭い天井が取り去られ、光が入ってきたような感じがしました。次の朝、部屋のカーテンを開けると、生垣の葉っぱ一枚、一枚が輝いていました。イエス様がむさくるしい家畜小屋でお生まれになられました。悪臭漂う、不衛生な場所です。私たちの心も罪と汚れに満ちています。でも、イエス様はありのままの私たちを受け入れ、私たちが心のドアを開くなら、入ってくださいます。イエス様はあなたの名前を呼んで「一緒に食事をしよう」と招いておられます。開けるしかないでしょう。

3.あなたのメシヤ

 ルカ2:9-11「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」このところに、「恐れ」と「喜び」ということばが出てきます。羊飼いたちは主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。何故、恐れたのでしょう?創世記3章に恐れの起源があります。創世記3:8-10「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」最初、アダムとエバは神さまを恐れたことがありませんでした。造り主であり、親のような神さまと親しく交わっていました。なぜ、神さまの顔を避けなければならなかったのでしょう?それは、食べてはいけない木の実から取って食べたからです。その木の実に毒があったのではありません。「自ら神のようになって善悪を判断したい」と神さまから離れたからです。表現を替えると、神さまと二人の間に、罪が入ったので、彼らは恐れたのです。恐れは罪の結果です。私たちもだれから教えられなくても、悪いことをすると恐れがやってきます。不思議です。だれが見ていなくても、神さまが見ているような感じがするからです。それは本能かもしれないし、神さまが与えた良心かもしれません。でも、その良心も悪い事をしていると、麻痺して何とも思わなくなります。恐れがなくなったならば、それは最悪の状態です。

 羊飼いたちは、主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。自分たちの罪があらわにされたからでしょう。また、神を見ると滅びるというモーセの教えを信じていたからかもしれません。ある人たちは、「恐れ」と「畏れ(畏敬)」は違うと言います。でも、聖書にはこの2つには区別がありません。畏敬の意味での「畏れ」は宗教臭いような感じがします。よく日本人は、神的なものと遭遇すると、「畏れ多い」と言うからです。これは、自分が汚れているという前提があるからでしょう。日本人は罪ではなく、汚れがあると言います。聖書では汚れも罪の1つですが、罪は汚れ以上に悪く本質的なものです。それは、神さまから離れていることを表しているからです。聖い神さまから離れ、自分勝手な道を歩んでいる。あるいは、いのちの神さまから離れ、霊的に死んでいる状態です。だから、生まれつきの罪人は、「畏れ(畏敬)」ではなく、「恐れ」であります。でも、恐れは罪の結果であり、クリスチャンになるなら、恐れなくて良いのです。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」アーメン。その証拠に、神の御子イエスさまは、父なる神さまをちっとも恐れていませんでした。イエス様が全き愛を持っておられたからです。私たちもイエス様のように、全き愛を持ったならば、神さまを恐れなくても良いし、またこの世の何ものをも恐れなくても良くなります。使徒パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言いました。

 恐れと対局にあるものが喜びであると思います。なぜなら、御使いが「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と言ったからです。「すばらしい喜び」は原文ですと、「メガレーンの喜び」となっています。ギリシャ語のメガスは、英語のmegaになったと言われています。Megaは「巨大な、特別大きい、最大級の」という意味です。マクドナルドではmegaマックがあります。なんと、ビーフパティが4枚も入っています。また、メガは10の6乗、100万倍という単位でもあります。よく、メガヘルツとか、メガトンなどと言われます。直訳するなら、「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」となります。でも、私が不満足なのは「この民全体のための」という訳です。「この民全体の」になるなら、イスラエルかユダヤ人です。そうなると、異邦人である私たちは「蚊帳の外」となります。しかし、ギリシャの聖書や英語の聖書にはそういう表現はありません。“I bring you good tidings of great joy, which shall be to all people. For unto you is born this day ”となっています。一番重要なのは、I bring you、for unto youであります。「あなたに、あなたのために」であります。他のだれのためでもない、「あなたのために」です。これを大多数のだれか分からない人たちのためだと思ってはなりません。イエス様はあなたのためにお生まれになったのです。御使いは「あなたのためにメガトン級の喜びを知らせに来たのです」アーメン。私は8人兄弟の7番目に生まれたので、自分の分がありませんでした。お盆とお正月は座る席がありませんでした。なぜなら、結婚した兄や姉の伴侶がお客さんだからです。私の妹はお客さんがくると隠れていました。英語で一人分のことをportionといいます。portionは「分け前」という意味です。しかし、神さまはイザヤ61章でこうおっしゃっています。「あなたがたは恥に変えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる」(イザヤ61:7)。イザヤ書には「二倍の分け前double portion」と「とこしえの喜びeverlasting joy」と書かれています。これが他のだれかではなく、「あなたに与えられる」のです。みんなではありません。「あなたです」。

 日本人は「他の人のことを考えなさい。他の人に迷惑をかけてはいけません。みんなで分け合いなさい。みんな仲良くしなさい」と教えられてきました。日本人は「自分がない、みんな」です。だから、不安で恐れがあるのです。自分に自信がなく、自分が満たされていません。そういう人が、他の人を考えて分け合うことができるのでしょうか?できません。できたとしても喜びがありません。なんとなく悲壮感があります。私たちはいっぱい神さまから愛され、いっぱい与えられ、いっぱいいただいているのです。だから、他の人にも与えることができるのです。御使いは、あなたのために、私のために「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」。アーメン。