◆聖書箇所: アモス書8章1-3
8:1
神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。
8:2
主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
8:3
その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」
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2017年12月31日、1年の締めくくりの日にメッセージを語らせていただける恵みを心から感謝いたします。
今年はヨハネの福音書からと、「ルツ記」と「ホセア書」「ヨエル書」の一書全体を取り上げる一書説教をさせていただきました。本日は「ヨエル書」の次の「アモス書」を取り上げていきたいと思います。
「アモス書とか、読んだことないし!」とか、「読んだけど解らないし!」とか思ってらっしゃる方!
今日は良い機会です!頑張りましょう!
私は神学校時代に、ヘブライ語の授業でアモス書を学び、さっぱり解らなかった想い出があります。
ヘブライ語を教えてくれたのは、アメリカ人の旧約学者の教授だったんですが、アモス書は日本語訳の聖書でも解りづらい預言書なのに、ヘブライ語の授業のテキストに選ぶとは、ずいぶんマニアックだなーと思っていました。
あとで判明したのですが、その先生は「アモス書大好き♡ アモス書ラブ♡」の人だったようです。
先生はひとりでハイテンションになってエスカレートし、「あ~みなさん。私良いことを思いつきました!朝のチャペルの礼拝説教をアモス書から順番に語ろうではありませんか。」と提案。
アモス書は半強制的に先生と学生とで割りふられ、私は6章を担当することになりました。
先日久しぶりにその原稿を読み返してみましたが、もう「ひっどい!」のひと言でした。
今となっては良い想い出ですが、今回はその反省を生かして、取り組みたいと思わされた次第です。
さて、私たちがこのアモス書から受け取る神様からのメッセージは何でしょうか。
アモス書は全体で9章からなる小預言書で、聖書に出てくる預言書の中では初めて預言者の名前で記された「記述預言書」だと考えられています。預言者はアモス以前にもモーセやエリヤなどたくさんいましたが、モーセ書とかエリヤ書などはありません。
アモスが活躍した時代は、アモス1章1節の記述によると、南ユダ王国ではウジヤ王の時代(前792―740年)、北イスラエル王国ではヤロブアム2世の時代(前793―753年)のようです。
アモスが預言した時期は、前760―750年頃ではないかと言われています。
アモスは南ユダの人でしたが、神様から突然、北イスラエルに行って北イスラエルの滅亡について預言するように言われました。
北イスラエルの王ヤロブアム2世はソロモン王に匹敵するほど領土を広げ、北イスラエルの全盛期を築いた王です。繁栄の最中にアモスが滅亡を預言しても聞き入れるわけがありません。しかし、アモスの預言からわずか30-40年後の紀元前720年に北イスラエルはアモスの予言通り滅亡しました。
◆①アモスのように重荷を負う者となる。
アモス書には、「公義=〈ヘ〉ミシュパート」と「正義=〈ヘ〉ツェダーカ」という言葉が何箇所かに出てきます。アモスの神観は、「愛なる神」よりも、「義なる神」の方が強く、アモス書全体が神の公義と正義が基盤となっています。預言書のパターンとしては、畏れ多い神のさばきの宣告の後に、愛なる神の救いの祝福が語られるのですが、アモス書は祝福の部分は他の預言書に比べてとても少ないのが特徴です。
アモス個人について解ることは、1章1節と、7章14-15節のことばからの情報しかありません。
まとめると、アモスはこのような人です。
- ベツレヘムの南東にある小さな町テコア出身(南ユダ出身)だった。
- 牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
- もともと預言者ではなかった。
(他の預言書に出てくる「預言者のともがら」という職業的な預言者集団には属していなかった。)
- 系図については不明である。
- 神から突然召命を受けた。
加えて、「アモス」という名前は、「重荷」「重荷を負う者」という意味があるそうです。その名前の通り、アモスは突然預言者として召されて、神様から大変な使命を授かり、「重荷を負う者」となりました。
しかしアモスが預言者として立ったのは、名誉や野心のためではありませんでした。おそらく、牧者としては裕福で充実した生活をしていたことと思われます。平和な南ユダのテコアで幸せに生きていたアモスに、神はその働きの場から預言者として北イスラエルに行くように命じました。
もし、私たちにそのような神の召命があったならみなさんはどうしますか。
今の平穏な生活を捨てて神の召しに従うことができるでしょうか。
アモスが繁栄の最中にある北イスラエルに行って、「この国は滅亡する。」という預言を語ることは、簡単なことではありません。反逆罪となって捕えられてしまうかもしれません。自分のいのちと引き換えになることも覚悟のうえでのぞまなければなりません。
それでもアモスが神の命令に従ったのは、神への畏敬と信仰があったことはもちろんですが、アモス自身の目から見ても、北イスラエルが間違った方向に歩んでいることが解ったからではないでしょうか。
アモスはテコアの牧者としてユダの荒野の近くに住み、都会の喧騒とは離れた所で暮らしていました。
いつも自然の中で、神との時間を持っていたので、神の御心が理解できたのではないでしょうか。
そのせいか、アモス書は他の預言書と違って自然とか、動物、音のイメージがつまった書物となっています。
1章の預言のはじまり方もユニークです。ここは新共同訳で読んだ方が臨場感があります。
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1:2
彼は言った。主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き/
カルメルの頂は枯れる。
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いきなり、「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。」です。
けっして静かな始まりではありません。ずいぶんファンキーなはじまりです。独創的です。
しかしアモスはけっして単純で無知な人ではなく、アモス書の文体は詩文として書かれており、情緒があります。またアモスは、語り方に長けており、豊かな想像力で様々なイメージを作って預言しています。
その視野は広く、北イスラエルや南ユダに限らず、ダマスコ、ペリシテ、ツロ、エドム、アモン、モアブなどの近隣諸国から、エジプト、メソポタミヤに至るまで、犯した罪とさばきの預言を語っています。
それでは北イスラエルが犯した罪とは具体的になんなのでしょうか。
2章7-8節にはこう書かれています。
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2:7
彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。
2:8
彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。
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ここには、「弱者や貧しいものに対する暴力や搾取」、「道徳的な堕落」、「偶像崇拝」、「間違った礼拝」の様子が記されています。
アモスはこれらを厳しく非難し、アッシリヤの侵略による北イスラエルの破壊と捕囚が起こるという神のさばきが避けられないことを警告しました。そして、悔い改めて主に立ち返って公義と正義を行うように勧めました。
しかし北イスラエルの民は聞き入れませんでした。
結果として、アモスのミッションは失敗だったのかもしれませんが、神はそのことも含めてすべてご存知でした。アモスはもしかしたら失意のどん底に陥って故郷の南ユダに帰ったのかもしれませんが、神がアモスに望んでおられたことは、アモスが北イスラエルに行って神のことばを伝える事、その事のみでした。
その神のことばは現実のものとなりました。
アモスの預言から30-40年後に、北イスラエルがついにアッシリアに制圧され陥落しました。
その時アモスがまだ生きていたかどうかは解りませんが、アモスは確かに主の命令に聞き従い、重荷を負う者となって命がけで北イスラエルに出向き、神のことばを伝え、使命を果たしたのです。
私たちはどうでしょうか。アモスのように重荷を負う者となれるでしょうか。
もしかしたらそれ以前に、日々の生活に追われ、神の声を聞き逃し、北イスラエルの民のようになってしまっているかもしれません。
アモスのように、いつ主の語りかけや召命があったとしても、その御声に応えることができるように、賢く世界を見渡しながら、静まって神様との交わりの時を持つように心がけましょう。
◆②アモスが見た幻から神のご本質を知る。
アモスは、7章~8章では、4つの幻を見たことを語っています。
それぞれの幻は、神とアモスとのやり取りです。
神様は時には慈悲深く、しかし厳しく、時にはユーモラスに深い愛を示されます。
このアモスが見た幻は、是非注目していただきたいところです。
- 第1の幻は、「いなごの幻」<7章1‐3節>です。
7:1に「二番草が生え始めたころ」と書かれていますが、これは春を表し、この季節にいなごの災害が起こると、来るべき収穫への絶望と飢饉の脅威を意味することになります。
そのいなごの幻を見たアモスは、「ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」と神に訴えて、
とりなしました。神はアモスの嘆願を聞き入れて、その考えを変えていなごの災害を取り消されました。
- 第2の幻は、「火の幻」<7章4‐6節>です。
アモスは、神が地上に燃える火を呼び寄せておられるのを見ました。
7:4の「大淵」というのは、珍しい言い方ですが、水の源、水源となるところです。この水源が干上がってしまうと、当然すべての作物は枯れてしまいます。
その幻を見たアモスは、いなごの時と同じように、神に訴えてとりなしました。
神は再びアモスの嘆願を聞き入れて、火の災害を取り消されました。
第1、第2の幻では、神は慈悲深さを示されました。
- 第3の幻は、「重りなわの幻」<7章7‐9節>です。
「重りなわ」とは、建築などで使う「下げ振り」のことです。この計りで神は何を計るのでしょうか。
それはイスラエルの義です。イスラエルの民たちが神の目にかなった行いをしているかどうかをこの「重りなわ」で計ると神は言われたのです。
ここではもはやアモスのとりなしもなく、神の忍耐は尽き、イスラエルの滅びは避けられない状況です。
第3の幻では、神は厳しさを示されました。
続く7章の後半は、幻から現実の出来事へと一時話は展開します。
北イスラエルのベテルの祭司アマツヤと、アモスとのやり取りが挟まれています。
アマツヤはヤロブアム2世に、アモスが謀反を企てていると報告し、アモスに南ユダに帰るように言いました。
アモスは祭司アマツヤについて、このように預言しました。
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7:17
それゆえ、【主】はこう仰せられる。『『あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測りなわで分割される。あなたは汚れた地で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く。』
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これは恐ろしいですね。容赦ないですね。
主のことばを語る預言者を受け入れない人には、このような恐ろしいさばきが待っているのです。
そして、次の幻です。
- 第4の幻は「ひとかごの夏のくだものの幻」です。本日の聖書箇所です。
<8章1-3節>
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8:1
神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。
8:2
主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
8:3
その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」
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この幻は、大きな災いによってイスラエルに終りが来ることを象徴しています。
ここの神のことばにはヘブライ語の語呂合わせがあります。
「夏のくだもの」は、<ヘ>カイツ と言います。「終わり」は、<へ>ケーツという言います。
神はアモスに「夏のくだもの=カイツ」の幻を見せ、 わたしの民イスラエルに、「終わり=ケーツ」が来たと語っておられます。
この語呂合わせは神様のジョークなのでしょうか。この差し迫った状況の幻を見せながら、「カイツとケーツ」といったオヤジギャクのような駄洒落を言われても、アモスはぜんぜん笑えなかっただろうとは思います。
「義なる神」を強調するアモスには、むしろ余計に恐ろしく感じたかもしれません。
このような神様の語呂合わせは、エレミヤ書の1章11-12節にも出てきます。
エレミヤはアモスより後の時代の預言者ですが、神はエレミヤを召される時に幻を見せ、アモスの時と同様、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」と問いかけました。エレミヤは、「アーモンドの枝を見ています。」と答えました。それに対して神様は、「私は見張っている。」と言われました。
これは、「アーモンド」は<へ>シャーケード、「見張っている」は<へ>ショーケード、の語呂合わせです。
加えてアーモンドはもともと他の草花に先立って1月か2月ごろに白い花を咲かせることから、「見張り」の象徴的意味を持つ木だと言われています。それとエレミヤの出身地アナトテはアーモンドの名産地ということで、神様は、神の召しになかなか良い返事をしないエレミヤにいろいろ含めたユーモアで語りかけています。
こういった神様の語呂合わせのユーモアには、アイロニー(皮肉・反語・逆説)が込められています。しかし神が使うアイロニーは人間が使うアイロニーとは全く違う逆説的なアイロニーです。
人間のアイロニーは、時には愛情からくるものもあるかもしれませんが、しばしば人を鋭く刺すような嘲笑的なものだったり、自己を正当化して相手を貶(おとし)めるような闘争的なものが多いです。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、ひとつの教育法として逆説的なアイロニーを使いました。わざと皮肉めいた問答を繰り返して相手を自己矛盾に陥らせ、自らの無知を思い知らせて知識を深める教育法です。
しかし神のアイロニーはそういった教育とも異なっています。
神のアイロニーは、人間の知識を深めるようなものではなく、もっと人間の根源的な部分に響くものです。
神の霊と、人間の霊が触れ合うような感覚です。
「夏のくだもの」<ヘ>カイツ と、「終わり」<へ>ケーツの語呂合わせも、「アーモンド」<へ>シャーケード、「見張っている」<へ>ショーケードの語呂合わせも、「こんなにも私はあなた方を愛しているのに、なぜ聞き入れようとしないのか?」という、神様の悲しみやジレンマから来る愛のアイロニーを含んでいます。
幻を見せて語られる神のご本質は、アモスやエレミヤとのやりとりを通して深く知ることができます。
神様は、本当はこんなやりとりをしなくても、駄洒落のような語呂合わせなどを言わなくても、あっという間に私たちを滅ぼし尽してしまうことが出来る御方です。
それなのに幾度となく猶予をくださるその御姿を思うと、「ああ主よ愛しています!」とひれ伏したくなります。
神は忍耐強くイスラエルの民を愛してくださり、滅びの道に行くことがないようにと導いてくださっています。
私たち異邦人にもその愛を示してくださいました。その証として、ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださったのです。これが福音です。良き知らせです。アモスが見た幻から神様の深いご本質を知りましょう。
◆③一瞬の時の中にも神の恵みがある。
アモスが預言者として活動した期間は、他の預言者と比べてとても短かったと考えられます。
しかし、それは私たちの時間の感覚であって、アモスの預言者としての活動は短くても、後に続く数々の預言者たちに「重荷を負う者」としての姿勢を見せ、影響を与え、預言者として主に従う姿をつないで行ったという点では、彼の活動期間は私たちが思っているよりはるかに長かったのかもしれません。
さて、みなさんはこの一年間、どのような歩みをなさったでしょうか。
あっと言う間に過ぎ去った一年だった方もいるでしょう。長ーく長ーく感じた一年だった方もいるでしょう。
よくメッセージの中で「時間」について語る時に使われる言葉があります。
ギリシャ語の「クロノス(χρόνος)」と「カイロス(καιρός)」の二つです。
クロノスは、「絶対的な時間」つまり、日常私たちが過ごしている一日24時間の物理的な時間です。
カイロスは、「相対的な時間」つまり、一年が百年のように感じたり、ほんの数分のように感じたりする「主観的な時間」です。このカイロスは神様が介入される時とも言えます。
私たちはこのカイロスという時間を意識して、どの瞬間にも神様の豊かな介入が確かにあるということを認識していたいと思います。人生の荒波にもまれている時も、苦難の時も、神様との豊かな時間があります。
私たちがイエス様を呼び求める時、イエス様は時空を超えて、私たちに恵みを与えてくださいます。
「永遠」に比べれば、私たちのこの世の人生はほんの一瞬だとよく言われますが、その一瞬の中にも神の恵みは豊かに満ち溢れています。
先日、学生時代の友人の結婚式に参列したのですが、その時の新郎側の友人代表の祝辞がなかなか面白かったのでご紹介したいと思います。
友人代表の男性が新郎に対して、「Y君。神の永遠が、例えばこのくらい(両手を広げたくらいの幅)だとしたら、この世の人生はどのくらいだと思う?」と聞いたら、Y君はおもむろにテレフォンカードを出してきてそれを縦にして、「これくらい。」と言ったそうです。
そのエピソードを受けて友人代表の彼は、「まずY君が今どきテレフォンカードを持っていることに驚きました。でも今は、スイカやパスモもあるのでチャージできます。テレフォンカードほど薄いこの世の人生だとしても、チャージしながら結婚生活を充実させていってください。」と、エールを送っていました。
チャージ。それは、神様との時間から得るものです。
私たちは聖書からのメッセージを紙に書かれた歴史のように思わないで、今も生きておられる神様をリアルに感じながら受け取りたいものです。そして神の恵みを存分にチャージしましょう。
2018年を迎えるにあたり・・・。
アモスのように重荷を負う者となるために、神様のご本質を深く知るために、一瞬の時の中にも神様の恵みを感じられるようになるために、神様との静まりの時間をしっかり持って、チャージして、気持ちを新たにして、豊かな一年を歩んで行きましょう。