2018.4.15「希望を持て Ⅰコリント13:13」

 私たちは希望を持つことがとても重要です。ところが、いくら望んでもかなわないと、諦めが支配して、希望を持てなくなります。世の中には病気や事業の失敗を苦にして自らの命を絶つ人がたくさんいます。私たちは希望が持てないような状況でも、何とか希望を持たなければなりません。その証拠に、Ⅰコリント13:13「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書いてあります。きょうは希望を持つことの重要性についてメッセージしたいと思います。 

1.希望と信仰

 ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」残念ながら、この日本語訳では分かるようで分かりません。キングジェームス訳は、Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.となっています。このsubstanceとは何なのでしょうか?辞書によれば、実質とか本質、実体という意味です。ウォッチマン・ニーは「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と解釈しています。でも、きょうは信仰についてではなく、希望について学ぼうとしています。ヘブル11:1をよく見ると、信仰の前に、望むことが必要であることがわかります。つまり、何かを望むところから、信仰がやってくるということではないでしょうか?言い換えると、信仰が生まれるための温床は希望であるということです。希望を持てば、やがて信仰が与えられ、それが現実のものとなるということです。でも、多くの人たちは、最初に希望を持つことをしません。すでに諦めて希望を持たないので、信仰がやってきません。考えてみれば、希望を持つことはタダであり、税金もかかりません。どれだけ大きな希望を持っていてもその人の勝手です。凡人は、「そんなのドンキ・ホーテのようだ」と馬鹿にするでしょうが、それが実現したとき「あなたは天才です」と賞賛するでしょう。発明王のエジソンのことばです。「私は決して失望などしない。どんな失敗も、新たな一歩となるからだ。」

聖書には、全く希望がない状況なのに、希望を持った人たちにあふれています。アブラハムはまもなく100歳、サラは90歳。子どもが与えられると約束を受けていましたが、その兆候は全くありませんでした。創世記には二人とも疑ってしまい、いたずらに時が過ぎてしまったことが記されています。ところが、ローマ人への手紙には信仰に満ちたカップルとして記されています。ローマ4:18-19 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」このところで重要なのは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じた」ということです。原文は「望みを超えて(反して)、望みを抱いて信じた」となっています。普通の望みだったら消えてなくなります。それ以上の望みを抱いて信じたということです。このところからも、信仰の前に望むことが必要であることがわかります。聖書には望みを抱いて、イエス様に近づいて行った人たちにあふれています。

 マルコ福音書には盲人で物乞いをしていたバルテマイの記事があります。彼はイエス様の噂を耳にして、「あのイエス様が私の目を開いてくれるのでは?」という希望を持ちました。ある日、そのイエス様がエリコの町を通過するところでした。バルテマイは声を張り上げて、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」とイエス様の足を止めようとしました。他の人々から「うるさい、だまれ!」と言われても、ますます、「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫び立てました。イエス様が「あの人を呼んで来なさい」と言われ、バルテマイが連れてこられました。イエス様が彼に何とおっしゃったでしょう?「私に何をしてほしいのか?」。とっても意地悪な質問ですが、あえて彼の口から願いを聞きたかったのです。バルテマイは「先生。目が見えるようになることです」。するとイエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すると、すぐさま彼は見えるようになりました。このところからも分かりますように、バルテマイは最初「イエス様によって目が見えるようになるかもしれない」と望んだのです。そして、通り過ぎようとされるイエス様を呼びとめました。イエス様から「何をしてほしいのか」と問われ、信仰をもって「目が見えるようになることです」と答えました。「目が見えるようになれば良いなー」と希望だけで終わっていたなら、目は見えませんでした。バルテマイは希望を持ち、その次に、信仰をもってイエス様に近づいたのです。希望から、信仰になったのです。そして、イエス様から目の癒しをゲットしたのです。ハレルヤ!このように、信仰の前に、望むことが必要なのです。

 でも、多くの人たちは望んでも叶えられなかったという経験を多く重ねます。すると、もう望まない、そして、絶望してしまいます。その方が傷つかなくて良いからです。絶望してしまうと、もう信仰も生まれません。『夜と霧』を書いた、ヴィクトール・フランクルの本があります。彼は第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられました。その過酷な体験を速記の記号を使い、小さな紙に書き残していました。終戦後の1947年、この記録は『夜と霧』として刊行されます(原題は『強制収容所における一心理学者の体験』です)。これはある人の書評です。本書には、過酷な状況を生きる人々の姿が冷静な眼で記録されています。あまりにも悲惨な出来事には、思わず目を逸らしたくなるかもしれません。しかし絶望のふちに立たされてもなお、人間性や希望を失わなかった人たちがいました。それは、なぜでしょうか。一つには、美しさやユーモアなどで内面性を豊かに保ち続けたことがありました。また未来に対して諦めずに目的を持ち続け、行動したことも精神的な破綻を防ぐことになったといいます。私もその本を昔、買いました。収容所の人たちは「あの日に、解放される」などと何度も裏切られ、絶望していきます。しかし、「根拠はないけど、きっと家族に会える」と希望を捨てなかった人が生き延びたということです。希望が過酷な環境の中で、生きる力を与えたことが分かります。

 私は6年前にジョエル・オスティーンの原書を読みました。私は自慢ではありませんが、英語の本を最後まで読み終えたことがありません。3ページも読んだら良いほうです。多くの本が読まれないまま眠っています。彼の『あなたの出番です』という日本語訳を読んで、関西風の軽い訳なので原書を買って読んでみました。英語とあまりにも違うので愕然としました。一冊、読み終えたら「やればできる!」と思い、気が付いたら10冊くらい読んでいました。今は少し難しい、ビル・ジョンソンの本を読んでいます。ジョエル・オスティーンは神学校も出ていません。大学中退後、テレビのカメラマンとして17年間、お父さんの教会で働いていました。でも、牧師であるお父さんが突然召され、38歳から4000人くらいの会衆の前で話すことになりました。人々は無理だと噂していましたが、見事、乗り越え、現在では2万人の会衆になっています。ところが、ジョエル・オスティーンに対する非難は止みません。その人たちは「彼は正しい福音を語っていない。繁栄の神学だ。偏っている」と非難しました。ジョエル・オスティーンはある本で、このように弁明しています。「人々が何と言おうと私は構わない。なぜなら、私は人々に希望を与えるために神さまから召されたのだから」。彼はあるメッセージでこのように語っています。「希望の種は、私たちの生活におけるすべての良きことの始まりです。希望は人生に打ち勝つための命を与えます。希望はたとえ最悪な環境に直面しても、常に最善を信じます。キリストを信じている者にとって、希望は『願い』や『あこがれ』『積極的な展望』よりも勝るものです。希望は神のことばに見出される約束に基づいているものだからです。神の約束があなたを動かすのです。」アーメン。私は今も、毎朝、彼の本を数冊読み続けています。なぜなら、私は元来、悲観的で否定的な者だったからです。だから、毎日、彼の本から励ましてもらわないと希望が持てません。

ジョエル・オスティーンの本からです。ある会社の重役が、自分のオフィスにちょっと変わった絵画を飾っていました。それは岸辺に打ち上げられた一艘の大きな手漕ぎボートの絵でした。絵の中のボートは、波打ち際から7,8メートルほども陸側に乗り上げていて、二本のオールは深いところまで砂に埋もれた状態です。その絵は人が見て「ほう、これは美しい!」とは言えないような代物でした。それどころか、見ている方が「憂うつ」になるようなたぐいの絵でした。大海原の波に乗って踊るのがふさわしい船が、その本来の活躍場所ではない「砂地の上」に寂しく囚われているからです。しかし、よくよくその絵を見ると、絵の一番下の部分に、何やら絵のタイトルのような文章がありました。『潮の流れは、必ず戻ってくる。』その実にシンプルな一言が添えられただけで、その絵は新しい命を吹き込まれたように眺めることができます。この絵の持ち主である重役は、過去に大変な失望と挫折の中を通る体験をしました。ある時、彼は小さな画廊でこの絵画に出会って、たった数ドルで手に入れたのです。彼はこの絵をのぞき込む度に、自分に言い聞かせました。「潮の流れは、必ず戻ってくる!」その絵画は、ある意味、重役に「信仰を植え付けた」のだ、と言って良いでしょう。絵画の下にあったあの言葉は、「物事はきっと良い方向に向かっていくのだ」という希望を彼に与えたのです。

2.希望を与える神

 希望とは私たちが頭の中から無理やりひねり出すものではなく、神さまが心の中に吹き込んでくださるものです。善なる神さまはあなたに希望を与えたいと願っておられます。ローマ15:13「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」このみことばから、神さまご自身が希望の神さまであることがわかります。そして、聖霊がご自身の力によって私たちに希望をあふれさせてくださるということです。聖霊はいわば、神さまから私たちに望みを与える管であります。日本語の聖書は、望みと希望と使い分けているようです。しかし、英語の聖書はすべてhopeです。ギリシャ語でhopeは、エルピスと言います。Elvis Presleyというロック歌手がアメリカにいました。ああ、エルビスでした。エルピスは、「良いことへの期待、希望」という意味です。私たちは希望というと空にかかった虹を連想するかもしれません。でも、そのルーツがどこから来たかご存じでしょうか?ノアの箱舟が1年間も大洪水をさまよい、アララテ山のふもとに漂着しました。ノアは最初、カラスを放ちました。出たり、戻ったりしていました。それから鳩を放ちました。戻ってきました。それからなお7日待って、再び鳩を放ちました。すると、オリーブの若葉をくわえて戻ってきました。これはピースというたばこの絵柄になっています。箱舟のおおいを取り去って眺めてみると、地の面がかわいていました。神さまはノアとすべての動物と契約を結びました。「もはや、大洪水が地をほろぼすことはない」と言われました。そのとき、雲の中に虹が現れました。それ以来、虹は、希望を表すようになりました。

 希望はクリスチャンであろうとなかろうと、すべての人に神さまが与えた賜物です。どんな人でも希望を持つことが可能です。でも、その希望がかなうまで、希望を持ち続ける人は少ないと思います。何故かと言うと、この世の中には希望を失わせるものが満ちているからです。むしろ、人々は絶望の中に生きています。もう何度も裏切られたので、希望なんか持つのも嫌になるのです。旧約聖書で「希望のメッセージ」を与えてくれる最も有名な箇所をご存じでしょうか?それはエレミヤ書にあります。エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」しかし、「平安を与える計画、希望と将来を与えるもの」とは何なのでしょうか?11節だけでも十分なのですが、29章全体を読むと、意外なことが書かれています。神さまの希望と将来を計画とは何でしょう?当時、南ユダはバビロンに滅ぼされようとしていました。それは南ユダが犯してきた罪の結果であります。預言者エレミヤは「神のさばきを受けるためにバビロンに囚われて行きなさい。70年たったら戻って来られるから」と人々に告げました。しかし、エルサレムに残った民たちは耳を傾けようとしませんでした。今の時代は見てくれが勝負みたいなところがあり、贈り物のパッケージさえもお金をかけます。「バビロンに囚われて行け」というのは、希望が全くなくて、良い知らせではありません。ところが、それは神の平安を与えるすばらしい計画だったのです。

 私たちの人生においても、希望なんか全く持てないという時期があります。あんなことがなければ良かったと思える過去の出来事がいくつかあるものです。私の最大の失敗は、秋田工業高校土木科に入ったことです。授業も面白くなくて、クラスの人たちとも馬が合いませんでした。6月に強さにあこがれてボクシング部に入りましたが、12月のデビュー戦でTKO負けて退部。それからひどい劣等感に陥り、ノイローゼになりました。学校の帰り、スーパーで万引きし、捕まりました。翌日、母と私が学校に呼び出されました。担任が母に言いました。「この子は将来、強盗、殺人を犯しかねない。ムショからムショの生活を送るかもしれない」と言われました。日々、麻雀に明け暮れていました。その時に吸っていたタバコがshort-hope短い希望でした。なんとか卒業でき、兄と同じ建設会社に入りました。住む場所を変える現場生活がいやなので、23歳で退社しました。小さな貿易会社に入り、職場の先輩に導かれ、25歳のとき洗礼を受けました。まもなく直接献身し、神学校に入りました。28歳でめでたく結婚。33歳の時、この教会の牧師として招かれました。就任6年後、新しい会堂を建てることになりました。私が基本設計をし、土木の現場監督の経験が役に立ちました。ボクシングで挫折しましたが、今はボクシです。かつてはトランペットを挫折したものですが、現在はヨベルのラッパを吹いています。ヨベルとは解放と回復の「喜びの訪れ」の知らせです。私自身、全く希望のない者でありましたが、人々に聖書から希望を伝える者になったことは神さまの奇蹟です。

 私が今、自信を持って言えることは、神さまはどんな人にも希望を与えてくださるということです。パウロは「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」と祈っています。クリスチャンになったら、日々、希望にあふれているかというと、なかなかそうではありません。イエス様が「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)でおっしゃいました。つまり、天国に行くまで、戦いがあり、希望を失うこともありえるということです。では、どのようにしたら、希望の火を燃やし続けることができるのでしょうか?第一は、望みを与える神さまと和解するということです。生まれつきの私たちには罪があり、神さまと離れている状態です。罪が神とのへだてとなっています。この世の多くの人たちは、色んな神さまに祈っています。商売繁盛、無病息災、結婚、安産、入学、厄除け…。それぞれ、神さまに専門があるようで、願いに行く場所が違います。でも、まことの神さまは唯一であり、万能なるお方です。私たちはこの神さまと和解しなければなりません。イエス様がおっしゃいました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)。生まれつきの人間は神から離れ、罪があるために、父なる神さまはその祈りを聞く理由がありません。しかし、神の子イエスが私たちの罪を贖ってくれたので、神さまが私たちの父となり、私たちは神さまの子どもになりました。だから、クリスチャンは、父なる神さまに、イエス様のお名前によって何でも求めることができるのです。そうすれば、望みの神さまが、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいます。望みが信仰を生み出し、やがてそれが実体化するのです。

 第二は、神さまを一度信じるだけではなく、継続的に神さまを礼拝し、神さまのみこころに留まる必要があるということです。そのためには聖日礼拝、日々のディボーションが重要です。私は朝、聖書だけではなく、信仰と希望を与えてくれる本を何冊も読んでいます。そうしないと、この世の心配や恐れが侵入してくるからです。神さまを礼拝すると、様々な問題よりも神さまが大きくなってきます。イエス様が「主の祈り」を教えてくださいました。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」その後に、日ごとの糧、罪の赦し、悪からの救いが続きます。でも、一番大事なのは、神さまがあがめられ、御国があなたのところにやってくることです。御国とは「神の支配」と言う意味です。何よりも先に、神の支配があなたの心に来なければなりません。神さまの支配があなたの心にやってきたら、心配や恐れが締め出されるでしょう。マタイ6:33もすばらしいみことばです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神さまとその義を第一に求めていくなら、他のものはどうでもよくなります。たとえ病があっても、お金がなくても、問題があったとしても、大丈夫、なんとかなると思えてくるのです。一見、開き直りのように思えますが、愛なる神さまがなんとかしてくださるという信仰と希望がやってきます。

 第三は、私たちには絶対的な希望があります。この希望はイエス・キリストを信じている人でなければ与えられないThe hopeです。それは復活の希望です。イエス様は十字架で死んで、三日目によみがえられました。イエス様は贖いを完成してくださったので、信じる者は罪赦され、義と認められます。私たちの罪は贖われましたが、まだ肉体は贖われていません。この肉体が復活するときに、贖いが完了するのです。つまり、イエス様が栄光のからだによみがえられたように、私たちもよみがえるということです。復活の希望こそが、究極の希望と言えます。この世の人には、この希望がありません。「死んだらおしまい。死んだ先は、どこかで魂が生きているかもしれない」くらいの希望です。私たちはそうではありません。私たちには、死に打ち勝つ希望、復活の希望があります。使徒パウロがこのように述べています。ピリピ3:20-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」世の終わり、イエス様が再びこの地上に来られます。その時、私たちの朽ちるべき卑しいからだが、イエス様のような栄光のからだに変えられるのです。その人に、どんなにマイナスが多い人生であったとしても、ぜんぶひっくり返り、よみがえって永遠の御国に住まうことができるのです。