2018.4.22「神の国の福音 マルコ1:14-15」

 イエス様が宣べ伝えた福音は、単なる福音ではなく、神の国の福音です。単なる福音と神の国の福音は一体どこが違うのでしょうか?伝統的な教会は、「イエス様を信じることによって罪赦され、天国に行くことができる」と教えてきました。では、天国は死んでから入るものなのでしょうか?そうではありません。天国という名称が問題です。本来は神の国なのですが、ユダヤ人は「神」ということばを使うことを恐れ、「天」と置き換えたのです。重要なのは、人は死んでから天国に入るのではなく、生きているうちに神の国に入るということです。

1.神の国の福音とは

 今から15年くらい前、五藤千代姉妹のご主人が危篤状態ということで亀有病院に駆けつけました。温泉で湯あたりをしたようで、食べることもできず意識がもうろうとしていました。数日後、五藤姉妹から「今なら、意識がはっきりしていますので、すぐ来てください」と言われました。私は「五藤さん、イエス様を信じたら、罪赦され天国に行けますよ。イエス様を信じますか?」「うん」と言いました。五藤姉妹は「行きがけに答えたのよ。もう一度聞いてみて」と言われ、もう一度福音を伝えたら、「うん」と答えました。私は救いの感謝と病の癒しの祈りをして帰ってきました。1週間後、五藤さんはめきめき回復し、「ぜひ、洗礼を」と山崎長老と病院に行きました。そのとき、五藤さんが私に文句を言いました。「先生、私は天国に行っていないよ。ちゃんと生きているよ」。私は天国のことを説明し、もう一度、信仰を確認してから洗礼を授けました。五藤さんはその後、退院し、2年後に本当に天国に旅立ちました。実は、五藤姉妹の家で1年半くらいセル集会を持ったことがあり、ご主人の五藤さんも参加していました。五藤さんは、とても理屈っぽくで「天国と極楽はつながっている」と言っていました。「これは難しい人だなー」と思っていました。しかし、病院に入院して、危機的な状況になってイエス様を信じたのです。その時、「天国に行ける」というのは、誤解を招く表現だということを学びました。なぜなら、テレビで、だれかが死ぬと「天国に旅だった」とだれでも天国に行けるかのように言っているからです。そのとき、heaven天国ということばに問題があるということが分かりました。クリスチャンも、「罪赦され救われたら、天国に行ける」と教えられています。でも、天国がゴールであるなら、洗礼を授けるとき、ずっと水の中で沈めていたら、すぐ天国に行けます。そのような教えは、どうせ天国に行けるのだから、生きているうちは何をしても良いということになります。怠け者のクリスチャンを作り出してしまいます。

 イエス様は単なる福音ではなく、神の国の福音を宣べ伝えられました。マルコ1:14-15「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」神の国は、ギリシャ語でバシレイアですが、「王権、統治、支配」という意味です。神の国では神さまが王様であり、その方に服従することが求められます。つまり、神の国に入るためには、悔い改める(方向転換する)必要があるということです。自分が王ではなく、神さまが王様だということです。神の国に入る条件は、罪が赦され、義と認められる必要があります。そのため、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれて、代価を払ってくださいました。イエス様が道であり、真理であり、いのちなのです。このお方を通して私たちは父なる神さまのところに行けるのです。つまりは、神の国にはいり、神の国の臣民(国民)になるということです。神さまが王様であるならば、国民である私たちの命を保証し、領土を与え、必要と守りを与えてくださるのは当然であります。もし、「死んだら天国に行く」という概念しかないなら、この地上の人生は自分の力で生きていくしかありません。この地上はおまけの人生であり、そこには生きる目的も使命も存在しません。「この世の誘惑に負けないで、貧しさと病気に堪え、なんとか天国に入る」という生き延びる人生であります。かつてはそういう信仰者がたくさんいました。一昔前は、「酒タバコ飲まぬ吸わぬの耶蘇教は、あぁ面倒な宗旨なり」と揶揄されました。禁欲的で世離れした人生です。クリスチャンは信じたときから、この世でありながら、神の国で生きているのです。確かに神の国の領土は目に見えません。ただ、神の支配だけが来ています。でも、イエス様を信じることによって、神の国に入ることができるのです。この世はやがて終わりますが、それから目に見えるかたちでやってきます。イエスさまは「あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。」(ヨハネ14:2,3)と言われました。

 パウロは救いを得ることをこのように表現しています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」救われることが「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ…御国を受け継ぐ」と書かれています。コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」このところには、暗闇の圧政から救い出されて、今度は、御子の支配の中に移されると書かれています。「御子の支配」はギリシャ語で、「御子のバシレイア」です。つまり、私たちは、かつては暗闇とサタンの支配で苦しんでいた存在です。しかし、イエス様を信じたことにより、そこから光の御子の支配にtransfer移されたということです。私たちはイエス様を信じたあとも、日本という地上で、同じ番地で暮らしていると思っています。ところがそうではありません。私たちは御子の支配、神の国で暮らしているということなのです。私たちはこの世というものが、サタンの支配下にあることをご存じでしょうか?もちろん、地上は、もともとは私たち人間のものでした。しかし、アダムが罪を犯してから支配権を失い、サタンがそれを横取りしてしまいました。イエス様が40日間断食した後、悪魔から誘惑を受けました。第二番目の誘惑です。ルカ4:5-6「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。』」もし、これが嘘であれば、イエス様は「馬鹿こけ!これは神さまのものだ」と一蹴したはずです。でも、イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさいと書いてある」と答えただけです。多くの人たちは、「神さまがいるのにどうして災害とか、病気、ひどいことが起こるのですか?」と言います。その原因は、人間が自然界の支配権を失い、サタンが横取りしているからです。罪ある人間は霊的に死んだ状態であり、悪魔と悪霊によって支配されているとエペソ2章に書かれています。

 イエス様は私たちを救うために天から降りてこられました。福音書にはそのことが物語のように書かれています。ルカ11:20-22「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」イエス・キリストはこの地上に、神の国を持って来られました。その証拠に、悪霊を追い出し、病を癒されました。この物語を解釈すると、「強い人」というのはサタンのことです。「自分の家」とはこの世であり、「持ち物」とは罪の中にある人間です。「もっと強い者」とはイエス・キリストのことです。イエス様はサタンの国を襲って、打ち勝ち、虜を解放するということです。サタンが持っている最大の武具は、人間の罪を告発することです。もし、イエス様が人間の罪を贖うならば、サタンは告発することは不可能です。イエス様は十字架で死ぬことにより、サタンのかしらを打ち砕いてくださいました。現在、サタンの国は武装解除された状態であり、悪霊どもが勝手に戦っているのです。もし、私たちが悪魔と悪霊と戦わなければならないと思うなら、欺かれて敗北するでしょう。そうではなく、彼らはすでに負けているのです。私たちはキリストにあってすでに勝利を得ているのです。私たちの戦いとは、勝利が既に決まっている戦いなのです。ルカ11章のみことばからも分かるように、イエス・キリストが神の国を持って来られたということです。福音書の時代は、その入口が狭くてよく分かりませんでした。そのため、マタイ11:12「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」でも、十字架と復活以降、神の国の門が大きく開かれ、だれでも自由に入ることが可能になりました。

 私たちはクリスチャンになっても、この世の中に住んでいます。この世には不条理があふれており、いつ私たちも巻き添えになるか恐れているかもしれません。テレビや新聞のニュースは、悲惨な事件にあふれているので、ついつい恐れがやってくるかもしれません。しかし、私たちはこの世にありながら、神の国に住んでいるのです。父なる神さまが王であり、私たちはその臣民(国民)です。神の民であるならば、その保証として、守りと助けが与えられることを信じます。詩篇23:6「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」やがて、主の家に住むのではなく、既に主の家に住んでいるのです。私たちは地上において、どこで、どの家に住むか問題ではありません。私たちはすでに神の国の中にあるので、主の家に住んでいるのです。

2.神の国の福音とその現れ

 イエス様は神の国の福音を伝えただけではありません。「もうすでに神の国があなたがたのところに来ていますよ」ということを現されました。その証拠として、イエス様は福音宣教をしながら、病を癒し、悪霊を追い出し、ある時は死人さえよみがえらせました。言い換えると、福音宣教と奇跡としるしが伴っていたということです。残念ながら、教会の中には「聖書が完成した今は、目覚ましい奇跡やしるしは必要でなくなった」と教えているところがあります。とんでもありません。20世紀にはインドネシア、アルゼンチン、中国、韓国にリバイバルが起きました。そして、現在はアフリカに大いなるリバイバルが起こっています。そこでは、病の癒しはもちろん、盲人が見え、足なえが歩き、耳の聞こえない人がどんどん癒されているのです。さらには、死んだ人さえ生き返っています。まさしく「四福音書」や「使徒の働き」の中で起きていることが継続しているということです。どうぞ、神さまを私たちの神学や経験に押し下げないようにしてください。神さまは私たちよりも、ずっと高いお方であり、今も奇跡やしるしを起こすことができます。そのためには、私たちは聖書から「神の国の福音とその現れ」について知る必要があります。マタイ11章に書いてありますが、バプテスマのヨハネが獄中から「おいでになるはずの御方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方をまつべきでしょうか」と聞いています。イエス様はこのように言われました。マタイ11:4,5「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」これはどういう意味でしょう?イエス様は神の国を地上に持ってこられたメシヤであるということです。イザヤ35章に完成された神の国がどのようなものか書かれています。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ35:5)これは千年王国の預言であり、将来の出来事です。しかし、イエス様は将来起るであろうことを、この地上に持ってこられたのです。それは「今、ここに神の国が来ていますよ。神の国とはこういうものですよ」ということを証明しているのです。

 マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」イエス様は3年半、ガリラヤからはじまり、エルサレムなど、パレスチナ全体を歩き回って、福音を宣べ伝えました。しかし、ただ福音を宣べ伝えただけではありません。必ず、病を癒し、悪霊を追い出し、さまざまな障害を回復してあげました。イエス様の福音宣教と癒しや悪霊追い出しはセットであったということです。ところが現代の教会は福音宣教だけしかやっていません。これまで、映画伝道、英会話伝道、喫茶店伝道、音楽伝道、ランチョン…いろいろやってきました。しかし、イエス様と弟子たちが行った福音宣教と同じではありません。病の癒しと悪霊追い出しが全く入っていません。なんと、スマートで上品な福音宣教になっているのでしょう。現在、アフリカやインドに行くと、福音宣教には必ず、病の癒しと悪霊追い出し、しるしと奇跡が行われます。そこでは盲人が見え、足なえが歩き、松葉杖の山ができたりします。日本ではまず、そういう集会はありません。あまりにもスマートで上品になりすぎています。戦後、新興宗教がたくさん出ました。天理教、霊派の光、立正佼成会、創価学会…みな癒しを行います。しかし、日本のキリスト教会は「そんなのご利益で低級だ」と馬鹿にしました。世の人たちは「教会はインテリの行くところだ。庶民の行くところじゃない」と思ったのです。本当にキリスト教会はミッションスクールに力を注ぎましたが、教会はさっぱり伸びませんでした。なぜでしょう?教えが知的すぎて、普段の生活への適用が全くありません。教会は観念的で頭でっかちの信者を製造してきました。理屈ばっかり述べて、かつてのパリサイ人や律法学者のようになっています。イエス様は一般民衆のところへ出かけ、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出されました。さらに、イエス様は弟子たちにもそうせよ、と命じておられます。ルカ9:1,2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」このみことばからも、福音宣教と病の癒しと悪霊の追い出しはセットであったということがわかります。言い換えるなら、神の国を宣べ伝えるならば、当然、病を癒し、悪霊を追い出さなければならないということです。なぜなら、それらの出来事は、「神の国が今、ここに来ていますよ」という証明だからです。

 では、日本において、なぜ福音宣教がはかどらないのでしょうか?それは、奇跡としるしの伴わない福音を宣べ伝えているからです。神の国の福音ではなく、ただの福音であります。使徒パウロがギリシャのアテネに行って福音を宣べ伝えました。でも、その効果はさっぱりでした。なぜでしょう?彼らと神さまのことで議論したからです。コリントの教会の人たちにこう言っています。Ⅰコリント2:4「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」使徒パウロの宣教には、御霊と御力の現れが伴っていたということです。これは、パウロが聖霊による様々な賜物を用いたということです。Ⅰコリント12章には「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊の見分け、異言、異言を解き明かす力」などが掲げられています。他には悪霊の追い出しもあります。これらの賜物はすべてのクリスチャンが持つことができる聖霊の賜物です。この賜物を用いて、神の国が来ていることを証明するのです。これは、しるしと奇跡の伴う福音宣教です。神さまに出会うなら、人々の頑なな心が開かれ、福音を簡単に受け入れられるようになるでしょう。まずは、神の国の前味を体験してもらう必要があります。それは、スーパーなどの試食コーナーと同じです。おばさんが、「あなたも1つどうですか?」と言いながら、ウィンナーとか焼肉のたれ、ヨーグルトなど、新商品を販売しています。私たちも神の国がどのようなものなのか、人々に「あなたも1つどうですか?」と試食させる必要があります。おいしければ、信じます。

 これまで教会は天国に行くだけのクリスチャンを作ってきました。しかし、本来はそうではありません。神の国を拡大するという使命を帯びながら、この世に出ている存在であります。どんな仕事をしながらでも、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、様々なしるしと奇跡を行なうことは可能です。それらは牧師だけが行うミニストリーではありません。普通のクリスチャンが行うべき標準的な事柄であることを再認識すべきです。そのためには、上からの油注ぎ、権威と力が必要です。それがないとこの世にやられてしまいます。イエス様の弟子たちは、その力を上からいただいたので、あのような働きができたのです。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」この約束はペンテコステの日に実現しました。ペンテコステの日、120人の弟子たちは11人を除いて、聖霊の新生と聖霊のバプテスマを両方体験しました。11人はイエス様が復活した夜、聖霊を内側に受けていました。現代においてはイエス様を信じたら、だれでも聖霊を内にいただいて生まれ変わります。しかし、聖霊を上からいただいて油注ぎを受けるという次の経験が必要であります。いろんな経験があり一概には言えませんが、とにかく上から聖霊を着せられる必要があるのです。これはきよめ派が言う、内側が聖霊に満たされる意味ではありません。まるで水の中にどっぷり浸かるように、外側から聖霊に覆われるということです。そうすれば、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、様々なしるしと奇跡を行なうことが普通になります。これまでそういうことがなかったということは、標準以下のクリスチャンであったということです。どうぞ、聖霊を上からいただいて、かつての弟子たちのようになりましょう。

 日本にはキリスト教が西洋周りでやってきました。西洋の教会は、啓蒙主義、合理主義の影響を受けてしまいました。だから、「病の癒しや奇跡はない」という理性的な教えです。奇跡を行なえないような神さまは本当の神さまではありません。この世は閉ざされた世界ではありません。神さまは今もこの世に介入してくださいます。問題は、私たちクリスチャンがその橋渡しになる必要があるということです。イエスの御名を用いて祈り、あるいは命じるならば、神の国がこの地上にやってきます。ビル・ジョンソンは、『天がこの地にinvade侵略するとき』という本を書きました。イエス・キリストが2000年前、この世に来て以来、この地は侵略されています。この地は悪魔のものではありません。私たち人間が本来、支配すべきものです。私たちはこの地を私たちのもとに取り戻す必要があります。この地を悪魔から奪い返し、神の国の拡大のためにクリスチャンがいるのです。クリスチャンは礼拝を守り、ただ天国に行く存在ではありません。この礼拝は神さまを見上げ、神さまを第一にするという行為です。そして、神さまから聖霊の力をいただいて、この世に派遣されていくのです。警察官には国家権力がついているのでなめてはいけません。同じように私たちの背後には、神の国の強力なバックがついています。男性、女性、信徒、牧師、老人、若者、子ども、すべてに神の国の強力なバックがついていることをお忘れなく。