2018.5.13「信仰を用いる ヘブル11:1-6」

 人はイエス・キリストを信じことによって義と認められ救われます。次に神さまは信仰を用いて生活することを願っておられます。ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書かれています。つまり、救われて天国に行くだけではなく、「地上で信仰を用いて豊かな生活を送るように」ということです。信仰を用いなければ、それは「宝の持ち腐れ」です。では、どうしたら信仰を用いて生きることができるのでしょうか?

 

1.信仰を受け取る

 ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」このところに「信仰とは何か」、はっきり定義されています。しかし、残念ながら、この日本語訳は「いまいち」です。キングジェームス訳は、Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.となっています。信仰はsubstanceだと書かれています。Substanceとは何なのでしょう?辞書には、「(物の構成要素としての、または特定の性質か化学的成分を有する)物質」と書いてあります。あるいは、実質、本質、実体となっています。ウォッチマン・ニー師は「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と訳しています。人間は生まれつき、ある程度の信仰を持っています。人は何かを夢見て、何かを信じて、努力しています。発明や発見も「きっとそうなる」と信じて、たゆまぬ努力を重ね、やがて実体化します。でも、聖書が言う「信仰」は生まれつきのものではありません。この信仰は、神さまが与えた賜物です。重要なのは、先に神さまのことばや約束があり、それを私たちが信じるということです。神さまから何の約束も受けていないのに、自分勝手に信じるというのは愚かなことです。私も韓国のチョー・ヨンギ牧師のような大教会を目指して、信じて必死に祈り求めました。「夢を抱いて、信じれば、必ずそうなる」と言われたのに、「そうならないのはどうして?」と失望落胆しました。もちろん、信じて与えられたものもあります。でも、それは「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」という確率の低いものでした。なぜか、それは神さまのことばや約束を都合よく解釈し、ただ求めたからです。ジョージ・ミュラーは5万回の祈りが聞かれたそうです。まさしく彼は信仰の人でした。私も彼のようになりたいと望んで彼の本を読みました。しかし、ストレスがたまり嫌になって、結局はその本を捨てました。「ああ、彼は信仰の賜物を持った特別な人だったんだ」と結論を下しました。

信仰を語るときに最も有名な箇所は、マルコ11章のみことばでしょう。マルコ11:22-24イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。日本語の聖書には「神を信じなさい」となっていますが、ギリシャ語や英語の聖書は「神の信仰を持ちなさい」となっています。つまり、この信仰は自分から得たというよりも、神さまがあなたに与えた信仰を持つということです。たとえば、神さまが「お金の入った財布をあげます」とおっしゃったとします。「ああ、そうですか、ありがとうございます」と言っただけでは、自分のものになりません。手を出して、その財布を受け取らなければなりません。その手にあたるものが信仰です。旧約聖書でイスラエルがカナンの地を征服するように命じられました。その時、モーセの後継者であるヨシュアがこのように言われました。ヨシュア1:2-4「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。」ヨシュアはこれからヨルダン川を渡って、約束の地に入ろうとしていました。主は「イスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所は、モーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と言われました。だからと言って、自動的にそれらの土地がイスラエルのものになったのではありません。ヨシュアたちが攻め上って、原住民を追い払う必要がありました。この先、ヨシュアは信仰に立ってカナンに攻め上りました。でも、その前に、神さまの約束のことばがありました。ヨシュアはそれを信仰によって受け止めたのです。

 信仰を得るためには、神さまからの語りかけを聞く必要があります。ある時、神さまは「あなたはこれを求めなさい。あなたに与えるから」とおっしゃるでしょう。もちろん、神さまの御声は肉体的な耳では聞き取れません。私たちは聖書を読んでいると、「ああ、これは神さまが私に語っている約束ではないだろうか?」と思うことがよくあります。その約束をつかまえて祈るのです。そうするとそれが信仰になります。私はこのような姿勢を取るようになってから、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」から確率がぐっとアップしました。Ⅰヨハネ5:14-15 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」私にとって、最初、このみことばは脅威を与えるみことばでした。なぜなら、マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。だれであれ、求める者は受ける」と矛盾するように思えたからです。「そんな簡単に神のみこころが分かるだろうか?求めるのが先ではないだろうか?」という反発心がありました。でも、イエス様の行動を福音書から見ると、「確かにそうだな」と思います。たとえば、死んで四日もたったラザロの墓の前で、イエス様はこのようにおっしゃいました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」(ヨハネ11:41,42)。まだ、ラザロは生き返っていないのに、既に感謝しています。イエス様はいちかばちかで「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれたのではありません。父が願いを聞いてくださることを確信して叫ばれたのです。同じように、イエス様がわずかなパンで5000人以上の人たちを養ったときも、前もって感謝しています。

 私たちは信仰を得るためには、神さまから何を求めたら良いのか聞かなければなりません。神さまから約束のみことばをいただく必要があります。もちろん、私たちの方からも求める必要があります。でも、矛盾しているようですが、神さまから「いいよ。それを求めなさい」という約束もいただく必要があるということです。弟子たちが夜のガリラヤ湖で漕ぎ悩んでいました。するとイエス様が湖の上を歩いて、自分たちの舟に近づいてくるではありませんか。最初は幽霊だと思って恐れましたが、その方がイエス様だとわかりました。マタイ14:28-30 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そのとき、ペテロは水の上を歩いてイエス様のところに近づきたいと思いました。そして、「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願いました。ペテロはマタイ7章のみことばのように「求めた」のです。すると、イエス様が「来なさい」と言われました。これはイエス様の約束のことば、レーマであります。ペテロは信仰によって、舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に向かいました。神からの信仰が与えられ、奇跡が起きたのです。ところが、風を見て、怖くなり、沈みかけました。ペテロは疑ってしまい、それで沈んでおぼれたのです。でも、ここから学べることは、ペテロの「行きたい」という願いとイエス様からの「来なさい」がマッチして、信仰となったということです。ペテロには欠点もありましたが、信仰の人でした。神さまはペテロのように信仰のある人を喜ばれます。

 では、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」式の求めではなく、確率を上げるためにはどうしたら良いのでしょう?ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とあります。ペテロがそうであったように、聞くことが重要です。聖書のことばを読んでいると、神さまが語ってくださるときがあるということです。神さまはあなたに「これを求めなさい」とおっしゃるのです。それを捕まえて、祈ったならば、それは山をも動かす神からの信仰になります。もちろん、聖書のことばを読んでいないときでも、神さまは語ってくださいます。ピリピ2:13口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」神さまはあなたに願いを起こさせて、「これを求めなさい」とおっしゃってくださいます。「願い」は英語でdesireと言います。ビル・ジョンソン師は、ラテン語のsireは「父親」で、deは「下る」という意味であると言いました。つまり、父なる神さまから下ってくる願いがあるんだということです。その約束のことば、あるいはビジョンこそが、神からの信仰になるのです。信仰は目に見えないものを掴む手であります。父なる神さまがあなたにこれをあげようとしています。手を差し出さないのはもったいないです。どうぞ、信仰の手を差し出して、神さまが与えたいと願うものをいただきましょう。

2.信仰を行動に移す

 前のポイントでは「神さまから信仰をいただく」という受動的なことを言いました。後半は、「その信仰を行動に移す」という能動的なことをお話ししたいと思います。旧約聖書にも新約聖書にも、神の人々が信仰を行動に移すことによって偉大なわざを行うことができた例が見られます。偉大な奇跡は、神のことばに基づき、すなおな信仰をもって行動した人々によってなされました。第一のポイントでヨシュアのことをお話ししましたが、信仰を行動に移すときがやってきました。ヨシュア6:2-5主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」主はヨシュアに「エリコをあなたの手に渡した」と言われました。これは神さまからの約束であり、神さまからの信仰です。でも、このことは、ヨシュアとイスラエルの民が何もしないでくつろいでいた時に、その町が自動的に彼らのものとなったという意味ではありません。主は、彼らにお与えになったその地を、どのようにやって所有すればよいか、はっきり指示されました。彼らは主のことばを信じ、それに基づいて行動しなければなりませんでした。彼らはその町の周りを一日一周、六日間、行進しなければなりませんでした。七日目は、その町の周りを七回行進しなければなりませんでした。その後、角笛を吹き鳴らす時、彼らは叫び声をあげなければなりませんでした。注意すべきことは、城壁がまだそびえ立っている時に、彼らが叫び声を上げたということです。城壁がくずれ落ちた時なら、だれでも叫び声を上げることができます。そうするには、どんな信仰もいりません。しかし、彼らは信仰を行動に移したのです。「大きな叫び声を上げた」のです。すると、城壁は落ちました。

 ケネス・ヘーゲン師が『信仰による歩み』という本の中でこのようなことを証しています。20世紀のペンテコステ運動の初期、ある女性伝道者が4人の車椅子の人たちに奉仕していました。彼女はとても静かな声で、こう言いました。「イエスの御名により、起きて歩きなさい」。その人たちのうち3人が起きて歩きました。4人目の人は、「私は歩けません」と言いました。「他の人たちも歩けなかったのに、歩いたんですよ」と、その伝道者が言いました。足の不自由なその婦人は「彼らが歩いたことは、わかっています。でも、私は歩けません。お分かりのように、私は長年、歩いたことがないのです」と答えました。その伝道者は、座っているままのその婦人を残して立ち去らなければなりませんでした。他の3人は自分の信仰を行動に移し、その結果を刈り取ったのです。私がある教会で奉仕していた時、下半身にやけどを負ったために歩くことができずにいた男性がいました。ある日の晩のいやしの集会で、彼は祈りを求めて前に出てきました。主は、私が何をすべきか、私に語っておられました。私は彼のところに来た時、「あなたは走れますか?」と彼に尋ねました。彼は、そんな質問をされてびっくりし、こう言いました。「いいえ、できません。私は歩くこともできません。まして、走ることなど、できません」。それから私はこう言いました。「主は私に、あなたに走るように告げなさいと語られました」。すると、その男性は、そのことをもう一度考えてみようともしませんでした。彼はすぐに向き直って、通路を全力疾走し始めたのです。こうして彼は教会内を三周か四周走りました。そして、再び戻って来た時、彼は正常に歩いていました。彼は完全に癒されました!彼は自分の信仰を行動に移したのです。

 新約聖書にも同じようなことがいくつも記されています。ルカ5章に、中風をわずらっている人を4人の人が床の上に載せて運んで来た記事があります。何とかして、家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしました。ところが、戸口まで人々があふれており、どうにも病人を運ぶ方法が見つかりませんでした。しかし、彼らはあきらめませんでした。屋根に上り、瓦に穴を開け、そこから寝たきりの人を部屋の主の御前につり下ろしました。イエス様は「彼らの信仰を見て」とおっしゃいました。では、だれの信仰によって、この奇跡がもたらされたのでしょうか?その寝床の上に横たわっている人の信仰でしょうか?彼を主のもとに連れて来た友人たちの信仰でしょうか?「彼ら」というのは複数形です。それは、彼ら全員の信仰でした。その人の友人たちが、戸口まで人々があふれているのを見て、「やることはやってみた。私たちは最善を尽くした」と言って、あきらめて家に帰るのは簡単なことでした。しかし、彼らは友人をイエス様のもとに連れ出す方法を見つけました。病人自身も、偉大な信仰を現しました。もし、彼が日本人ならこう言うかもしれません。「人の屋根に穴をあけるなんて迷惑をかける」「床に寝たままでは恥ずかしい。もう帰ろうか」。でも、彼は素直に人々の前につり降ろされたのです。イエス様は「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。「ああ、そうですか。アーメン」。その次に、イエス様は彼に「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。彼はそれまで自分では何もできませんでした。彼はこういうことも可能でした。「『起きて歩け』だって?起き上がることができないので、この人たちが運んでくれたんじゃないですか」。しかし、彼はそうはしませんでした。イエス様が彼に「起きなさい」と言われた時、彼は体を動かし始めました。そして、彼がそうした時、その結果、癒しが起こったのです。彼は主のことばを信仰によって受け、そして行動しました。その結果、奇跡を受け取ることができたのです。

 私たちは特別な信仰がなくても、生活することができます。どこの学校に入るか、どんな仕事につくか、どんな人と結婚するか、何人子どもを産むか、どこに住み、どんな家を建てるか、どんなお墓を建てるか?この世の人たちは、自分の知識や経験、この世の常識、時には専門家の意見を聞きながら決定するでしょう?でもそれは、きわめて安全かもしれませんが一般的な生き方しかできません。英語ではそれをordinary life「普通の生き方」と呼びます。でも、私たちは神から与えられた信仰を用いて生活するように召されています。そうするなら、この世にあっても、御国の奇跡を味わいながら生活することができるからです。英語ではそれをextraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」と呼びます。御国では、奇跡は普通のことです。足なえが歩き、目の見えない人が見え、口のきけない人が歌います。御国が完成してから、奇跡をもたらすような信仰は必要でありません。なぜなら、そこでは普通だからです。私たちはこの世において、神からの信仰を用いて生きるように召されています。そうすることによって、人々は「ああ、神さまは生きておられる。御国がこのところに来ている」と知ることができるからです。クリスチャンとして恥をかかない、常識的な生き方も良いかもしれません。この世でもノーベル賞、オリンピックメダルなど、偉大なことを自分の力でやる人はいるでしょう。しかし、それはごく一部の限られた人にしかできません。神さまはごく普通のクリスチャンに、偉大なことをして、「御名があがめられ、御国が来るように」したいのです。そのためには私たちはたえず聖書を読み、約束のことばをいただく必要があります。父なる神さまから下る、願いdesireを信仰の手でキャッチする必要があります。その次に信仰によって一歩進み出すのです。手を伸ばすのです。立ち上がるのです。そうすると、奇跡が、神さまのみわざが現れるのです。あなたは、ordinary life「普通の生き方」を送りたいでしょうか?それとも、extraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」を送りたいでしょうか?

 ヨシュアたちが、ヨルダン川を渡る時も信仰を行動に移すことが必要でした。モーセのときは、モーセが杖を伸べたとき、海が別れたので、海の底を渡ることができました。しかし、川は川上からどんどん水が流れてくるので、これもまた大変なことでした。川が枯れてから渡るのはだれでもできます。しかし、主はヨシュアにこう言われました。ヨシュア3:8 「あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」ヨシュアは主の約束のことばを信じて、祭司たちにそうするように命じました。箱をかつぐ者がヨルダンまでに来たとき、川の水がせき止められて道ができたとは書いていません。そのときは、普段よりもヨルダン川の水が岸一杯まであふれていました。現実的には無理です。でも、祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川の水がせきとめられました。イスラエルの民は、かわいた地を通り、ヨルダン川を渡りました。このところでも、神からの信仰を受けたこと、そして信仰を行動に移したことが記されています。イエス様が「手を伸ばせ」と命じたら、伸ばすのです。イエス様が「立って歩め」と命じたら、立って歩くのです。イエス様が「病を癒されよ」と言われたら、何の変化が感じられなくても、健康な生活をするのです。聖歌539「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし。何をも見ず、また聞かずとも、神のみ約束に立ち。歩めよ、信仰により、歩め歩めうたがわで。歩めよ信仰により、見ゆるところにはよらで。あなたは、自分の知識や経験、この世の常識、時には専門家の意見を聞きながら「普通の生き方」を送りたいでしょうか?それとも、神から与えられた信仰を用いてextraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」を送りたいでしょうか?