2018.5.20「人間の霊 創世記2:7-9」

 教会では、「人間は霊的な生き物であり、動物とは違う」と良く言われます。しかし、霊とは何なのか詳しく説明されることはありません。そのため人々は、ニューエイジや新興宗教の霊的な世界へと誘惑されるのです。新約聖書時代には、「グノーシス」という霊的体験を強調するキリスト教の異端がありました。そういうこともあり、教会は霊的なことは危険なので、あまり取り扱わないできました。そのために、今日は礼拝でこのテーマを扱うことにしました。 

1.霊の起源と堕落

 人間には、どうして霊があるのでしょうか?霊の起源はどこなのでしょうか?それは聖書の創世記まで遡ります。創世記1:26-27「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」このところには、「神のかたち」という言葉と、「神に似る」という言葉があります。神学者たちはこの2つはそれぞれ違うとも言うし、いやこれは1つのことだと言う人もいます。とにかく人間は神と似ているところlikeness、神のかたちimageがあると言うことです。さらに進んで創世記2章に別のアプローチで人間創造のことが記されています。創世記2:7「主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」人間の肉体は、土で造られました。パウロも私たちは「土の器」であると言っています(参考;Ⅱコリント5:7)。しかし、それだけではありません。主なる神さまは、ご自分の息をその鼻に吹き込まれました。ヨブ27:3「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」と書いてありますので、そのとき神自身の霊を入れてくださったのです。一方、動物は神のことばによって造られました。動物にも魂(心)はありますが、霊はありません。イザヤ31:3「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない」と書かれています。人間と動物の決定的な違いは、人間は神のかたちに似せて造られ、その中に霊が宿っているということです。だから、人間には発明する力、愛する力、そして神のように動物や自然界を支配する力があるのです。社会学者たちは進化論に立ち、創造主なる神を認めないので、迷路にはまっています。この世の教育も、進化論の影響を受けているので、人間の尊厳を見失っているのです。

 ここで終われば良いのですが、この物語の続きがあります。神である主はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)と言われました。善悪の知識の木は、神の主権を象徴しています。その木から取って食べるということは、自分が神になるということです。ところが、アダムとエバはヘビに化けたサタンによって誘惑され、その木から取って食べてしまいました。創世記3:7-8「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」彼らは「それを取って食べたら死ぬ」と言われていました。ところが、すぐには死にませんでした。「アダムは930年生きて、そうして死にました」(創世記5:5)。すぐに死んだのはアダムの霊であります。霊である神さまとの交わりが途絶えてしまいました。そのため、アダムには恐れと恥がやってきたのです。創世記3:7「二人の目は開かれた」と書いてあります。ウォッチマン・ニー師は、「そのとき人間の霊が死ぬ代わりに、魂が異常に発達した」と言っています。そうです。それまで、アダムは神さまと親しく交わり、神さまが言われることに何でも従ってきました。アダムにとって善悪の基準は神さまのことばに従うことでした。ところが、神と交わる霊が喪失し、その代り自分の魂で何でも考えるようになったのです。アダム以来の人間は、みな霊的に死んでおり、自分の魂で生きて、「それが良いことなんだ」と思っています。創世記主6章で、主は「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられました。ノアの後、人間の寿命はだんだん短くなり、120歳が限度になりました。人間の霊が死んだので、それが肉体の寿命、自然界の支配力、正しい生き方にも影響を及ぼしてしまったのです。旧約聖書の歴史は神さま対する不従順の歴史です。肉にある者は、神さまの戒めに従い通すことができないのです。

 しかし、旧約聖書にも希望が記されています。エゼキエル36:26-27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」これはイエス・キリストによってなされる霊的生まれ変わりを預言している箇所です。従来の心はかたくなで、石のような頑固な心です。でも、石の心を取り除き、柔らかい肉の心を与えると預言されています。でも、その中心は「あなたがたのうちに新しい霊を授ける」という約束です。これまで多くの神学者たちが、人間の堕落性はどの程度なのか議論してきました。宗教改革者たちは「人間は完全に堕落したので、自分では神を見出すことができない」と言いました。しかし、カトリックと自由主義神学者たちは、「自然主義」を訴え、人間には神を見出す力、理性があると言いました。つまり、いくらか神のかたちが残っているという考えです。私たちは自然界、たとえば宇宙や動植物、人間の体を見るとき、「これは偶然ではない」と思います。そこには不思議な秩序、緻密さ、一定の法則があるからです。人間は自然界を見て、「ああ、神さまがいるのではないだろうか?」と思うでしょう。しかし、それはsomething greatであって。キリストの神さまではありません。ニューエイジは、大自然の見えざる力、サムシング・グレートと言います。しかし、それは人格のない大宇宙の霊であります。私たちは私たちを愛しておられる人格的な、キリストの神と出会わなければなりません。

2.霊の新生

イエス様は山上の説教で「心の貧しい人は幸いである」(マタイ5:3)と言われました。しかしキング・ジェームス訳はこうなっています。”Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.「霊において貧しい人は祝福される」というのが正しい訳です。言い換えると、神さまと交わることができないので、貧しさを覚えている人、霊なる神さまを慕っている人であります。そういう人が祝福されるのです。残念ですが、この世の人たちは神さまなしでも平気で生きています。物質の豊かさや、良好な人間関係ばかり求めています。その証拠に、テレビのCMのほとんどが食べ物、着る物、持ち物です。そして、とても多いのがスマホのCMです。新聞には「スマホの通信代が家計を悪化されている」と書かれていました。クリスチャンも、本当は聖書を読み、神さまと交わるべきなのですが、インターネットやテレビを見たりしています。確かに水平的な情報は得られるかもしれませんが、時間や空間を超えた垂直の情報は、まことの神さまからしかやってきません。生まれつきの人間であっても、「これで良いのだろうか?」と飢え渇きを覚えるときがあります。まさしく、「霊において貧しい人は祝福される」ということです。

ヨハネ3章にはニコデモが夜、イエス様を訪ねてきたことが記されています。彼はイスラエルの教師、サンヒドリン議員、宗教的な人物、そして金持ちでありました。ユダヤ人から見たら、彼みたいな人が天国に行ける一番ふさわしい人物でした。ところがイエス様は「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5,6)と言われました。人間は母の胎内から肉体的に生まれます。しかし、それだと霊的に死んでいる状態であり、神さまのことが分かりません。イエス様は「神の国に入ることができないし、神さまを見ることもできない」と言われました。ヨハネ9章には「生まれつきの盲人の癒し」が記されています。そこでは「私たちは見える」と言い張る人は、「本当は見えていないのです」と言われています。では、どうすれば良いのでしょうか?イエス様はエゼキエル書で言われていたことを実現させるために来られました。バプテスマのヨハネは、「その方は、聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と言いました。そうです。イエス様はご自分を信じる人に、聖霊による生まれ変わりを与えるお方なのです。ここでは聖霊は「風」にたとえられています。聖霊も風のように目には見えませんが、その人の心に吹くと、その人が霊的に生まれ変わるのがわかります。創世記に行われていたことが、キリストを信じる人になされるのです。その人は霊的に生まれ変わるのです。テトス3:5-6「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」アーメン、これこそが聖書が言う救いであります。

 しかし、私たちは霊の存在を魂との関係ではっきりと知る必要があります。なぜなら、西洋から来たキリスト教は霊と魂の区別がないからです。一番問題なことばは、soulであります。英語の辞書によると「霊魂、魂、霊。人間の肉体に宿り、生命・思考・行動・心の根源で、肉体から離れても不滅で存在すると考えられる」と書かれています。簡単に言うと、西洋の人にはspiritとsoulの区別があまりないということです。また、しばしば、「心」と言いますが、それが魂なのか、霊なのかよく分かりません。心理学はサイコロジーと言いますが、元来、プシュケー(魂)から来たものです。そのため心理学者は魂(心)の存在は認めますが、霊の存在は認めません。彼らには霊的な神が存在しません。「心理学は無神論者によってはじめられた」と言っても過言ではありません。もちろん、彼らによって心の多くの分野が解明されたことは確かです。でも、先在意識は認めても、霊の存在を認めていないのは残念です。使徒パウロは、人間は3つのものでできていると言いました。Ⅰテサロニケ5:23「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」と祈りました。きょうは話しませんが、たましいは3つのものでできています。それは、知性(思い)、感情、意志です。しかし、これだけだと霊との関係がよく分かりません。

 私たちが霊的に生まれ変わる時、どのようなことが起こるのでしょうか?それは、エペソ4章とコロサイ3章に記されています。エペソ4:22-24「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」ここには、3つのことが記されています。救いの3段階と言っても良いかもしれません。第一は、古い人を脱ぎ捨てることです。古い人とは、生まれつきの心です。エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」人間の心は改善不可能であり、十字架によって死ぬしかありません。キリストにあって私たちは古い人に死んだ存在です。第二は、心の霊において新しくされるのです。これは心の中にある霊が新しくされるということです。英語の聖書はrenewであり、再び新しくする、更新する、新品のようにするという意味があります。このところから、人間の霊は全く死んでいたということよりも、「かすかに生きているが貧しい状態である」と暗示しています。とにかく、霊が生まれ変わり、活動を再開したということです。第三は、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るということです。コロサイ3章には「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と書かれています。心理学的にいますと、人格であります。私たちはクリスチャンになって霊的に生まれ変わっても、裸、ありのままではいけないということです。霊的に生まれ変わったら、そこにキリストに似た新しい人、品性を身に着るということです。このように聖書は「救い」ということを霊的にもはっきりと説明しています。

3.霊の機能

 キリスト教会では「人間の霊」の存在を認めてきました。また、福音派ではよく「霊的だとか霊的でない」とか言われます。また新約の書簡には「御霊」ということばがよく出てきますが、原文はぴプニューマであり、人間の霊なのか神の霊なのかはっきりしません。日本語の聖書は聖霊を「御霊」と訳していますが、あきらかに解釈が入っています。実際のところ、はっきりしないのです。なぜかと言うと、生まれ変わった霊の場所に、聖霊が臨在するからです。第三のポイントでは霊の機能、働きについて学びたいと思います。ウィットネス・リー師が『神の永遠のご計画』という本の中で、このことを詳しく述べています。ある人は、「それは仮説ではないだろうか」と言うかもしれませんが、彼はウォッチマン・ニー師と並んで、神からの知恵を豊かに受けた人です。その本の中に、霊には3つの部分があると書かれています。3つとは、良心、交わり、直覚です。少し彼の本を引用しながら、述べたいと思います。「良心」は容易に理解できます。私たちにはだれでもこれをよく知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。「交わり」を理解するのも容易なことです。交わりとは神と私たちが交わることです。私たちの霊の内でこのような機能によって神に触れることができます。簡単に言って、交わりとは神に触れることです。しかし、「直覚」を理解することはそんなに簡単ではありません。直覚とは、直接的な感覚、あるいは直接的な認識を持つことを意味します。私たちの霊には理由、環境、背景に関わらず、直観なるものがあります。それは理由のない感覚、すなわち「理由づける」ことのできない感覚です。それは神からの直観であり、神からじかに知らされることです。この機能がいわゆる霊の直覚です。このように良心、交わり、直覚の機能によって霊というものが分かります。

 今言われたことから以下のことが考えられるのではないでしょうか?良心の弱い人というのは、善悪の区別がつきません。頭では悪いと知っても、それが心の意志まで届きません。だから分かってはいるけど、ついつい悪事にはまってしまうのです。人間にはある程度の良心がありますが、霊的に生まれ変わっていないと非常に弱いということです。絶対的な基準がないので、時代や人々の考えに流されてしまいます。でも、霊的に生まれ変わると、誘惑に対して強くなり、悪の道にはまらなくなるということも確かです。使徒パウロは「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています」(ローマ9:1)と言っています。良心が霊の中にあるという事実は偉大ではないでしょうか?第二の「神との交わり」は、祈りということができます。クリスチャンになる前は、どの神さまに祈って良いか分かりませんでした。また、一方的で漠然的だったかもしれません。しかし、霊的に生まれ、父なる神さまに対して、だんだん話せるようになります。まるで生まれた赤ちゃんが成長していくと、話すことばを覚えるのと同じです。霊的に成長すると神さまが共におられることが分かり、神さまとの交わりが楽しくなります。パウロは「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:18)と言いました。しかし、これは、冠詞がないので、「御霊」ではなく、私たちの「霊」です。私たちは霊によって神さまと交わるのです。第三は、「直覚」ですが、これは90度のことではありません。英語でintuitionと言いますが、すばやく見抜くこと、洞察力、直観であります。女性は生まれつき直観が強いと言われています。理性や常識が、直覚のじゃまになることがあります。神さまが直接、私たちの霊に語りかける時があります。それを正しくキャッチすることができたら幸いです。パウロは「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう」(Ⅰコリント2:11)と言いました。私たちの霊は魂が識別し得ないことを識別することができます。

 今日、三一の神さまはどこにおられるのでしょうか?父なる神さまは天におられます。イエス様は父なる神の右の座におられます。でも、それだけではありません。父なる神の霊とキリストの御霊と聖霊が、私たちの霊の中におられるのです。旧約聖書には神の幕屋、あるいは神殿について記されています。外庭にあたるものが私たちの肉体です。聖所にあたるものが私たちの魂です。そして、至聖所にあたるものが私たちの霊です。旧約時代、神さまは至聖所に臨在されました。至聖所こそが神ご自身が住まわれる場所でした。しかし、新約時代では、キリストに贖われた者の中に神さまが住んでくださるようになりました。私たちの至聖所である霊にであります。三一の神さまは私たちの奥底、霊の中に住んでおられるのです。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)と言いました。そうです。キリストが私たちの霊の中に住んでおられるのです。「内住のキリスト」と言いますが、私たちはこのお方に注意を向けなればなりません。この「内住のキリスト」という目標からそれてはなりません。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこう勧めています。「良くなろうとか、良い行いをすることについてもう忘れてしまいなさい。それらの良い物事すべてを捨てて、至聖所に入りなさい。外庭で忙しく働いているクリスチャンが多いのです。彼らは自分に対する神の計画は、神に触れることのできる至聖所に入り、神に満たされ、神に占有され、あらゆる事で神と一つとなり、自分のすべてとして神を得ることを知らないのです。あなたの霊を識別して、内にいますこのお方と交わりを持ってください。このお方にあなたを譲り渡して、あなたを占有させなさい。」アーメン。キリストの内住を占有させなさい、妨げるものがあります。それは宗教的なものです。私たちは救われた後、自分は弱いと感じるので、もっと力が与えられるように聖霊が私たちの上に注がれるように祈ります。それよりも、私たちの霊によって、三一の霊に従うことにあるのです。また、私たちの魂は神さまに従うことを喜びません。ですから、最も重要なことは、私たちが自分の霊を知り、魂を否むことにあります。私たちは自分の魂を否んで、自分の霊に従って歩む必要があります。なぜなら、三一の神は、私たちの霊の中におられるからです。ジュピターの歌詞は、Every day I listen to my heart(自分の心に聞く)です。しかし、私たちは自分の霊に聞くのです。なぜなら、そこには三一の神の霊が臨在しておられるからです。