2018.6.3「肉と肉体 ローマ7:17-25」

 これまで霊と魂について学びました。最後は肉体です。肉体は魂から受けた命令を行う器官です。手、足、目、口などの器官を用いて神さまと人々に仕えます。ところが、問題があります。パウロは「私のからだの中には異なった律法があって、善をしたいと思っているのに、かえって悪を行っている」と悩んでいます。これを私たちは「肉」と呼んでいます。肉は肉体のことではなく、肉体の中に住んでいる罪であります。私たちはこの肉をなんとかしなければなりません。

1.肉とは

アダムが堕落したことのゆえに、すべての人間は死ぬようになりました。しかし、それだけではありません。ウィットネス・リーは『神の永遠のご計画』という本でこのように述べています。ご存じのように、アダムは誘われて第二の源である知識の木を、自分の中に取り入れてしまいました。これはただ単に何か悪いことをしたという問題ではありません。いいえ、これは神の律法と規則を犯すことよりずっと重大なことです。アダムが知識の木の実を取ったという意味は、サタンを自分の中に受け入れたということです。アダムはその木の枝を取らないで、その木の実を取りました。実は命を再生する力を含んでいます。たとえば、桃の木の実が地中に植えられると、やがて別の小さい桃の木が芽を出すでしょう。アダムは「土」でした。アダムが土である自分に知識の木の実を取り入れた時、サタンを受け入れました。それからサタンは彼の中で成長しました。サタンはアダムが園で堕落した時に、アダムの中へと入ってきただけではなく、今もなお人類の中に残っています。彼は人類の中でどこにいるのでしょうか?私たちは霊、魂、体の三部分から成っています。もちろん、それはアダムの肉体の中に入りました。なぜなら、彼はそれを食べたからです。サタンの何かが私たちの肉体の中にいるという聖書の裏付けが必要となります。

ローマ7章の日本語訳聖書は、あるところでは「律法」、またあるところでは「原理」と訳していますが、本来はすべてlawです。Lawは「法則」と訳すべきです。なぜなら、「律法」ということばを使うと、神の律法と同じように考えてしまうからです。また、「心」は、mind「思い」です。これらのことを配慮して、ローマ7:23「私のからだの中には異なった法則があって、それが私の思いの法則に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の法則のとりこにしているのを見いだすのです。」このところに、2つの法則があることが分かります。第一はからだの中にある罪の法則です。第二は思いの法則です。からだの中ある罪の法則が、思いの法則に対して戦いをいどみ、思いの法則をとりこにしてしまうということです。「罪の法則」とは何でしょう?パウロは「もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪です」(ローマ7:20)と言っています。聖書学者たちは、ローマ7章の「罪」は人格化されていると言います。罪は人のように私たちの中に住み、私たちの欲しないことをさせることができます。そして罪は私たちの主人になることができます。しかし、ガラテヤ書2章は全く逆のことが記されています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。私が死んでキリストが住んでいるということです。ウィットネス・リーはさらに、こう述べています。「キリストは神を具体化したものであり、罪はサタンを具体化したものです。罪は私たちの主人になることができます。したがって、罪とは邪悪な者、すなわちサタンに違いありません。人の堕落を通して、サタンは罪となって人の中に入って来て、人を治め、傷つけ、堕落させ、支配しています。どの部分においででしょうか?サタンは人の肉体の肢体(手足)の中にはいります。」サタンが肉体の中にはいっている、それが「肉」であるという考えです。一般的に、神学者はこれを単数形の罪、「原罪」と呼んでいます。アダムから受け継いだ罪の性質が、救われたクリスチャンにも宿っているということです。ローマ人への手紙は「古い人」と言っています。あとからパウロは「肉」に言い換えています。簡単に言えば、肉は古い人の表れたものであって、二つは一つのものです。客観的な事実から言えば私たちは古い人でありました。ローマ6章で「古い人はキリストと共に十字架につけられた」と言っています。これは2000年前に成就された事実です。しかし、そのとき私たちはまだ生まれていませんでした。生まれてからの私たちにはまだ罪が残っています。つまり、主観的な経験から言えば、私たちは肉なのです。そのため今度、私たちが、私たちの肉を十字架につけるという主観的な経験が残されているのです。つまり、霊的に新生し、魂が砕かれ、最後に肉を対処する必要があるのです。

 「肉」の第一は邪悪な罪の性質です。これはガラテヤ5章に「肉の働き」としてあげられています。聖霊により肉を十字架につける主観的な経験が必要です。第二は「自己」です。きよめ派では、「自我に死ね」「自我の磔殺(たくさつ)」と言われます。ローマ6章によると「古い人に死んだ」のですが、「日々、十字架に自分を渡す」ことが必要だということです。第三は「天然の性質」です。生まれつき柔和な人もいます。しかし、それは肉から来たものです。賢くて手腕や才能を発揮する人もいます。しかし、それらの能力は古い人アダムに源を置くものです。つまり、肉は醜いものだけではなく、美しい肉もあるということです。これも十字架に行かなければなりません。結論から言えば、肉を対処するのは、十字架であるということです。ローマ8:8 「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあるからです。

2.腐敗した肉

 肉の一面は「腐敗した肉」です。ガラテヤ書5章に「肉の行い」として出ています。私たちはクリスチャンになると、罪のない生活を慕い求めるようになります。そして、自分で意識して、「罪を犯さないように」努力します。しかし、結果は失望に終わります。気がつくと、口が勝手なことを言い、目が勝手なものを見て、手足が勝手なことをしています。WJWD、「イエス様だったらどうする?」というリスト・バンドをしている人をたまに見ます。あれは御霊によってではなく、自分の意思で自分を制御するのですから、結構、疲れると思います。「罪を犯さないように」と意識すると、かえってしてしまいます。「するな」と言えば、したくなる。「触るな」と言えば、さわりたくなるのです。それが、罪の法則であり、腐敗した肉です。子どもを育てるとき、あまり肉を刺激しないようにすべきです。律法的ではなく、励まして育てるという恵みの道があると思います。これは指導者が人を動かすための鉄則ではないでしょうか? 真面目なパウロは「罪を犯さないように」、一生懸命努力しました。しかし、自分の中に腐敗した肉があることを発見しました。最後に「私は、ほんとうにみじめな人間です」と告白しました。私たちはパウロ以上のものなのでしょうか?徹底的な肉の対処がなければ、罪のない生活を送ることは不可能です。

 聖書は、どう肉を対処すべきなのか教えているでしょうか?ローマ6章では「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。…私たちの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。義の器として神にささげなさい。」と言われています。これは、「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」(ローマ6:6)ということを認めることから始まります。私たちがキリストを信じたときに、神さまがなさって下さった客観的な事実です。もし、これですべてが解決していたなら、ローマ7章の経験をしなくて良いでしょう。確かに私たちの古い人は十字架につけられました。でも、肉が残っています。人が罪を犯すその原因は人が肉につくものだからです。この肉が対処されてはじめて、罪の縄目から自由にされるのです。ですから、私たちの古い人が十字架でキリストと共に死んだという事実、プラスもう1つの主体的な経験が必要です。私たちは聖霊によって、この事実を私たちの内側で執行してもらわなければなりません。ガラテヤ5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」この聖句は、救われてキリストに属する者は肉を率先して十字架につける者であることを言っています。ここでは、主が私たちの肉を十字架につけたとは言わないで、私たち自身が肉を十字架につけたと言っています。つまり、古い人を十字架につけるのは神さまの責任であり、肉を十字架につけるのは、私たちの責任です。 

 でも、肉を十字架につけることは、聖霊によって私たちが経験することであります。ローマ8:13-14「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」「御霊によって、からだの行いを殺す」とは、まさしく、私たちの肉を十字架につけるという行為です。ウォッチマン・ニーは『命の経験』(後編)でこのように述べています。本来なら、キリスト・イエスに属する者は、聖霊によって肉を十字架につけていなければ、その人は異状なのです。当時、ガラテヤの多くの聖徒たちはこのような異状な段階にいました。彼らは救われてキリストに属していたけれども、なお肉によって生き、聖霊によって肉を十字架につけていませんでした。そこで使徒パウロはガラテヤ人に対して、「ガラテヤ人よ、あなたはキリストに属する者であるのに、まだ肉によって生きているのですか。神はすでにあなたの古い人をキリストと共に十字架につけたのだから、あなたも聖霊によって肉を十字架につけてしまうべきです。あなたはもはや肉によって生きてはなりません。肉の情欲を満たすべきではありません」と言いました。どうぞ、私たちも、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに十字架につけましょう。そして、今度は一歩、一歩、聖霊によって歩みましょう。神との交わり、つまり聖霊の中で生きるならば、肉にやられることはありません。私たちが聖霊の交わりの中で生きるなら、肉は殺され、主の命が豊かに働いてくださいます。そして、結果的に罪を犯さなくなるのです。

3.自己

 肉の2つ目は「自己」です。「自我」あるいは「エゴ」と言うべきでしょうか?ウォンチマン・ニーの『命の経験』(後編)がとても参考になりましたので、ところどころ参考にしました。自己とは、人間の思想や主張に重きを置いた魂の命です。自己の強い典型的な人物を3人あげることができます。まず、弟子のペテロを取り上げたいと思います。マタイ16章で、イエス様が「あなたがたは、私をだれと言うか」と弟子たちに聞きました。すると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白し、イエス様から大変ほめられました。そして、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示し始められました。すると、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱られました。ペテロは、よく意見を言う人であり、変貌山では「三つの幕屋を造りましょうか?」と提案しました。また、イエス様が最後の晩餐の席で、たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどと決して申しません」と誓いました。でも、その後イエス様を3度も知らないと言ってしまいました。このように、意見が自己の表れであり、化身です。でも、マタイ16章では「サタン」が隠されていました。彼の意見は神の御旨の敵であり、十字架に敵対していました。 

  

ペテロの次にあげられる人物はヨブです。聖書全体で最も多く語った人はヨブです。彼は友人たちに対して、「私は間違ったことをしていない」と主張しました。最後に主が現れヨブに対して、「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(ヨブ38:2)と言いました。確かにヨブの問題は、罪や、この世や、良心ではありません。真の彼の問題は彼自身です。彼の砕かれていない自己が、神を知ることを妨げている、それが彼の問題です。さらに女性では、マリヤの姉、マルタは意見の多い人でした。ラザロが死んで4日もたってから、イエス様が彼らの家を訪れました。マルタはイエス様に「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:20)と文句ありげに言いました。イエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」と言われると「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。さらに、マルタは「あなたが世に来られるキリストである」と信じていますと告白しました。マルタはとても多くの意見を持っており、自己が非常に強い人であることが分かります。ウォンチマン・ニーはこのように語っています。自己で満ちている人はいつも教会に多くの困難をもたらします。今日キリスト教の中でこんなに多く分裂しているその理由は、人の罪やこの世的なことだけではありません。それ以上に人の自己によります。マルチン・ルターは「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる、それはわたしの自己だ」と言いました。

 では、どのようにして自己は対処されるのでしょうか?私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられました。自己が古い人の表れの一部ですから、古い人に属する自己もすでに解決されているのです。でも、肉の対処と同様に、主観的な経験が必要だということです。私たちは日常生活の中で、自分の考えや意見の表われを見出した時はいつでも、聖霊によって十字架の死をこれらに適用させ、殺さなければなりません。これが自己を対処するときの主観的な経験です。ペテロはイエス様から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られました。その後、イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました(マタイ16:24)。十字架を負うとは、だれかのために苦しむことではありません。十字架の強調点は苦しみではなく、死です。人が十字架に行く主要な目的は苦しむためではなく、死ぬためです。その意味は、十字架の死を信仰によって受け入れ、聖霊によって十字架の死を私たちに適用するのです。つまり、私たちの自己を死に渡すということです。これは、ただ一度ではなく、朝昼晩適用しなければなりません。例えるとこのようなものです。農夫は雑草を抜くのですが、きょう雑草を取り除いても、あすまた伸びてきます。だから、農夫はまた雑草を取り除かなければなりません。私たちは、日々、自分の十字架を負って、十字架の死を適用してイエス様について行くのです。

 

4.生来の性質

 肉の3つ目は「生来の性質」です。ウォッチマン・ニーは「天然の性質」と呼んでいます。ある人たちはかんしゃくを起こしてすぐ腹を立てます。それは短気だということであり、腐敗した肉の性質です。ある人たちはとてもおしゃべりでいつも自分の意見を足します。それは彼らの自己が非常に強いということです。しかし、他の人たちは腹も立てなければ、おしゃべりもしないけれど、自分が始めたことなら何であれ、かんであれやってのけるのです。これは彼らがとても強い生来の性質を持っていることを示します。生来の性質とは、人間の才能、能力、知恵、賢明さ、計画や手腕に関係のある古い人が生かし出す表現です。旧約聖書のヤコブはその代表的な人物です。彼は有能で策略にたけ、計画に富み、非常に才能があり、大の手腕家でした。彼は実に、生来の性質の強い人でした。エサウから長子の権をだまし取り、その後、父から長子の祝福を獲得しました。彼が家を出てさまよっている時に、神はベテルで現われ、彼を祝福することを約束されました。その時ヤコブは「無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、…すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と誓いました。神さまは無条件に祝福しようと約束されたにもかかわらず、ヤコブは条件付きで神さまと取引きしました。彼が叔父のラバンのもとにいた間も、自分の生来の能力によって策略と手腕を用いました。やがて彼は非常に富む人になりました。神さまはヤボクの渡しで、ヤコブのもものつがいに触って彼を対処されました。それによってヤコブは足をひきずるようになりました。それでも、兄エサウに会うとき、彼はまだ自分の手腕と陰謀を遂行しようとしました。群れと家族を二つの組に分け、自分の愛する妻と息子ヨセフを最後に置き、万一攻撃されても彼らが逃げることができるように取り計らいました。ですから、神さまはヤコブの全生涯を通して、ヤコブの生来の性質を対処されました。ヤコブを取り巻いた困難、苦しみや問題は、ヤコブの生来の性質を砕くためでした。

 このところで、生来の性質を、人間の能力、才能、知恵、賢さに属するものと定義しました。なぜなら、これらすべては、私たちの生来の命から出ているのであって、神の復活の命から出ているのではないからです。これらはもともと持っているものです。生来の性質の対処とは、それらがキリストの十字架の死を経て復活し、そして神に受け入れられ、用いられるようになるということです。ある人々は、神さまは私たちの能力や才能を必要としていないのかと考えます。そうではありません。神さまに用いられるためには、私たちは確かに能力や才能が必要です。たとえば、モーセは才能、洞察力、知恵と聡明さを備えた人でした。だから、神さまは彼を用いて、イスラエル人をエジプトから救い出すことができました。旧約聖書の中で最も重要な書、モーセ五書が彼によって書かれました。また、パウロも偉大な教養と豊富な思想を持った有能な人でした。ですから彼は神さまから啓示を受けて、新約聖書の中で深く高い真理を書くことができました。神さまは何でもすることができますが、すべてのことにおいて神は人の協力を必要とされます。何も知らない人や無能で何もやる気のない人々は神さまに用いられるはずがありません。

しかし、神は単に生来有能な人を用いることはできません。生来の才能は砕かれない限り、神さまにとっては妨げです。それらは神に用いるためには砕かれ、死を通過し、復活しなければなりません。生来の能力は未加工の鉄に似ています。未加工の鉄はあまりにも固くてもろいので使用に適していませんし、容易に折れてしまいます。復活した能力は、堅いけれども順応性があり、使用に適して容易に割れない錬鉄のようです。腐敗した肉と自己の対処のときと同じで、まず、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことを見ます。その次には、私たちは聖霊の力によってキリストの十字架を私たちの生来の表現の上に適用します。これは、生来の性質を対処するときの主観的な経験です。一旦、これを受け入れて適用するなら、私たちのすべての生来の能力は死の印を押されて、だんだんとしおれていくでしょう。私たちは以前のように意のままに自分の能力や才能を使うことができなくなります。このようにして私たちは生来の性質の対処の関門を通過します。私たちは私たちの生来の上に十字架を毎日、適用しなければなりません。私たちの生来に属するあらゆるものは、次第に死を通過して復活に至る段階に来るでしょう。