2018.6.10「バウンダリー 箴言4:23」

 Boundaryは「境界」とか「限界」という意味です。しかし、最近は心理学において、共依存に対する解決法として知られるようになりました。箴言で「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と言われています。心にはドアがあると思います。ドアの機能は、良いものは入れて、悪いものは排除するということです。何でも構わず入れたら、心の中がダメになります。バウンダリーとは「自分の中に何を入れて、何を排除するのか」、境界線のことです。きょうは「人間関係において」「宝物において」「責任において」の3つの観点から学びたいと思います。

1.人間関係において

 ウェン・コディーロの本に『聖なる囲い』ということが書かれていました。カルフォルニアのヨセミテには80メートルも超えるセコイアという巨木が生い茂っています。ところが、ある年、その木が轟音とともに地面に倒れてしまいました。森林局は専門家を派遣して調査をしましたが、最初、その原因がわかりませんでした。暴風も、火災も、落雷もありませんでした。倒れた木を調べてみても、動物や虫によるダメージを受けた形跡もありません。しかし、調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因は、ハイカーの通行だったのです。倒れた原因は、長年にわたって木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったことでした。公園では、このように古くて大きく、歴史的にも貴重な木々の周りに囲いを作り、これらの巨木の根が踏みつけられないようにする方針を固めたということです。ウェン・コディーロは「あなたは毎日どのような通行人(あなたの根を踏むもの)にさらされていますか?何時間もかかる毎日の通勤で身をすり減らしている人もいるでしょう。果てしなく続くメール、携帯端末の呼び出しに追い回されている人も多いのではないでしょうか?「心を守るために、聖書読んで静まる時を持ちましょう」と勧めています。しかし、私は彼の本から、人間関係においても、「聖なる囲い」を設ける必要があるのではないだろうかと思いました。

 ダニー・シルクは「親しさのレベル」Levels of intimacyということを言っています。クリスチャンにとって親しさの中心点は、神さまとの関係God spotです。イエス様は地上におられたとき、いつでも父なる神さまと交わっておられました。私たちも心の中心にイエス様(聖霊)がおられます。だれにも打ち明けたことのない事柄をイエス様に分かち合うことができます。私たちはこの方だけを崇め、この方だけに忠誠を誓います。この中心部分にどんな人も入ることはできません。まさしく、I and thou「我と汝」の関係です。しかし、きょう申し上げたいのは人間関係です。イエス様は多くの人々の中から12人だけを選びました。彼らを身近に置いて訓練するためです。群衆にはたとえで教えましたが、彼らには奥義を解き明かしました。その中の3人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネとは特に親しく交わりました。変貌山、ヤイロの娘のよみがえり、ゲツセマネの園にも同行させました。また、ヨハネには自分の母、マリヤを任せました。つまり、イエス様は3人の弟子というコアを持っていたということです。あなたも伴侶以外に、信頼できるコアの人たちを持つ必要があります。親友であったり、同僚であったり、メンターであったりします。あなたをサポートしてくれる叔父とか叔母であるかもしれません。さらに、イエス様には70人の弟子たちもいました。コアよりもさらに広い範囲の人たちが必要です。あなたを応援する親しい友人、同労者、霊的な兄弟姉妹が何人かおられるでしょう。ダニー・シルクは一番外側に、アルカイダを置いています。彼らは危険な人物であり、自分のサークルの中に決して入れてはいけない人たちです。だれでも危害を加える人を家の中には入れないでしょう。ヨーロッパでは町を作るときは、必ず外側に城壁を巡らしました。侵略者たちから自分たちを守るためです。

私は20年近く、セルチャーチに関わってきました。セルチャーチ・ムーブメントは、人間関係を強調します。香港のベン・ウォン師は「教会の7つの本質の筆頭は関係である」と教えました。同師は日本に来ていたときは、必要のある人たちと夜の12時までマックなどで話していました。私たちは一生懸命、伝道牧会のために関係作りに励みました。ある牧師は奉仕者たちを自分の家に泊まらせて、冷蔵庫を開けて自由に食べることを許しました。イエス様のように寝食を共にしたのです。しかし、数年で疲れて、やめたそうです。松戸の岡野牧師ご夫妻は、刑期を終えた人たちを家庭に泊めていました。今も保護士として刑務所のだれかを訪問しています。また、家庭に問題がある子どもたちを教会でお世話しています。岡野牧師や息子さんたちも、子どもたちと一緒に遊んだり、勉強を教えています。そのため子どもたちがたくさん教会に来ています。また川崎の『家の教会』では、一週間に一度、夕食を持ち寄って交わっています。近所の未信者と友達になり、やがて教会の礼拝に連れて行くのだそうです。私は牧師たちのコーチングをしましたが、練馬教会の先生方は何時間も電話で話を聞いていました。たとえそれが夜中であっても応対します。私は2017年1月にセルチャーチをやめました。なぜでしょう?私にはそういう賜物がないと言うことが分かりました。関係はエネルギーを使うし、ストレスがたまります。人によって外向性と内向性のバランスが異なることは知っています。でも、私は人間関係においてバウンダリーが必要であることを発見しました。親しさのレベルと言っても良いかもしれません。

 ほとんどのキリスト教会では、「すべての人を愛し、だれにでも仕えるように」と教えているようです。しかし、イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。イエス様もたくさんの人を助けましたが、すべては父なる神さまの指示のもとでした。いくらその町に働きがあっても、「近くの別の村里へ行こう」と言われました。イエス様はパレスチナにとどまり、ギリシャやローマには行きませんでした。イエス様は多くの弟子たちと時間を裂き、120人がペンテコステの日に聖霊を受けました。彼らが世界を変える火種になりました。現代はネット社会で、フェイスブックで1000人も友人がいるという人がざらにいます。でも、本当に信頼のおけるコアの人を持っているのでしょうか?うわべだけの人間関係はストレスがたまり、燃え尽きてしまう可能性があります。私たちは深く交わることのできる「聖なる囲い」コアの人たちを持つ必要があると思います。あなたにとって12弟子、あるいはペテロ、ヤコブ、ヨハネはだれでしょう?

2.宝物において

 イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7:6)と言われました。バウンダリーは、私たちの大切な宝物を守るための大切な考え方です。あなたの大切な宝物とは何でしょうか?時間、お金、持ち物、知力、体力、精神力、霊力、神からの賜物などです。最も偉大な宝物は神さまが与えた運命、divine destiny です。私たちには神さまから与えられた偉大な目的があります。それを他のことにエネルギーを使って、神さまの目的を果たせなくしてしまったら、神さまからお叱りを受けるでしょう。あなたはどのような友人を持っているでしょうか?あなたにはどのような親戚がいるでしょうか?岡田尊司(たかし)氏の本に書いてありました。彼女は真面目な努力家で、短大を出た後、保育士として働いていました。そんな堅実な女性が、カードローンでできた数百万円の借金を抱えて、自己破産寸前の状態にありました。彼女はうつになって、精神科の岡田氏のところを訪ねて来たわけです。中心的な原因は、昔の友人とばったり出会い、彼に貢ぐようになってしまったことです。男友達は、今も就職せずに、ミュージシャンを目指していました。遊びの金もホテル代も、すべて彼女が出しました。所持金がなくなると、カードでキャッシングしました。男友達が、海外で勉強したいと言うと、「そのお金、私がどうにかするから」とまとまった金を用立てたりもしました。しかし、やがて分かったのは、男友達には、別に付き合っている女がいるということでした。そのことを知った頃から、再び重いうつが、襲ってきたということです。生々しくて、礼拝のメッセージではどうかと思いました。でも、そういう人は本当の友達ではありません。

もしだれかがあなたのところに来て「お金を貸してください」「手を貸してください」「車を貸してください」と言ったとします。クリスチャンとして、「はい」と言うべきでしょう。それが恵みだからです。もちろん、与えることによって自分の人生が危機に陥って、破産してしまったりするようなことがあれば困ります。でも、そうでない限り、私たちに与えるものがある限りは、与えるべきではないかと思います。でも、ここで重要なポイントがあります。あなたが与えた恵みを、その人がどのように用いるかによって、その人の人格を知ることができます。あなたが差し出した恵みを、その人がどうするかによって、その人がどういう人であるか知ることができます。その人が「ありがとう」と言って、独り立ちをして、より成長できるのであれば、あなたは良いことをしたことになります。しかし、あなたが恵みによってあげると「もっとくれ」とさらに要求してくるような人たちもいます。箴言30:15「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ。』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ。』と言わない。」あなたは愛のあふれた人に与えているでしょうか。それともこの箴言30章に出てくる蛭のような人に与えているのではないでしょうか。私たちは、私たちが与えることが生む実についての責任があります。イエス様は「あなたの真珠を豚に与えてはいけない」と言われました。

ジョエル・オスティーンは「あなたの幸福をコントロールせよ」と教えています。多くの人たちは、自分たちの幸福を、だれかの幸福のために犠牲にしています。友達の機嫌をそこねないように、自分から近づいて「こんにちは、元気?」と挨拶をします。上司の機嫌をそこねないように、夜遅くまで仕事をします。ある人は、友人がトラブルに遭わないように、ローンを肩代わりしています。友人が困っているなら、なんとか問題を解決してあげようと助けます。しかし、神さまはすべての人が幸福になるために、あなたを召していません。親切で、気前良く、愛すべき人になるのは良いことです。しかし、他の人が幸福になるための責任は、あなたにはありません。あなたはあなた自身の幸福に責任があります。あなたは彼らの必要と要求を満たさなければならないと思うかもしれません。もし、彼らを救わなければ、借金を返してあげなければ、あなたに対して怒るかもしれません。しかし、この場合は、あなたの代わりに彼らが不幸になるべきなのです。もし、彼らが憤慨するなら、彼らはmanipulatorsあなたを操る人たちなのです。もし、あなたが駆けつけて来なければ、彼らはあなたに罪責感を与えるでしょう。波風が立たないように、保釈金を与えて解放してあげることは簡単なことです。しかし、あなたが彼らを助けてあげればあげるほど、あなたが彼らを喜ばせ続けるなら、あなたは彼らの松葉杖crutchなのです。あなたのお蔭で、彼らは自分の問題を取り扱いません。あなたは彼らの機能不全を手伝っているのです。依存的な人に対する唯一の解決は、あなたが彼らの松葉杖になることをやめることです。彼らが「緊急事態だ」と言っても、駆けつけないことです。「あなたを愛しています。でも、私はあなたにコントロールされたくありません」とはっきり言いましょう。

 私の父は酒乱でした。私が夕方、村外れのお店に行って、父のお酒を買って来ました。母はどうして、酒乱の父に酒を飲ませたのでしょうか?今思うと、「共依存の家庭だったんだなー」と思います。母が酒乱の父を助けていたということです。李光雨先生は「サポート資源」ということを教えてくれました。本人は何らかの悪循環パターンに陥っています。依存症、自責の念、抑うつ、他者を責める怒り、無力感で悩んでいます。でも、私たちは問題を解決するのではなく、悪循環パターンを回すエネルギーとして使われている場合があります。問題解決は、本人が変わることにあるのに、他のもので埋め合わせてしまうのです。周りの人たちは悩み事を聞いて祈ってあげます。品物やお金の援助も惜しみません。李光雨先生は「教会や牧師も悪循環を回していくサポート資源になっている」とおっしゃっていました。そうです。本人が困るべきなのに、私たちが何かを与えるので、問題が先送りされてしまうということです。よく「動物にエサを与えるな」という看板があります。ある人たちは、鳩、野良猫、サル、かもめなどにエサを与えます。そうすると、彼らは自分でエサを取らなくなります。そのため人家の近くに群がるようになり、いろんな害を与えます。イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」と言われました。神さまから与えられた宝物を正しく管理しましょう。それらは神さまがあなたに与えた偉大な目的を果たすためにあるのです。

3.責任において

バウンダリーとは、所有地の境界線のことです。「どこまでが自分の所有地で、どこからか隣の家の所有地なのか?」これがバウンダリーのもともとの意味です。私たちが使うバウンダリーというのは、自分自身の境界線であり、どこまでが自分の領域なのかを示すものです。それは、自分ということの領域はこれで、ここからは他人の領域ということです。あるいは、これは自分の責任の範囲で、ここからは相手の責任の範囲ということです。簡単に言うなら、「自分がどこまでで、どこからが他人の責任なのか?」ということです。たとえば、あなたがアパートに住んでいるとします。アパートはそれぞれ壁で仕切られています。部屋の壁の内側にあるものはすべてあなたの責任です。もし、あなたの部屋にネズミが入って来たとしたら、それはあなたの責任でしょうか?それとも隣人の問題でしょうか?それは私の問題です。私が住んでいる場所は、私の問題であり、私のネズミです。私の隣人がネズミを私の家から取り除いてくださるでしょうか?いいえ。私の家に入って来たネズミを退治するのは、私の責任です。なぜならそこには境界線があるからです。でも、ネズミは私の境界線を越えて隣人のアパートに入って行きました。では今は、誰の問題でしょう。私の隣人のネズミは、隣人の問題です。クリスチャンはどうもそのことが分からないようです。クリスチャンはあたかも、世界のすべてについて責任を持っているかのように感じています。そのため、私たちはあちこちに飛んで行って、他の人たちの問題を助けてあげようとします。そうしている間に、私は家の中のネズミをどうするでしょう。依然として、私の内側、私の心には問題があります。

 私たちは自分の責任範囲ということを知るべきです。同時に、他の人の責任範囲ということもわきまえるべきです。優先順位としては、まず自分の責任範囲をちゃんと治めるべきです。そして、他の人の責任範囲に、必要以上に干渉しないことです。もちろん、必要とあらば、援助させていただくこともあるでしょう。でも、その人の責任範囲は、その人が主人公であることを忘れてはいけません。絶対してはいけないことは、その人の代わりに、自分が決断するということです。もし、そんなことをすれば、失敗した場合、「あなたがそう言ったので」と責任を取らされるでしょう。その家のネズミは、その家主が退治すべきなのです。私たちは子どものときから、自分で決断し、自分で責任を取るということを学ぶ必要があります。ある親たちは、あまりにもお世話し過ぎです。学校のかばんを開けて、忘れ物がないか1つ1つチェックしてあげます。毎日、着る物を母親が決めて、それを着せてあげます。やがて子どもが大きくなると、進学する学校、就職する会社まで決めてあげます。もし、結婚相手までも親が決めたらどうするでしょう?そうすると離婚だけが、子どもの決断になります。子どもは忘れものをして、遅刻をして、いたずらをして叱られ、痛みを通して学びます。それを親が全部、取り除くならば、なんでも人のせいにする子どもになります。自分で決断や選択をしたことがないので、自分が責任を取るということができないのです。親が子どもにしてあげられる最も重要なことは、自分自身で決断して、自分自身が責任を取るということです。

ヘンリー・クラウド氏が導くセミナーで、一人の婦人が質問のために手をあげました。「私の息子は19歳で薬物を使っています。そして逮捕されてしまいました。もう7回目です。私は大変な問題を抱えています。彼は助けを拒み続けて、ついに刑務所に入ってしまった。私は6回目まで保釈金を払って彼を刑務所から助け出してあげたのです。なぜなら、息子のことをとても愛しているからです。この7回目、もう一回保釈金を払って出してあげるべきでしょうか。」これが共依存の問題です。クラウド氏は「この問題に対して答えを持っている人はいますか」とグループの人たちに聞きました。20代の半ばくらいの男性が手をあげました。彼は言いました。「私はあなたのことを個人的に知らないですけれど、私はあなたの息子と同じ問題を持っています。私も何年も薬物の問題を持っていました。そして、私の母親は私を刑務所から何回も保釈金を払って出してくれました。だから、刑務所に入る度に母親が助けてくれるのだから、薬物を続けてもいいじゃないかと思っていました。ところがあるとき、ついに母親は、私が刑務所に入ったときに、私を助け出してくれなかったのです。そして、私は刑務所に行きました。それはとても嫌な経験でした。刑務所は楽しい所ではありません。私はそこに6ヶ月間入っていました。刑務所にいる間に2つの出来事が私の人生を変えました。刑務所では色々ものを考える時間があるので、私はそこにいる間、遂に自分の人生について考え始めることをしました。それで気がついたのは、私には助けが必要であるということでした。そこで、刑務所の中で行なわれている12のステップという回復プログラムに参加するようになりました。もう1つのことは、刑務所にいる間に、他の人が私にイエス様の必要を語ってくださり、そして私はイエス様を信じて受け入れてクリスチャンになりました。なぜなら、自分に問題があるということに気がついたからです。そこで私はその刑務所にいる間に、薬物からも解き放たれ、きれいになって、またイエス様の話を聞いて、イエス様を信じて受け入れて、今、刑務所から出て来て、新しい人生のステップを始めました。私は25才ですが、妻がいて、2人の子どもがいて、今、私は自分の人生をとても愛しています。もし、私の母親が何度も繰り返し刑務所から私を助け出していたなら、このようなすばらしいことは、決して私には起きていなかったでしょう。」そして、この男性はお母さんに向かって、こう言いました。「私はあなたのことを知りません。でも、あなたがあなたの息子さんを愛しているのであれば、そのまま刑務所にいさせてください。」このように、境界線を引くことこそが、問題の解決になるということです。

ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」とあります。私たちは、相手の重荷を負って助けてあげることも必要です。ガラテヤ6:5 「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」これは、その人しか負えない重荷があるということです。それを他の人が代わりに負ったならば、その人がダメになるということです。私たちは、互いの重荷を負い合うけれど、人にはおのおの、負うべきその人自身の重荷があるのです。