2018.6.17「人間関係の整理整頓 ヘブル12:1-4」

 先週は「バウンダリー」についてお話ししました。きょうは、その適用編であります。つまり、「人間関係をどうするか」ということです。新松戸教会の清澤先生が「バウンダリー」のクラスを水道橋で開いていますが、一般の人たちが学びに来ているそうです。丸屋真也師のカウンセリングは、3か月待ちだそうです。それだけ人間関係に関するニーズが多いということでしょう。「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てる」ということは、人間関係にも言えることです。そうしないと、私たちは神さまから与えられた信仰のレースを全うすることができないからです。

 

1.人間関係の優先順位

 マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このみことばは、私たちの人間関係にも言えることだと思います。バウンダリーの概念で、一番の中心は神さまとの関係です。ウェンコディーロは「聖なる囲い」と言いました。私たちは朝起きたら、聖書を読んで、ディボーションを持つべきです。神さまとの交わりを何よりも大切にすべきです。私たちはこの方だけを崇め、この方だけに忠誠を誓います。この中心部分にどんな人も入ることはできません。旧約聖書では神さま以外のものを礼拝することを偶像礼拝と言いました。偶像は英語でアイドルと言いますが、若者たちはアイドルを慕って、この日曜日もどこかのコンサートに行っているかもしれません。現代人はメール、ツイッター、ラインを用いて、常にだれかとつながっています。電車はもちろん、自転車に乗りながら、歩きながら、お風呂に入りながら携帯をいじくっています。もし、10分過ぎても返事を返さないなら、「絶交だ」と言われるかもしれません。それが怖いために、携帯を肌身離さず身に着けている人もいます。何度も言いますが、私たちが最も慕うべきお方は主イエス・キリストであり、この方が私たちの救い主、助け主、王の王なのです。人の心は変わりますが、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、変わることがありません(ヘブル13:8)。私たちは人間関係においても、優先順位が必要です。イエス様も群衆、70人、12人、3人、1人とサークルを小さくしていました。あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。もし、あなたの大切な時間とエネルギーをだれかから吸い取られているならば、それは大問題です。

 日本人は人間関係が下手だと言われています。なぜでしょう?1つは文化的なものです。日本人は内と外、本音と建て前で生きて来ました。内、つまり家族や親しい人には本音で語ります。しかし、外、つまり近所、職場、学校ではよそよそしく、丁寧になります。土居健郎(たけお)という人は、『甘えの構造』を書きました。彼は「日本社会において人々の心性の基本にある『甘え』『甘えさせる』人間関係が潤滑油となって集団としてのまとまりが保たれ、発展が支えられてきた」と述べています。私は彼の本を読んだわけではありませんが、日本人は内、つまり親しい家族や親しい人には遠慮会釈なく甘えてしまうのではないでしょうか?つまり、「内と外」という考え方は、人間関係にも言えることで、「好きな人か嫌いな人か」、「敵か味方か」、白黒はっきり分けてしまいます。そうすると、人間関係がとても単純になりすぎて、どっぷり甘えるか、関係を全く遮断するか2つに1つになります。パーソナル障害を持った人は、これが強度になり、大変生きづらい人生を送ることになります。つまり、人のせいではなくて、自分のゆがんだ考えによって苦しくなっていることです。ジョエル・オスティーンは周りの人を2種類ではなく、4種類に分けるように勧めています。第一は自分を無条件で受け入れてくれる人、あるいはサポートしてくれる人です。第二は私を受け入れてくれるけれど、こっちが気を使わないと去る人です。第三は私を受け入れてくれない人であり、こっちが気を使う人です。第四は私に批判的で、苦しみを与える人です。ジョエル・オスティーンはあるカップルの面倒をよく見ました。お話しを聞き、できることは何でもしました。しかし、二人はいつも否定的でした。やがて、遠くへ引っ越しましたが、そこでジョエル・オスティーンのことを批判しているという噂を聞きました。第四の人は、こっちがいくら親切にしても、離れて行く人です。そういう人は、追いかけてはいけないということです。つまり、好きか嫌いか、味方か敵か、2つに1つではなく、それぞれ中間帯を設けるということです。

 あなたにまとわりつく人で、常に愚痴や悩みごとをぶちまける人はいませんか?緊急を装い、「車を貸してくれ」「お金を貸してくれ」「手を貸してくれ」と頼ってくる人はいませんか?たまには良いかもしれませんが、常に緊急事態では困ります。なぜなら、あなたは「レスキュー部隊」ではありません。あなたには果たすべき神さまの目的、使命があるはずです。ですから、あなたは「ノー」とはっきり言うべきです。「いや、そんなことをしたら嫌われます」と言うかもしれません。でも、その人は真の友達ではありません。先週、学んだ「蛭」かもしれません。あなたの大切な時間とエネルギーを吸い取られているのではないでしょうか?では、なぜ、あなたは「ノー」と言えないのでしょうか?実は人のお世話を良くする人には、「人から認められたい」「人から必要とされたい」という願望があるからです。もちろん、それは悪いことではありません。でも、自分の欠けた穴を埋めるために、良いことをするのは間違っています。それは、人のためではなく、自分のためにやっているのです。朝5時過ぎに、野良猫に餌をあげているおばさんを見ることがありますが、「自分が彼らから必要とされている」と満足しているのかもしれません。いいのです。嫌われても。いいのです。「冷たい」と言われても。なぜでしょう?あなたにはあなたの走るべきレースがあるからです。イエス様は「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とおっしゃいました。あなたは人々から認められなくても、神さまが認めてくれたらそれで良いのです。ジョエル・オスティーンは「神さまとあなたで大多数majority」と言っています。父なる神さまは「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)とあなたを既に是認しておられるからです。人からの是認を求めるのは偶像崇拝です。人からの是認は神さまを第一にしていくときに実として与えられるものです。

2.心の傷から来る障害

人間関係が築きにくい人というものが必ずいるものです。たとえば、急に泣き出す人や、怒り出す人がいます。そんなつもりで言ったんじゃないのに、曲げて捉えます。その人の頼みごとをきかないとプイとされるか、罪責感が与えられる。もし、言うことを聞かなければ、後で大変なことになる。周りの人たちは、腫物に触るように気を使います。やがて、そういう人にはだれも近づきたくなくなります。まず、客観的に、どうしてそのような人が私たちの周りに存在するのか考えてみたいと思います。一口で言うなら、そういう人は心に深い傷がある人です。あることを言われたり、されたりすると、癒されていない傷を刺激するのです。だから、過剰に反応し、怒ったり、悲しんだり、落ち込んだりするのです。人間だれしもそういう傾向はあります。でも、心の傷があまりにも大きく、それが癒されていない場合は、人間関係を築くのがとても困難になります。1970年代アメリカで「境界性パーソナリティ障害」という病名が付けられました。岡田尊司(たかし)という人がその手の本をたくさん書いています。彼のある本の帯に「自傷行為、自殺企画、対人依存、うつ、過食…周囲を振り回してしまう『心』の問題にどう向き合い、克服するか」と書いてありました。境界性borderlineというのは、精神病と神経症の境界という意味です。私は、いわゆる「心の傷」の代表的なものが、これではないかと思います。もし、相手があるいは自分が、「境界性パーソナリティ障害」の傾向があると気付いたなら、とても対処しやすく、癒されるスピードも速くなるでしょう。

 では、どうしてそのような病気になってしまうのでしょう?この手の病気は遺伝ではなく、生育史にとても深い関係があります。人がゼロ歳から2歳まで、身に着けなければならないのが「基本的信頼感」です。これはあらゆる人間関係における基礎となるものです。基本的信頼感があると、人生に対して心を開いて接することができます。「自分はこのままで大丈夫、人から受けいらられるのだ」という安心感です。ですから、これを「基本的安心感」と呼んだりします。岡田氏は「基本的安心感は、幼いうちに母親らとの関わりの中で育まれますが、そのとき、十分な安心感や喜び、自己肯定を味わえずに過ごすと、生きることは喜びよりも、不安や苦痛ばかりが大きいものとして、その人の脳に刷り込まれてしまうのです」と言っています。エリヤ・ハウスではこのように習いました。「0~2歳までの赤ちゃんは、いくらだっこしても十分過ぎるということはない。病気に対する抵抗力がアップし、いつも健康でいられる。しかし、家庭において父親が不在で生まれ育った子ども、もしくはいつも怒っている両親、問題があり、愛情表現が欠けた家庭で育った子ども、なぐられ虐待された子どもは、基本的信頼を持つのが困難である。」岡田氏は「境界性パーソナリティ障害の人は、父親に見捨てられていたり、一緒に暮らしていても、父親の存在感が希薄な傾向がみられます。父親との絆が不安定になっていることも重要な要因だとも考えられます」と言っています。

 では、境界性パーソナリティ障害の人と接しているとどのような気持ちになるのでしょうか?

①その人と関わっている時、自分の気持ちをはっきり出せない。正直に自分の気持ちを言ってしまったら、すごい喧嘩になったり、あるいは自分がものすごく傷ついたりするんじゃないか?いつも卵の殻の上を歩いているようで、何か気に食わないことがあると、すごいことになるんじゃないか?そこに触れると、今までの関係が全部壊れてしまったり、曲解されたり、攻撃されたりするんじゃないだろうか? 

②その人と関わっていると、いつも何か操られているような、支配されているような、あるいは何か嘘をつかれているような気持ちになる。私がすばらしく完全な人か、あるいは最悪な人かどちらかで、その中間がない。ある時はものすごく優しくて気がきくが、別なときは、同じ人かと思うくらいねたみ深く、とても攻撃的である。そして、どっちが本当なのかと思ってしまう。

 マーク・サンフォード師の奥さんがその障害を乗り越えた人でした。彼はこのような人のことを「感情的な血友病」と呼んでいます。「血友病というのは、血が止まらない状態であり、血液を凝固させる機能が欠如している病気である。同じように、この人は、感情が表れていくときに、その流れを止めることがでない。感情を押しとどめる機能が低下しているか、あるいは欠如しているから。もちろん、感情的な自己コントロールができない。また、自分の感情をことばで表すことができない。あるいは他の人に対して、時間とか、場所の適切な判断とか見解を下すことができない。また、『慰められた』という感じ、あるいは『慰めを受ける』ということが出来ない。たいてい、青年期ぐらいになって、こういう症状が現れて、みんなに分かるようになる。だから、この人の世界と言うのは、社会との関わりにおいて、ものすごいフラストレーションがある。」そのように教えてくださいました。

 では、どうしたら心の傷を持った境界性パーソナリティ障害の人が癒されるのでしょうか?

①ひとことで言うならこの人は「愛着障害」です。見捨てられる不安から相手にしがみついてしまいます。川や海でおぼれている人を助けるというのは大変です。ガッシッとしがみつかれ、助けに行った人も一緒におぼれ死んでしまいます。「へたに近づかない」というのも1つの方法です。でも、キリスト教会においては、その人の安全基地になることができます。具体的には、本人の安全を脅かさない。本人の立場で気持ちを汲む。ルールや道筋を示してあげるということです。

②境界性パーソナリティ障害の人は相手を本当に信じていいのか不安なのです。そのため、困らせ行動や挑発行動によって相手の反応を見ようとします。だから、傷つける言葉や挑発を真に受けないということです。こっちは、「一生懸命にやってあげたのにプライドを傷つけられた。責められては立つ瀬がない」と思うかもしれません。でも、表面の行動ではなく、背後の気持ちを汲んだ冷静な対応が重要だということです。

 幼いときに得られなかった基本的信頼感を完全に取り返すことは不可能です。私たち人間にできることも限界があります。一番重要なことは父なる神さまの無条件の愛を知ることです。主が言われます。「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ43:4)

3.人間関係を整理する

 第二のポイントでは、自分もしくは、接する人が心の傷をもっている場合でした。私たちは医者ではないので、「あの人は境界性パーソナリティ障害だ」と診断を下すことはできません。しかし、「ああ、そういう障害もあるんだ」と分かると、「なんでだろう?」と裁く気持ちがなくなります。でも、大なり小なり、私たちは愛の欠乏症であり、なんとか折り合いをつけながら生きているのではないでしょうか?問題は、愛を人からではなく、神さまからいただくということです。人からいただこうとするので、いろんな問題が起こるのです。聖書が言う愛とは、受けるという愛ではなく、こちらが愛するという愛です。イエス様は「受けるより与える方が幸いである」と言われました。でも、「自分がないのに、愛を与えるのも無理だろう?」という理論もなりたちます。「どれくらい愛されていたらなら、人を愛せるようになるのか?」という答えはありません。きょう、ここで確認したいのは、「聖なる囲い」とか「インナーサークル」です。イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われたのであり、「世界のすべての人たちを愛しなさい」と言われたのではありません。我がままと批判されるかもしれませんが、人間関係の優先順位をつけながら、愛していくということが懸命なことではないでしょうか?何度も言っていますが、イエス様も群衆、70人、12人、3人、1人とサークルを小さくしていました。あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。もし、あなたの大切な時間とエネルギーをだれかから吸い取られているならば、それは大問題です。私たちは神さまから与えられた目的(使命)があります。私たちは神さまから与えられた自分のレースを走るべきなのです。そのために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる必要があるのです。

 ジョエル・オスティーンは「否定的なものを注意深く評価せよevaluate」と言っています。知っているパイロットが「飛行機を飛ばすためには主要な4つの法則がある」と教えてくれたそうです。その4つというのは、揚力lift、推進力thrust、重力weight、引力dragです。これら4つの法則は、人々にもあてはめることができます。第一のグループ、あなたの一日の気分を晴れやかにする揚力を与える人たちです。彼らはあなたを励まして、あなたの気持ちを良くしてくれます。第二の推進力の人たちというのは、あなたにinspire霊感を与えたり、動機付けを与えたり、夢を追い求めてチャレンジするように前に押してくれる人です。第三のグループとはあなたに重力を加える人です。あなたを下に引き下げ、あなたをよりヘビーな気持ちにさせ、否定的に失望落胆にさせるため、自分たちの問題を投げ込んで行きます。最後のグループは、あなたを引きずり回す人たちです。彼らはいつも悲しい歌を歌っています。彼らは穴にはまって動けません。彼らはあなたが励ましてくれて、自分たちの問題を解決してくれて、重荷を運んでくれることを期待しています。私たちが会うすべての人たちはこれらの4つのグループに分けることができます。あなたは、あなたの揚力者と推進力者たちと大半の時間を過ごすべきです。もし、あなたが重力者と引力者とぶらぶら時を過ごしているなら、神さまがあなたを造られた姿になることはできません。あなたは彼らを幸せにする責任はありません。しかし、人生の季節においては、彼らの悩みに耳を傾けたり、健全になるように手助けする必要もあります。しかし、来る日も来る日も、彼らがあなたに否定的なことを言ったり、したりすることを許してはいけません。なぜなら、あなたにはあなたの走るべきレースがあるからです。

 ジョエル・オスティーンは20代前半の頃、パーマ屋さんの若い女性から髪を切ってもらいました。彼女はとても素敵な人でした。優しい心の持ち主でしたが、とても否定的な人でもありました。毎回、私がヘアー・カットに行くと、ずぅと自分の問題を話しました。そのことが来る月も、来る年も続きました。彼女は残業をしても、店主が正当な賃金をくれないと文句を言いました。また彼女は妹が自分の問題の種であると不平をもらしました。彼女は部屋代を払えないとか、お父さんが自分に良くしてくれないと言いました。毎回、私は意気消沈してお店から帰ってきました。ある日、私は彼女にこのように言うべきだと悟りました。「あなたと一緒に私の人生を行くことはできません。私はあなたを愛しています。あなたのためにもお祈りをします。しかし、私は毎月毎月、あなたの重力と引力を負っていたら、自分の運命を全うすることはできません」。ジョエル・オスティーンは人生を変えました。それは難しいことでした。これは、ジョエル・オスティーンのメッセージです。「私は人の感情を傷つけたくありません。しかし、私の課題はあまりにも重要なので、私の価値ある時間を人々が私を引きずり落とさせてはいけないのです。あなたは仕事において変える必要があるかもしれません。どこでだれと遊ぶか、どこでだれと働くか。だれの電話を取るべきか変える必要があるかもしれません。毎晩、夜中の電話で、だれかの悲嘆や悲しい歌を何時間も聞くべきではありません。もう終わりにしましょう。親切で尊敬される人になることは良いことです。でも、それらをあなたの重力にする必要はありません。」アーメン。

 きょうのメッセージは人間関係の整理整頓でした。棚卸inventoryということばをご存じでしょうか?決算や毎月の損益計算などのため、手持ちの商品・原材料・製品などの種類・数量などを調査し、価格を評価することです。このことを人間関係に適用するということです。つまり、それは、あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。イエス様でさえも12人、3人と絞りました。彼らと一緒に時間を過ごし、彼らと一緒に活動しました。ある人は「12人の中にユダがいましたよ」と言うでしょう。でも、それが良いことなのです。イエス様が一晩、祈った結果だったのです。それは、自分の願いではなく、父なる神のみこころを優先させたということです。つまり自分の好みや願いを絶対的なものにするのではなく、神さまの御手を求めるゆとりを持つということです。家内はおそらく私をインナーサークルに入れたくないと思ったでしょう?負けず嫌いの私も「そうだ」と言うでしょう。でも、神さまのみこころに譲歩したら、意外に良かったということもあるのです。神さまのご支配、神さまの御手を認めるインナーサークルが良いと思います。それは閉鎖的なものではなく、冒険と寛容と愛が伴ったものです。より良い神さまからの出会いを期待するオープンなものです。