2007.1.1 あなたは何を想うか 出エジプト20:1-6 

新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」といいますが、一年を礼拝から始められることはすばらしい特権であります。礼拝とは神様との交わりであります。きょうは、「あなたは何を想うか」と題して、神様との交わりについて学びたいと思います。

神様はあなたの生活において、他の神を持つことを望んでおられません。神様はあなたと親しい関係を持ちたいのです。十戒の第一番目の戒めは何でしょうか。出エジプト20:3に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。日本語の聖書ではよくわかりませんが、原文を直訳しますと「私の顔の前に、ほかの神々があってはならない」となっています。「顔の後ろ」とか、「顔の横」でもなく、なぜ、「顔の前」なのでしょうか。神様は、あなたと向き合っている親しい状態を望んでいるからです。もし、神様とあなたの間に、他のものが入ってきたらどうなるでしょうか。それが妨げになって、神様はあなたが見えません。同時に、あなたも神様を見ることができません。神様とあなたの間を妨げるもの、これが偶像なのであります。でも、あなたは「私は仏像とかお稲荷さんを拝んでいませんよ」とおっしゃるかもしれません。では、十戒の第二番目の戒めはなんでしょうか。20:4「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と書いてあります。「どんな形をも造ってはならない」は、原文では、「どんなイメージも造ってはならない」です。だから、単に彫られたものだけを意味しません。それは、あなたの想像力ということです。あなたの想像力から、偶像礼拝が始まることがあるのです。本日の説教は、「あなたは何を想うか」という題ですが、これは「あなたは何を想像するか」ということです。人が何を想っているのか、外からは分かりません。でも、神様はご存知です。

旧約聖書のエゼキエルは、幻のうちに、神様からエルサレムの神殿に連れていかれました。神様は「1つの穴から入って、その神殿の中に何があるかを見なさい」と言われました。エゼキエルは霊によって、神殿の中に入りました。エゼキエル8:10-12「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、・・・その手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。・・・あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている」。エゼキエルはびっくりしました。外側から神殿を見ると、立派ですばらしいものでした。ところが、神殿の壁を通り抜けて、中に入ってみると様々な像が壁一面に彫られていました。エルサレムの長老たちが、壁に描いた絵や彫られた偶像を拝んでいたのです。しかも、彼らは「主は私たちを見ておられない」とうそぶいていました。では、新約聖書で神殿とは何でしょう。使徒パウロは、Ⅰコリント6章で「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。外側からは立派なクリスチャンに見えるかもしれません。でも、神殿の内側、暗い所の部屋はどうでしょうか。すべての人は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何か。このプライベートな部屋こそが私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。想像の中のスクリーンに様々なものが映されています。私たちは「主はご存じない」と言っているかもしれません。でも、神様は神殿の中に偶像があることを好まれません。

なぜ、人間は罪と汚れに満ちているのでしょうか。それは、十戒の1番目と2番目を守らなかったからです。使徒パウロは、ローマ1章で「すべての罪と汚れは、偶像礼拝からである」と言っています。ローマ1:21-24「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」。「その思いはむなしくなり」は、英語の聖書では「彼らのイマジネーションがむなしくなり」となっています。つまり、神様を神様としてあがめず、感謝もしないために、想像力がむなしくなった。さらに、様々な偶像と取替えたために、神様はその心の欲望のままに汚れに渡されたということです。日本人の多くは、元旦から三が日にかけて初詣に出かけます。これは立派な偶像礼拝です。昨年は子供のいじめや自殺、政治家や企業の不正が目立ちました。学校の教師や警察官も信用できなくなりました。警察官がストーカー行為をしていました。世の中の評論家がどう言おうと、私は聖書からはっきり申し上げることができます。日本人はまことの神をあがめず、感謝もせず、かえってそのイマジネーションがむなしくなっています。実際、心の中で何を想像しようが、警察は取り締まることができません。いくら、刑罰を厳しくしても駄目なんであります。臭いものは元から絶たなければ駄目なんであります。私たちクリスチャンも、何を想うか、何を想像するかということが、とても重要であります。

イエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。マタイ6:22-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。イエス様は6:22で「からだのあかりは目です」と語られました。この目とは何でしょうか。エディ・レオ師が昨年の6月に当教会に来られましたが、「目とは想像力である」と教えてくださいました。ですから、もしあなたの目(想像力)が健全ならば、あなたの全身が明るくなります。しかし、あなたの目(想像力)が悪ければ、あなたの全身が暗くなるでしょう。つまり、あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくということです。想像力はとっても力があります。1つ想像してみましょう。私がレモンを取り出し、ナイフで二つに切って、片方をあなたに渡します。あなたはそれを口に入れて絞りますよー。「ああー、すっぱい」。もう、想像しただけで、顔がゆがみますね。では、あなたを傷つけたことのある人の名前を、私が言ったらどうなるでしょう。とたんに、悲しみや怒りが湧き上がってくるでしょう。過去に受けた恥や失敗、拒絶がトラウマになり、その想いから離れられない人もいます。ぬぐっても、ぬぐっても、その想いがやってくる。もし、そういう否定的なことをいつも想っているならば、あなたの人生は間違いなく、暗くなるでしょう。また、男性にとっては、性的なことに対する想像が、けっこうヤバイ分野になります。雑誌とかビデオ、インターネットで見た映像が離れないということがあります。一方、女性は持ち物とか着る物です。だから、ショッピングが好きです。また、ロマンチックな映画を見て、その中のヒロインになることを想像するでしょう。おばさんたちの、韓流ブームはそういうとこから来ているかもしれません。一見、こういう想像は悪いようには思えません。しかし、それがいつの間にか、神様と自分との間に入り込む偶像になってしまいます。つまり、過去のトラウマ、欲望、映画スターも偶像になるのです。偶像をアイドルと言いますが、何らかの関係があるようです。

私たちの思い(thinking)と、想い(imagination)は、たえず悪魔の攻撃にさらされています。私たちの想いを空っぽにすることは不可能です。よく、「座禅で無になるように」と言われます。でも、煩悩を消すことは不可能です。ある心理学者が統計を取りました。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度だろうか。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるだろうか。1日に240回。睡眠時間8時間を引くと、4分に1回の割合。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トワェーン、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トワェーン、第二のイメージが生み出される。木を見でも、「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」と思う。第三のイメージ。マルチン・ルターはこのように言いました。「誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。それは鳥の権利であり、防いでもだめである。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」。性的な誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものです。では、誘惑がやって来たときどうすれば良いでしょうか。誘惑は追い出しても、またやってきます。汚れた想いと戦っても、勝利することは不可能です。そうではなく、汚れた想いがやってきたとき、イエス様を礼拝するときに交換すれば良いのです。トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。4分後、トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。こう考えると、男性は1日に主を240回も礼拝するチャンスが与えられているということです。男性の方は、自分が男性に生まれてきことを感謝しましょう。女性はこのような機会がありません。ハレルヤ!私たちは誘惑が来る、来ないに関わらず、積極的に神様と親しく交わる必要があります。

 私は新年には、必ずと言って良いほど、みことばを瞑想すると言うことを申し上げています。詩篇1:2、3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあるからです。この「口ずさむは」、思うとか瞑想するという意味があります。イメージするという言葉ととても似ています。でも、日本語は「口ずさむ」と訳されていますので、これも興味深いなーと思います。私は毎朝、散歩をすることにしています。これまでは、朝、散歩してから、ゆっくり聖書を読んで瞑想していました。ところが、朝、すぐ起きて散歩をしますと、自分の過去のことや、今、悩んでいることが頭の中をぐるぐる回っています。大体、自分自身と語り合っています。でも、よく考えてみると、否定的なことや悲観的なことが多いんですね。それではいけないと思い、聖書を少し読んでから、歩くことにしました。朝は人が少ないので、結構、口ずさんでも平気です。聖書のみことばという材料があらかじめ入っていますので、考えることが自然と神様に向かいます。毎日、忙しい人が多いと思いますが、少し工夫するだけでずいぶん違います。電車に乗る前に、聖書を1章でも、2章でも読んでいると、電車に乗っている間、瞑想できます。車の中では、だれもいないと口ずさむことができます。単純な仕事のときも、前もってみことばが入っていると、瞑想しながらできます。ある人は、みことばのカードを作って、チラっと見て、瞑想しています。静まってディボーションすることはもちろん大切ですが、それだけで終わってはいけません。ディボーションが終わってからの時間もイエス様と交わるならば、なんと幸いでしょうか。

エディ・レオ師はタッチングヘブン(天国に触れる)というテキストでこのように教えておられます。もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間(一日に最低でも4時間から8時間)を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストのイメージに作られるために(キリストと同じような霊的資質を持つために)、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて、会う必要があります。10分間、キリストとディボーションを持ったくらいでは、キリストのようになることは不可能です。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事を変える必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。しかし、私たちは間断なく、継続的に主と会話するように自分たちを訓練することができます。どのように始めることができるでしょうか?それは単純です。今、経験している問題や誘惑から始めましょう。否定的な想像を祈りに切り替え、感謝し、喜びに向けるために神のみことばを瞑想するのです。もし、あなたがこれを実行するなら、たゆまなく、主と交わることになるでしょう。アーメンです。

この世の喜びには飽きがやってきます。どんな美しい風景も飽きがやってくるでしょう。しかし、主との交わりにはそうことがありません。私たちはおいしいものを食べたり、新しい物を買ったり、新しいことを経験すると感激します。でも、毎日の生活にそういうものを期待することは不可能です。しかし、霊的で内側の生活は環境には関係ありません。私はインナートリップとか、ニューエイジの霊的な世界を言っているのではありません。まことの唯一の神様、私たちを愛しておられる天の父と交わるのです。常に、イエス様の御顔を求めるのです。そうするなら、天国の息吹と喜びが湧き上がってくるでしょう。テレビのチャンネルを次から次へと変えても、インターネットのサーフィンをしても、満たされません。お酒やタバコや快楽、この世のものは、すべて中毒になります。でも、イエス様だったら大丈夫です。どうせなら、みことばとイエス様に中毒になりましょう。聖霊による、天国の甘いぶどう酒で酔いましょう。私たちが慕うべきものはイエス様のうちにしかないということを肝に命じましょう。第一のものを第一とすれば、買い物も楽しいし、結婚生活も楽しい。レジャーも、趣味も仕事も価値あるものとなるのです。すべての源は、父なる神様から来るのです。2007年も、源なる神様と親密な関係を持ちましょう。