2019.7.7「信仰の旅路 ヘブル3:15-19」

 きょうは、イスラエルの民の旅路を見ながら、私たちの信仰の旅路について考えたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て、荒野を通過し、カナンに向かって旅をしました。旧約聖書の出来事は私たちへの教訓であるとともに、予型(あるものを示すタイプ)でもあります。エジプトはこの世を示し、パロ王はサタンです。エジプト脱出と紅海徒渉は救いと洗礼であります。

1.エジプト

 イスラエルの民は長い間、エジプトに住んでいました。彼らの先祖はアブラハム、イサク、ヤコブでした。ヤコブが生きていた頃、ききんが襲って、彼らはエジプトにいるヨセフに身を寄せました。そのときはたった70人でしたが、400年たって、人口が100万人以上に膨れ上がりました。エジプトのパロ王は、彼らが敵に寝返ってしまうと自分の国が危ないので、彼らを奴隷として扱いました。エジプトの建造物のため彼らを働かせました。聖書には彼らは「日干し煉瓦を作っていた」と書かれています。パロはイエスラエルの民が増えるので、「男の赤ん坊はナイル川に投げ込め」と命じました。その時、民を解放するために立てられた人物がモーセです。パピルスの籠に浮かんでいる赤ん坊を、たまたま水浴に来ていたパロの娘が発見しました。彼女はヘブル人のうば(実はモーセの母)を雇って、モーセを王子として育てました。モーセが40歳になったとき、ヘブル人が痛めつけられているのを見て、エジプト人を殺して、砂の中に埋めました。後日、そのことが発覚して、モーセはパロを恐れて、ミデヤンの荒野に逃げました。王子から一介の羊飼いとして40年間ひっそりと暮らしました。ところが、ある日、芝が燃えているのを見ました。普通だったらすぐ消えるのに、消えません。不思議に思って近づいたら、炎の中から声がしました。「モーセ、モーセ」。彼は靴を脱いで地面に顔を伏せました。なんとそのお方は、主であり、モーセをエジプトに遣わすというのです。彼はすでに80歳でした。「パロのもとに行って、イスラエル人をエジプトから連れ出すなんて、無理!」と断りました。長い話を短くすると、モーセは兄のアロンと一緒に、パロの前に立って、イスラエルの民を解放するように説得しました。でも、モーセがいろんな災いをエジプトに下すので、パロはついに降参しました。

 イスラエルの民が解放される決め手は、10番目の「過ぎ越しの奇跡」であります。主はモーセに「一歳の羊を殺して、その血を家のかもいと2本の門柱に塗りなさい。そうすれば、主の怒りが通り過ぎるから」と仰せられました。ある夜、主の使いがエジプトを行き巡りました。エジプト人は血を塗っていなかったので、奴隷の長子からパロの長子まで死んでしまいました。血が塗ってあった家の人たちはみな安全でした。その夜、エジプトには大きな叫びが起こり、パロ王は「早く出て行ってくれ。そして俺のために祈れ」とお願いしました。なんと、100万以上の人たちは、急いで、エジプトを出発しました。その時、主はエジプト人にあわれみの心を与えたので、イスラエルの民に銀の飾り、金の飾り、着物を与えました。今まで、ただ働きをさせられていたのですから、当然といえば当然です。ほどなく、行ったとき、行き止まりになり、目の前が紅海でした。なんと、パロ王は「奴隷を逃して、もったいないことをした」と心変わりをし、全軍勢を率いて追跡しました。前は海で、後ろからはエジプト軍の戦車が追いかけてきます。イスラエルの民は、「エジプトには墓がないので、私たちを連れて来て、この荒野で死なせるのですか」と叫びました。ところが、モーセが杖を上げると、紅海が二つに割れ、イスラエルの民は渇いた地面を渡ることができました。これは『十戒』という映画で見たこのある人もいるでしょう。エジプト軍の戦車が雲の柱で立ち往生している間、イスラエルの民は全員、渡り終えました。再びモーセが海に向かって杖を降ろすと、両側の水が「ざーっ」とエジプト軍の上に覆いかぶさりました。エジプト軍はみな溺れ死にました。

 さて、物語はこのくらいにして、このことを私たちの信仰生活に置き換えたいと思います。聖書でエジプトはこの世を象徴しています。また、エジプトのパロ王はサタンです。そして、奴隷であったイスラエルの民は、救われる前の私たちです。私たちは生まれた時から、罪と死の奴隷として生きています。言い換えるとサタンの持ち物であり、なんとか生き延びている人生です。しかし、生まれてからずっとそういう生活なので、自分たちが奴隷であるという自覚がありません。先祖や親たちも「これが人生だ」と言うし、学校の先生も友達も「何か問題があるのか」と言っています。でも、聖書は「神の国がある」と書いてあります。教会の牧師やクリスチャンも「キリストによって救われる」と言っています。「どっちが本当なんだ!」と悩みましたが、幸いにイエス様を信じて救われました。その時、信じた証拠として、バプテスマ(洗礼)を受けさせられました。みんなが「ハレルヤ!ハレルヤ!」と祝ってくれました。でも、「なんで、そんなにおめでたいのか」最初は分かりませんでした。」パウロはⅠコリント10章で「みな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受けた」と解釈しています。つまり、イスラエルの民が紅海を渡ったのは、私たちが受けたバプテスマ(洗礼)の「ひな形」だったということです。つまり、イエス様を信じて、洗礼を受けるということは、この世とサタンから救われるということです。言い換えると、罪と死から解放されて、自由の身となるということです。海を渡る、つまり洗礼をうけると、もうエジプトには戻れません。私たちも一度、洗礼を受けると、この世のものではなくなります。いや、この世のサタンのところに戻ってはいけないのです。

 この中にはバプテスマ(洗礼)を受けた人、まだ受けていない人もおられるはずです。イスラエルの民が脱出できた決め手は、過ぎ越しの羊の血でした。その血が塗られた家の住民は、主の怒りが通り過ぎました。同じように、イエス・キリストの十字架の血が私たちの罪をきよめるのです。神さまはキリストの血をごらんになります。あなたにその血が塗られているか、塗られていないか、そのところが重要です。そして、イエスを主と告白して、バプテスマ(洗礼)を受けるなら、あなたはこの世から脱出し、御国の民になることができます。あなたがいくら豊かな生活をしていたとしても、そこがエジプトであったなら、サタンに全部持っていかれます。多少の喜びは与えられるかもしれませんが、身分としてはサタンの奴隷であり、持ち物です。サタンは「やめろ、牧師の言うことは聞くな。聖書なんかでたらめだ」と言うでしょう。家族や友達も「あなたは洗脳されている。やめなさい。この世で一緒に暮らそう」と言うでしょう。でも、その声を振り切って、あなたはイエスを主と告白して、バプテスマ(洗礼)を受けことができるでしょうか?人生の旅路でもっとも重要なことは、エジプトを出て紅海を渡ることです。紅海を渡れば、サタンはあなたに追いついて来ません。なぜなら、あなたはサタンのものではなく、神さまのものとなるからです。パウロは救いのことをこう定義しています。使徒26:18 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」どうぞ、キリストを信じてサタンの支配から脱出し、神の御国にお入りください。

2.荒野

 エジプトを出て、紅海を渡ることは、キリストを信じて洗礼を受けることです。でも、信仰の旅路はそれで終わりではありません。イスラエルの民はシナイ山で契約を結んだ後、約束の地に向かいました。聖書をみると、モーセは12人の斥候(スパイ)をその地に派遣し、40日間さぐらせました。みんな、大きなざくろやぶどうを持って来ました。確かにその地は、乳と蜜が流れる肥沃な地でした、ところが、その中の10人は否定的なことを言いました。「その地は人を食い尽くす地だ。城壁も高く、巨人がいた。自分たちはいなごのように見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と言いました。しかし、ヨシュアとカレブだけは「主の御心にかなえば、攻め上ることができる。主にそむいてはならない。彼らを恐れてならない」と、主張しました。ところが、イエスラエルの民は否定的な10人の言うことを聞いて、「エジプトに帰ろう」と泣いて言いました。主はイスラエルの不信仰に怒り「この民を導き入れない。荒野で死ぬのだ」と言われました。なんと、約束の地に入ることができたのは、ヨシュアとカレブだけです。イスラエルの民は40年間荒野をさまようことになり、約束の地に入れたのは、当時、20歳以下の人たちだけでした。民数記を見るとわかりますが、主に対する不平と不満が満ちています。本来なら、カディシュ・バルネアというところで、主の約束を信じていれば、約束の地に入ることができたのです。でも、彼らは不信仰のゆえに荒野で屍をさらして死ぬことになりました。だからヘブル書は、私たちに忠告しています。ヘブル3:7,8「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

40年後、ヨシュアが次世代のイスラエルのリーダーになって、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ることができました。これはどういうことでしょう?私たちは「エジプトを出て、紅海を渡っただけではダメなんだ」と言うことです。ヨルダン川を渡って、約束の地に入らなければなりません。言い換えると、イエス様を信じて洗礼を受けたものの、荒野でさまよっているクリスチャンがいるということです。約束の地に入り損ねた人です。神学的にはキリストを信じたのですから、死んだら天国には行けるでしょう。でも、安息の地に入っていません。不平、不満の人生です。この地において、天国の喜び、天国の豊かさがありません。なぜなら、救われたにも関わらず荒野で生活しているからです。かといって、エジプトに戻るつもりはありません。なぜなら、そこはサタンの国であり、滅びだかです。その人は滅びが何であるか知っています。かといって、その人は約束の地に入り損ねた人です。その証拠に、信仰生活に喜びがありません。かつての、イスラエルの民のように、不平と不満、つぶやきと不服従があるだけです。「〇〇がない」「〇〇がない」とつぶやいています。この人はエジプトと約束の地の間、荒野で住んでいる人です。せっかくクリスチャンになったのに、なぜ、こんな惨めな生活を送っているのでしょうか?

 では、荒野で生活している人と約束の地で生活している人の違いとは何なのでしょうか?重要なことはヨルダン川を渡るということです。そうです。クリスチャンは紅海を渡っただけではダメでその次は、ヨルダン川を渡る必要があるということです。洗礼だけではダメで、もう1つの経験をしなければならないということです。きよめ派の教会は「自我に死ぬとか、きよめられる」と言います。私は最初、ホーリネス教団の神学校に行ったので、「死ね」「死ね」と良く言われました。私はあとからウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』という本を読んで、その意味を知りました。その学校でも言われましたが、ヨルダン川を渡るとは、古い自我に死んで、きよめられる経験をするということです。米田豊著『旧約聖書講解』にはこのように書かれています。「イスラエルの紅海徒渉は世より救い出されるための水のバプテスマを表徴し、ヨルダン徒渉は聖霊のバプテスマを予表する。悪魔の奴隷であった罪人は、この二つの経験を経て全き救いにはいるのである」。聖霊のバプテスマの定義はともかく、聖霊に満たされるということでしょう。ローマ6章には「私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを認めなさい」と書かれています。きよめの経験の真骨頂なこのことばです。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。

 このようなテーマは何度もお話ししていますが、今回、強調したいのはこのようなことです。イエス様を信じて、洗礼を受けたのに、安息の地に入っていないクリスチャンが多いということです。イスラエルの民は紅海を渡り、エジプトから脱出できました。それがゴールかというとそうではありません。荒野を越えて今度は、カナンの地に入るべきでした。しかし、不信仰のために40年間荒野をさまよってしまいました。次の世代がヨルダン川を渡って、約束の地カナンにはいりました。ヨルダン川を渡り損ねた人というのは、民数記に記されている人たちと同じです。彼らはいつも主とモーセに逆らい、不平不満をもらしていました。ヘブル3:18「また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」キリストを信じて、救われてはいるのに、いつも不平不満を漏らしている人は、荒野をさまよっている人たちです。自分に死ぬとは、簡単に言うなら、イエス様をかしら、主として信じることです。ある人たちはイエス様を信じてはいますが、天国に連れて行ってくれる救い主として信じているだけです。しかし、イエス様は、主であり、王様です。ということは、たとい文句があっても、このお方に従うべきだということです。自我が砕かれるとは、自分が王ではなくて、イエス様が王なんだと、人生の主権を明け渡すことであります。まだ、自分を王としているので、「ああでない」「こうでない」と不平不満が出るのです。長い間、荒野に留まっていたイスラエルの民にモーセはこう言いました。そういう人は荒野にとどまっていないで、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入るべきです。申命記1:6-8「私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

3.カナン

 カナンの地というのは、さきほど引用した申命記1章の土地です。ヨシュアが新世代のリーダーになって、ヨルダン川を渡りました。そして、カナンの地を次々と征服していきました。ヘブル人への手紙ではカナンの地は「安息の地」にたとえられています。言い換えると、天国であります。しかし、ヨシュアたちが上った先は、天国ではなく、戦いの場でありました。なぜなら、そこには先住民が住んでいたからです。自動的にその土地が自分たちのものになったのではありません。先住民と戦い、先住民を追い出す必要がありました。現代のヒューマニズムから理解できませんが、彼らの全部を殺すように命じられていました。「一人も生かしてはならない」、「彼らと契約を結んでもならない」、「結婚をしてならない」、「彼らの偶像を拝んではならない」と命じられました。「神さまは愛なのに、どうしてですか?」と言ってはなりません。これはカナンの地はイスラエルの約束の地であり、神さまがある時まで彼らを住まわせていたのです。これは、神の摂理であり、また私たちに対する教えでもあります。

 どういう教えかと申しますと、カナンとはこの世の文化や宗教を象徴しています。エジプトもこの世でありましたが、ある意味では、カナンもそうであります。しかし、エジプトとの決定的な違いは、イスラエルは奴隷ではなく、自由人であり戦士だということです。そして、カナンを征服して、自分たちの領土を勝ち取るというのは、私たちクリスチャンの生き方を象徴しています。主はヨシュアに、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである」(ヨシュア1:3,4)と約束されました。つまり、これは、私たちクリスチャンの姿であります。神さまはこれらのものをあなたに与えているから、信仰によって勝ち取りなさいと約束しておられるのです。私たちはサタンから奪われていたものを、戦って勝ち取る必要があります。カナンの地に入った人は、いわば戦士であります。パウロはテモテに「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」(Ⅱテモテ2:3,4)と言いました。私たちは御国の戦士であり、司令官はキリストです。もし、ダビデのように前線を離れて、くつろいでいたなら誘惑にはまって倒れるでしょう。でも、イエス様と共にいれば豊かな人生を送ることができます。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

私たちは天のエルサレムを目指している旅人です。この世においては、自己充足的な生き方ではなく、神さまの目的を果たすという、divine destinyが与えられています。イエス様は「神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。イエス様と一緒に神の国がおとずれました。その証拠に、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。次は、弟子たちにも同じことをしなさいと命じられました。現代の教会、クリスチャンの使命は何でしょう?それは「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という主の祈りを実行することであります。もちろん、世の終わり、キリストが再び来られるとき御国が完成します。しかし、イエス様は「あなたがたをこの世に派遣するから、神の国の福音を宣べ伝え、御国に入る人たちを迎えなさい」とお命じになられました。同時に、病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせなさいとお命じになられました。それは、神の国がここに来ているという証拠です。人々は神の国の現実を見ることにより、容易に、福音を信じることができるようになるからです。さらに、イエス様は「あなたがたは世の光、地の塩である」と言われました。これは、地の塩として、世の中の腐敗をできるだけ留めるということです。また、神の真理と命の光を照らして、神さまが造られた元来の姿に回復するように働きかけるということです。イザヤ2:2,3「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」これまで、教会は「世の終わりはますます悪くなるので、なんとか信仰を守り通す」という受身的な信仰でした。そうではなく、世の終わりは私たちが指導者となって、神さまの祝福を取り次ぐ器として用いられるのです。山々とは、政治、ビジネス、教育、芸術、医療、マスコミ、宗教、家庭のことです。私たちは、神さまの創造性と祝福を取り次ぐように召されているのです。