2006.9.24 ヘブルの祝福 ヘブル13:18-25 

インドネシアで、8日間のうち、3種類の集会がありました。最初は解放のキャンプです。100名以上がキャンパーで、他は助ける人です。奥には外の教会から来た牧師が観察しています。エディ・レオ師がエネルギッシュに語っていました。集会後にこのように前に出て祈ります。悪霊もたくさん出てきます。一番多かったのは、性的罪によるものでした。日本から来たのは私一人で、ロシアから4人来ていました。最後に洗礼式を行いました。87名が洗礼をうけました。第二の集会は牧師やリーダーのための学びで、800名くらい集まっていました。各島々から20の教会が集まり、アバラブ教会のエッセンスを学びました。牧師が来られるように、飛行機代を半分補助し、その額が100万円だそうです。最後は、1万人入る大会場で、インドネシアを祝福する大会を開きました。3日間連続で、夜は癒しの大集会でした。もてなしも大変すばらしく、VIP待遇でした。お祈りありがとうございました。私自身、多くの変えるべき点を神様から示されましたので、残りの人生を神様と人々のためにささげたいと思います。そして、私と当教会が日本にリバイバルをもたらす突破口となりたいと思います。アーメン。

メッセージにはいります。いよいよヘブル人への手紙の最後になりました。最後ですから、まとめのつもりで、最も大切なことを繰り返して述べたいと思います。

1.永遠の契約

 13:20「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が」。ヘブル人への手紙の中心は、「神との永遠の契約」であります。はじめの契約は、神様とイスラエルの民がシナイ山で契約を結びました。契約には1つだけ条件がありました。それは十戒を中心とする律法を守り行うことでした。民たちは「私たちは守り行います」と約束しました。ところが、彼らはエジプトの神を慕って、偶像礼拝を行いました。安息日も破りました。不平不満、つぶやき、むさぼり、不信仰の罪も犯しました。彼らが罪を犯すたびごとに、動物のいけにえがささげられました。また、年に1回は、イスラエルの民をあがなうために、大祭司が血を携えて至聖所に入りました。残念ながら、イスラエルの民は契約の内を歩むことができませんでした。律法をことごとく破り、神に対する不服従の歴史でした。つまり、はじめの契約には欠点があったのです。それは、神様と人間が直接、契約を交わしたからです。人間は10個の契約を与えられたら、10個、全部破ってしまう愚かな存在です。そこで神様は新しい契約を結ぶことを考えました。神様は、キリストを契約の仲介者に立てて、キリストと契約を結びました。私たちはどこにいたのでしょう。そうです。キリストは教会のかしらであり、私たちはその体です。イエス様が私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。そのとき私たちはキリストのうちにいたのです。キリストが私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。私たちだったら失敗しますが、イエス・キリストは失敗しません。ハレルヤ!

そして、イエス様は契約の違反を支払うために、ご自分の血を流して下さいました。これまでは動物の血が罪の代価として支払われましたが、それには限界がありました。ヘブル9章から10章まで、「ただ一度だけ」「1つの永遠のいけにえ」と繰り返し述べられています。そうです。イエス様は1回で、ご自分の血で全人類の罪をあがない、神と永遠の契約を結ばれたのです。その結果、私たちの心がきよめられ、神様に近づくことができるようになりました。すべての汚れ、罪責感、罪悪感がきよめられ、「アバ、父よ」と近づくことができるのです。また、はじめの契約は石の板に律法を書き記されていました。でも、新しい契約は私たちの心に書き付けられています。つまり、聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊が神の思いと願いを示してくださるということです。教育や道徳は人を変えません。人を本当に変えるのは、キリストの血によるあがないと、聖霊による生まれ変わりです。キリスト教は道徳でも宗教でもなく、人生の変革です。ハレルヤ!こんなすばらしいこと、親も学校の先生も教えてくれませんでした。まさか、こんな古い書物に、こんなことが書いてあるとは!いいえ、新約聖書は古くならない、いつまでも新しい契約です。この契約は私のものであり、あなたのものです。以前はイスラエルの民だけに向けられていましたが、今は、異邦人である私たちのために、契約の招きが向けられているのです。よく、町に出かけると、「クレジット・カード作りませんか」と言われます。あれも1つの契約です。カード作っても、お金がないと、あまり役に立ちません。しかし、私たちはキリストによって、神様と契約を結ぶとたくさんのメリットがあります。罪赦され、天国に行くことができます。私たちもアブラハムのように、天の故郷を目指して歩むのです。ハレルヤ!

でも、みなさん、私たちが救われたのは天国に行くためだけではありません。もし、あなたが契約の内を歩むならば、この地上でも豊かな人生を送ることができるのです。では、契約の内を歩むとはどういうことでしょうか。ヘブル人への手紙はそれを1ことで、「信仰によって」ということばでまとめています。ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。信仰って何でしょうか。クリスチャンはすでに、キリストを信じたので、天国に行くための救いの信仰はあります。しかし、もう1つの信仰は機能的な信仰であり、実際に用いていく信仰です。たとえクリスチャンであっても、信仰を用いないならば、天国は行けたとしても、この地上で貧しく、敗北的な生き方をしてしまうでしょう。私たちは信仰を用いなければなりません。でも、それはどういう意味なのでしょうか。何でも信じて、求めたら良いのでしょうか。私もこれまで、信じて求めたら与えられると積極的・肯定的な信仰を強調してきました。でも、的中率は1割から2割でした。できたら、3割4割当たり前、せめて5割くらいになりたいですね。では、どうしたら求めたものが与えられるようになるのでしょうか。私たちは強い信仰が与えられる前に、契約の内を歩むことを求めなければなりません。契約の内を歩むならば、求めるものが与えられ、天国のような生き方ができるのです。では、契約の内をあゆむとはどういうことでしょうか。みことばを読み、それを瞑想し、それを守り行うということです。みことば、聖書には神のみこころ、神の約束が記されています。それを捕まえて、求めるなら、当然、確立は高くなります。

詩篇1:2,3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。みことばを瞑想し、みことばのとおりに生きるなら、「その人は、何をしても栄えるのです」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。ここにも同じことが記されています。みことばを昼も夜も、瞑想し、それを守り行うなら、「あなたのすることなすことが、繁栄し、また栄える」のです。アフリカのナイジェリアの牧師は、20名の小さな教会を牧会していました。教会員には仕事もなく、とても貧しい教会でした。牧師は献金をしてもらうと、アメリカに渡り、ホテルのロビーに座っていました。神様が語りかけました。「お前は、なぜここにいるのですか」。「はい、献金をささげてもらうためです」。「お前は、乞食か。すぐアフリカに帰りなさい」。彼はそのとき、さきほどの詩篇1篇が心に浮かんだそうです。牧師はそれから、聖書を読み、みことばを瞑想し、契約の内を歩むことを始めました。なんと、それから見る見るうちに祝福され、600エーカーのカナンランドを作りました。そこには、6万人を収容できる世界最大の礼拝堂、3000人を収容できるユースの会堂、1000名の食堂、銀行、大学、寮もあります。240台ものバスがあり、ガソリンスタンドまであります。あるとき、貧しい男性が教会にやってきました。牧師は「あなたにあげるお金はありませんよ。神様に何をしたら良いか聖書を読んで聞きなさい。当分の間、食べる分だけは教会で働きなさい」と言いました。しばらくたって、男性は「灯油を販売します」と言いました。「ああ、そうですか。みことばにとどまるなら、何をしても栄えますよ。それをしなさい」。彼は灯油を販売していくに、だんだん栄え、会社の社長になりました。10年後、その牧師に小型ジェット機をプレゼントしたそうです。エディ牧師は、そのジェット機に乗り、驚きのあまり、あごが外れたそうです。私たちも同じです。みことばを瞑想し、契約の内を歩むなら、何をしても栄えるのです。私たちはこの世に住みながらも、天国を歩むことができるのです。

2.供給者なる神

 13:20「イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」神様は偉大な供給者です。父なる神様は、私たちがみこころを行えるように、すべての良きものを備えてくださるのです。神様は救いの計画者でありますが、同時に、すべての必要も満たしてくださるお方です。建物を建てるときには、まず設計図が必要です。その次に、建物をたてる人が必要です。しかし、それだけでは建物は建ちません。何が必要でしょう。建築をするための資材が必要です。神様は設計図と資材を持っていますが、たりないものがあります。それは人が必要なのです。もちろん、神様は全能ですから、人間に頼らなくてもすべてが可能です。しかし、この救いの事業に関しては、人間をお用いになられます。神様はイスラエルの民をエジプトから解放するために、モーセをお用いになられました。40歳のモーセは勝気で自身まんまんだったので使えませんでした。神様はわざわざ、120歳の老人、「私は一体何者でしょう」と言ったモーセを用いたのであります。神様の前に無力になった人は幸いであります。使徒ペテロも、イエス様を「3度も知りません」と、否んだ弟子であります。神様は自信まんまんのペテロを打ち砕く必要がありました。パウロもキリスト者を迫害するほど熱心な信仰者でした。しかし、復活の主と出会ったために、地に倒れ、3日間盲目になりました。パウロはある意味で弱くなりました。主は、弱くなったパウロを用いたのであります。ですから、神様に用いられるためには、まず主の前に、弱くなる必要があります。でも、本当に弱いままではいけません。神様はご自分が用いようとする者を、今度はご自身の知恵と力と必要を与えてくださるお方であります。

 父なる神様のみこころとは何でしょうか。それは、イエス・キリストによってもたらされた救いをすべての人が持つことができることであります。言葉を換えるなら、御国がこの地上にもたらされることです。神の国の建設のために、主はあなたも、私も用いたいのです。建設の計画書はあります。建設の資材もあります。しかし、不足しているのは、人材なのであります。神の国の建設のために、今の仕事をやめろということではありません。あなたは、今の仕事や家事、学業をしながら、働くことができるのです。私たちは奉仕というと、とっても狭い意味に捉えてしまいます。「教会の奉仕」というと、掃除をしたり、椅子を並べたりすることだと考える人がいます。もちろん、それも大事です。ぜひ、お願いします。でも、神の国の建設は、あなたが今いる場所でできるのです。それは、奉仕というよりも、ミニストリーと言った方がよいかもしれません。ミニストリーとは神のわざを行うことです。イエス様はこの地上に来られてどんなミニストリーをなされたでしょうか。ルカ4章にこう書いてあります。ルカ4:18,19「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」。アーメン。ここには明らかに5つのミニストリーがあげられています。第一は福音宣教、福音を伝えることです。第二は悪霊からの解放、第三は肉体の病の癒し、第四はインナーヒーリング、心の癒し、そして第五は主の恵みを宣言することです。これは、人々を祝福する権威と言っても良いかもしれません。私たちクリスチャンは王なる祭司ですから、私たちの周りの人々を祝福する権能が与えられているのです。ハレルヤ!

 教会を大きくしようと考えると、何か閉塞感を覚えます。そうではありません。ジム・ヨストという、パプアニューギニアの宣教師は「教会とは4つの壁に囲まれたところではない」と言いました。彼に言わせると、教会は道端にも、公園にも、そしてバーの中にだってできるといいました。みなさん、きょうはここにたまたま私たちは集まっています。しかし、ここは亀有教会という建物にみなさんが集まっているだけなんです。教会とはあなたがた一人ひとりなんであります。教会とは固定した場所にあるのではありません。これは建物です。本当の教会は、キリストのからだであり、みなさん一人ひとりが教会なんです。さしずめ、みなさんかたつむりを連想したら良いでしょう。かたつむりは、おうちを背負っています。私たちも教会を背負って、いるのです。あなたは教会を背負ったままで、職場や学校、家庭に遣わされているのです。だから、職場にも、学校にも、家庭にも、公園にも、マクドナルドにも、教会はできるのです。なぜなら、あなたが教会だからです。もう、「日曜日は教会へ」というような言い方はやめましょう。ここは教会という建物です。日曜日だけが教会ではありません。月曜日から土曜日までも、教会です。なぜなら、あなたが教会だからです。あなたがいくところどこにも教会ができるのです。ハレルヤ!こういうふうに考えると、神さまのみこころである、神の国の建設がキューピッチに進みます。私たちたちは「神の奉仕とは、牧師先生や一部の献身者がするものだ」と勘違いしてきました。そうではありません。みんなが、奉仕者であり、ミニストリーをするミニスターなのです。もうすぐ安部内閣が誕生しますが、私たちこそ神からのミニスター、大臣です。

 神様は私たちがミニストリーをすることができるように、資源を与えてくださいます。ただで働けということではありません。マタイ25章には、それぞれにタラントが与えられると書いてあります。ある人には5タラント、ある人には2タラント、またある人には1タラントです。タラントは元来、金の重さを表す単位でした。1タラントをお金に換算すると6000日分の給料です。今でしたら、6000万円くらいです。1タラント?タランですか、ちょっとした商売だったらできそうですね。しかし、このタラントは、霊的賜物でもあります。Ⅰコリント12章には9つの力の賜物が列挙されています。知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。私がインドネシアに行ったら、セル集会で、みんなこの賜物を出し合っています。みんなで癒しの祈りをすると、聖霊様が働いて、癒しのわざが起こります。足の不自由な人が歩き、癌が癒され、死んだ赤ちゃんが生き返ります。私が行ったときには、心臓停止して紫色になっていた赤ちゃんが生き返った、その赤ちゃんの家族がステージに立ちました。神様は、このような霊的賜物を与えて、用いてくださいます。私たちはただ、恵みの管として、チャンネルとして、自分を提供すれば良いのです。もう1つルカ19章には、ミナのたとえがあります。ミナは約100日分の給料ですから、今なら100万円です。タラントと比べると60分の1です。さらにタラントと違い、すべての人に同じ1ミナが与えられています。みんなに、1ミナずつ与えられている。ミナとは何でしょう。私は賜物というよりも、クリスチャンという存在そのものではないかと思います。何ができるか、できないかではなく、クリスチャンとはこういうものである。クリスチャンが持っている性質が世の人々に影響を与えるということです。クリスチャンは世の光です。人々に神の真理や知恵を示すことができます。また、クリスチャンは地の塩です。塩はまわりに溶け込み、食材の味を引き立たせることができます。あなたは周りの人々を生かす存在だということです。また、塩は腐敗をとどめる役目をします。罪の世界において、正直で善を行う存在はなんと貴重でしょうか。また、クリスチャンは1マイル行けと言われれば、2マイル喜んで行きます。敵を愛し、敵のために祈ります。受けるのではなく与えることを喜びます。こういう人は世の中にはいません。私たちクリスチャンは、すでに神の子ですから、もう、存在そのものが違うのです。どうか、罪を赦されたただの人だと思わないでください。私たちはキリストを信じたときに、新しく生まれ変わり、まったく別の存在になったのです。タラントもそれぞれにありますが、最低でも1ミナはあります。みんな持っています。また、私たちはこの世で生きるために、たくさんのものが必要です。お金や物、健康、協力者、力、能力、知恵や知識、愛、勇気、さまざまな資源が必要です。でも、父なる神様は私たちの供給者です。父なる神様は私たちが、良いわざを行い、神の国を拡大するために必要なものを喜んで与えてくださいます。13:20,21を新共同訳で紹介して、メッセージを終えたいと思います。こちらの方が良い訳でした。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心にかなうことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、みこころを行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」