2018.7.8「あなたはだれか 創世記1:26-28」

 「あなたはだれですか?」と聞かれたら、名前と職業を答えるでしょう。必要であれば、年齢とか既婚か独身か、家族構成を答えるでしょうか?日本ではあまりないですが、国籍も問われます。最近は自分が男なのか女なのかも分からない人がいます。「あなたはだれか?」「自分はだれなんだろう?」これはアイディンティテイの問題であり、多くの人たちが混乱しています。なぜなら、何ができるか、何を持っているかで、自分のアイディンティテイを決めているからです。しかし、本来のアイディンティテイは存在そのものではないかと思います。

 

1.アイディンティテイの混乱

 

 自分はだれなのかを知りたければ、自分の製造元に尋ねる必要があります。神のことばである聖書にそのことが書かれています。創世記1:26-28神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」この箇所には「人間とはだれなのか」「人間のなすべきことは何なのか」はっきりと書かれています。人間は自然から偶然に発生したのではなく、創造主なる神によって造られた存在です。他の動物と違って人間は、神さまのかたちに似せてつくられました。言い換えると、人間はすでに神のようであったということです。後で蛇に化けたサタンが「あなたがたが神のようになる」と誘惑していますが、人間は既に神のようであったのです。詩篇8:5「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」このみことばからも分かるように、人間は自然の一部ではなく、神のように自然を治めるように造られた存在です。神さまは私たちにあらゆる生き物を支配するように命じられました。さらに、神さまは「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と命じていますが、それは人口が増えるということだけではなく、「神のかたちを持った人を増やして、地上を支配するように」という願いがこめられています。アダムとエバは、堕落以前は、自分がだれであり、何のために生きているか理解していました。彼らは何ができるとか、何を持っているかで自分のアイディンティテイを決める必要がありませんでした。なぜなら、神のかたちに造られた存在であり、神の栄光と誉れの冠がかぶらせられていたからです。

 しかし、創世記3章で起きた堕落により、人間のアイディンティテイが混乱してしまいました。サタンに誘惑されて、食べてはいけない木から取って食べてしまいました。それはどういう意味かというと、神の主権を認めないで、神から独立して生きるということです。その代り、人間には恐れと恥がやってきました。それまでは二人が裸で暮らしても何の問題もありませんでした。堕落後の人間は神を恐れ、いちじくの葉で自分の恥を覆い隠しました。いちじくの葉というのは、現代的には、職業、学歴、何を持ち、何ができるか、どこに属しているかであります。さらには、容姿、結婚、家、子ども、財産、車、資格も人工的ないちじくの葉ということができます。牧師でも、博士号とか、名刺にたくさんの肩書を並べている人がいますが、アイディンティテイに問題があるのかもしれません。私のようにない人が言うと、やっかみに聞こえるかもしれません。それはともかく、私たちに罪が入ったために、思い、感情、意志という魂の分野に混乱が生じました。自分の弱さや欠点を隠し、人と比較し、人と争いながら生きています。単一民族である日本人は、人との和が必要なので、個人のアイディンティテイが持ちにくいと言われています。もし「あなたはだれですか?」と聞かれたら、まわりを見てから、答えるのではないでしょうか?

 実はアイディンティテイがしっかりしていないと、クリスチャンになっても頑張る人になってしまいます。ガラテヤの教会は「福音を信じるだけで救われる」ということをパウロから聞かされて信じて救われました。ところが、あとからユダヤ人がやってきて、「モーセの律法を守り、割礼を受けなければダメだ」と主張しました。「ああ、そうなのか?」とガラテヤの教会は宗教的なことを一生懸命守るようになりました。パウロは「霊ではじまったことを肉で仕上げるのか」(ガラテヤ3:3)と怒っています。肉でも美しい肉があります。人間は生まれつき、宗教という肉を持っています。神さまに受け入れられるため、何かをしなければならないと考えます。罪を悔い改め聖書を読むこと、祈り、献金、奉仕、断食…みな良いことです。しかし、それらが神に近づくために必要だとするなら、この世のパフォーマンス指向と同じです。パフォーマンス指向とは、神さまの愛を受けるために何かをしなければならないと考えることです。そのため、「まだ自分は足りない」「まだ自分はふさわしくない」と恐れと不安がたえずつきまといます。良い行いが神に受け入れられるためのものであるなら、それは汚れた間違った動機です。なぜなら、キリストが流された血潮によって、恵みの座に大胆に近づけることを信じていないからです。イエス様にはアイディンティテイの混乱は全くありませんでした。マルコ1:11「そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これは、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたとき、天の神さまからのイエス様に対することばでした。イエス様はまだ何もしていないのに、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と是認されました。後で、サタンが「もし、あなたが神の子なら」と誘惑していますが、イエス様はすでに神の子だったのです。イエス様は「自分はだれか、何をするために来たのか」分かっていたので、サタンの誘惑を退けることができました。イエス様は、毎朝、父なる神さまと交わっていました。一日が始まるとき「父よ、きょうはカペナウムに行って宣教します。病の人を癒し、盲人の目を開けてみせます。死んだ人がいたらよみがえらせます。どうか私を見ていてください」。そんな風には祈りませんでした。イエス様は父の御目のもとで生活し、父を見ながら、父がしなさいと言うことだけをしました。別に、父なる神さまから認められたくてしたのではありません。私たちはイエス様のように、正しいアイディンティテイを持つ必要があります。

 こういう私はアイディンティテイの乏しい人でありました。8人兄弟の7番目で生まれ、おまけのような存在でした。我が家では、長女と長男がとても優秀で、他の兄弟はまったく褒めてもらえませんでした。その当時の私の趣味は賞状を集めることでした。夏休みや冬休みの課題も賞状をもらいました。運動会ではいつも3位で悔しい思いをしました。高校も行きたくなかった学校に入り、建設会社で働いても自分はだれかという誇りは全くありませんでした。英語の仕事がしたくて、23歳で会社を辞めて失業しました。町田の英文タイピングスクールで勉強し、百合ヶ丘のバッテングセンターでバイトをしました。自分が失業しているので、肩身が狭い思いがしました。24歳であこがれの貿易会社に就職できました。小さな会社でしたので、いきなり係長になることができました。Export-divisionという名刺もできました。用事のため社長のクラウンに乗ることがありましたが、自分が偉くなった感じがしました。しかし、クリスチャンになり社長のやり方についていけないので、先輩と一緒に辞めました。私は直接献身して、聖書学院に入学しました。信仰歴が浅かったせいもあり、1年の基礎科で卒業しました。それから二度目の失業をしました。しかし、不思議なことに、自分がだれであるかを知っていたので、前のような空虚感がありませんでした。自分は神の子、クリスチャンであるということが分かっていたからです。

男性の場合は職業が自分の身分、自分のアイディンティテイになりがちです。一流会社に入って入るときは良いでしょうが、失業してしまったら全部砕けるでしょう。運良く定年まで勤めたとしても、やがては退職しなければなりません。退職したとたん、鬱になる人が多いと聞いています。そのため最近は「社友」というOB会を作っています。年一回どこかに集まって、所属意識がなくならないようにしているのです。女性の場合は、自分がだれと結婚しているか、自分の子どもがどの大学を卒業したかが、自分のアイディンティテイになるようです。もし、自分の夫が失業でもしたなら、子どもが退学でもしたなら、自分がだれか分からなくなります。そういう「いちじくの葉」で、自分を覆い隠すというのをおやめになったら良いと思います。でも、多くの人たちは自分の身分を確かなものにしようと、頑張っています。モーリス・ワグナーという人が『誰かになるセンセーション』という本でこのように述べています。「たとえ外見や振る舞いや社会的地位によって、それなりの人になろうと試みようとしても、人は満足することはできない存在です。どんなに自己存在の頂点に達したとしても、すぐに敵意のある拒絶や批判、自己反省や罪意識、恐れ、心配などのプレッシャーの下敷きになり、粉々に砕かれてしまうものです。私たちは無条件に惜しみなく愛されるという副産物を得るために何もすることができないのです。」ソロモンはイスラエルの歴史において最も繁栄した時代の王でした。権力、地位、富、物質、女性、すべてを手にしました。もし意義のある人生とは、外見、賞賛、行動、成功、地位、名声の結果、得られるものだとすればソロモン王はこの世で最も幸福な男だったということになります。しかし彼は、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(伝道者の書1:2)と言いました。自分の正しいアイディンティテイは外見や振る舞いや社会的地位によって得られないのです。

 

2.アイディンティテイの回復

 

 私たちは「自分は何ができるか」と問う前に、「自分はだれか」を知ることがとても重要です。なぜなら、自分の存在が行いを決定していくからです。言い換えると、beingがdoingを決定していくということです。私たちは自分がだれなのか、神さまからのメッセージを聞く必要があります。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」神さまは「あなたを高価で尊い存在である」とおっしゃっています。なぜなら、イザヤ43:1には「あなたを造り出し、あなたを形造ったからだ」と理由が述べられています。このみことばは、最初のポイントで引用した創世記1章と全く同じです。日本人は親が「子どもを作る」と言いますが、それは正しくはありません。親は子どもを生むことはできますが、造ることはできません。正確には、神さまがあなたを造ったのです。このみことばから、「私は神の傑作品、masterpieceである」と自負して結構なのです。あなたは「いや、もうちょっと背が高い方が良かった」と言うかもしれません。しかし、神さまが「あなたが、背が高い方が良い」と考えていたら、背が高かったでしょう。あなたは不満かもしれませんが、ちょうど良い背の高さなのです。アーメン。イザヤ書に「主は陶器師であり、私たちは粘土である」と書かれています。神さまがあなたの背の高さ、容姿、性格までもお決めになられたので文句を言うことはできません。あなたが自分をどう思っているか分かりませんが、神さまの目では「高価で尊い」のです。なぜなら、あなたは神さまによって造られ、形造られた存在だからです。明日、鏡を見たとき、自分にこうおっしゃってください。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

 この世では、外見や持ち物、行いや業績によって自分のアイディンティテイを決めてしまいます。残念ですが、イエス様を信じて、クリスチャンになったのに、その考えが抜けません。だから、もっときよめられ、もっと働いて、もっと勉強して、もっと成果を出さなくてはという恐れがあります。もちろん、それらのことは重要です。でも、そうしなれば、「神さまは私を愛してくれない」「神さまは私を受け入れてくれない」と考えるのは大間違いです。日本の教会の特徴は、律法主義であり、パフォーマンス指向です。日本のクリスチャンは、「まだダメだ」「まだダメだ」とがんばっています。それらの行ないは、恐れから来るものです。喜びとか満足ではありません。だから、いつも緊張しています。特に献身者になると、大変であります。信徒のときはだれも文句を言わなかったのに、献身者になったとたん、「それでも献身者?」「それでも牧師?」と言われるようになります。だから、そう言われないように一生懸命頑張ります。その結果、偽善者になるか、燃え尽きるか2つに1つです。ローマ8:6「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。」ここに良い知らせがあります。私たちは肉で神さまを喜ばせる必要はないのです。なぜなら、私たちがイエス様を信じたときから、父なる神さまは十分、満足しておられるからです。父なる神さまがイエス様に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。その同じことばが、あなたにも私にも向けられているのです。父なる神さまは、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃっています。神さまから認められるため頑張る必要はありません。なぜなら、イエス様にあってすでに認められているからです。

 私たちは主にあってどういう存在でしょうか?Ⅰコリント1:1「あなたがたは聖徒である」と言われています。このことばは、パウロがコリントの教会員に言ったことばです。コリントの教会は非常に肉的で、この世の罪に満ちていました。当時「コリントする」とは、「みだらなことをする」という意味でした。パウロはそういう教会の人たちを「あなたがたは聖徒である」と言いました。聖徒とは英語でsaintです。ローマカトリック教会では、特別な功績をあげ、教会が認定した人でなければなれません。勝手にsaintと言うことは許されません。しかし、それは聖書的ではありません。イエス様を信じている人はだれでも、聖徒saintなんです。でも、どうか「セイント青木」とか名乗らないでください。当教会には青木さんがとても多いのでつい出してしまいました。ニール・アンダーソン師がVictory over the darknessという本の中でこう述べています。「ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイディンティテイなのでしょうか?そうではありません。神は私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし自分のことを罪人と考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、『聖徒』なのです。どうか次のことを覚えておいてください。どう生きるかが存在そのものを左右するのではなく、どういう存在であるのかが生き方を決定していくのです。」アーメン。

 私たちは子どものときに親から「あなたは〇〇ですよ」言われました。学校に入ると先生から「あなたは〇〇ですよ」と言われました。友達からも「お前は○○だ」と言われました。不器用、のろま、役立たず、馬鹿、のっぽ、ちび、でぶ、やせ、だらしない、集中力がない、あきっぽい、音痴、理屈っぽい、魅力がない、素質がない、泣き虫…そのほとんどが否定的なものです。客観的に当たっているものもあるかもしれません。もし、だれかが言った同じことを自分に言うなら、そこから脱却することはできません。あなたは呪いのもとで生きることになります。私たちはそういうラベルをはがして、あたらしいラベルに張り替える必要があります。ラベルは英語ではlabelで、札、レッテルとも言われます。レコード会社を示すレーベル(商標)でもあります。ジョエル・オスティーンがThink better Live betterという本の中で「否定的なラベルをはがせ」と言っています。ウォールト・ディズニは10代のとき、「彼はクリェイテブでない、イマジネーションもいまいちだ」と新聞社から言われました。ルシル・ボール(米のコメディアン、モデル、女優、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人)は、「演技力がないので他の仕事に就くべきだ」と言われました。ウィンストン・チャーチルは「大学入試を2度も失敗し、良い学生でない」と考えられました。この三人が成功した共通要素は、否定的なラベルをはがしたということです。今日も同じで、人々は常に私たちにラベルを貼りたがります。「なれる」とか「なれない」とか、「できる」とか「できないとか」とか言います。多くの場合、それらのラベルは神さまが私たちにおっしゃっていることとは違います。もし、彼らの言うことが真実かのように、受け止めていたなら、私たちの中に深く染み込んでしまうでしょう。ある男性が高校生のとき、スクール・カウンセラーが「君は際立った賜物がないので、技術を要しない仕事についた方が良い」と彼にラベルを貼りました。彼は来る年も来る年も「私は平均以下で頭が良くない。自分が望むような人にはなれない」と思い続けてきました。ある日、彼が勤めていた工場が閉鎖になり、彼は他の町に行って工場を探しました。その会社は新しく入った人にIQテストをする決まりがありました。社長が彼を呼び出して「どうしてあなたは低い地位にいたんだ。創業60年来、あなたほどIQの高かった人はいない」と言いました。その日、彼の心の要塞が取り壊されました。彼は7年間貼られていたラベルをはがしました。結果的に彼は、自分の会社を興し、たくさんの製品を発明し、市場において特許まで取りました。

 人々から言われてきた否定的なラベルをはがしましょう。そして、創造主なる神さまから新しいアイディンティテイをいただきましょう。そして、そのアイディンティテイを自分の口で、自分に言い聞かせるべきです。すなわちそれは、新しいラベルを自分に貼るということです。聖書はあなたにどういっているでしょうか?ジョエル・オスティーンがThe power of I am、「私は〇〇であるという力」という本を書いています。あなたが悟るか悟らないに関わらず、「私は〇〇である」と言うならば、「私は〇〇である」という力が働き、あなたの人生がそれに従ってくるのです。「私は不器用だ」と言えば、不器用がやってきます。「私は年だ」と言えば、年がやってきます。なぜなら、あなたが言ったことが、扉を開けて、人生に許可を与えることになるからです。ですから、私たちは聖書から積極的で正しい、宣言を自分自身にすべきであります。今から私たちが言うべきことをいくつかあげたいと思いますので、みなさんも後から宣言してください。「私は神の子で、特別に愛されている」「私は神さまの傑作品であり、とても価値がある」「私は幸せであり、これから先もずっと幸せである」。「私はとてもかしこい。とても役に立つ存在である」。「私はロイヤルファミリーの一員で、王子、王女である」。「私は魅力的で、良い影響を与えることができる」。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない」。「私には復活のいのちがあるので、倒れそうで倒れない」。「私は若い。鷲のように何度も若返る」。「私は神さまの栄光を現し、神さまに用いられる」。「私には偉大な神がついているので、人を恐れない」。「私の内にはキリストが住んでいる。だから愛があり、寛容である」。「人にはできないが神にはできる。だから、私にもできる」。「主が共におられるので、私には希望がある」。「私は赦されている。これからも赦されている。永遠の御国に住まうことができる」。アーメン。