2018.7.15「自分のレースを走る ヘブル12:1-2」

数多くの臨終に立ち会った看護師の興味深い報告があります。彼女は死に直面している何百人もの患者さんたちに「あなたが最も後悔していることは何ですか?」と聞きました。その中で最も多かったものは、「他の人たちの期待に沿うためではなく、自分に正直に生きたかった」という後悔のことばだったそうです。イエス様はI am the way「私が道である」と言われました。クリスチャンは神さまから召された存在です。人々に気に入られるためではなく、神さまを喜ばせるために、自分のレースを走るべきではないでしょうか?

 

1.使命よりも賜物で

 

 ケン・ロビンソンという人がこう言いました。「世界中を渡り歩いていると1つ驚愕することがあります。地球上どこの教育制度も科目の優劣があります。数学と語学がトップで、次が人文系です。一番評価されてないのは芸術系です。そして、芸術科目の中でまた順位があります。美術と音楽は演劇やダンスより上です。数学みたいにダンスを毎日教える教育制度はありません。私は、ダンスは非常に重要だと考えています。数学もダンスも同じくらい大事です。」ケン・ロビンソンは「学校教育は創造性を殺してしまっている」と言っています。19世紀、イギリスおいて、現在の義務教育が始まりました。産業革命により近代工業化が進み、労働者を生み出せる仕組みが必要となったからです。そのため、国家をあげて読み書きと計算ができる学校を建てました。本来人間には個性があり、独創性があるので、工場の労働に合わない人も当然出てくるはずです。日本では学校で「おちこぼれ」のレッテルが張られたりしますが、多くの場合5教科のペーパー・テストの成績が低い生徒です。私が中学のとき、「自分は何に向いているか」という適性検査がありました。しかし、自分が何に向いているのかさっぱりわかりませんでした。ブラスバンド部も陸上部も1週間持ちませんでした。中学1年と3年のとき、弁論大会に2回推薦されたことがあります。クラスで一番うるさかったので、先生が「お前出ろ」と言ったのです。子どものときは、いろんな夢を持っています。でも、親や先生から「それで食っていけると思っているのか」と言われ、その夢を捨ててしまうのではないでしょうか?

きょうはこの世の価値観を脇に置いて、創造主なる神さまの観点から自分の賜物や適正について考えてみたいと思います。箴言22:6口語訳「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることはない。」英語の詳訳聖書はヘブル語の聖書から「with his individual gift or bent」と訳しました。「個人的なgift or bentをキープしながら指導しなさい」と言う意味です。これは個人的なgift or bentが生まれる前から備えられているというニュアンスがあります。では、giftとは何でしょうか?辞書には「贈り物、天賦の才能、適正、タレント」とあります。私はgiftを「賜物」と訳したいと思います。また、bentとは何でしょうか?本来bentは、「曲り」という意味です。しかし、「好み、性癖、適正」という意味もあります。個人的な賜物と適正は一体だれが与えたのでしょうか?もちろん、祖父母や両親からの遺伝もあるでしょう?でも、創造主なる神さまがその子に与えたということが真実ではないでしょうか?詩篇139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と書いてあります。「組み立てた」は英語の聖書ではknit「編む」と書いてあります。神さまは母の胎内で、私たちの神経や細胞組織を編んでくれたのであります。そして、そこに賜物と適正をしこんでくれたと考えるべきではないでしょうか?この世の教育者は「子どもは白紙の状態で、親や教師が教えなければならない」と考えています。確かに知的にはそうかもしれませんが、その子に賜物と適正がはじめから備わっているのであります。私たちは神の作品です。エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。この作品という本当の意味は「製品ではなく、手作りである」ということです。手作りですから、ひとり一人違うように創られているはずです。

 画家のヴィンセント・ゴッホの生涯を簡単にご紹介します。1853年3月30日、オランダ南部の生まれ。祖父と父は牧師で、ヴィンセントは6人兄弟の長男。彼は少年時代から思い込みの激しい性格で、熱烈な片想いと失恋を繰り返し、就職しては客や上司と衝突。16歳から22歳まで美術商で働く。23歳から小学校の教師になり、その後、書店に務めながら伝道活動に身を投じる。キリスト教への情熱が加速し神学校に入るが、語学教科のギリシャ語で挫折。25歳ブリュッセルの伝道師養成学校に入ったが、見習い期間が終わっても伝道の仕事が与えられず。同年暮れ、聖職者の仕事を探してベルギー南部の炭鉱地帯へ向かう。伝道師として認められ、劣悪な環境で働く炭鉱夫に心から同情し、懸命に伝道活動を行う。顔は炭で汚れ、落盤事故で負傷者が出ると下着を引き裂き包帯にした。これらが聖職者の権威を傷つけると判断される。伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、27歳、絵によって光を与えようとした。奇行が目立ち精神病院に入れられる。生きている間に描いた絵は800余りほどあったが、生前は一度しか絵が売れたことがなく、その一つも友だちの妹がたった400フランク(約5700円)で買った。ゴッホが死んだとき、ポケットの中に最後の手紙が入っていた。「弟よ。これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こうと心に決めて、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだ。…ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまった。」ヴィンセント・ゴッホは伝道師にはなれませんでしたが、画家として神の栄光を現しました。ゴッホの作品は彼が亡くなってから脚光を浴びました。損保ジャパンが1987年に『ひまわり』を58億円で買ったことは有名です。ゴッホは37歳で亡くなりましたが、「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」と言ったそうです。彼の人生は、天国で報いられる人生を象徴しているようです。

 人生はまさしく紆余曲折であります。はじめから「私の賜物と適正はこれだ」と分かる人はそんなにいないと思います。もし、自分の賜物を知りたければ、少なくともそれが好きだということではないでしょうか?そのことをしても疲れない、そのことをいつまでもやっていたい。そのことをしているとどんどんアイディアが湧いて来る。最初は、きわめて主観的なものかもしれません。でも、それをずっとやり続けていると、他の人たちが「あなたには確かに才能がある」と認めてくれるかもしれせん。でも、一番のネックは「それで食べていけるか?」という現実問題です。私はそのことに対して異議を唱える一人であり、「食べていけるか、いけないか」という問題は夢と希望を食うアメーバーでないかと思います。独身のときは自分の夢に向かって走り続けます。でも、結婚と同時に、どうしても現実的になります。家庭をささえ、子どもを育てなければならないからです。職業が自分の賜物と適正が合えば良いのですが、趣味に押しやる人もいるでしょう。たとえ趣味であっても、それを貫き通すところにロマンがあるのかもしれません。小説を書く人にそういう人が多くいます。芥川賞とか直木賞をもらえれば良いのですが…。

 信仰者として、賜物と使命のバランスを考えることが大事です。使命とはやらなければならないことです。職業もそうですが、主婦ならば家事や子育てです。教会の奉仕でも、使命でやる人と賜物でやる人とに別れます。特に神さまに献身を表明した人は、両者のジレンマに陥るでしょう。もちろん、私たちクリスチャンは全員、神さまに献身をすべきです。献身とはどんな仕事や立場であっても神さまを第一にするということですから。その中に「どのように神さまに仕えるべきか」という課題があります。特に教会内の奉仕は無報酬が多いので問題になります。私は長年牧師をしてみて「使命感ではなく、賜物で行なうべきだ」と考えています。神さまの前ではプロもアマチュアもありません。どうでも良いものではなく、ちゃんとしたものをささげるべきです。でも、使命感だけでやると疲れて、燃え尽きてしまいます。やはり神さまが与えた賜物と適正、聖霊の賜物があるはずです。もちろん、十字架によって一度きよめられる必要はありますが、自分の賜物と適正に合ったものが長続きすると思います。当教会の奉仕組織は、賜物と適正、そして神さまからの召命と3点から成り立っていると信じます。互いに牧会する理想的なセルチャーチではありませんが、賜物にあった奉仕で支える教会になっていると思います。総会資料を見ると一目瞭然ですが、たくさんの奉仕グループがあります。数か月前、「バディ・カフェ」というのがありました。お店のようにデコレーションされていました。私は「クッキーはお店で買うもの」と思っていましたが、びっくりしました。「やっぱり賜物なんだなー」と思いました。

 私たちは仕事とか家事、なすべきことがあります。それらの中にも神さまが下さった賜物と適正を生かすべきであります。不幸にもそういう度合が少なければ、神さまはあなたに奉仕の場を与えてくださるでしょう。音楽家の夢も神さまの前では叶います。カウンセラーの夢も神さまの前では叶います。スポーツの夢も神さまの前では叶います。神さまの前では、プロもアマチュアもありません。創造主なる神さまから与えられた賜物と適正を生かして、あらゆるところで、神さまの栄光を現わせるように、自分のレースを走りましょう。使徒パウロのことばです。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

 

2.人よりも神の運命を

 

私たちは自分の与えられた道、レースを走るべきです。ある人は親のレースを走っているかもしれません。また、ある人は他の人たちが良いと勧めるレースを走っているかもしれません。その人たちは決して悪い人たちではなく、親切でおっしゃっているのでしょう。でも、あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。それは、人ではなく、神さまが定めたdivine destiny神意です。ピリピ2:13「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」と書かれています。「願い」は英語の聖書ではdesireです。ビル・ジョンソンがラテン語でdeは「上から下る」、sireは「父の」という意味があると言っていました。つまり自分の願望だけではなく、父なる神さまから来る願いもあるということです。クリスチャンになると霊的に目覚め、パウロのように「目標を目ざして一心に走り」(ピリピ3:14)たくなります。あなたはそれを「無理だ。できない」と、とっくの昔に土に埋めたのではないでしょうか?この際、掘り起こしたらどうでしょうか? 神さまはあなたに願いを与えて、divine destiny神意を完成させたいと願っておられるからです。あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。と言うことは、あなた自身の中に、「これは神が与えてくれたものだ」という確信、あるいは信仰がなければなりません。divine destiny神意、神さまの計画から目を離してはいけません。ヘブル12:1「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と書いてあります。私たちが神さまから与えられたレースを走るときに妨げるものがあります。それは、重荷とまとわりつく罪であります。あなたはdivine destinyを妨げるいっさいのものを排除しなければ、あなたのレースを走り抜くことは決してできないでしょう。ランナーがウェアーや靴をできるだけ軽くして走っているのはそのためです。神さまから与えられたあなたのレースを邪魔するものは何でしょう?

第一に、それはあなたに助言を与える親切な人たちです。彼らは悪い人では決してありません。あなたを心配している人たちです。でも、彼らは自分の思ったことをあなたにそうしてもらいたくてプレッシャーをかけます。親かもしれないし、先生やコーチ、あるいは上司かもしれません。牧師でないことを願います。ローマ12:2「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と書かれています。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。彼らは親切で良い人たちかもしれませんが、あなたを自分の鋳型に押し込めたいのです。もちろん、私たちは人からの意見や助言を聞く心の広さを持つべきであります。でも、彼らの期待に沿うように、彼らが願うように生きるのは限界があります。もし、それが自分の賜物や適性、divine destiny神意に合っていなかったならば一大事です。私たちは人に認められるのではなく、何よりも神さまから認められる必要があります。こんな笑話があります。田舎から町に向かって、おじいちゃんが、ロバに孫を乗せ、自分はその脇を歩いていました。通りすがりの人が言いました。「なんとわがままな子どもだ。老人を歩かせるなんて!」。それを聞いたおじいちゃんは、孫をロバから降ろして、今度は自分がロバに乗り、孫にロバを引かせました。しばらく歩いて行くと、ある人が「子どもを歩かせて、自分だけが乗るなんて、ひどい大人だ」と言いました。それを聞いたおじいちゃんは、孫を引き上げてロバに乗せました。しばらく歩いて行くと、他の人が「なんて残酷なんだ。二人を乗せてロバが重たがっているだろう」と言いました。町に着くころどうなっていたでしょう。おじいちゃんと孫がロバをかついて歩いていたそうです。言いたいことはこれです。あなたはすべての人を喜ばせることはできないということです。あなたが「それがベストである」と受け入れて実行したとします。しかし、他の人はあなたの欠点を見つけ出して、別なことを言うでしょう。彼らが自分たちの意見を述べる権利はあります。しかし、あなたには彼らの意見を無視する権利もあるのです。兵庫県の姫路市に井上眞一牧師がおられます。彼が神学生のとき5年間、この亀有で奉仕をしていました。私も大変助けられましたが、同時にいろんな聖会に連れていきました。彼は大変素直で、私が勧めた本とか資料をよく学んでくれました。ある時、赴任先の教会で分裂が起こりました。私がかつて預言していたことが当たったと言われました。彼のためを思って、私は「こういうところに連絡しておくから、こうしたら良い」と助言しました。すると彼は「いや、それはしなくて結構です。自分で解決します」と言われました。その時は、ちょっとカチンときましたが、「ああ、先生も一人前になったんだなー」と喜びました。私たちは人に認められるのではなく、神さまが望まれる自分のレースを走るべきであります。

第二は、あなたに対してとても依存的な人です。ヘブル12:1「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とありました。英語の詳訳聖書には、clings to entangles usと書かれています。Clingは「べったりくっつく、くっついて離れない、しがみつく」という意味です。Entangleは「もつれさせる、混乱させる、まごつかせる」という意味です。子どもは親に依存します。そのため成人するまではどうしても世話しなければなりません。でも、大きくなったら手放す必要があります。また、救わればばかりの人や病気の人は、お世話をしなければなりません。でも、信仰的に成長し、健康になったら自立させるべきです。しかし、残念ですが、私たちからエネルギーと時間を奪う依存的な人はいるものです。互いに助け合う、相互依存は問題ありません。問題なのは共依存、一方的に依存してくる人です。あなたからお金を借りても、決して返しません。「緊急なので来てくれ」といろんな頼みごとをされます。もし、断ったならば、あとで「薄情者」とか言われます。ジョエル・オスティーンは「High-maintenanceの人には気を付けなさい」と言っています。High-maintenanceとは、「手がかかる、世話のやける」という意味です。ジョエル・オスティーンは続けてこう言っています。「それらの人を幸せにし続けることは不可能です。あなたは彼らのスケジュールに合わせて訪問して、元気付け、用件を果たすために走り回り、彼らの要求を満たします。でも、あなたができなかったなら、彼らは怒って、あなたに罪責感を与えるでしょう。ハイ・メンテナンスの人々というのはあなたをコントロールする人です。彼らはあなたに興味があるのではなく、あなたが自分たちのために何ができるかに興味があるのです。もし、あなたが彼らを喜ばせるために一生懸命になるなら、罠に陥るでしょう。あなたは常にフラストレーションがたまり、いつかは疲れ果てるでしょう。彼らを幸せにするためにあなたの時間を費やすのは貴重過ぎます。彼らは彼ら自身の夢とゴールを目指すべきであり、あなたはあなた自身の夢とゴールを目指すべきなのです。彼らはあなたの友人ではなく、manipulator(操る人)です。あなたは彼らのパペット(操り人形)ではありません。パペットの糸を切って下さい。」アーメン。

第三は、あなたのあこがれの人です。人生の恩師というものがいるはずです。あるいは、その道で尊敬する人がいるでしょう。出会いはとても重要です。私たちはあこがれの人から学び、彼らのようになりたいと努力します。でも、まもなく気が付きます。「ああ、あの人とは違うんだなー」と。私も大川牧師やチョーヨンギ師、安海靖郎師、エディ・レオ師、ウェンコディーロ師から学びました。彼らのように説教したいと思いました。でも、私には「私のスタイルがあるんだなー、これで良いや」と思えるようになりました。もちろん、常にだれかから学ぶ必要はあります。でも、だれかの借り物ではうまくいかないということです。ダビデがゴリアテと戦うとき、サウルは自分のよろいとかぶとを着せました。そのとき、ダビデは「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです」(Ⅰサムエル17:38-39)と言いました。彼はそれを脱ぎ、自分の杖と石投げを手にして立ち向かいました。ダビデは使い慣れているものを用いました。私はテレビの『何でも鑑定団』を良く見ます。画家とか彫刻家があるとき、すばらしい人に出会って、作風が全く変わります。しかし、やがて自分固有の作風を見出すというものです。名前は忘れましたが、日本では珍しい鉄の彫刻家がいました。鉄は他の金属と違い、とても加工しづらいものです。そのため作品は、数えるくらいしかありません。彼はロダンに会って助言をきただこうとしました。記憶をたどっているので正確ではありません。ロダンは自分の芸術スタイルを1つも教えてくれず、「あなたの心にあるものをかたちにしなさい」と言ったそうです。私たちの人生においてすばらしい人との出会いがあります。その人にあこがれ、その人に追従し、その人から影響を受けるでしょう。でも、最終的にはあなた自身のものを生み出す必要があります。それは芸術だけではなく、どの世界においても言えることだと思います。

私は統合する、integrateということばが大好きです。学校では微分積分でいやな思い出がありますが、本来は「部分や要素を統合する、一体化する」という意味です。私たちはいろんな人と出会って、彼らから学び「私はこれで行こう」と決断するのではないでしょうか?ユダヤ人哲学科マルチン・ブーバーが「人生は出会いで決まる」と言いました。しかし、私たちの人生で最も偉大で価値ある出会いとは、主イエス・キリストとの出会いではないでしょうか?私たちはこの方によって私たちの創造主である神さまを知ることができました。私たちは偶然ではなく、神さまの御手によって固有に造られたことを発見できました。キリストにあって人生には意味があること、そして走るべきレースがあることを知りました。パウロのように後ろの物を忘れ、前のものに向かって進み、神の栄冠を得るために、目標をめざして一心に走りましょう。