2018.7.22「思いを一新する ローマ12:2」

 前回も学びましたが、私たちの魂は思い、感情、意志でなりたっています。思いは英語でmindであり、考え、思考、理性という意味でもあります。私たちの考え(思考)が感情にものすごく影響を与えています。考えとは、ものの捉え方です。もし、考えがゆがんでいるなら、良くない感情が結果的に出るのです。たとえば偉そうにしている先生に会うとします。自分が何か大きな力に支配される状況になります。それで、怒りと無力感が湧いてきます。この人は、自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させるという考えがあるからです。この人は、支配に対する心の傷があるので、ゆがんで捉えてしまうのです。

1.世界観とは

 「世界観」ということばを耳にすることがあると思います。広辞苑には「世界を全体として意味づける見方、人生観よりも包括的」とありましたが、あまりよく分かりません。チャールズ・クラフト師は「現実に対する私たちの見方に影響を与えるものの1つに『世界観』がある」と言っています。私たちは養育過程において「何に焦点を当てて、物事をどう解釈すれば良いか」教えられてきました。そこには一定のパターンがあり、それによって私たちの視点は方向付けられ、制限されていきます。言い換えると、世界観とは心のレンズです。現実を正しく捉えているようですが、フィルターのように、何かが取り除かれていたりします。もし、私が黄色のサングラスをかけていたなら、青空が黄緑に見えるでしょう。もし、私のメガネがゆがんでいるなら、周りの世界もゆがんで見えるでしょう。もし、自分の心のレンズがゆがんでいるならゆがんでとらえてしまうでしょう。世界観は西洋の人と東洋の人とでは全く違います。西洋人は手で触ることができ、目に見えるものしか信じません。しかし、東洋人は目に見えない霊的な存在を信じています。だから、パワースポットみたいなところに行きたがるのです。きょうは世界観を個人のものの捉え方として限定したいと思います。その根拠となるみことばがこれです。マタイ6:22-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」このみことばで言われている「目」とは、心のレンズということができます。レンズが曇って入れば、良く見えないので、ぶつかって躓くでしょう。もし、心のレンズがゆがんでいるなら、物事を正しく捉えることができません。まさしく、「目」というのは、その人が持っている「世界観」と言うことはできないでしょうか?

 私たちの「世界観」を生み出しているのが、私たちの考え(思い)なのです。私たちの考えが健全であるならば、まわりの世界や人々が価値あるものに見えるでしょう。しかし、私たちの考えが不健全であるなら、まわりの世界や人々が自分を破壊するものに見えるでしょう。私たちはまわりの世界や人々のせいにするかもしれませんが、実は自分の考えがゆがんでいるのかもしれません。私たちクリスチャンはイエス様を信じて、霊的に生まれ変わった存在です。これまでは、霊的に死んでいたか、あるいは眠っていました。ところが、イエス様を信じると、聖霊が私たちの内側に宿ります。そして、私たちは霊的に新しく生まれ、神さまのことがだんだん分かるようになります。ところが、私たちの考え(思い)が相変わらず、古いままで、この世の価値や自分の心の傷に支配されているかもしれません。私たちは霊だけではなく、考えも新しくされる必要があります。そのことを教えているみことばがこれです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」私たちはこの世と調子を合わせるのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る必要があります。そのために必要なのは、心の一新によって自分を変えることです。日本語聖書の「心」はギリシャ語ではヌース、英語ではmindと書かれています。ですから、このこところは「心」ではなく、「思い」とか「考え」と訳すべきなのです。ローマ12章は霊的に新しく生まれたクリスチャンに対する勧めです。使徒パウロは「神のみこころは何かを知るために、思いを一新して、自分を変えなさい」と勧めています。

 個人個人が持っている「世界観」を述べるために、マタイ6章とローマ12章のみことばを引用しました。世の心理学者たちは、これを「認知」と言っています。1963年アーロン・ベックという人がうつ病の認知療法を発見しました。彼が言うcognitiveは、「認識」と訳すことができますが、「経験的事実に基づいた認知」です。おそらく、その人が誕生してから生きてきた過程において、認識の仕方が出来たということなのでしょう。数か月前、一人の事務次官が「相手が不快に感じるようなセクシャル・ハラスメントに該当する発言をしたという認識はない」と弁明しました。しかし、それは当人の認識であって、セクハラを受けた当事者はそうでないかもしれません。つまり、事務次官はどこからかセクハラになるのかという認識が、一般的な基準よりもずれていたということでしょう。つまり、ものごとを捉える「認識」あるいは「考え」は人によって異なるということです。でも、マタイ6章とローマ12章は、私たちの思い(考え)というレンズを健全にすれば、神のみこころは何か分かるということです。そのためには、「思いの一新」がぜひとも必要です。しかしこれは、私たちの考えがどの程度ゆがんでいるか知るところからはじまります。もしそれが曇っているなら、汚れを落として磨いてあげる必要があります。もし、修復不可能なら、レンズを交換するしかありません。最近、白内障の手術がとても簡単になったそうです。片方の目なら一日で、濁った水晶体を人工のものに取り換えることができます。その時、ついでに強度の近眼も調整できるそうです。あなたの考え、あなたの認識はどの程度、ゆがんでいるでしょうか?でも、どうしたら、自分の考え、自分の認識がゆがんでいるのか分かるのでしょう?自分としては、正しく、公平にものごとを捉えて判断しているように思っているのですが、そうでもないようです。

2.状況―考え―感情

 世界観というのは、自分の「考え」あるいは「認識」における傾向です。自分はどのような偏った見方をしているのか知らなければなりません。李光雨師はそれを「気づきawareness」と言いました。残念ながら、自分でどの程度偏っているのか、気づくことはできません。なぜなら、生まれてこの方、同じレンズをはめて生きて来たからです。だれもが「私が見えている世界が正しい」「私は間違っていない」と主張するでしょう。でも、現実において、生きづらい経験をしていないでしょうか?何かに対するこだわりがあるかもしれません。何か思いがけないことが起ったとき、過剰反応をすることはないでしょうか?李光雨師は「過剰反応とは、ある特定のステージの中で現われてくる心や体や行動。合理性を欠いた強い反応のことである」と定義しています。ステージという言い方も面白いですね。舞台設定でしょうか?ステージの上には、自分がいて、相手役がいます。特定のシナリオがあって、相手役があなたの気に障るセリフを言ったんでしょうか?そのとたん、あなたの心の奥底から「ばーっ」と悪いものが出てきます。過剰反応をぶつけられた相手も、こちらに対して過剰反応をぶつけます。これを修羅場と言います。こちらが過剰反応したために、逆切れする人、貢ぐ人、鬱になる人、逃げる人などがいます。私がこの原稿を準備する少し前に、四男の引っ越しがありました。淵野辺の大学に電車で通うと2時間は楽にかかります。そのため、私が引っ越し先のアパートを準備しました。しかし、息子は「私の意見を1つも聞いていない」と反発しました。しかし、私は息子が忙しくして時間が取れないので、あれこれ調査し、最善のアパートを探してあげたのです。息子が「そこには行かない」と言ったとき、パキーと切れてしまい、息子を罵倒してしまいました。罵倒した内容は省略しますが、過剰反応を起こしました。私の思いは「せっかく準備したのに、なんで私に従わないのか」でした。

 あなたの一か月を振り返って、何かのことで過剰反応を起こしたことはないでしょうか?実は、過剰反応は宝物であり、自分のゆがんだ世界を知る絶好のチャンスです。私たちは何か危機的なことが起こると、自動的に過剰に反応します。相手が爆弾のスイッチを押してくれたのです。こちらはスイッチを押されたのだから、ドカンと爆発するしかありません。心理学者はこれを「自動思考」と名付けています。自動的に出てくる考え(思考)だからでしょう。李光雨師は「そのとき心の叫びが出てくる」と言います。過剰反応をしているとき、心の深いところから出てくる叫びであります。どんな叫びでしょうか?私の場合は「ちゃんとやってあげているんだから、言うこと聞けよ」でした。ある人は、「自分の責任を果たせよ。ちゃんとやれよ」です。ある人は「私は何をやってもできない。私はダメ人間だ」と心の中で叫びます。しかし、私たちは過剰反応を引き起こすメカニズムを知らなければなりません。過剰反応から生じる感情は、怒り、落ち込み、恐れや不安、無力感、抑うつなどです。感情はすぐ分かります。多くの人たちは「怒ってはいけない」「恐れてはいけない」「落ち込んではいけない」と言います。しかし、感情は中立的な存在です。いわば感情は車のメーターみたいなものです。たとえば、エンジンの温度を示すメーターがあります。もし、メーターが異状に高い場合はどうするでしょうか?メーターを手で動かしてもダメです。メーターは「冷却水が足りないので、エンジンがオーバーヒートしています」と教えているのです。ですから、解決法は、冷却水を足せば良いのです。同じように、感情というメーターを動かしても無駄だということです。なぜなら、感情は中立的な存在だからです。

 では、なぜそのような感情が出てしまったのでしょうか?その感情を生み出した、メカニズムを知ることがとても重要です。順番的に言うと最初が状況です。第二が考えです。第三が感情です。本当の順番は状況―考え―感情なのですが、「考え」を特定することは不可能です。なぜなら、自動的に出ているからです。そのため実際は、その感情を生み出したのは、あなたのゆがんだ考え(思考)なのです。でも、そのとき何を考えたのか特定するのが困難です。なぜなら、あなたは無意識に反応しているからです。でも、過剰反応したのは、あなたが何かを考えた結果なのです。そのゆがんだ考えは何なのか捉える必要があります。過剰反応ダイヤリーと言うものを1か月くらいつけると、自分のゆがんだ考えに特定のパターンがあることに気づきます。ダイヤリーの一番左側には「年月日、時刻」を書きます。第一に「状況」を書きます。つまり、どんなことが起きたのか、だれかが何かを言ったり、何かをしたのでしょう。その出来事を簡単にまとめます。第二には「感情」を書きます。怒りの爆発、落ち込み、無気力感、パニック発作などです。100のうち何%だったかも書きます。たとえば、100のうち80くらい怒った。100のうち50くらい悲しくなった。100のうち30くらい恐れた。この数値はあくまでもその人の主観です。100というのは死ぬか生きるかの高レベルです。第三は「考え」です。認知や世界観とも言いますが、そのときあなたは何を考えていたかを書き記します。たとえば「最後までできなかったので、私は何をやってもダメだ」と思った。あるいは「本当はそうでないのに、誤解されてしまった」と考えた。あるいは、「自分の力では対抗できないために、自分の世界が壊れる」と思った。1か月くらいつけると、一体、自分は何に対して過剰反応を起こすかパターンが分かってきます。つまりそれは、自分のゆがんでいる考え、世界が分かるということです。

心理学者は過剰反応を起こしたときに出てくる考えを「自動思考」と呼んでいます。面白いですが、自動的に出てくるのですからどうしようもありません。李光雨師は「心の叫び」も一緒に出てくると言います。確かに過剰反応したとき、「だれもわかってくれない」「せっかくやったのに」「みんな馬鹿にしやがって」「もっとできたはずなのに」とか出てきます。自動思考とか心の叫びは、心の深いところから出ているのです。詩篇の記者は孤独の中からこのように叫んでいます。「主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。」(詩篇102:1-5)

3.コア世界観

コアというのは核という意味です。世界観を生み出しているのが、「コア世界観」です。言い換えるとゆがんだ考えを生み出している、信念の塊みたいなものがあなたの中にあるということです。心の叫びはそこから出ているのです。丸屋真也先生はこれを「核信念(core belief)」と呼んでいます。心理学者は自動思考の根底に核信念があると言います。核信念からゆがんだ自動思考が湧き上がってくるのです。でも、核信念はほとんど無意識です。しかし、これを発見しないと、思いの一新にはつながりません。李光雨師は「コア世界観」、丸屋真也師は「核信念」と呼んでいます。みなさんはどちらを使っても結構です。私は両者から学びましたが、二つをちゃんと統合しています。私は統合integrateということばが大好きです。「コア世界観」「核信念」どちらでも良いのですが、地球のマグマと同じです。地球の核にはマグマがあります。マグマは大体1,000度と言われています。時々、火山が噴火することがありますが、そこからマグマが飛び出してきます。過剰反応はマグマの噴火みたいなものです。地質学者に言わせると、噴火するところは地表の弱いところだと言われています。とにかく、地球の核、マグマにあたるのが「コア世界観」あるいは「核信念」と呼ばれるものです。

丸屋真也先生は、「核信念には三種類ある」と言っています。第一は脅迫的信念(完璧主義)です。このタイプの人は白か黒かで考えます。自分の失敗を赦すことができません。受け入れるということが難しい人です。だから、どうでも良いことに何時間も時間をかけてしまいます。聖書的に言うと、これは律法主義的な思考です。行動によって自分の価値が決まるという考え方です。この人は、神の恵みをいただくためには、私は完璧でなければならないと思うのです。パウロは、最初はそうでいう人でしたが、それにまさる主の恵みを知りました。第二は適合的信念です。この人はたえず人の顔色を伺います。そして、その人に合わせようとします。きわめて日本的です。クラスの子が良い学校に入ったので、自分の子どももそうでなくてはならない。みんながナイキのシューズを履いているので、自分もナイキでないと良くナイキがする。箴言29:25,26「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」と書いてあります。第三は支配的信念です。自分や他人を支配するような信念です。自分へのコントロールだと「事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」と考えます。他人へのコントロールだと「人が私の望むようにしなければ、私のことを大事にしていないんだ」と考えます。この人は、人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。それで疲れ果ててしまいます。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」「何かうまく行かなければ自分のせいである」「悪い人は罰されるべきである」。このように自分や他人をコントロールします。ある程度、コントロールできているうちは良いですが、必ず、自分のコントロールが利かなくなるときが来るでしょう。

 核信念は子供時代の体験が根底にあります。そういうものから影響を受けて、核信念が形成されていくのです。核信念はどこから来ているのか?究極的には、神から離れた人間が持つ、心理的な不完全さであります。李光雨師はそれを「存在不安」と名付けています。文字通り、存在が不安なのです。罪を犯したアダムとエバは、いちじくの葉で存在不安を隠そうとしました。私たちもいちじくの葉で、自分の存在不安を隠そうとしているのではないでしょうか?学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、職業、結婚、家系、名誉、すべて人工的ないちじくの葉です。しょせんいちじくの葉ですから、いつか破れが生じるでしょう。私たちは、アダム以来から持っている「存在不安」と、それぞれの成育史で培った核信念のパターンがあります。つまり、それはその人が持っている「コア世界観」であります。コア世界観は人によってヴァリエーションがあります。丸屋師は脅迫的信念(完璧主義)、適合的信念、支配的信念と3つに分けました。この「コア世界観」から心の叫びが生じてきます。それが、ゆがんだ考え(自動思考)であります。そのゆがんだ考えがさまざまな悪感情をもたらします。さらに、それが行動になるとパニック発作、うつ病、関係遮断、傷害事件、摂食障害、ひきこもりになります。だけど、すべての原因を作り出しているのは、コアの部分、核の部分であることを忘れてはいけません。多くの場合それは、幼少期に体験したトラウマと結びついています。何かショッキングなことがあったのでしょう。そこから悲しみや怒りや喪失感が噴き出してくるのです。

 根本的な解決と継続的訓練による解決が2つ必要です。根本的な解決とは、イエス様を幼少期に体験した現場に迎えることです。神さまの無条件の愛と受け入れと赦しをそこにいただくのです。継続的訓練とはゆがんだ思いを聖書のみことばの真理に置き換える作業です。アダムとエバは後で、神さまから皮の衣を着せていただきました。皮の衣は主イエス・キリストの贖いを象徴しています。イエス様はあなたの心の叫びを受け止めてくださいます。そして、心の叫びを完了させてくださいます。あなたは、その声を聞かなければなりません。脅迫的信念の人には、主は「私は不完全な人を愛している。私の恵みは十分である。私の御手の中で安らぎなさい」とおっしゃって下さるでしょう。適合的信念の人には主は「私の目であなたは高価で尊い、私はあなたを愛している。誇りに思っているよ」とあなたの存在を喜んでくださるでしょう。支配的信念の人には「私がすべてを支配する主である。私にすべてをゆだねなさい。私の力のもとで安心しなさい」とおっしゃるでしょう。これは大人になったときの表現ですから、小さな子どもはもっと単純かもしれません。でも、大人のあなたが小さな子どもにやさしく言い聞かせるのです。癒されていない子どもを人生の主人公にしてはいけません。救われたあなたが意志をもって、指導していくしかありません。私たちを動かしているのはコア世界観です。コア世界観を修正していくことも1つの方法です。でも、一番良い方法は、全く別のコア世界観に取り換えることです。パソコンのハードディスクは使っていると古くなります。ハードディスクを新しいものに取り換えるのが一番です。「思いの一新」とは、新しいものに取り換えるという意味です。その次に、聖書のみことばから、神さまがくださる新しい思い、新しい考え、新しい認識をいただきましょう。