2018.8.5「自分の世界を全うする ローマ8:28」

 ローマ12:2後半を原文に忠実に訳すならば「思いを一新することによって、変貌させられなさい」となります。変貌はギリシャ語ではメタモルフォーであり「姿を変える」「変革する」という意味です。前回学びましたが、変革させられるためには、第一に私たちは思いを一新させていただく必要があります。コア世界観を新しいものに取り換えるということです。その次は、神のみこころに合わない思いを1つずつ変えていくという地道な作業が残されています。また、ローマ12章には変革されてからどのように生きるべきかまで記されています。

1.オーバーカム


 オーバーカムovercomeは、障害や誘惑などに打ち勝つ、克服するという意味です。「乗り越える」と訳しても良いかもしれません。前回、「核信念には三種類ある」と学びました。核信念(コア世界観)は、ゆがんだ考えをもたらす塊みたいなものです。そこから、自動的に思いが出てくるのです。前回は古い核信念(コア世界観)は、新しいものと取り換えるしかないと勧めました。これはその人が持っているテーマであって、「問題」というと重くなります。テーマあるいは自分の世界と言っても良いでしょう。それらをオーバーカム、克服していけばよいのです。三種類の核信念を1つ1つ取り上げてそれぞれの克服の道を探っていきたいと思います。

 第一は脅迫的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「行い」に注目します。完璧主義的な人で「自分は完全でなければ、神から愛されることはできない。神から愛されるためには、完全でなければならない」と考えます。頭では「恵みが大事だ」だと分かっているのですが、心では「神さまは厳しいお方だ」と思っています。このタイプの人は白か黒かで考えます。100か0では神経がまいってしまいます。この人は人から任されたら、結果を出すため一生懸命頑張ります。結果が出ないと自分は無能だと思われるからです。完璧主義で業績指向の人は、「これで十分」という基準がありません。いつも後ろから追い立てたれているような感じがします。脅迫的信念の人は、親から厳しく育てられた人に多いです。長時間勉強をさせられ、成績が悪いと叱られます。ことば使いや行儀作法もうるさく注意されてきました。そこそこ成績もよく、人格的にも良いのですが「まだ足りない、まだ不十分」という未達成感が常にあります。神さまは完全ですが、人間は不完全です。神さまは私たちに完全無欠を要求していません。そのためにイエス様が十字架にかかってくださったのです。失敗しても、寝ないで反省しなくても良いのです。自分の失敗を赦しましょう。自分のだらしないところや足りないところも神さまが受け入れ、愛してくださっていることを認めましょう。やり残したことがあっても、明日またやればよいのです。少し休めば、神さまが新しい力を注いでくださいます。パウロはとても真面目で何でもできる人でした。しかし、復活の主に出会って、打ち倒されました。そして彼はこう言いました。Ⅱコリント12:9「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」このテーマを持った人には、行ないよりも主の恵みにとどまることが必要です。

 第二は適合的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は愛情や信頼が欲しくて「他人」に注目します。そのため、たえず人の顔色を伺い、相手に合わせようとします。きわめて日本的です。「人が私をどう思っているだろうか」「私の愛は受け止められているだろうか」「私は信頼されているだろうか」と考えます。親からありのままで愛されたことがありません。見捨てられ症候群というのがありますが、甘えたことがないのです。だから、人からの愛着や信頼を求めます。あなたは「周りから受け入れられたい」という願いがあるでしょうか?逆に、「私はのけものにされている」「私は誤解されている」「私は正統に評価されていない」という怒りや恐れがあるでしょうか?それらは核信念からくるゆがんだ思いです。箴言29:25,26「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」と書いてあります。あなたは人の奴隷になってはいないでしょうか。人から嫌われなくないために、良いことをするというのは貢ぎであります。貢ぎとは「私を認めてください」と自分を差し出すことです。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」クリスチャンは神さまに第一に仕え、神さまから認めてもらえば良いのです。人からの評価はあとから着いてきます。でも、人から嫌われたり、拒絶されたらどうしますか?ヨハネ14:8「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」ヨハネ2:22「あなたは、わたしに従いなさい。」あなたの注目すべき方は、人ではなくてイエス様です。イエス様に注目すれば人の目から解放されます。

第三は支配的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「ちゃんとコントロールできているか」ということに注目します。自分や他人を支配するような信念です。おそらく親が家庭を正しく治めていなかったのではないでしょうか?そのため、不条理な中で翻弄されてきました。「自分の力では対抗できないものが自分の世界を混乱さている」と考えています。もし抵抗できなければ、萎縮して諦めるしかありません。この人のテーマはコントロールです。自分へのコントロールだと「事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」と考えます。他人へのコントロールだと「人が私の望むようにしなければ、私のことを大事にしていない」と考えます。この人は、人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。それで疲れ果ててしまいます。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」「何かうまく行かなければ自分のせいである」「悪い人は罰されるべきである」。このように自分や他人をコントロールします。ある程度、コントロールできているうちは良いですが、やがて自分のコントロールが利かなくなるときが来ます。「怒り」によるコントロールがきかなくなくと、絶望的になります。そのタイプの人は環境や人を変えるということは不可能であることを学ぶべきです。変えられるのは自分だけです。コントロールできるのは自分自身です。そこに焦点を当てると変わってきます。究極的に主なる神がコントロールし、すべてのことを正しくさばくお方であることを気づくべきです。あなたが神になってはいけません。支配権を主にゆだねましょう。自分がさばくのではなく、主のさばきにゆだねましょう。神の権威と、権威ある人を認めましょう。そうするとあなたの上に覆いができ、あなたは安息することができます。覆いとはcoveringであり、権威に服している人が与えられる守りです。

 このようにゆがんだ核信念に意識的に聖書的な正しい考えをミサイルのように打ち込むのです。核信念は難攻不落な要塞のようです。でも、みことばのミサイルによって壊すことができます。みことばの真理によって置き換えていくのです。みことばは真理であり、真理に従えば力があります。そして大事なのは、たとえそういうことがあっても「自分の世界は壊れない」という新しいコア世界観を持つということです。「私は失敗した、罪を犯してしまった。でも、神さまからの愛は失わない。主の愛は絶えることがない」という新しい世界観を持つのです。また、「私は馬鹿にされた。ないがしろにされた。でも、私の価値は変わらない。主が認めてくださっている」という新しい世界観です。「私の思うとおりに事が運ばない。あの人は責任をちゃんと取ってくれない。でも、神さまがなんとかしてくださる。すべてを主にゆだねれば大丈夫だ」という新しい世界観を持つのです。つまり、「どんなことがあっても、私の世界は壊れない」というしなやかな心をいただく必要があります。詩篇92:12「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。」やしの木はどんな大きな嵐がやってきたときも風を恐れません。なぜなら、幹をたわませて風をしのぐからです。樫木や松の木が折れてしまっても、やしの木は簡単に折れません。なぜなら、神さまはやしの木に、はね返る性質、bound spiritを与えておられるからです。私たちもbound spirit、簡単に折れない、しなやかな心をいただきましょう。

 

 2.逆転勝利の道

 古い核信念、古いコア世界観で生きて来た人の特徴は何でしょう?それは、負のエネルギーで頑張っているということです。そして、自分が得られなかったものを何とか手に入れようと頑張っています。そのため自分だけではなく、周りの人たちを汚しながら生きています。それは埋め合わせ対象行動であり、「怨念晴し」の世界です。第一の脅迫的信念というテーマを持った人は、行ないにいつも注目します。「まだ不十分だ、まだ足りない。もっと頑張ろう」。これがその人のエネルギーです。教会ではこれを律法主義というのですが、その人が一生懸命やっているので、ダメとは言えないのです。神さまの愛を得るために、貢ぐのはやめましょう。神さまは行いの裏にある動機をご覧になっています。律法学者やパリサイ人は、行いは立派でしたが、動機が汚れていました。では、この人の新しいエネルギーとは何なのでしょう?ローマ8章からの抜粋です。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。…それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。…肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。…肉にある者は神を喜ばせることができません。」解決は御霊、聖霊によって歩むことです。あなたのエネルギーがあなたの肉ではなく、聖霊に切り替わるならば、あなた本来の人になることができます。イエス様は自分の力で何でもできましたが、あえて御父に聞き、聖霊の力によって行動しました。だから律法の罠に陥ることなく、正しい道を歩むことができたのです。この人は元来、真面目で、几帳面なのです。だから、パウロのように神学を組み立て、細かいことができるのです。パウロはどんな困難があっても、あきらめないで、世界の果てまで伝道することができました。あなたには教えや様々な奉仕の賜物があるのではないでしょうか?パウロはあなたにこのように命じています。ローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」

 第二の適合的信念というテーマを持った人です。この人は人の気持ちがよく分かる人です。悪い意味では共依存的ですが、愛情と信頼を何よりも得たい人です。これまでは人に受け入れられるため、認められたいために頑張ってきました。でも、その動機が汚れていたのです。人からの是認ではなく、神さまからの是認を第一に求めるべきです。神さまはイエスさまにおっしゃったように「あなたは、わたしの愛する子、私はあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)とおっしゃっています。もう、イエス様にあってあなたは受け入れられ、認められているのです。「自分が不適合ではないのか」「自分には資格がないのではないだろうか」と悩んできたかもしれません。そうではありません。ヘブル5:5「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」とイエス様と同じように、あなた自身にも資格を与えてくださっています。あなたは、すでに神さまから認められているので、その土台の上に、人と関われば良いのです。あなたは賜物で言うと、分け与える人であり、人の気持ちがよく分る慈善の人ではないでしょうか。パウロはあなたにこのように命じています。ローマ12:15「喜ぶ者といっしょ喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」

 第三支配的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「ちゃんとコントロールできているか」ということに注目します。つまりは、あなたは不条理というコントロールを受けてきました。あなたには正しくコントロールできる力、リーダーシップがあります。しかし、これまでは「自分のことを聞け」「自分のことを聞く人を愛する」という汚れた動機で動いていました。そのため、周りの人はあなたから、「コントロールされている」という汚れを受けて来ました。あなたはそうやって人を操ってきました。だから、「もう結構です」とパペットの糸を切って、離れた人もたくさんいたのです。でも、こんどは違います。なぜなら、支配のトップは主イエス・キリストであると言うことが分かったからです。あなたは、さばきの権威をイエス様に渡しました。あなたのボスはイエス様であり、あなたは彼の子分です。あなたはイエス様の権威のもとで、リーダーシップを発揮すれば良いのです。あなたには管理や指導、勧める賜物があるのではないでしょうか?パウロはあなたにこのように命じています。ローマ12:19「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。さばきを主にゆだねましょう。

 私たちは問題のない家庭で育った人など一人もいません。虐待されたり、粗末にされたり、圧迫を受けながら育てられました。もちろん、愛と養育もたくさん受けて来ました。でも、私たちはアダムの子孫なので、良いことは水に流し、悪いことは石に刻むところがあります。どうしても否定的なこと、被害者的なことの方が核信念にダメージを与えるのです。でも、そこに神さまの御手が伸べられたならば、どうでしょう?すばらしい逆転勝利がもたらされます。あなたをあのような苦しみに置くことは神さまのみこころではありませんでした。しかし、父なる神さまはあなたを見出して、救ってくださいました。その後どうなったでしょう?神さまのあなたに対する人生の計画とはどのようなものなのでしょうか?ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。聖書に出てくる偉大な人物はすべて、この逆転勝利を通過した人たちです。旧約聖書のヨセフは父から溺愛され他の兄弟たちから恨みを買いました。さらに、「父母、兄弟たちが自分を拝んだ」と見た夢を自慢しました。父の使いで出てきたヨセフを捕え、奴隷として売り飛ばしました。父には「ヨセフは獣で裂き殺された」と報告しました。ヨセフはエジプト人の奴隷となって主人の家で真面目に仕えました。ところが主人の妻から濡れ衣を着せられ、地下牢にぶち込まれました。そこでも主が共におられ、監獄の長はすべての囚人をヨセフの手に任せました。ある時、罪を犯した二人の役人が入って来ました。ヨセフは二人が見た夢を解き明かしてあげました。1人は助け出されましたが、ヨセフのことをすっかり忘れました。それから二年後、エジプトのパロ王が不思議な夢を見ましたが、どんな知者も解き明かすことができません。ヨセフが地下牢から呼び出され、パロの夢を解き明かしてあげました。パロ王はとても感激し、ヨセフに指輪を与え、自分の代わりにエジプトを治めてくれるように願いました。夢のとおり飢饉が世界を襲い、カナンに住んでいた兄弟たちが穀物を求めてやってきました。彼らは目の前の宰相がヨセフだとは知りませんでした。ヨセフは兄弟たちを試しましたが、彼らが後悔していることを知り、自分の正体を告げました。ここがすばらしい箇所です。創世記45:5「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」これがdivine destinyです。

 神さまがやがて来る飢饉から家族を救うためにヨセフを前もってエジプトに遣わしていたということです。ヨセフはそのことを悟ったので、兄弟たちに仕返しをしませんでした。まさに、ヨセフの物語は、逆転勝利という神さまのご計画です。何を言いたいかと申しますと、あなたもヨセフのように仕込まれていたということです。なんであんな家庭に生まれたのだろう?なんであんなひどいことをされたのだろう?なんで家には父親がいなかったんだろう。なんで家には母親がいなかったのだろう。なんで家にはお金がなかったんだろう。なんで、だれも私のことを認めてくれなかったのだろう。あなたは「なんで」「なんで」と生きて、欠けているところを必死に埋め合わせて生きてきたのかもしれません。でも、父なる神さまが「その中であなたを仕込んでいた」と考えることはできないでしょうか?あなたは逆転勝利したあと、このように言うでしょう。「ああ、あのことがあってよかったんだ」「ああ、あのことがあったので今日があるんだ」「ああ、あのことがあるのでこのように用いられているんだ」。これまでの負の財産が、プラスの財産になった瞬間です。それでも、あなたが、怨念晴らしで負のエネルギーで生きていくなら、最後は破滅です。たとい、あなたの正義を通し、あなたの行いを通し、あなたの存在を通しても、動機が汚れているなら、最後は倒れます。これまでそういう政治家がたくさんいました。最近は事務次官たちもいらっしゃいます。東大の法学部を出て、エリートコースまっしぐら、でも、最後にひっくりかえってしまいました。やっていることは正しそう見えても、動機が間違っていたのです。ヤコブ1:20「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあるとおりです。私たちはたとえ正しいことをしていても、動機がきよめられる必要があります。それは、言い換えるとエネルギーを変えるということです。怒りや憎しみ、「今に見ていろ!」ではなく、神さまの満たされたところから来るエネルギーです。神さまの愛と赦しと受け入れから来るものです。自分のがんばりや肉の力ではなく、聖霊からくるものです。パウロが手紙の最後に「どうか恵みがあなたがたと共にあるように」と祈っているとおりです。

 最後に私たちは自分の世界を全うする必要があります。今までは不完全で、悪いものを出す核信念、コア世界観でした。でも、主にあって新しい核信念、新しいコア世界観をいただくことができました。これからはそれを完成していかなればなりません。最初に読んだローマ12章を見ますと、たびたび出てくることばがあります。「自分に与えられた恵み」「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」「与えられた恵みに従って」共通していることは、それぞれ与えられた恵みがあるということです。言い換えると、それぞれ与えられた世界観があるということです。キリストのからだなる教会において、私たちはそれぞれの器官であります。ひとり一人違いますが、キリストのからだにつながることにより、すばらしい役割を果たすことができます。一見、寄せ集めのような感じがしますが、そうではなく、神さまのご計画で私たちは召されました。ひとり一人に賜物と召命があります。ひとり一人に神さまが果たしてもらいたい、divine destinyがあります。私たちのゴールは自分の世界を全うし、神さまが与えたdivine destinyを果たすことにあります。「自分の賜物と召命は何なのだろう?」とよく分からない人がいるかもしれません。でも、ローマ12章は「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と命じています。あなた自身を神さまにささげ、キリストのからだにつながるとき、「ああ、私の賜物と召命はこれだ」と分かるのではないでしょうか?みなさんが、主にあって、逆転勝利の道を歩み、ご自分の世界を全うすることを願います。