2018.9.2「機会を逃さない 伝道者の書9:11」

 私たちは日常生活において「チャンスをつかんだとか、逃した」とか言います。「聖書にそういう表現があるのだろうか?」と思うかもしれませんが、あります。でも、この世の人たちが考えるような、無情で気まぐれな存在ではありません。もし、私たちがチャンスに対して、日ごろから正しい姿勢を持っているなら、つかまえることができるでしょう。箴言に「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」(箴言19:24)とあります。チャンスもそれと同じで、なまけ者でない限りは、だれでもつかめるようになっているのです。

1.時と機会

 時と機会は神さまからの賜物です。伝道者9:11後半に「すべての人が時と機会に出会うからだ」と書いてあるからです。すばらしいことに、神さまはすべての人に時と機会を与えておられます。伝道者の書には「時と機会をつかむことが何よりも勝る」と書いてあります。第一は競争です。私たちは、競争は足の早い人が勝つに決まっていると思っています。人ではなく、馬にたとえてみましょう。私は競馬はやりませんが、レースの前に人々が「この馬が勝つんじゃないだろうか」と予想して賭けます。一番人気とか、二番人気があります。もちろん血筋が良くて、実力のある馬が勝つ確率は大です。でも、実際のレースはどうなるか分かりません。馬場の状況とか、コース取りで、予想外の馬が一着になったりします。「勝負は時の運」と言います。でも、騎手は「馬の特質を知って、ここぞという時にしかけたら勝てた」と言うでしょう。第二は戦いです。旧約聖書には、勇士たちが登場しますが、意外な人が勝ったりします。少年ダビデは3メートルもある戦士ゴリアテに勝利しました。一番弱い部族の一人と言われたギデオンがアマレクに勝利しました。主が彼らと共にいたので、勝利する道を与えました。第三はパンです。パンは生きる糧であり、生活必需品の代表です。パンを得るためには知恵も必要ですが、時と機会に出会った人の方が有利です。Ⅱ列王記7章には、お腹を空かした4人のらい病人が出てきます。彼らは「どうせ、ここに座っていても死ぬんだから」とアラムの陣営に近づきました。主がアラムに戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、兵士はいのちからがら逃げ去りました。だれもいないので、彼ら4人は労せずして、たらふく食べたり飲んだりすることができました。さらには、富は悟りある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでないと続きます。まとめると、競争、戦い、パン、富、愛顧は時と機会に出会うことの方が、能力のすぐれた人たちよりもまさるということでした。

 神さまはすべての人に、時と機会を与えておられます。問題は、私たちがそれを捕まえて、活かすことができるかということです。なまけ者のように、ただ口を開けて待っているだけではダメです。皿にもられたなら、口にもっていかなければなりません。私は8人兄弟の7番目だったので、ゆっくり食べられませんでした。すぐ上の兄は体力と運動神経が抜群で、いっぱい食べます。ぼやっとしていると、自分の分がなくなります。だから、噛まないうちに、他のおかずを口に入れます。そこへ行くと、長男や一人っ子は、のんびりしています。自分の分がちゃんとあるのであわてることがありません。私はとてもせっかちです。一番良いときにつかめば良いのですが、まだ早いのに、手を出して失敗します。最善の時を待つことができません。なぜなら、「そういうことは、もう二度と来ないんじゃないか?」と言う焦りがあるからです。後から「ああ、もうちょっと待っていれば良かった。チックショウ!」と後悔します。昔、テレビで「底抜け脱線ゲーム」というのがありました。先端に針がついている模型の列車が円形の線路をぐるぐる走っています。そして、線路の途中に風船が1個置いてあります。プレイヤーは離れたところでパズルを解くのですが、列車が通過する前に風船を持ち上げなければ、風船が割れてしまい、ゲームオーバーになります。ずーと、そこで風船の番をしているなら、パズルは解けません。列車が来ない、わずかな間に、そこを離れて作業しなければなりません。そのゲームは、集中力とタイミングの勝負でした。私はハラハラ、ドキドキしながら見ていました。私たちの人生においても、良い時と良い機会に出会ったときに、全力を注がなければなりません。

 神さまはだれにも時と機会を与えてくださいます。「だれにでも」ですから、神さまの一般恩寵と言えるでしょう。日本では豊臣秀吉、徳川家康、二宮尊徳、野口英雄、田中角栄などが、時と機会をつかんで出世した人と考えられています。海外では、コロンブス、ロックフェラー、オードリー・ヘップバーン、ビートルズでしょうか?もっと相応しい人がいるでしょうが、私の偏見が入っていました。アメリカ西部のテキサス州にエイツプールという油田があります。これは実際にあった話です。本来ここは、エイツという人の所有地でした。エイツという人は貧しい人で、国から生活保護を受けていました。毎日のように彼は羊の世話をしながら、どうしたら借金を返すことができるかと考えていました。そんなある日、石油会社の専門家がその辺りを地質調査したところ、必ずここには油田があると告げました。その会社が油田の試掘を求めた時、彼は試掘に同意しました。結果、地下1,115フィートから毎日16万バレルもの石油が湧き出ました。30年後、政府がその中の1つを調べたところ、まだ毎日12万5千バレルもの石油が湧き出ていたそうです。彼はもちろん億万長者になりました。国からも多くの賞をいただき、多くの良い働きをしました。実は、エイツは初めからこの土地を全て所有していました。その牧場を買ったときから、彼は全てを所有していたのです。では、なぜ彼は貧しくて、不幸で力のない生活をしなければならなかったのでしょう。それは彼がその事実を知らなかった事と、無限の油田を発掘しなかったからです。彼がチャンスをつかんだのは、油田の試掘に同意したことです。

アンドリュー・カーネギーのことばです。「チャンスに出会わない人間は一人もいない。それをチャンスにできなかっただけである。」サーファーたちから学ぶことがあります。私たちはリバイバルの波を起こすことはできません。波を起こしてくださるのは神さまだけです。私たちができることはその波をとらえ、できるだけ長く波に乗り続けていることです。波が来たら乗るのです。

2.投資の勧め

投資といっても、株を買うということではありません。投資は英語で、investmentですが、「時間や精力などを投じる」という意味もあります。私たちはどれが一番良い時なのか人間なのでわかりません。重要なのは、チャンスが来たとき、つかまえる力がなければなりません。広島の植竹牧師は「チャンスの神さまはキューピーちゃんのようである」と言われました。キューピーちゃんはご存じのとおり素っ裸の赤ん坊です。そして、前髪がちょっとだけついています。チャンスの神さまキューピーちゃんが向こうから走ってきました。とても速いスピードで、目の前を通過していきます。「今だ」と思って、つかまえようとするのですが、少しでも遅いと「つるん」とすべってしまいます。キューピーちゃんは何も着ていないからです。タイミングが重要です。向こうから来たなと分かったなら、「きゅっ」と前髪をつかまえるのです。そうすれば、チャンスをものにすることができます。タイミングとつかまえる力が要求されます。広島の植竹牧師のお嬢さんは、高校生の時からパイプ・オルガンを弾いていました。ある時、ヨーロッパから有名なオルガニストが広島の町に来たそうです。詳しいことは忘れましたが、その方との出会いによって、ヨーロッパに留学できたそうです。プロフィールによると、エリザベト音楽大学、ドイツ・ウエストフアーレン州立教会音楽大学、オーストリア・ウィーン国立音楽大学の各校を卒業されました。現在は広島キリスト教会の主任牧師、教会音楽師です。彼女はある程度の実力があったので、みそめられたのです。しかし、チャンスを与えたのは神さまです。Orchestrateということばの意味をご存じでしょうか?いわゆる音楽のオーケストラの動詞形です。Orchestrateは「ひそかに計画する、画策する」という意味です。全能なる神さまがチャンスがめぐって来るように、配剤しておられるとは何とすばらしいことでしょう。

伝道者の書を書いた人はイスラエルのソロモン王であると言われています。ソロモンは交易によって国を繁栄させました。彼はツロの王ヒラムとパートナーを組みました。ツロは小さな海洋都市でありながらも、巨大な富による繁栄を誇っていました。 ツロと組んでシドン、西のタルシシュ、南のエジプトを初めとする諸国と通商関係を結び、原料を輸入してはそれを加工して製品化してそれを輸出しました。特に、陶器、銀細工は優れていました。ヒラムは優れた杉材を神殿や王宮の建築材として提供してくれました。ソロモンの投資の精神をほうふつさせるようなみことばがあります。伝道者の書11章です。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(伝道者の書11:1-6)。

 この箇所は、どのようにしてチャンス(好機)を捕えたら良いのか私たち教えてくれます。「あなたのパンを水の上に投げよ、ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」というのはまさしく投資です。これは1つの説です。ナイル川が氾濫すると、上流から肥沃な土が運ばれてきます。水がまだひき切っていない内に種を蒔くのが良いそうです。でも、さながら、水の上に投げるような危ない行為です。もしかしたら、種が流されてしまうかもしれません。でも、後の日にすばらしい収穫を得るための投資であります。また「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」と書いてあります。これは、慎重し過ぎる人のことを言っています。株をやっている人はしょっちゅうグラフを見ています。おそらく、プロの人はデーターがどうのこうのではなく、最後は自分の感を信じているのではないでしょうか。最後の「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」というのは白いですね。競馬で言うと、「抑え馬券」でしょうか?もし、本命が来ない場合の抑えです。しかし、専門家に言わせると、「これは絶対やってはいけない」ということです。でも、伝道者の書の記者は、1回だけでなく、複数回、いろいろ投資しなさい。「あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」と言っています。ギャンブルのことを教えているのでないでしょう。私たちの力の向け方、力の注ぎ方であります。

 成功している人は、自分の専門だけではなく、まったく別なことも手掛けています。Ⅹジャパンのヨシキは、アメリカで音楽活動をしていますが、オリジナル・ワインも作っています。しかし、芸能人は慣れないことをやって失敗しているのも事実です。テレビのコマーシャルでよく見ますが、「サントリー」とか「味の素」など全く別なものを作っています。何かを作っている過程で、副産物を発見し、それが当たる場合もあるようです。私たちの人生、信仰生活にどのように適用できるのでしょうか?私たちのほとんどは、仕事をして糧を得ています。それは、職業といえるでしょう。では、神さまに対する奉仕はどうでしょうか?教会内ですることもあるし、世の中に出て行くこともあります。ほとんどがお金が目的ではなく、神さまと人々に対する奉仕です。でも、これは御国の投資と考えることはできないでしょうか?もし、糧を得るための仕事しかしないのなら、多くの賜物や才能が埋もれたままになるでしょう。神さまはどんな人にも時と機会、さらには成し得る賜物や才能も与えておられます。聖書にタラントのたとえがありますが、5タラントと2タラントを預けられたしもべはすぐに行って商売をして、もうけました。1タラントのしもべは地を掘って隠したので、あとから主人にしこたま怒られました。私たちは神さまから与えられたものを用いなければなりません。私たちが行ったこと、ささげたものが、御国へのすばらしい投資であると考えるべきです。天国投資ですから、いずれは私たちのものになります。

3.機会を生かして用いる

新約聖書にも伝道者の書と似たような聖句があります。エペソ5:15-16「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」日本語の「機会」はギリシャ語では、カイロスです。時間の流れを表わすことばはクロノスですが、カイロスはそうではありません。辞書には「ちょうど良い時、都合の良い時、適当な時、好機、機会」と書いてありました。おそらく、カイロスは伝道者の書がいう「時と機会」ではないかと思います。しかし、テサロニケ5章を見ると、とても面白い表現に遭遇します。日本語聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」と書いてあります。「アーメン、もっともなことだなー」と思います。でも、原文はいささか違います。なんと「機会を贖いなさい」と書かれています。贖うとは、お金を出して買い戻すと言う意味です。イエス様が私たちを罪から贖ってくださったことばと同じです。おそらく、これを書いたパウロは、「機会というのはそれほど価値があるものであり、ただじゃないんだ」と言いたいのでしょう。確かに、一度過ぎ去った機会を取り返すというのは、不可能です。だから、「お金を出してでも、買い戻しなさい」というのも分かります。使徒パウロの生涯を考えるとき、パウロは機会を逃したこともあれば、しっかりつかんだことのもある人物でしょう。パウロが小アジアに伝道に行こうとしたとき、御霊によって禁じられました。伝道はイエス様の至上命令であり、おかしなことです。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願していました。現代、自分が属している教団にこんなことを言ったら、気がおかしいと相手にされないでしょう。ところが、使徒16:10「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」ここから、ヨーロッパ伝道がはじまったのです。パウロは機会を逃さないで、ヨーロッパに渡り伝道しに行きました。

機会はお金で買い戻さなければならないくらい、貴重なものだということです。でも、良い機会を捕えることを邪魔するものがあります。パウロは「悪い時代だから」と言っています。時代は、「日々」daysです。これは、神さまから離れている人たちの生活ぶりを表現していることばです。この世の人たちは、時間と富を浪費しています。神さまから与えられているなどとは全く考えていません。ルカ15章の放蕩息子のような生き方をしています。放蕩息子は、父親の財産、若さを浪費していました。その国に大飢饉が襲い、食べるものにも困り、最後は豚の世話をしました。豚はユダヤ人にとっては汚れた動物でした。彼はいわば身を持ち崩した人物の象徴です。まさしく現代の若者たちは、放蕩息子のように過ごしているのではないでしょうか?伝道者の書11章に「若さも、青春も、むなしい」と書かれています。何か言ったら、「構わないでくれ!私の人生だから」と文句を言われるでしょう。年取ってからやっと気づくのです。私が建設会社で仕事をしていた頃です。現場の先輩たちは、仕事が終わると飲みにいくか、麻雀をするかどちらかでした。みんな一流の大学を出ている人たちで、「もう勉強なんかしなくて良い」と思っていたのでしょう。私も多少遊びましたが、コツコツと英語を勉強していました。何故、私が英語を勉強したか2つの理由があります。1つは先輩の一人が軍事マニアでした。彼が新しい英語の辞書を買ったので、一版古い研究社の辞書を半額で譲ってくれました。私はそれを用いて、ラジオ英会話のテキストを買って勉強しました。もう1つは宇都宮に出かけたとき、キャッチに会い20数万円のカセットテープ付の英語教材を買ってしまったことです。あの頃から、断れない性分だったんですね。それで、元を取るためにコツコツと勉強しました。いずれは、土木現場をやめて、英語事務か通訳の仕事をしたいと思っていました。23歳のときに退職し、厚木の小さな貿易会社に入ることができました。その会社の上司がクリスチャンで、伝道されて、やがては牧師になりました。現在英語の仕事はしていませんが、とても役立っています。私の運命を変えたのは、英語の辞書であり、小さな貿易会社への転職でした。今、思えば、神さまのOrchestrateであり、「私は時と機会を捕えることができたんだなー」と思います。

 みなさんの中にも、「あのときが私の転機であった」ということがあると思います。「うまくいった」と感謝することあれば、「ああ、しくじったなー」と後悔することもあるでしょう。確かに、ワンチャンスしかないときもあります。でも、私たちの神さまはOrchestrateの神さまですから、「遅すぎる」ということはありません。なぜなら、まだ天国に召されていないからです。まだ、生きているのですからチャンスは巡ってくると信じます。確かに、一度過ぎ去った機会を取り返すというのは難しいでしょう。でも、放蕩息子のたとえには続きがあります。彼が我に返って、父のところに戻りました。なんと、父は彼を無条件に受け入れてくれたではありませんか。父は息子に、一番良い着物を着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてくれました。これら3つは、義の衣、息子としての権威、もう奴隷ではないということを象徴しています。私たちの神さまは回復の神さまです。柏に「人生やりなおし道場」という名前の教会があります。これはもとヤクザの鈴木啓之先生が牧会している教会です。ある人が、「土地と建物を伝道のために使ってください」と捧げてくれたそうです。その人は、御国のために投資してくださったんですね。私たちの神さまは、時と機会を買い戻してくださる神さまです。だから、ワンチャンスだけではなく、セカンドチャンス、サードチャンスも与えてくださいます。よく芸能人が再起不能なようなスキャンダルを起こして消えて行きます。もちろん戻って来る人もいますが、ああいう人たちは、イメージが勝負なので、元通りと言う訳にはいかないでしょう。極論ではありますが、もし、彼らが救い主イエス・キリストに出会ったなら、元を取れるのではないかと思います。スキャンダルを起こしたお蔭で、イエス様に出会って永遠を手に入れたら勝ち得て余りある人生ではないでしょうか?私たちクリスチャンもこの世において、「まずいこともあったなー」と顔を赤らめることが1つや2つはあるでしょう。でも、イエス様と出会って、永遠を手に入れたのですから、勝ち得て余りある人生です。あのようなマイナスがあって、むしろ良かったのです。