2018.9.23「神との平和 ローマ5:1-2」

 平和と和解は、姉妹みたいな関係です。なぜなら、平和と和解も女性名詞だからです。でも厳密に言うなら、和解が先で、平和はその結果と言えるでしょう。パウロはローマ5:1「神との平和を持っている」と言っています。そして、ローマ5:10「御子の死によって神と和解させられたのなら」と平和が与えられた根拠について述べています。しかし、聖書においては、平和と和解は互いに言い換えることのできることばではないかと思います。ですから、「神との平和」と言ったとしても、頭の中では「神との和解」と入れ替えて理解して下さったら有り難いです。

 

1.神との平和

 

 使徒パウロはⅡコリント5章で「神の和解を受け入れなさい」と命じています。しかし、これは命令ではなく、「和解を受け入れてください」という懇願です。私たちは、以前は神さまと敵対関係にありました。エペソ2章には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)と書かれています。これは、「私たちが生まれながら怒りっぽかった」という意味ではありません。確かにそういう人もいますが、そうではなく、神から怒りを受ける対象であったということです。このようなことばを聞くと「いや、そうじゃないでしょう。神さまは愛なんじゃないですか?」と反論するかもしれません。キリスト教会では「罪」を除外して、神さまの愛だけを説くところもあるかもしれません。それはヒューマニズムの宗教であり、万人救済主義になる恐れがあります。ある人たちは「愛なる神は地獄を作らない」と主張しています。私たちは聖書から「神の義」と「人間の罪」という二つのことを明確に知らなければなりません。この二つは、絶対に交わることのできないものです。結論から言うと、神の義が満たされない限りは、神との平和はありえないということです。

 パウロはローマ5:1にくるまで、ローマ1章、2章、3章と人間の生まれながらの罪について語っています。そして、「ユダヤ人は律法を持っていると誇っているが守っていない」と言っています。ローマ3章では「義人はいない、ひとりもいない。…すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」と言っています。つまり、律法のもとではだれひとり、神さまの前では義と認められず、断罪されるということです。人は、このダークな部分を知らないと、救いの喜びも分かりません。「救い」を端的に言うなら、「もう、神さまにさばかれない。地獄に落とされない」ということです。私たちは旧約聖書の、特に民数記を読むと躓くかもしれません。なぜなら、そこには神が愛ではなく、罪をさばく厳しいお方として記されているからです。イスラエルは神さまから選ばれた民ですから、私たちには反面教師的な存在です。彼らは神さまに何度も背きました。もし、私たちがあの時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。でも、私たちには福音があります。ローマ3:21-24「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」アーメン。これこそが福音です。ある人たちは、「ただ、信じるだけで救われて良いのか?行いも必要ではないだろうか?」と反論します。しかし、それは神の恵みを知らない人たちです。ガラテヤ3:10「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。…すべてのことを守らなければ、だれでものろわれる」とあります。律法は100%の正しさ、義を要求します。生身の人間が、神に受け入れられようと、律法を行なうことは絶対不可能です。学校のテストで毎回100点取れないのと同じです。私たちが救われるためには、律法の行いではなく、信仰による神の恵みしかないのです。もし、「救われるために行ないも必要だ」という人がいるならば、それはイエス・キリストの十字架の贖いを否定する人たちです。パウロは「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を表わすためです」(ローマ3:25)と言いました。これは、イエス・キリストが私たちの代わりに罪を負われたので、神さまの私たちに対する罪がなだめられたということです。このことは、私たち人間が願ったのではありません。父なる神さまがひとり子、イエスをこの世に送り、御子イエスに全人類の罪を負わせ、御子イエスを代わりにさばいたということです。それで、神さまは、御子イエスを信じる者にご自分の義を与えると約束されました。それが信仰による義です。

 高い建物の上には必ず避雷針があります。これまで日本の神社仏閣が火災にあったのは、避雷針がなかったからです。避雷針はベンジャミン・フランクリンが発案したと言われています。教会には十字架が立っていますが、それは罪から私たちを守る避雷針を象徴しています。もし、十字架がなければ、私たちは断罪されて、地獄に落とされるしかありません。民数記の人たちは、神に逆らったので、「地面がその口を開き、生きながら陰府に落とされました」(民数記16:30-33)。私たちも十字架の贖いがなければ、同じような運命をたどっていたことでしょう。私たちは「イエス様のお名前によって」と祈ります。まさしく、イエス様のお名前は、罪を取り除いて下さり、父なる神さまの間近に行くことができるのです。聖書に「和解」ということばがあります。「和解する」はギリシャ語でカタラッソーです。しかし、元の意味は「変える」です。では、何が変えられるのでしょうか?高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本でこう述べています。「神は決して変わることのないお方であるから、変えられるのは、神の前における人間の立場である。神は、キリストの十字架によって、神の前における人間の立場を変えてくださり、それとともに人間をそれ以前とは違った見方で見られる。すなわち、もはやわれわれを単に呪いのもとにある者として見られるのではなく、われわれに平和を宣言しておられるのである」。アーメン。私たちはキリストによって実現された和解のゆえに、未信者に対して、「神さまはあなたを責めたり、罰したりしようとしておられるのではなく、和解の手を差し伸べておられるのです」と言うことができるのです。信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っています。

 

2.自分との平和

 

 「自分との平和」「自分との和解」と言う表現は奇妙に聞こえるかもしれません。ユダヤ人には罪を告発する律法がありました。しかし、私たち異邦人には、律法と言う絶対的なものがありません。もちろん、日本にも法律がありますが、小さな子どもたちにとって、親や学校の教師の言うことが律法になります。「〇〇してはいけない」「〇〇しなさい」と小さいときから教えられます。ところが、人間は元来、罪人なので、親や教師は子どもの存在を壊すような言い方をします。「人の迷惑にならないように」「人に笑われないように」と注意します。「馬鹿、そんなことが分からないのか」「能無し」「不器用」「情けない」「死ね」…悪いことばを浴びせられて育ちます。親や教師が責めた言葉が、いつの間にか自分を責めることばになります。「こんなことができないのか?私はダメだなー」「私は何をやっても満足にできない」「どうせ私はできそこないなんだ」「そんなことは私には似合わない」と自分を卑下するようになります。それらのことばは、もともと他の人が自分に対して発していたことばなのですが、いつの間にか、自分を責めることばになっています。そして、何か失敗したときに、自分の頭を叩いたりします。私も昔は自分の頭や顔をたたいていました。もう一人の自分がいて、失敗した自分を責めているのです。まるで、分裂状態です。そういう声が度々聞こえて、学校のときは作文や絵画、図面など時間内に提出したことがありません。親や先生から「集中力がない」と良く言われましたが、内部が分裂しているので、集中できるわけがありません。今、思えば、軽度の統合失調症あるいは、人格が乖離していたのかもしれません。

 私がこんなことを言うと変に聞こえるでしょうか?でも、みなさんに質問します。「あなたは自分が好きでしょうか?」「あなたは自分を信頼しているでしょうか?」「あなたは自分を誇りに思っているでしょうか」「あなたは自分を極度に責めることはないでしょうか?」…いくつか当たっているのではないでしょうか?「自分へのご褒美」ということばを聞いたことがありますが、これは、自分を責めることの反対なのではないでしょうか?「自分へのご褒美」と言うならば、「自分へのこらしめ」ということもありえるでしょう。つまり、自分と自分が分裂しているということです。イエス様が福音書で「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」(ルカ11:17)と言われました。もしかしたら、自分を責めている声というのは、自分ではなくて、サタンの手下なのかもしれません。なぜなら、黙示録には「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神のみ前で訴えている者」(黙示録12:10)と言われているからです。英語の聖書にはaccuser 「告発者」「非難者」と書かれています。つまり、私たちの内部に非難する者が同居していたなら、どうなるでしょう?また、ある人たちは罪責感や罪悪感にさいなまれています。自分が過去に犯した失敗や罪が自分を責めるのです。「イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださった」と聞いたとき、すべてが消え去ったでしょうか?「子よ、あなたの罪は赦されました」と宣言されたとき、告発者はあなたから離れ去ったでしょうか?もしかしたら、たまに訴えられているのではないでしょうか?その度に、「自分は幸せになってはいけない。罰を受けるのが当然である」と考えているなら、完全に欺かれています。

 イザヤ61:1b-3「捕らわれた人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべて悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けされるため」とあります。「捕らわれた人」というのは、「強い者によって虐待されてそうなった人」です。英語の聖書はoppress「圧迫される」とかafflict「苦しめられる、悩ます」ということばです。簡単に言うと犠牲者です。一方「囚人」とは自分が犯した罪や失敗によって、監獄に閉じ込められている人です。囚われた原因が自分にもあるということです。どちらにしても、幸福な状態ではありません。どちらにしても、自分を愛し、自分を敬い、自分との平和を持っているとは思えません。でも、イエス様は私たちを解放するためにやってこられたのです。「もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」(ルカ11:22)。かつてはサタンに囚われていましたが、イエス様がサタンのかしらを打ち砕き、私たちを解放してくださったのです。言い換えると、私たちの罪を赦し、私たちを牢獄から救い出し、愛する御子のご支配の中に移してくださったのです。ハレルヤ!もし、まだ、あなたの良心が、あなたを訴えるなら、それは間違った邪悪な良心です。ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。アーメン。

 最後は自分自身と和解する必要があります。これは私の経験ですが、私はクリスチャンなってしばらくたってから、自分を愛し、自分を赦し、自分を受け入れました。何故かと言うと、聖書に「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と書かれているからです。それでどうなったかと言うと、自分を訴える者がいなくなりました。正確には言えませんが、自分と自分が和解して、1つになりました。これまでは自分が分裂状態で、集中力が全くありませんでした。でも、自分と自分が1つになったので、自分の中に争いがなくなり、調和がやってきました。英語で表現するなら2つのことばがあります。1つはfusion「融合」です。もう1つはintegrate「統合」です。自分と自分が融合し、統合したということです。それ以来、自分を責めたり、卑下する自分はいません。逆に、自分を励まし、自分を助ける自分になりました。それ以来、私はとても集中力がつき、神からの知恵を完全に受け取ることができるようになりました。自慢のように聞こえるかもしれませんが、私の賜物の1つは「知恵のことば」です。私がこうやって説教できるのは神の知恵です。私のことはともかく、みなさんも思い当たるふしがあるなら、自分と和解してください。キリストの平和がまず、あなたの心を支配しますように。イエス様の愛と赦しと受け入れを、まずあなた自身が受け取ってください。御国があなた自身に来ますように。あなたには無尽蔵の富と力を持っておられる神さまが共におられます。アーメン。

 

3.人との平和

 

 イエス様は山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)と言われました。平和を作る者となるためには、2つのことが前提になければなりません。第一は神との平和、第二は自分との平和です。自分の中に怒りが満ちている人がどうして平和を作ることができるでしょう。世の中にはたくさんの平和運動のグループがあります。でも、どういう訳なのか、彼ら同士が争っています。イデオロギーの違いと言えばそれまでですが、自分たちの中に聖書が言う「平和」がないのかもしれません。聖書が言う「平和」とは戦争がないことではありません。ビートルズは戦争のない平和を願うような歌をたくさん歌いました。悪くはないと思いますが、戦争を起こすのは私たちの内側に罪があるからです。貪欲や妬み、敵対心の大きくなったものが戦争です。ですから、いきなり国家間の平和ではなく、隣人との平和から始めなければなりません。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ19:19)と言われました。中には、「世界の人は愛することはできますが、隣りのオヤジが憎い」という人がいます。遠くの人は案外、愛せます。問題は毎日、顔を合わせている隣人なのです。何故、私たちは隣人と仲良くできないのでしょうか?もちろん、仲良くできる人もいます。でも、顔を見たくないほど、険悪な状態になる人だっています。何故、私たちは人と争ってしまうのでしょうか?

 エペソ2:14-16「 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」文脈はユダヤ人と異邦人間にある敵意のことが書かれています。でも、これは私たち人間が生まれながら持っている「敵意」と解釈することも可能です。なぜなら、アダムとエバに罪が入ったとたんに「敵意」がやってきたからです。神である主はエバに「あなたは夫を恋い慕うが、「彼はあなたを支配することになる」(創世記3:16)と言われました。これは夫婦間にある軋轢です。創世記4章では、カインが弟アベルをねたみのゆえに殺してしまいました。さらに、カインの子孫、レメクは「私は77倍の復讐をする」と言いました。そして、争いは民族間、国家間と広がって行きました。人間はだれから教えられなくても人と争い、さらには殺人まで犯してしまう存在なのです。なぜなら、アダム以来、「敵意」という罪がやどっているからです。イエス・キリストは私たちが生まれながら持っている敵意を廃棄するために来られました。パウロは「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」と言いました。アーメン、キリストの十字架によって、私たち敵意が葬りされられたのです。

 神さまがその次になさってくださったことは、聖霊による生まれ変わりであります。神から生まれた者は神の種がやどっています。だから、兄弟を愛するということが当たり前になったのです。Ⅰヨハネ3:14「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」ヨハネは神を愛する者は、兄弟をも愛することが当然であると言っています。ヨハネは「古い戒め」をこんどは「新しい戒め」に直しました。「古い戒め」にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(レビ記19:18)とありました。でも、それは正しい戒めではありましたが、実行する力がありませんでした。なぜなら、私たちの内にアダム以来の罪があるからです。でも、イエス様は十字架にかかり罪を赦し、罪の力を打ち砕いてくださったのです。そして、神のいのちである、聖霊を私たちに送ってくださいました。古い戒めがキリストの贖いによって、新しい戒めになりました。もう、実行不可能な命令ではなく、私たちの内におられる神のいのち、聖霊がそのことを実行させてくださるのです。Ⅰヨハネ3:23「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」アーメン。ヨハネは数えきれない律法をたった2つにまとめました。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。この2つの命令こそが、新約の時代に住む私たちへの命令なのです。ハレルヤ!

 世の中にはたくさんの法律やきまりがあります。学校には校則、会社にはコンプライアンス、車を運転していると道路交通法、商売している人には商法があります。法律やきまりにがんじがらめになっています。それらは全部、外側から人間に与えている戒めです。残念ながら、効力がありません。なぜなら、生まれながらの人間には罪があり、律法を守れないからです。もちろん、人と争い、やがてそれが国家間の戦争にまで発展します。しかし、神さまのやり方はこの世の方法とは全く違います。私たちを聖霊によって生まれ変えさせ、平和の人、愛の人にするということです。神のいのち、聖霊は外側からではなく、私たちの内側に働き、内側からあふれてくるのです。平和のヘブライ語はシャロームです。これは戦争がないという単なる平和ではありません。神の力と生命にあふれた動的な状態を言います。子どもの頃、コマを回したことがあるでしょう。コマが高回転で回っています。じっとして止まっているように見えます。でも、それは力に満たされた状態です。これが平和です。イエス様が私たちに「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)と言われました。これは私たちの中に既に「神との平和」が宿っているので、この世に向かって平和を作ることができるという意味です。私たちは神との平和を持っています。私たちは自分自身との平和を持っています。そして、私たちはこの世に向かって平和を作り出すことのできる神の子どもです。アーメン。