2018.9.30「~ミカ書に見る希望~」

◆聖書箇所: ミカ書7章5-10

7:5

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。

7:6

息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。

7:7

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8

私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

7:9

私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

7:10

それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。

 

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昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」と続きましたので、今回は6番目の小預言書にあたる「ミカ書」の一書説教です。

 

ミカ書は、印象が薄い方もいらっしゃるかもしれませんが、イザヤ書と共通する内容をもった預言書です。

66章からなる実に壮大なイザヤ書の内容を、7章にコンパクトにまとめたような預言書とも言えます。その預言の中には、ミカ書にしか書かれていないイエス様の降誕に関係する記述がありますし、終末に向かうこの世界において、私たちがどのように生きるべきかという神様の御言葉を伝えています。

 

NHKで最近人気が出てきた、「チコちゃんに叱られる!」というクイズバラエティー番組をご存知でしょうか?

5歳児のチコちゃん(体は着ぐるみ、顔はCG、声は木村祐一)が、ゲストに「ポン酢のポンって何?」などの、日頃あまり考えたことがない目線からの素朴な疑問を、クイズにして投げかけます。

 

そのクイズにゲストがうまく答えられないと、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」っと、チコちゃんに叱られてしまうわけです。(チコちゃんは5歳児だけど、とても物知りで何でも知っています。・・・っという設定です。)

 

ある時、「大人になるとあっという間に1年が過ぎるのはなぜ?」っと、チコちゃんがクイズを出しました。

確かに私も、子どもの頃は1年が長かったけれど、年を重ねるごとに月日の流れをあっという間に感じていました。時々、30年前のことを20年前とか言ってしまうことがありますが、みなさんはいかがですか?

 

このクイズの答えは、「人生にトキメキがなくなったから。」でした。

専門家の解説によると、「時間の感じ方には心がどの位動いているかが重要」らしく、言い変えると、「トキメキをどのくらい感じるかで変わる」そうです。

 

例えば食事をするときにも、子どものころはいろいろな感情が生まれてきます。

子どもの場合、「あ、今日のごはんはハンバーグだ!どんな味かなー。美味しい!どうやって作るんだろう?あ、ニンジンが星形に切ってあるー。わぁーポテトサラダ大好きーー。」っとトキメキがいっぱいです。

 

反対に大人の場合は、「今日はハンバーグか・・・。」っと、ただ黙々と食事をするだけの作業になってしまってトキメキはありません。

 

また、子どもに「昨日は何をしましたか?」と質問すると、それはそれは色んな話題が出てきます。

でも大人は考え込まないと思い出せない。もし、トキメキがあったなら思い出せるのではないかと思います。

 

トキメキは大事ですね!ですから私を含めみなさんも、聖書の御言葉をトキメキをもって受け取ることができたなら、しっかり心に入るのではないかと思います。同じ時間の流れでも、いつも神様の御言葉に心ときめいているならば、さらに喜び、祈り、感謝が増して、一日一日が印象深く輝くのではないかと思う次第です。

 

というわけで、本日はミカ書から3箇所、トキメキの箇所をご紹介したいと思います。

 

◆ミカ書からトキメキをいただきましょう。

①ベツレヘムからイスラエルの支配者が出るという預言。 (5章2節)

 

まずミカという預言者についてです。

<ミカ1:1 >

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ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。

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聖書にはミカという名前の人物は何人か出てきますが、この預言者ミカについては、この1章1節に書かれている情報しかありません。「ミカ」という名前の意味は、「誰が主のようであるのか」です。

ミカはユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の人なので、紀元前8世紀-7世紀くらいに生きた人だと思われます。預言者イザヤとかホセアと同時代の人です。

おそらく、722年のサマリヤ陥落、北イスラエル王国の滅亡も見たのではないかと思われます。

 

ミカは、エルサレムの南西30-40kmの位置にある小さな農村、「モレシェテ・ガデ」の出身です。

このような小さな村の出身ではありますが、ミカの預言は冒頭にもお話したように、預言者イザヤにも勝るとも劣らない文才があります。

 

  • 1章から順に見て行きましょう。

ミカ書の1章は、北イスラエル王国の首都サマリヤと、南ユダ王国の首都エルサレムへのさばきの警告です。この時代は、両王国ともそれなりに栄えていました。

しかし両王国とも、自分の国を守るために、エジプトなどの諸外国と手を組んだりしているうちに、偶像崇拝を平然と行なうようになりました。

 

主は、そのようなサマリヤとエルサレムに対して怒りを燃やされました。

主は皮肉にも、偶像崇拝のきっかけとなったその諸外国からの攻撃、特に強国アッシリアからの攻撃によって両王国を苦しめ、罪に気づかせようとされました。

 

  • 2章のはじめにミカは、「ああ」という嘆きの言葉を発しています。

神のさばきによって、ミカの故郷である、モレシェテ村もペリシテ人によって侵略されてしまいました。

 

<ミカ2:1>

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2:1

ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。

2:2

彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。

2:3

それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。」

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権力のある者は悪巧みを計り、貧しい者から根こそぎ財産を取り上げる。

主はこのような者たちをおゆるしにはなりません。

 

  • 続く3章には、神のさばきによってエルサレムが廃墟となることが預言されています。

このミカの悲痛とも言える嘆きの預言は、南ユダ王国の王、ヒゼキヤの心に響きました。

ヒゼキヤ王は主を恐れ、宗教改革を行ないました。

 

ヒゼキヤ王のことをみなさんご存知でしょうか?

ヒゼキヤ王は父親のアハズ王とは違って主の目にかなった良い行いをしました。

偶像を取り除き、レビ人の祭司をたてて聖別し、民たちに過ぎ越しの捧げものをするように呼びかけました。強国であったアッシリアに半分属国になりかけながらも、イスラエルの神に信頼して、南ユダを守りました。

 

彼の功績のひとつである、「ヒゼキヤのトンネル」は、今も残っていて観光地になっています。敵から水路を守るため、神殿の横の谷にあるギホンの泉からシロアムの池(現在は「下の池」と呼ばれています)に続いていく水路のトンネルを、532メートルも手堀りでコツコツ掘るという一大事業を成し遂げました。

 

ヒゼキヤ王に関しては、その他にもたくさんの功績、また罪についても聖書に記されています。

現在、英語圏の人には、ヒゼキヤ(英)Hezekiah (ヘゼカイヤ)という名前の人が多く見られるのも、尊敬されている王だということがうかがえますね。

 

ヒゼキヤ王と南ユダの民たちが、ミカ書3:12の御言葉によって悔い改めたことにより、主はわざわいを思いなおされたことについては、預言者ミカから100年ほど後の時代に出てきた預言者エレミヤが語っています。

 

<エレミヤ26:18-19>

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26:18

「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』

26:19

そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」

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しかしその回復も長くは続きませんでした。

ヒゼキヤの死後、その子マナセが王になりましたが、彼は主の目の前で悪を行ないました。

偶像崇拝を行ない再び神は怒りを燃やされました。

エレミヤの時代には北王国に続いて南ユダもバビロンに征服されてしまいました。

しかし、神様は、いつの時も救いの道を備えてくださっています。

 

  • 4章には、終末におけるエルサレムの回復が預言されています。

預言書には、神の徹底的なさばきと、救いと回復がセットになって記されています。

 

  • 続く5章には、ミカ書だけに記されている預言が書かれています。

この5章2節の預言が、本日の1つ目のミカ書トキメキの箇所です

 

<ミカ5:2>

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ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

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神様が与えてくださった回復の道は、メシヤ、救い主をお与えになることでした。

そしてその救い主はベツレヘムでお生まれになるという預言です。

ベツレヘムは言わずと知れたイエス様が馬小屋でお生まれになった場所です。

イエス様は神の御子であり、聖霊によって身ごもりましたが、系図の上ではユダ族であるダビデ王の子孫となります。マタイやルカの福音書に系図が記されている通りです。

 

ダビデもベツレヘムで羊飼いをしていました。ダビデの父エッサイ、その父オベデ、その父ボアズは、言わずと知れた、ルツの夫です。

主なる神様は預言者ナタンを通して、ダビデの子孫からでる世継ぎに王国を確立させると約束されましたが、ミカの預言によると、そのことは永遠の昔から定められていたようです。

 

ミカ書が永遠に価値のある書と言えるのは、この5章2節の御言葉のゆえです。

父なる神が御子イエスを系図のうえでダビデの子孫としてくださったのも、ベツレヘムで誕生させてくださったのも、十字架の贖いも復活も、永遠の昔から神が定めておられたことなのです。

 

メシヤ(救い主)がベツレヘムから生まれるというミカの預言は、多くのユダヤ人たちが昔から知っていました。

(マタイ2:5-6、ヨハネ7:42など参照してください)

そしてこの預言がついに実現したことを、イエス様が誕生した時にお祝いに訪ねてきた東方の博士たちや、イエス様を殺そうとしたヘロデ大王も知ったのです。

 

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』(ルカ2:11) 「ダビデの町」とは、エルサレムではなく、ベツレヘムのことです。

 

ミカ書5章2節の御言葉に何が書かれているか、もう覚えましたか?

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしの

ために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。』

※ミカ書5章2節から、トキメキいただきました!

 

◆ミカ書からトキメキをいただきましょう。

②神が語られる罪の償いの方法。 (6章8節)

2つ目の、ミカ書トキメキの箇所は、6章8節です。

 

  • 6章は1節から8節までの文体が特に素晴らしいので、ご紹介したいと思います。

新改訳聖書では、神様と人間を区別するために、ひらがなの「わたし」は父なる神様やイエス様を表し、漢字の「私」は人間という風に分けています。ここでの漢字の「私」はイスラエルの民です。

神様は、ここではこの世界を法廷に見立てて、イスラエルの民を告発しています。山々と丘々が陪審員です。

 

<ミカ6:1-8 >

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6:1

さあ、主の言われることを聞け。立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。

6:2

山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。主はその民を訴え、イスラエルと討論される。

6:3

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。

6:4

わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った。

6:5

わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは主の正しいみわざを知るためであった。

6:6

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

6:7

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

6:8

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

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神様ご自身が、イスラエルの民に対して何を行なってこられたかを訴えました。

エジプトから脱出させ、奴隷としての苦役から解放され、モーセ・アロン・ミリヤムという指導者を与えたことや(出エジプト)、モアブの王の攻撃からも民を守ってくださったこと(民数記22-24章)、ヨルダン川の東岸シティムから西岸ギルガルまで渡るとき、主は奇蹟をもって民を導かれたこと(ヨシュア記3-4章)を訴えられました。

 

イスラエルの民たちは、神様が民のためにしてくださった歴史的な導きと奇蹟の真実を想い起し、その応答として、人間のわざによる犠牲をもって神様から罪の赦しを得ようとしました。その犠牲となる全焼のいけにえは、子牛や雄羊から、最終的には自分の長子、生まれた子どもまで捧げようとしました。

 

しかしそこで神様は、御自身が民に求めておられることを語ってくださいました。

ここの6章8節が、ふたつめのトキメキの聖書箇所です。

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』

 

神様は、人間のわざによる捧げものを望んではおられません。『ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと』を求めておられます。

父なる神様は、イエス様が教えてくださった「主の祈り」のように私たちにどのように生きるべきかを教えてくださっています。それなのに私たちは、このイスラエルの民たちのように、的外れな事をしてしまうのです。

 

主の御言葉を忘れず、けっして神様から離れることがないように、強く深い信仰が持てるように祈り求めましょう。

※ミカ書6章8節から、トキメキいただきました!

 

◆ミカ書からトキメキをいただきましょう。

③苦難の時こそ主を仰ぎ見る。主が私の光。 (7章8-9節)

 

  • 7章では、ミカは嘆きをもって、主のさばきの厳しさを見ています。

ミカは民の状態を夏の果物にたとえました。時期が遅くなって収穫が得られず働きは徒労に終わりました。

同じように、イスラエルの民には敬虔な者も正しい者もひとりもいないと嘆いています。

民はみな自分の利益のためには策略をし、殺人まで犯し、役人、さばきつかさ、有力者たちは立場を利用し、不正に利得を得ています。そこには神の刑罰が下り、混乱が起こります。

 

そして、本日の聖書箇所、7章5-6節では、隣人、親しい友、妻さえも信用できず、親子関係も崩壊して行く様子が記されています。しかし、それでもミカは神への信仰と希望を捨てず、光である主を仰ぎ見ています。

本日の3つ目のミカ書トキメキの箇所は、7章7節、8節です。

 

<ミカ7:7-8 >

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7:7

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8

私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

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私たちの苦難とは、狭義では私たちの日々の生活に襲い掛かる様々な困難な出来事のことを指しますが、広義ではマタイ24章やマルコ13章などの終末預言にあるような、戦争、飢饉、地震、天変地異が起こる大患難時代のことを指します。

 

その時には神様が混乱を起こされ、愛する人でさえも信じることができなくなるという悲惨な状況になります。

そんなことが本当に起こったら、私たちは耐えられるでしょうか。

 

ミカ書は、そんな時こそ主を仰ぎ見て、私たちの光である主を信頼することを教えてくれています。

「希望」という言葉は、旧約聖書の原語ヘブル語では<へ>hwqt(ティクバー)と言います。この言葉の語源は<ヘ>hwq (カバー)で、意味は「待つ」です。動詞では、「期待する」という意味もあります。

「主を仰ぎ見て、主を待ち望む」というミカの姿勢は、待つ、期待するという「希望」につながります。

 

その希望とはイエス様であり、耐え忍んで待つ者には救いと回復を必ず与えてくださいます。

イエス様がそのことを約束してくださっています。

『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』

(マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33)

7章最後の18-20節は、ミカの賛美と祈りで締めくくられています。

7章18節『あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。』というミカの告白は、先ほど語った「ミカ」という名前の意味、「誰が主のようであるのか」に対する応答のようにも考えられます。

「誰が主のようであるのか」、「あなたのような神は他にはおられません!」

※ミカ書7章7-8節から、トキメキいただきました!