2018.10.7「高潔な人 ダニエル1:8-17」

 きょうは旧約聖書のダニエルという人物を取り上げて、「高潔」ということについて学びたいと思います。最近、「高潔」ということばが聞かれるようになりました。高血圧ではなく、高潔です。英語ではintegrityです。Integrityは、正直、高潔、誠実、完全という意味があります。箴言10章から12章を見ますと、「正しい者」とか、「潔白な者」ということばが何度も出てきます。まさしく、きょうのテーマの「高潔な人」のことです。箴言11:5「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。」今日は3つのポイントで「高潔」とは何かについて学びたいと思います。

1.妥協をしないこと

 ダニエルは10代のとき、仲間と一緒にバビロンに捕らわれました。ネブカデネザル王はイスラエル人の中から、王の宮廷で仕えることのできる優秀な者たちを選ぼうとしました。三年間、彼らを養育した後、王に仕えるようにさせました。彼らとは、ユダ部族のダニエル他、三人の若者でした。ダニエル1:8「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」おそらく、王様から配給される食べ物やぶどう酒は偶像にささげられたものだったのでしょう。ダニエルは身を汚さないように「私たちに野菜だけを食べさせてくれ」と願いました。肉はだめで、菜食主義が良いと言うことではありません。彼らを養育する宦官は、最初はしぶりましたが、10日後に、彼らの様子を見て驚きました。王様が食べるごちそうを食べている少年たちと見比べて、ダニエルたちの顔色の方がずっと良かったからです。そこで、世話役はこの四人の少年が食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにしました。神さまは4人の若者を祝福しました。ダニエル1:17「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

 ダニエルたちから学ぶことは、妥協をしないということです。レビ記には食べてはならないものが列挙されています。陸地を這うものやうろこのない魚は食べてはならないと書いてあります。また、血がしたたる肉も食べてはらならないと書いてあります。一番の問題は、偶像にささげた肉とぶどう酒でした。おそらく、偶像にささげて、降りてきたものが配給されたのだと思います。ダニエルたちは、それらを食べることは、身を汚すことなのだと信じて、一切、口に入れませんでした。本来、彼らは捕虜なのですから、生き延びることが最優先でしょう。世の中では「死活問題」と言いますが、食べるためには何でもするところがあります。しかし、ダニエルたちは妥協しませんでした。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。「この世と調子を合わせてはいけません」とありますが、原文は「…と同じ形になる」「…に順応する」という意味です。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。つまり、この世の価値観に妥協するなということです。妥協は英語で、compromiseと言いまが、私たちの周りにはそういう誘惑がたくさんあります。この世で一番多い妥協は、ごまかしであります。多少、ずるしても良いという考えです。ジョエル・オスティーンの本にThey cut corners「彼らは手を抜く」という文章がありました。「ある人たちは、会社に来るなり、コーヒーを飲みます。ボスのいない間インタネットを見て、だらだら時を過ごします。会社の電話で私用のために遠距離にかけます。5時10分前には帰る支度をしています。こういう人が、『どうして神さまは私を昇給させて下さらないのですか』と言っても無理です。Integrity高潔な人は、会社に15分前から来て、積極的に仕事をこなします。そして、定刻よりも15分遅く帰ります。車を半年も洗わない人がいます。家の芝生はぼうぼうとして刈ったことがありません。そういう人は、この教会に来ないで、隣のファースト・バプテスト教会に行ってください。」放映番組ではみんなが爆笑していました。ジョエル・オスティーン自身はとてもきちょうめんな人です。すらすら話せるようにしっかり練習します。スーパーに行く時も、私のようにだらしない格好で行きません。なぜなら、礼拝がテレビで放映されているので、いつだれが見ているか分からないからです。

 聖書に「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)と書いてあります。これは、この世のことに忠実な人は、やがて天国で大きなことを任されるという意味です。つまり、私たちはこの世で行っていることは、神さまからのテストだということです。神さまは「この人は小さい事にも忠実だから、今度は大きなことを任せよう」とお考えになっています。私たちは「どうして私だけがこんな仕事をしなきゃならないんだ。不公平だ」と不満をもらしてしまいます。しかし、隠れた所で神さまがご覧になっていたならどうでしょう?私たちがしていることは人々から報いられるためではありません。たとい目立たなくても、神さまの前で行なっているという信仰が必要です。いつも、ごまかして、妥協している人に対して、神さまは報いてくださらないでしょう。Integrity高潔な人は、人が見ていようと見ていまいと、最善を尽くす人であります。使徒の働きにドルカスという女性が出てきます。彼女は多くの良いわざと施しをしていた弟子でした。ところが、彼女は病気になって死んで、人々がその遺体を洗って、屋上の間に置きました。ちょうど、ペテロがその近くに来ていたので、人々がペテロを屋上の間に案内しました。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せました。ペテロがドルカスに「起きなさい」と命じたら、彼女は目を開けました。神さまはドルカスがしたことを憶えておられたのです。だから、ペテロを用いてドルカスをよみがえらせてくださったのです。

 ある人たちは「みんなずるいことをしているじゃないか、私だって少しくらいしても良いだろう」と言い訳をするかもしれません。しかし、あなたはみんなと同じではありません。なぜなら、Integrity高潔な人は人々の前ではなく、聖なる神さまの御目のもとで生きているからです。

2.金銭を欲しがらないこと

 ダニエル5:17「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。」ダニエルは、金銭や権力をほしがりませんでした。今回、王様の夢を解き明かすのが2回目です。かつて、ネブカデネザル王の夢を解き明かしてあげたことがあります。そのとき「王はダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、またバビロンのすべての知者たちをつかさどる長官としました。」(ダニエル2:48)。ダニエルはもう捕虜ではありません。王の宮廷にとどまって、バビロン全州を治める長官になっていました。そうなると、いろんな誘惑もやってくるのではないでしょうか?ネブカデネザルの死後、息子のベルシャツァルが王になりました。彼は千人の貴婦人のために大宴会を催しました。彼はぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た、金、銀の器を持って来るように命じました。王と妻とそばめたちが、その器で飲み、自分たちの神々を賛美しました。すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁に、何か文字を書きました。王の顔色が変わり、それにおびえて、がたがた震えました。王は、大声で、呪文師や星占い、知者たちを連れてこさせ、「この文字を読み、解き明しをする者にはだれでもほうびをつかわす」と言いました。しかし、だれもいません。そのとき、ダニエルが王の前に連れてこられました。ダニエルはほうびをやると言った王様に何と答えたでしょう?ダニエル5:17「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。『あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。』」ダニエルはむやみに、金銭や権力をほしがりませんでした。ただ、純粋に王のために幻を解きあかしてあげたのです。

欲しがるは英語で、covetousです。使徒パウロはこのように言っています。Ⅰテモテ6:10「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」ある人が「それにつけても金の欲しさよ」という下の句は、どの俳句や川柳にもつながると教えてくれました。「古池や、かわず飛び込む、水の音。それにつけても金の欲しさよ」「鳴かずんば、鳴くまで待とうほととぎす。それにつけても金の欲しさよ」なんだか、笑点みたいになっていますが、お金は「マモン」と呼ばれ、聖書では偽りの神として擬人化されています。歴代の韓国の大統領が逮捕されていますが、その容疑は、背任、収賄(しゅうわい)、職権の乱用などです。やはり権力が与えられると、欲に勝てなくなるのではないでしょうか?何も持っていない人には誘惑はあまりやってきません。だから、一般の人たちは「権力者は悪いことをする」と非難します。でも、いざ自分が高い位についたなら、何をするか分かりません。最初の頃は清廉潔白であっても、数年たつと、いろんな人たちが群がってきます。利権という誘惑が次から次へとやってきます。数年前からテレビのニュースを賑わしていますが、「〇〇問題」は、みなそのたぐいであります。やはり、自分がそういう権力を持っているなら、「ちょっとぐらい良いだろう」とやってしまうのではないでしょうか?ですか、その人が誘惑に強いかどうかは、実際、権力と力を持ったときでないと分かりません。その点、ダニエルは王様の次に偉い人でした。バビロンには愚かな王様ばかりいましたが、ダニエルはその国の繁栄のために仕えたのです。

 パウロは「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」と警告しています。キリスト教会では「お金は悪いもの、汚れたもの」とまで言います。それだったらなぜ、人々に献金をささげるように求めるのでしょうか?汚れたお金を集めて、教会運営や宣教活動をするというのは矛盾しています。ところで献金のときに「きよめてお用い下さい」とお祈りする方がおられます。あの祈りの本当の意味は「聖別して」という意味であり、お金が汚れているという意味からではありません。「特別にこのためにお用い下さい」という意味からくるものです。でも、私は未信者の方が誤解をするといけないので私はそのように祈りません。山崎長老さんがおられた頃、よくこういうことをおっしゃっていました。「お金はいのちの次に大切なもんじゃ。もし、信仰がなければ1円たりとも献金できないじゃろう」。山崎長老さんは若い時、満州鉄道で助役の次みたいに出世した人でした。しかし、敗戦後、日本に引き揚げ、無一文から商売をはじめました。だから、お金のたいせつさ、ありがたさを良くご存じでした。なぜ、山崎長老さんが教会に来るようになったかと言うと、初代の山下牧師が保証人になってくれたからだそうです。山崎長老さんはそのご恩を忘れず、商売で儲けたお金を教会のためにささげました。いろいろあっても忠実にこの教会に通い続けました。この会堂も山崎長老さんの信仰とささげものが支えになりました。山下牧師が病気で召されるまでひたすら看病しました。召される直前、「アイスクリームを食べたい」と言うので、買って来て食べさせてあげたそうです。山崎長老さんがダニエルのように高潔な人であったかどうかは脇に置いて、イエス様を純粋に愛し、天国貯金を励んだ人には間違いありません。私は信仰一本でやってきましたが、山崎長老さんからお金の大切さについて教わりました。

 父なる神さまは、金銭と権力を正しく用いるように願っておられます。もし、その人に金銭と権力が与えられたなら、それを当たり前だと思わないで、神さまと人々のために用いるべきであります。なぜなら、神さまはあなたを通して、人々に幸いで豊かな人生を与えたいと願っておられるからです。もし、それを自分のためだけに使うなら、祝福どころか「いばらととげ」になってしまうでしょう。ダニエルは捕虜でありましたが、バビロンの太守になり、王国をささえました。でも、いつも謙遜で、いつも神を恐れていました。私たちもバビロンに似たような国の中に生きています。「お金さえあれば何でもできる」と誘惑してくるでしょう。私たちはお金を主人にしてはいけません。最後に、ベンジャミン・フランクリンの名言をご紹介します。「お金は良い召使いだが、悪い主人でもある。」もし、私たちがお金を主人にしたなら悲惨なことになります。でも、お金を召使にしたらならば良く働いてくれます。

3.一貫性があること

 一貫性は英語で、consistencyと言います。裏表がない人は信用されるでしょう。また、言うことと行うことが一致しているなら、なお結構です。王権はメディア人のダリヨスに代わりました。王はバビロン全国に120の太守を任命して国を治めることにしました。そして、彼らの上に3人の大臣を起きましたが、ダニエルはその一人でした。しかし、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわめてすぐれていました。なぜなら、彼の内にすぐれた霊が宿っていたからです。そこで、王はダニエルを任命して全国を治めさせようと思いました。このことに面白くなかったのが、他の大臣や太守たちです。何とか彼を訴える口実を見つけようと努めましたが、彼には何の怠惰も欠点も見つけることができませんでした。そこで、彼らが申し合わせ、1つの法令を王様に制定させました。なんと、「今から30日間、王様以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という禁令が制定されました。ダニエルはそのことを知って家に帰りました。だが、いつものように、エルサレムに向かって、日に三度、ひざまずいて、神の前に祈り、感謝していました。このことを知った他の大臣や太守が、王様の前に進み出て、ダニエルのことを訴えました。王様は署名した手前、否定することができませんでした。無残にもダニエルは捕えられ、獅子の穴に投げ込まれました。王様は気がきではありません。一晩中断食して、夜明け前に、獅子の穴へ急いで出かけました。ダニエルは無事生きていました。何と、神の御使いが獅子の口をふさいでくれたからです。ダニエルに罪がないことを知った王様は、彼を訴えた者たち全員を獅子の穴に投げ込ませました。彼らはあっという間に、獅子に噛み砕かれました。日曜学校で語られる有名なストーリです。

 このところにダニエルが「どうしようか?やめようか?」と躊躇している様子はありません。屋上の部屋の窓が開いていたにも関わらず、いつものように、日に三度、祈ったのであります。おそらく、敵たちはダニエルが祈るのを目撃することができたのでしょう。にもかかわらず、ダニエルは神に祈ることをやめませんでした。歴史上、このような迫害はひんぱんにありました。みんなダニエルの物語を聖書から知っていました。ローマのコロシアムで同じような目にあったクリスチャンがたくさんいたと思われます。彼らはたとえ、獅子に噛み砕かれても、信仰をすてなかったのであります。ダニエルもたとえ死ぬようなことがあっても構わないと思っていたのでしょう。私たちがダニエルから学ぶべき事は、一貫性です。信仰ひとすじです。ダニエルが暮らしていたバビロンは多神教の世界でした。同じように、日本も多神教の国です。特に日本では死んだときは仏教で葬儀をあげます。手を合わせて御焼香しないなら、罰当たりと言われるかもしれません。カトリック教会では「郷に入らば郷に従え」式ですが、プロテスタントの福音派は「偶像礼拝になるから御焼香は避けるように」と指導します。私は焼香をしませんが、その分、まことの神さまに長く祈ります。喧嘩をふっかけるようなことはしませんが、私たちが礼拝する神さまはただお一人です。ヤコブ書には「二心の者は安定がない」と書かれています。こういう日本で、私たちが「まことの神しか拝まない」ということを人々が知るならどうでしょう。ある人たちは、「変わり者だなー」と卑下するでしょう。しかし、ある人たちは「ああ、命をかけるようなものがこの世にあるんだ」と逆に恐れを抱くでしょう。

 また、一貫性があるとは、「裏表がない」「言行一致」ということも当てはまると思います。人の顔色を見て、言っていることがコロコロ変わるなら、信用されなくなります。「係り長のときはああいっていたけど、課長に出世したら全く反対のことを言っている」ということもありえます。「背に腹は代えられない」と言いますが、これは真理を曲げている人の逃げ口上です。詩篇15篇は本日の「高潔な人とはどういう人なのか」ということを言い当てている箇所です。詩篇15全部を引用させていただきます。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。」これを読みながら「正直、合格点とれるだろうか?」と思いました。なぜなら、私は生まれつきの性格や習慣、言葉使い、考え方がかなり残っているからです。でも、私たちの内には100%高潔であられるイエス様が住んでおられます。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9b)と言いました。逆に言うなら、クリスチャンはもれなく、キリストの御霊を内に持っているということです。だから、希望があります。私たちの内にイエス様が住んでおられるのですから、イエス様の高潔がおのずと現れてくるに違いありません。

 昔、ベンハーという映画を見たことがあります。ベンハーが鎖につながれて、荒野を行進しているシーンがありました。彼は喉が渇いて死にそうでした。ちょうど、道ばたにイエス様がおられ、ひしゃくでベンハーに水を差し出しました。それを見ていた、ローマ兵が「何をするんだ」とばかり、そのひしゃくを払いのけました。ローマ兵がイエス様を見た瞬間、彼の顔がこわばりました。「自分は何てことをしているんだ」と、自らを恥じているようでした。その隙に、ベンハーは桶から水をがぶがぶ飲むことができました。しかし、当人のベンハーはその方がイエス様だとは知りませんでした。ベンハーが二度目にイエス様を見たのは、遠くの丘の上で人々に話している時でした。でも、彼はイエス様のところへ近づいて話を聞こうとも思いませんでした。三度目はイエス様が十字架で死ぬ寸前でした。あたりが暗くなり、雨が降って、イエス様の血が流れてきました。その血が死の谷にいる母と妹のところまで流れてきたとき、二人のらい病は癒されました。その時に、あの方がイエス様だと分かったのです。そして、それまでの怒りと復讐心が消え去りました。なぜなら、ベンハーがイエス様の高潔さに触れたからです。私たちもイエス様の高潔さを運ぶ器になれたら何とすばらしいことだろうと思います。