2018.10.14「賜物の注意点 Ⅰコリント13:1-3」

 Ⅰコリント13章は「愛の讃歌」と呼ばれ、結婚式でもよく引用されます。しかし、Ⅰコリント12章と14章は御霊の賜物について書かれています。その中間の13章に「愛」について書かれています。でも、実際の聖書はこのように章ごとに分かれていません。後の人が便利なように章と節を付けました。だから、本来は12章から14章まで、区切りなどなく連続的に書かれています。保守的な教会は13章の「愛」だけを語りますが、本来は御霊の賜物について語るべきなのです。「でも、愛を忘れていけないよ」と、注意も一緒に与えます。きょうは福音派の保守的な教会が割愛しやすい箇所から語りたいと思います。

1.愛を土台にする

 コリントの教会は聖霊の賜物にあふれていました。聖霊の賜物あるいは「御霊の賜物」はキリストのからだなる教会の手足にたとえられています。神さまが「これを用いて、奉仕しなさい」と願って、クリスチャン全員に与えている霊的な賜物です。ところが、コリントの教会は「私にはこういう賜物がある」と互いに誇っていました。彼らは異言を話すことを最も高い位置に置いていたようです。預言や信仰、その他の賜物も豊かにありました。しかし、コリントの教会には世の多くの罪も入っており、聖徒らしい生活をしていませんでした。それで、パウロは「御霊の賜物も大事だけれど、愛がもっと大事だよ」ということをⅠコリント13章で語っています。13章1節から3節まで、霊的賜物をあげながら注意点をいくつかあげています。

 第一は異言です。Ⅰコリント13:1「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」異言というのは、通常私たちが使っている言語ではありません。これは、神さまと直接話すことのできる未知なることばです。初代教会では人々が聖霊を受けると異言を話していました。しかし、話す本人はその意味が分からず、異言を解き明かしてくれる人がいて、「ああ、こういう意味なのか?」と分かりました。でも、ほとんどは解き明かす必要がない、神さまへの賛美みたいなものです。「御使いの異言」というものがあるかどうか分かりません。パウロが「たとい」と言っていますので、少しオーバーな表現なのかもしれません。とにかく、コリントの人たちは異言の賜物に最も重要性を置きました。そのことに対して、パウロはⅠコリント14章で「異言よりも預言を求めなさい」と勧めています。現在でも、異言を何よりも強調する教団がありますが、こういうところから学ぶべきだろうと思います。パウロは「人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」と言っています。

 第二は預言の賜物です。Ⅰコリント13:2最初「また、たとい私が預言の賜物を持っており」と書いてあります。日本語の聖書は予知の「予言」ではなく、「預言」と書かれています。この「預」は「預金」の「預」と同じで、預かるという意味から来ています。簡単に言うと、預言は「神さまから預かったことば」と言うことです。全知なる神さまが与えるのですから、それが未来のことであったり、隠されたことが露わにされたりするのです。これは旧約聖書の預言者たちの預言とは異なります。これは聖霊の賜物としての預言です。ある人は、「旧約聖書の預言者は100%神さまからのものであるが、賜物としての預言は20~80%の正確率であろう」と言っています。

 第三は知識です。Ⅰコリント13:2半ば「またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」とあります。知識の賜物とは、直観のように一瞬に与えられる神からの情報です。私たちはあれこれ推測し、いろいろ調べた後、「これはこうだ」と結論を出します。ところが、知識の賜物は、全知なる神さまから一瞬に与えられる情報です。その場にいなくても、千里眼的に見えたりもします。旧約聖書ではエリシャが遠くから、ゲハジがナアマン将軍から贈り物を受け取り、それを隠しているのを見て知っていました。イエス様もサマリヤの女性が5人と離婚し、6人目と同棲していることを言い当てました。彼女はおどろいてイエス様をメシヤであると信じました。

 第四は信仰です。Ⅰコリント13:2後半「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても」とあります。福音書でイエス様は「山に向かって、『動いて、海には入れ』と、自分の言ったとおりになると信じるならそのとおりになる」と言われました。「山を動かすほどの完全な信仰」が与えられたらなんとすばらしいでしょう。でも、この信仰を用いて富士山を平地にするとみんなが困りますので、やめてください。でも、日本のすべての高い山は、信仰の対象になっていますので、1個くらい見せしめのため、海に移しても良いかもしれません。私たちクリスチャンはある程度の信仰を持っていますが、信仰の賜物は、常識では考えられないことを実現できる信仰の力です。

 第五は分け与える賜物です。Ⅰコリント13:3前半「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え」とあります。教会員の中には、金銭や物をよく捧げる方がいらっしゃいます。実業家たちの中にこの賜物のある人が多くいますが、彼らはお金もうけも上手です。彼らが気前良くささげると神さまが祝福して、ささげた以上にお金を増やしてくださいます。でも、ささげないでケチになると、祝福もストップしてしまいます。つまり、神さまがその人を祝福してささげるように、用いておられるということです。牧師としてはそういう人が教会に大勢いたほうが助かります。でも、お金持ちというのは案外ケチで、持っていない人の方がよく捧げるという皮肉な法則があるようです。

 第六は殉教の賜物です。Ⅰコリント13:3後半「また私のからだを焼かれるために渡しても」とあります。「果たして、殉教が御霊の賜物なのだろうか?」という疑問も起こりうるでしょう。弟子のヤコブは殉教しましたが、ペテロは捕えられても御使いによって助け出されました。私たちにはだれが殉教し、だれが助け出されるのか分かりません。でも、ペテロも最後にはローマで、逆さ十字架で殉教したと言われています。聖書には「独身の賜物」というのもあるようですが、殉教と同じで「そういう賜物は結構です」と断りたいでしょう?私も同じです。御霊の賜物は他にもたくさんありますが、6つだけ上げてみました。

 パウロがここで言わんとしていることは、「どんなに大いなる賜物があったとしても、愛がなければ無意味である」ということです。ここで言われている「愛」は言い換えると動機であります。その賜物を動かしている心構えと言っても良いでしょう。コリントの人たちは、霊的賜物を何のために使っていたのでしょうか?ある人は自分を誇るために、またある人は何かの利益を生むために、またある人は自分のセクト(仲間)を増やすためでした。しかし、霊的賜物は魔法とか超能力ではありません。これは、聖霊がその人に与えてくださった超自然的な能力です。私たちは他に、生まれつきの才能や自分で努力して得た能力があります。神さまはこのような一般恩寵を誰にでも与えています。ある人たちはそれを磨き上げて、その道のエキスパートになります。スポーツや芸術の世界でもそうですが、そういう場合は「人から賞賛を受けてなんぼ」というところがあります。冬季オリンピックで金メダルを取った、羽生選手のパレードが仙台でありました。10万人以上の人たちが集まり、拍手と歓声を上げたそうです。彼らはそのようにして個人の栄光をたたえているのです。しかし、私たちクリスチャンの場合、霊的賜物は自分が努力して得たものではありません。向こうからみこころのままに、与えられたものです。だから、自分を誇ることはできません。しかも、イエス様は「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:7,8)と言われました。

 御霊の賜物は誰にでも与えられます。きのうきょう信仰を持った人にも与えられます。使徒10章に書いてありますが、ペテロのもとにコルネリオ一家が集まりました。彼らはペテロの話を聞いていましたが、その途中、聖霊の賜物が注がれました。まだ、洗礼も受けていないのに、です。しかし、保守的な教会は、「聖書をちゃんと学び、聖い生活をし、人格的に整えられるのが先だ」と言います。しかし、聖霊の賜物とその人の信仰歴や人格性とは全く関係がありません。聖書に「御霊の実」というクリスチャンとしての品性があります。私たちは全員、キリストにとどまり「御霊の実」を結ぶ責任があります。しかし、御霊の賜物に関しては、自分に与えられた賜物だけに責任があります。また、「御霊の実」がそんなになくても、御霊の賜物が与えられることもあります。人格的に欠けのある人が、御霊の賜物を使うといろいろ問題が起こります。これが、コリント教会の実情でありました。しかし、もう一度言いますが、御霊の賜物はその人の信仰歴や人格的なきよさとは全く関係ありません。神さまが一方的に与えてくださるものです。だから、その人は、神さまの恵みとしていただいて、ちゃんと管理して、神さまの栄光のために用いなければなりません。ローマ11:29「神の賜物と召命は変わることがありません」と書いてあります。神さまはあなたを信用して、御霊の賜物をあなたに与えて下さいました。私たちはそれを隠さないで、用いる必要があります。イエス様はマタイ25章でタラントのたとえを語られました。私たちは1タラントを地面にかくした悪いなまけ者のしもべになってはいけません。むしろ、5タラントあるいは2タラント預けられたしもべのように、忠実に用いるべきです。マタイ25:29「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」イエス様から「よくやった。良い忠実なしもべ」と言われますように。

2.限界性を知る

 Ⅰコリント13:8-13「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」「信仰、希望、愛」は当教会の週報の副題みたいになっています。クリスチャンであるなら「信仰、希望、愛」をだれも否定する人はいないでしょう。しかし、物議をかもしやすいのは、霊的賜物です。8節から再び、御霊の賜物がいくつかあげられており、それらの限界性も示されています。前半のメッセージでは「賜物を用いる時は愛が必要ですよ」という注意でした。後半は、「賜物は完全ではなく、限界がありますよ」とパウロが言っています。なぜなら、コリントの教会は、賜物がまるで完全であるかのように考えていたからです。誰でも、神からの能力が与えられたら、スーパーマンになったような気がするのではないでしょうか?しかし、そうではありません。主の御名を辱めないために、賜物の限界を知って、これらを用いる必要があります。

 8節には「愛は絶えることがない」と書かれています。それに比べ、預言の賜物ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。問題は、「いつそのことが起こるか?」ということです。10節には「完全なものが現れたれら、不完全なものはすたれます」と書かれています。福音派の保守的な教会は、聖書が完成したら、このような霊的な賜物が不要になると考えています。かなり前に、いのちのことば社から「チェーン式バイブル」が発売されました。その聖書に、このような解説が載せられています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発足時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような必要は消えた。」と書かれています。もし、私が大阪の人であったら「あほか?」と言っているでしょう。一体、この考えはどこから来たのでしょう?19世紀イギリスで、ディスペンセーション主義の神学が起こり、この考えがアメリカに広まりました。ディスペンセーション主義とは、時代をいくつかに区分する考えであり、福音派の多くが再臨信仰と一緒に受け入れました。もちろん良いところもあります。しかし、スコフィールドという人が聖書を作り、時代区分の考え方をより強化しました。つまり、聖書が完成したら、預言や奇跡が必要ない、「やんでしまった」と言うのです。決してそうではなく、イエス・キリストが再臨して、御国が完成したら、預言や奇跡が必要なくなるのです。

パウロは12節で「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言っています。その時というのは、御国が完成した時であり、そのとき私たちはイエス様と顔と顔とを合わせて見ることになります。でも、今は一部分しか知りません。今というのは、御国が完成していない、現代のことであります。だからこそ、私たちは信仰が必要であり、聖霊の賜物が必要なのです。確かに私たちには完成された66巻の聖書があります。これ以上の文書啓示は与えられていません。私たちはこの聖書に付け加えたり、減らしたりはできません。「ただし」であります。この「だたし」が重要です。主は今も生きておられ、私たちに御霊によって語っておられます。もちろん、聖書のみことばを通して語られます。しかし、幻、夢、そして預言によっても今も語っておられます。使徒2章に書いてありますが、ペンテコステの日、ペテロがヨエル書を引用してこのように語りました。使徒2:17,18「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』問題は「終わりの日」とはいつなのか?です。「終わりの日」は英語の聖書では、in the last daysと複数形になっています。簡単に言うと、ペンテコステの日から「終わりの日」がはじまったということです。そして、究極の終わりの日、in the last dayはイエス様が地上に戻ってこられる日です。つまり、キリストが再臨される日までの時代が、「終わりの日」なのです。だから、キリストが再臨する日まで、預言、幻、夢は存在し続けるということです。何のためでしょう?それは、神さまは聖書以外のことを語りたいからです。私たち人間が「聖書がもう完成したのですから、もうそれ以上のことを語らないで下さい。大丈夫です」というのは大変失礼であり、傲慢な態度であると言えます。

 ただし、私たちはコリントの教会のような同じ過ちや、賜物至上主義のような極端に気を付ける必要があるということです。今から、30年くらい前、「預言」のブームがありました。ある人たちが「神はこう言われます」と預言しました。それを受け取る人たちは、「神さまがそう言われるなら絶対間違いはないだろう」と思いました。ある人たちは「聖書や説教よりも、預言者が語る預言に価値がある」と言い出しました。そして、セミナーを受けた人たちが、教会に帰って「うちの牧師は預言に無知だし、霊的賜物もない」とさばくようになりました。それを聞いた牧師たちは傷つき、「預言とか霊的な賜物は教会を分裂させる危険なものだ」と、そういう人たちを教会から追放しました。大川牧師も今から40年前、「異言を話す」ということで某教団から糾弾され、結局は単立教会になりました。私は大川牧師が霊的な体験をされた直後に教会に来たので、ぜんぜん違和感はありませんでした。はじめから、聖霊が働かれ、奇跡や癒しは今も存在していると信じていました。しかし、私が最初に神学校に入ったとき、「私は異質な存在なんだ」ということが分かりました。結局、私は他の神学校で学び直すことになりました。でも、その神学校も聖霊の働きに対しては慎重でした。その当時、主の十字架クリスチャンセンターから10名以上の神学生が入ってきて、混乱を招きました。彼らは、数年後、自分たちの学校を作りました。命のことば社から「聖霊の賜物を批判する」本もいくつか出版され、教会は福音派と聖霊派に分かれてしまいました。「聖霊派」なんていう名称は本来ありません。でも、私がこういうことを言うと、「あなたはカリスマですね。大川牧師の弟子なんだからカリスマですね」と言われます。

 さて、本題に戻ります。これで終わるとうっぷん晴らし的なメッセージになってしまうからです。御霊の賜物は全く、消えてなくなったというものでもありません。今も、御霊の賜物は存在していますが、「完全ではありませんよ」という注意書きが付いているということです。知識のたまものであっても、一部分しか知りえないということです。また、預言の賜物であっても、将来のことや隠されていることが全部分かるわけではなく、部分的であるということです。異言もある程度の預言のような働きをしますが、たとえ解き明かしがあったとしても、不完全です。病の癒しの賜物があっても、癒すことのできない病気もあるということです。もちろん、イエス様がなされたことが標準でありますから、そこまで近づく必要はあります。ですから、中途半端なところで妥協してはいけません。キリストの再臨が来るまで、与えられた霊的賜物を最大限に用いなければなりません。もし、私たちが自分の使命や生来の賜物だけで、神さまに奉仕をするのだったら燃え尽きてしまうでしょう。それに、神さまの働きも限られます。イエス様は、ご自身の働きを継続するように、御霊の賜物をお与えになったからです。いわば、御霊の賜物は、キリストのからだの各器官のような存在であります。私たちに手や足、耳や目、口や頭があるように、それぞれ違った霊的賜物があるということです。一人で全部ある人はいません、おのおのが連結し、助け合って地上におられたイエス様のような働きができるのです。イエス様が「戻ってくるまでこのタラントを使いなさい」と預けたものが、霊的賜物なのです。初代教会の頃はなぜあんなに力があったのでしょうか?現代の教会は神学的にはすぐれているかもしれませんが、力がありません。使徒パウロはⅠコリント2章で「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」と言いました。そうです。私たちは御霊と御力の現れも必要なのです。神さまの力を私たちの神学や経験に押し下げてはいけません。現代、そういうことがないとしたら、私たちがチャレンジしていない、怠けているということなのです。「ないならない」で、へりくだって「聖霊様、力を与えてください。あなたの賜物を与えてみわざを行なわせてください」と祈り求めるべきなのです。パウロはテモテに「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ1:6)と言いました。この世にいると、神の賜物がストーブの火のように弱ってくるということでしょう。だから、時々、かき混ぜていただいて燃え立たせる必要があります。愛を土台としながら、それぞれ与えられた御霊の賜物を用いて、イエス様の働きを継続拡大していきましょう。