2018.10.21「預言者と預言 Ⅰコリント14:1-5」

 現在のキリスト教会でもっともうとんじられているのが、預言者と預言ではないかと思います。先週はⅠコリント13章から学びましたが、そこには「預言の賜物ならすたれます」と書かれていました。ほとんどの福音派の教会は「聖書が完成したときに、そういう賜物は必要なくなった」と言います。だったら、「知識ならばすたれます」とも書いてあるので、「知識も必要ない」と言ってください。完全なものが現れるとは、世の終わり、キリストが再臨される時のことであります。世の終わりが来るまでは、伝道のため、教会を建て上げるため、将来の危険から免れるため、預言者と預言は大事な神さまからの賜物であります。

1.預言者

 まず、最初に旧約聖書において預言者たちはどのような働きをしていたのか学びたいと思います。モーセは神さまから律法を授かりました。そして、「主はモーセに告げて仰せられた」というフレーズが度々出てきます。モーセは主なる神さまの代弁者であります。人々は聖なる神さまのところに近づくことができませんでした。なぜなら、罪があるからです。その次は、サムエルが登場しますが、やはりイスラエルの民の間に立って、主のことばを告げました。ナタンはダビデに油を注ぎ、王様に任命しました。ダビデが罪を犯したとき、その罪をあばいて悔い改めに導きました。南北朝時代には、エリヤとエリシャが活躍しました。彼らは王室から離れたところで生活していました。時々、王様に会って、国の罪を責めたり、王様に助言を与えたりしました。ユダ王国のときは、イザヤが王様に仕えつつ、国政に対して助言を与えたり、将来の預言をしました。その後、エレミヤやエゼキエルが登場しますが、王様と国の罪を責めました。彼らに主のことばを告げても、全く耳を傾けようとしませんでした。捕囚時代はダニエルが高い地位を与えられ、バビロンとペルシャの王様に仕えました。帰還後はハガイやゼカリヤが神殿再建のために預言しました。他にもヨナとか、ホセヤ、マラキなどの預言者たちがたくさんいます。

 旧約聖書に出てくる預言者の共通している特徴とは何でしょうか?第一は主のことばを取り次ぎ、王や民をさばくということです。エリヤなどは天から火を下して、バアルの預言者たちを切り殺しました。イエス様がエルサレムに行こうとしたのに、サマリヤ人たちが通そうとしませんでした。ルカ9:54「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」ヤコブとヨハネはエリヤのように、彼らを滅ぼしてしまおうと思ったのです。恐ろしい話です。バプテスマのヨハネも「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか…良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる。」(マタイ3:7、10)と言いました。バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者です。口から火を吐くような預言をしました。第二は将来を予言することです。サムエルは「予見者」と呼ばれました。英語ではseerであります。異国にもそういう人たちがいました。占い師もその部類だと思います。神さまは永遠なる御方なので、時間に支配されていません。イザヤに対してもそうですが、現在、近い将来、遠い将来、関係なく連続した出来事として示しました。だれでも、未来のことを知ることができたら、すばらしいのではないでしょうか?だから、偽預言者もそのような予言をするのではないかと思います。第三は神からの啓示や知恵を与えるということです。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になることができました。なぜなら、パロの夢を解き証し、飢饉に備えさせたからです。また、ダニエルは捕囚の身でありましたが、4人の王様に仕えました。王たちは彼を重んじて、彼に政治を任せました。旧約聖書では預言者は、王様と大祭司と並んで、神さまから油を注がれ、特別な働きをしました。

 しかし、イエス様が十字架の贖いを成し遂げてから、預言者の働きは終わりを告げることになりました。そして、新たに預言者が登場することになりますが、旧約の預言者とは全く異なる働きをするようになりました。私たちは、このことを知らないと、預言者と預言を全部捨ててしまいます。旧約時代は聖霊がひとり一人に与えられていませんでした。だから、預言者たちは「主はこう仰せられる」と告げなければなりませんでした。しかし、ペンテコステ以来、聖霊がイエス様を信じるすべての人に与えられています。イエス様が「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)とおっしゃいました。問題解決のため、預言者をさがしに遠くへ行かないでください。もし、私のところへ来たなら、「まず聖書と聖霊に聞きなさい」と言うでしょう。もちろん、必要とあらば、預言をして差し上げます。でも、多くの場合は確認としての預言です。主は、もう既にあなたに告げておられるからです。預言を聞いたとき、「ああ、やっぱりそうだったんですね」と確認を与えてくれます。もう1つ重要なことは、イエス・キリストの贖いによって、神の怒りが取り去られたということです。Ⅰヨハネ4:10「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」とあります。キリストの血によって、だれでも父なる神さまのところに近づけるようになりました。キリストの血によって古い契約に終わりが告げられました。新しい契約とはどんなものでしょう?ヘブル8:10-11「私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。…おのおのその兄弟に教えて『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、私を知るようになるからである」。アーメン。

 では、新約時代の預言者の役割とはどのようなものなのでしょうか?第一は和解をもたらすということです。旧約時代の預言者は神のさばきを告げることでした。しかし、キリストが十字架で私たちの代わりに罪となりさばかれました。Ⅱコリント5:18「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」使徒パウロは「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と言っています。旧約時代のエリヤは天から火を下し、バアルの預言者たちを剣で殺しました。ところが、世の終わり再び来られるエリヤはどうでしょう?マラキ4:6「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」彼はさばきのためではなく、家族の和解をもたらすために来るのです。エリヤハウスという働きがありますが、この箇所から取られました。新約に生きている私たちが旧約時代の預言者をイメージしていたらどうでしょう?2001年のニューヨークのツインタワー崩壊も神のさばきであると言うでしょう。また、大地震や津波も、エイズも神のさばきであると言うでしょう。確かに世の終わりの終わりには預言書のようなことが起こります。しかし、世の終わりイエス様が再び来られるまでは恵みの時代です。極端な信仰者たちは何でも世の終わりのさばきに解釈しますが、旧約時代の預言者をイメージしているからです。神さまは怒っておられません。「かえって、あなたがたに忍耐深くあわれるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと望んでおられるのです」(Ⅱペテロ3:9)。確かに自然の法則や自然現象は存在していますが、何とか災害を免れさせようとしています。使徒11章二書いてありますが、アガボという人が、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言しました。

第二はからだなる教会を建て上げるためです。エペソ4章には、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためである」と書かれています。旧約聖書では、預言者ハガイとゼカリヤが神殿の再建を大いに助けました。新約の預言者は、キリストの体なる教会を建て上げるのです。だけど、預言がどのように聖徒たちを建て上げるのでしょうか?Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します」とあります。ここに「徳を高める」とあります。ギリシャ語で「オイコドメオー」であり、edify建て上げると言う意味です。人の弱さや欠点を見つけるのはだれでもできます。もし、預言者が隠れた罪をみんなの前であばくなら、その人の徳が高められるでしょうか?恥をかき、傷つけられるでしょう。このような預言がしばしば語られるので、「預言は悪いものだ。預言は危険だ」と言われるのです。そうではありません。新約時代の預言者の務めはそうではありません。その人の泥の中に隠れている宝物を探し当ててあげることなのです。イエス様も「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」(マタイ13:44)と言われました。畑とはあなたのことです。預言者は神さまがその人に抱いておられるdivine destinyを示してあげることができます。あなたの両親や友人、先生は「あなたのことをこう言っているかもしれないけど、神さまはあなたのことをこう思っていますよ。あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」と告げることができます。その人の人生が全く変わるでしょう。

 イエス様も取税人ザアカイに対して「この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。また、病の霊につかれ、腰の曲がった女性を癒した後こうおっしゃいました。「この女はアブラムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです」(ルカ13:16)。イエス様は罪の中にいたあなたを見出して、「あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」とおっしゃってくださいます。その次には、他の人にイエス様のことばを伝えることができるのです。

2.預言の賜物

 Ⅰコリント12章に御霊の賜物が列挙されています。その目的は何でしょう?Ⅰコリント12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」御霊の賜物はキリストのからだの各器官のようなものです。私たちはキリストがかつて地上でなされたことを、御霊の賜物を用いて、同じことを行うように召されているのです。預言の賜物は、その一つであります。Ⅰコリント14章には預言の賜物と異言の賜物が比較されています。パウロは異言よりも、預言を求めなさいとはっきり言っています。Ⅰコリント14:1「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」パウロがこれだけはっきりと述べているのに、現代の教会はとても消極的であるばかりか、否定的です。先週も申し上げましたが、Ⅰコリント13章に「預言の賜物ならすたれます」と書いてありました。ディスペンセーションナリズムの信仰に立っている人たちは、「聖書が完成したので、預言は不要になった」と言うのです。とんでもありません。世の終わり、キリストが再臨する日まで、賜物としての預言を用いなければなりません。なぜなら、使徒パウロが「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じているからです。もし、パウロの言っていることが間違っているなら、私たちは信仰義認も捨てなければなりません。あっちは取って、こっちは捨てるというのはいい加減過ぎます。聖書は書かれた神の啓示であり、これ以上のものはありません。しかし、預言は聖書で言われていないことを補助したり、教会を建て上げるためにはとても重要な賜物です。Ⅰコリント14章にはその目的が具体的に示されています。Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」アーメン。徳を高めるとは、人を建て上げるということです。第一のポイントでは泥の中に隠れている宝物を発見してあげることだと言いました。私たちは小さい時から「ダメだ。それじゃ良くない」と打ち壊されて育ちました。しかし、神さまご自身は人が見るようには見ていません。「勧め」とはギリシャ語でパラカレオーであり、「励ます」と言う意味もあります。私たちは励ましが必要です。「慰め」は「緩和する、軽減する」という意味もあります。もし、預言がこのような働きをするのだったら、だれも否定する人はいないでしょう。私たちは気づかないうちに使っているかもしれません。

 このところで、私たちが最も注意すべきことは、「預言の賜物と預言者の違い」です。私たちは旧約聖書の預言者を連想するので、罪をあばく預言をしたり、あるいは完璧な預言でなければならないと思うでしょう。第一のポイントでも言いましたが、十字架の贖い後は、新しい契約のもとで仕えるべきことを知らなければなりません。クリス・バロトン師がSchool of the Prophetsという本の中で、「預言の賜物と預言者の違い」を詳しく説明しています。第一に、預言の賜物は、聖霊による賜物です。これは賜物によって何かをするということに重点が置かれます。一方、預言者は「キリストご自身が与えた賜物」(エペソ4:7)です。行いよりも、その人自身の立場に重点が置かれます。第二は、預言の賜物は「すべて信者が預言を求めるように」励まされています。一方、預言者は、私たちが選ぶのではなく、神さまご自身が預言者として選びます。神からの召命と油注ぎがあるということです。第三は、預言する能力が賜物です。一方、預言者は預言者自身が賜物です。つまり、預言者は預言する能力が大きいとか小さいとか関係ありません。能力の大小ではなく、その人自身が神からの賜物なんだということです。第四は、預言の賜物を用いる人は聖徒の一人として分類されます。預言の賜物は人生のためにあります。一方、預言者は五職の一人(エペソ4:11,12)として任命された人です。預言者という召命そのものが人生なのです。このように考えると、預言の賜物はだれもが用いることのできる聖霊の能力です。一方、預言者はキリストご自身が教会を建て上げるために、特別に召した人であります。「その人に何ができるかというよりも、その人自身が賜物」というのは、すごい考え方だと思います。同じように、牧師も何ができるかというよりも、牧師自身がキリスト様からの賜物と考えられます。10年位前、台湾から10数名が宣教活動のため来られたことがあります。ある姉妹から「牧師は一週間何をしているんですか?伝道していますか?癒しをしていますか?教会を開拓していますか?」と聞かれ、返すことばがありませんでした。「あいつら何のために日本に来たんだ!」とその時は、非常に傷つきました。後からはっきり分かりました。「確かに私はそんなに働かないで高い給与をもらっている。しかし、そうではない。牧師の存在そのものが尊いんだ。私は人からではなく、神さまから任命されてここにいるんだ」と分かりました。エペソ4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の五職は「キリストのからだを建て上げるための、キリストの賜物」と書かれています。現代の教会は、使徒と預言者を省いているので、健全に成長できないのです。

 預言とは、いわば神さまからの啓示であります。神さまはいろんな方法で私たちに語っておられます。では、預言の賜物はどのようなかたちで私たちに与えられるのでしょうか?そのヒントがⅠコリント2章にあります。Ⅰコリント2:9-10「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」神さまは3つの方法で、私たちに語られます。第一に神さまは霊的な耳を通して語りかけます。神様は私たちに言葉を与えます。1つの言葉もありますし、2つ、3つの言葉もあります。神さまは言葉を通してコミュニケートされます。預言と似ていますが、「知識の言葉」や「知恵の言葉」もあります。神さまは、本当にわずかな言葉をもって示してくださいます。その言葉を忠実に口に出すならば、さらに多くの言葉が出てきます。預言がまるで、泡のように溢れ出てきます。しかし、これは、1つか2つの言葉から始まります。第二に神さまは霊的な目を通して、語りかけます。頭に浮かぶ絵(メンタルピクチャー)を通して、私たちに語りかけます。白黒の場合もあるし、テレビのようにカラフルな場合もあります。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。そのようにして神さまは絵によって、あなたに語りかけます。第三は、神さまは霊的な感覚を通して語りかけられます。ある人はこれを「印象」と呼びます。私たちは人の傍に寄ると、何か感じるときがあります。「怒り」「混乱」「悲しみ」「罪悪感」などです。霊的に敏感な人は、人の中にいるだけで疲れてしまいます。悪いものを知らずに受けるからです。そういう人は、普段は霊のアンテナをひっこめておきましょう。とにかく、預言にはことば、絵、印象の3つがあるということを学びました。

アメリカのチェ・アン師は「預言的なことばは伝道のために非常に力になる」と教えてくださいました。ペンテコステの日、ペテロがヨエル書から説教しました。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」ペンテコステの日から、預言者でなくても、息子や娘が預言し、青年が幻を見、老人が夢を見るようになったのです。神さまがある時はことばを与え、あるときは映像を見せて「この人と語りなさい」と言われます。預言的なことばが伝道の鍵になるということです。まさしくそれはマタイ16章に記されている「御国の鍵」です。私たちは預言的な祈りによって、縛ったり、解いたりすることができるのです。ケニアにサイモンという伝道者がいました。ジャングルを歩いていると、突然、「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と語る神さまの声を聞きました。周りにだれもいなかったので、空耳かなと思いました。神さまが「もう一度語りなさい」と言われました。目の前にサルがいました。「これはテストかな?」と思いましたが、「神さまはあなたを愛しておられます。イエス様はあなたの罪のため十字架にかかられ、三日目によみがえられました」と福音を語りました。すると、神さまは「招きをしなさい」と言われました。「え?サルを招くのですか?」彼はビリー・グラハムがやるように、「イエス様を信じたなら、前に出て人生を神さまに明け渡しなさい」と言いました。すると、ジャングルの木陰から、15人の女性たちが出て来ました。驚いたことに、彼女らは招きに応じて出てきたのです。ある時、チェ・アン師が洗車場に車を洗いに行きました。そこには待合室があり、そこに首にコルセットをした女性がいました。神さまは「彼女は首の裏に病気を持っているので祈ってあげなさい」と言われました。彼女の隣に座ると、彼女の方から声をかけてきました。先生が、「あなたの首どうしたのですか」と聞きました。「5年前、家で仕事をしていたとき、椅子から仰向けに倒れてしまいました。手術を受けましたが、骨の病気もあり首が動きません。右腕も麻痺しています」と答えました。彼女から同意を受けたあと、頭の上に手を置いて祈りました。彼女に「首を動かしてみてください」と言いました。「首を動かしても痛くない。腕も動く」と答えました。彼女はその後イエス様を信じて受け入れました。これは、預言的なことば、預言的な祈りを用いる伝道です。

キリストは、預言者を召しておられます。この世にキリストの和解をもたらし、教会を建て上げるために必要です。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めましょう。預言は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるため、そして伝道するためにとても重要な賜物だからです。