2018.10.28「満ち足りる心 ピリピ4:11-20」

 白人は日焼けサロンにいきます。黒人は肌が白くなるクリームを塗ります。髪の毛が縮れている人はストレートパーマをしにサロンに行きます。髪の毛のまっすぐな人は、パーマをかけにサロンにいきます。髪の毛の少ない人は、増毛するために何かをします。このように人は自分にないものを欲しがる傾向があります。そして、今、持っているものに満足できません。夢を追い求めることは悪いことではありません。でも、目標が達成できないからと言って、フラストレーションがたまって、現状を喜べないというのはまことに不幸です。

1.満ち足りることを学ぶ

 ピリピ4:11「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」使徒パウロは何かを学びました。一体、何を学んだのでしょう?パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。この時、パウロはローマの牢獄に捕えられていました。最初はある程度の自由が与えられていたようですが、後半は狭い独房でした。汚物が混じった下水が側を流れている、じめじめした小部屋でした。そんな状況の中で、パウロは「喜びなさい」という手紙をピリピの人たちに書き送っています。これまでパウロは3回の伝道旅行をしてきました。小アジアのエペソやガラテヤ、そして海を渡ってギリシャやコリントに福音を宣べ伝えました。最後は囚われの身になって、ローマに渡りました。パウロはカイザルから裁判を受けようと願っていますが、キリスト教に対する迫害も加わってきました。もし、パウロが自由の身であるなら、スペインまで宣教に行きたかったでしょう。ところがそれが叶わず、今は捕らわれの身です。もし、私がパウロだったら「主よ、どうしてですか?あなたは私を異邦人の宣教のために遣わしたではありませんか?こんな状態では、あなた自身の損失になりますよ」と訴えることもできたでしょう。でも、パウロは拘束されていたので、手紙を各教会に書き送ることができました。現在、獄中からの手紙が4つか5つ残っているのは、そのためであります。おそらく、パウロが自由に活動していたなら、このような手紙を書く時間がなかったでしょう。

 パウロはここで、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言いました。あのパウロですら何か学ぶ必要があったのです。それは、どんな境遇にあっても満ち足りることです。パウロがそうであるなら、私たちも満ち足りることを学ぶ必要があるのではないでしょうか?私たちは神さまに対して、いろんな夢や希望を抱きながら生活しています。早く新しい家に住みたい。早く昇進したい。早く結婚したい。早く子どもが与えられたい。早く子育てを終えたい。早く健康になりたい。早く家のローンを返したい。「一日も早く願いが叶うように」というのが、正直な願いでありましょう。でも、夢や希望がなかなか実現しないと、フラストレーションがたまります。いらいらして、毎日を楽しく生きることができなくなります。私たちは「神さまには時がある」ということを学ばなければなりません。そして、神さまに信頼し、神さまの御手にゆだねることです。もし、神さまが私たちをテストしておられると考えるならどうでしょう?それはどういう意味でしょう?今の状態でも、「満ち足りる心を持っているか?」ということです。「満ち足りる」は英語の聖書では、be contentということばです。Contentは「満足して、安心して、甘んじて」という意味です。私たちは「満足したら、成長が止まってしまうだろう。もっと高みを目指すべきでしょう」と言うかもしれません。確かにそうですが、山の頂上に達することも重要ですが、そのプロセスを楽しむことも必要です。頂上ばっかり見ていると、道端に咲いている花とか、景色を見ることができません。男性は目的を達成することに力を向けますが、その点、女性はプロセスを楽しむことができます。たとえば、男性が買い物に行くとき、「これを買いに行くんだ」と売り場を目指し、買ったらすぐ帰ってきます。でも、女性は1つの店を回り、気に入ったものがなかったら2つめの店、3つめの店に行きます。そして、戻ってきて最初の店で買ったりします。でも、買わないときもあります。女性はショッピングというプロセスを楽しんでいるのです。私たち男性は一緒に行かないで、どこかで待ち合わせしている方が幸いです。

 私たちはたとえ家が狭くても満足すべきです。もし、神さまの導きなしで、大豪邸が与えられたら、部屋数が多くて掃除が大変です。家族肩を寄せ合う狭い家も良いものです。もし、神さまの導きなしで部長になったら重い責任がかぶさってくるでしょう。それよりも、教会の奉仕の時間が持てるヒラ社員も良いです。もし、神さまの導きでなくて結婚したら、「ああ、しなければよかった」「他の人と結婚すれば良かった」と思うかもしれません。独身を楽しむこともできます。子どもが早く与えられたらと思っているかもしれません。でも、子どもが生まれたら、夜中に何度も起きなければなりません。「早くおしめが取れたら、働きに出られるのに」と思っている子育て中のお母さん。しかし、後からは、おしめをつけていた頃が一番、可愛かったと思うでしょう。伝道者の書には「すべてに時がある」と書かれています。他の訳は「すべてにシーズンがある」と訳されています。そうです。あなたは今のシーズンを楽しむべきなのです。なぜなら、今のそのことは神さまからのテストだからです。神さまは「今の状態を喜んでいるか、満ち足りているか」テストしておられます。もし、そのテストに合格するなら、次のシーズン、次のステップに進むことができるでしょう。民数記に書かれていますが、イスラエルの人たちはいつも不平不満をもらしていました。「喉が渇いた、水が飲みたい」「肉が食べたい、ニラやたまねぎが食べたい」といつもつぶやいていました。天よりのマナが降って来ても、「もう飽きた」と言いました。どうなったでしょう?彼らは安息の地に入ることができませんでした。彼らは満ち足りる心を持つことができなかったので、不合格になったのです。

 私たちは、神さまから満ち足りることを学ぶという試験を受けています。今、自分にないものを数えたら、決して満足することできません。あれがない、これがないと不満だらけになるでしょう。しかし、今あるものを数えたならどうでしょう。「ああ、これも主の恵み」「ああ、これも主の恵み」、今まで当たりまえだったものが、そうではない。とても貴重なものであったことがわかります。今ある肉体、今ある仕事、今ある家庭、今ある住まい、今ある人生を感謝しましょう。

2.秘訣を心得る


 ピリピ4:12「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」パウロはあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると言っています。パウロが常に貧しくて、飢えていたかというとそうでもありません。パウロは豊かで、富んでいたこともありました。クリスチャンは豊かで、富むことが悪みたいに言われていますが、そうではありません。どちらが、誘惑が多いでしょう?箴言30:9「私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かで、富んでいれば、「主とはだれか」と忘れてまいます。貧しいと、盗みをして神さまの名を汚すことになります。どちらも誘惑になります。あらゆる境遇に対処する秘訣とは何なのでしょうか?パウロは4章13節で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と述べています。キリスト教会では、13節だけを取り上げて「私はキリストにあってどんなことでもできるのです」と言います。このところから積極的な信仰について語ることができるかもしれません。しかし、12節と13節を連続して読むならば、ちょっと見方が変わってきます。パウロは12節で「貧しさと豊かさ、飽くことにも飢えること、富むこと乏しいこと、あらゆる境遇に対処する秘訣は何か」と言っています。その後、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言っています。もし、連続して読むならば、環境を乗り越える秘訣とはキリストではないかということです。しかも、キリストにあって何でもできるということではなく、貧しさや豊かさを乗り越えることができるということです。

 パウロは今、ローマの獄中に捕えられています。劣悪な環境で、食べるものもこと欠いている状態です。私たちは小腹がすいたら、ちょっと歩けば、コンビニで何でも買えます。100円でコーヒーも飲めます。パウロは飢えて、乏しい状態でした。そういう中で、何ができるのでしょうか?パウロにはキリスト様が共におられました。ピリピ4:4,5「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」パウロは、ピリピの人たちに「喜びなさい」と勧めています。その根拠は何なのでしょうか?「主は近い」ということです。これは主がまもなく来られるという再臨の意味と、主がすぐそばにおられるという両方の意味があります。パウロは早く地上を去って、主のもとに行きたいという願いがありました。しかし、劣悪な環境の中にこそ、主が近くにおられるということを体験したのではないかと思います。私たちは環境や状況によって、嬉しくなったり、悲しくなったりします。もし、私がパウロと同じような環境で、「喜びなさい」とはおそらく言えないでしょう。良い整えられた環境で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言うなら、とてもおめでたい信仰です。病気の時や失敗した時は、なかなか言えません。もし、そうだとしたら、キリストにある秘訣を知らないということになります。

 パウロは変えられない環境の中でも、喜ぶことができました。あらゆる環境の中にあっても、満ち足りる心を持つことは可能なのでしょうか?「あなたが植えられたところで花を咲かせよ」という格言があります。ダビデの生涯を見ますと、彼はあらゆる環境の中でも、満ち足りて生きることができたことが分かります。ダビデはサムエルから次の王様になるという油注ぎを受けていました。しかし、彼は、しばらくの間、羊飼いをしていました。お兄さんたちは、戦争に出かけて、第一戦で活躍していました。ダビデはこのように言うこともできました。「神さま、あなたは偉大な約束を私に与えてくださいました。なのに、私はここで羊の番をしています。これって正しいのでしょうか?」しかし、ダビデはこの秘訣を知っていました。彼は自分が与えられた場所で忠実に働いていたのです。ダビデは将来のことを神さまにゆだねていましたので、羊を飼うことに満足していました。しかし、ある時、お父さんから戦場の兄たちにお使いを頼まれました。そのとき、イスラエルがゴリアテの前に恐れおののいていることを見ました。兄のエリアブが言いました。「一体、お前はなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けてきたのか?」と言われました。でも、ダビデは彼のことばを聞き流し、サウル王に「私に戦わせてください」と進言しました。主がダビデと共におられたので、3メートルもあるゴリアテを倒すことができました。その後、ダビデは宮殿に迎えられました。原っぱからpalace宮殿です。

もし、私たちが今、与えられている場所において忠実でないなら、どうして神さまは次のステップを与えて下さるでしょうか?『天国の人』という本からです。60年間も遊園地で働いている一人の男性がいました。彼の両親が遊園地のオーナーだったので、その後を継いで、人生のほとんどを遊園地の仕事にささげました。しかし、彼はそこで働きたくなかったのです。彼はもっと大きな夢がありましたが、不幸なことに続けるしかありませんでした。夢が成就していない不満を持ちながら、憂鬱な思いで遊園地の仕事を続けていました。しかし、表向きは親切で思いやりのある人物として振る舞い、人々を助けていましたが、心の中は不幸せで、自分は失敗した人生を送っていると思っていました。83歳になったある日のこと、乗り物を支えるワイヤーが切れて落ちて来ました。彼は真下にいた女の子を押し倒し、代わりに命を落としました。彼は天国に行って、自分に影響を与えた5人と会いました。47歳で死んだ妻とも会いました。5人目は焼けただれた5歳の女の子でした。彼が戦争に行ったときフィリピンの村を焼き払ったことがありました。彼は心から女の子にお詫びをしました。すると、彼女は遊園地の女の子が助かったことを教えてくれました。彼はそれまで自分は間違った場所で、間違った仕事をしてきたと思っていました。神さまは天国に来た人に、天国のどのような場所に住みたいか自由に選ばせました。ある人は海辺、ある人は宮殿、ある人は山の上を選びました。しかし、彼はあの遊園地を選びました。

 あなたは自分の希望が叶わないために、不満足でフラストレーションを持って生きはいないでしょうか?私も人のことは言えませんが…。でも神さまはあなたにふさわしい場所を与えておられるのです。その場所で喜んでいるなら、神さまは次のステップへと召してくださるでしょう。

3.私の神

 ピリピ4:19「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」使徒パウロは、神さまを「私の神は」と言っています。ということは、それだけパウロにとって親しいお方であったということです。パウロはこれまでの人生において、神さまが必要を満たしてくださったという体験があったということです。だから、「私の神は」と自信をもって言えるのだと思います。続いて、「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」と書かれています。神さまは栄光の富をお持ちなのですが、それを引き出すためのお名前があるということです。それは「キリスト・イエス」です。パウロがここで「イエス・キリスト」と言っていないのは、神であるお方、キリストを強調したいためです。そういう順番はともかく、イエス様を通して、神さまご自身の栄光の富が満たされるということでしょう。他の宗教はともかく、私たちはパウロのように「私の神は」と言えるほど、親しい関係を持つ必要があります。だれかの神さまではなく、「私の神さま」と言えたら幸いです。私は信仰歴がそろそろ40年になります。イエス様を信じる前と、信じた後のことを比較するなら、「格段に違うなー」と確信をもって言うことができます。まず、イエス様を信じていなかった頃は、「感謝する」ということが全くありませんでした。不平不満のかたまりであり、自分がないものばかりに目を留めていました。学歴もない、頭も良くない、お金もない、財産もない、コネもない。私の家の隣の友人は長男だったので、大事にされ、物質的にもとても恵まれていました。私は母に「これ買ってくれ、あれ買ってくれ」と母を困らせました。なぜなら、自分が持っていないものを、隣の友人が持っていたからです。あれから、40年たってどうなったでしょう?友人は農家を継ぐ羽目になりました。彼は田んぼを売ってパチンコに明け暮れていると聞きました。

 しかし、私はクリスチャンになってから全く人生が好転しました。この間、道路を走っていたら、三菱のアルトが走っていました。そういえば、「赤い軽のアルトで家族みんな乗っていたなー」と思い出しました。牧師館も古かったけど、子どもたちは教会堂や広い庭で遊んでいました。昔、幼児園をやっていたので、敷地があったのです。家内が支えてくれて、神学校も行けたし、通信の大学も卒業できました。教会堂が古くて、隙間風が入り、床がいつもざらざらでしていました。会堂掃除のときは、姉妹方が来られました。長老の奥様の梅野さんは、掃除を終わった後、お昼に「力うどん」を出前で取ってくれました。新会堂は備品を含め、1億4000万円借金なしで建てることができました。あれから25年も経つので、「古い」とか言う人がいますが、私にとっては新会堂です。神の栄光と知恵の傑作品です。ゴスペルで大勢の人が救われ、小リバイバルを体験させていただきました。子どもたちの学費で苦労した時もありましたが、4人も生んだのですから当たり前ですね。「8人兄弟の7番目のヤスが、よく、まあ4人も育てられたなー」と思います。私も曲がりなりにも、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と言うことができます。

私たちは「もっとお金があれば、満ち足りる心をもつことができるだろう」と言うかもしれません。しかし、満ち足りるべき最初のものは、「心」であります。お金と心は必ずしも正比例しません。残念ながらお金がたくさんあっても、心が満たされていない人が、この世にたくさんいるからです。もちろん、お金もあったら良いでしょうが、その前にもっと重要なものがあります。それは、すべての源なる神さまを持っているかどうかです。パウロは「私の神は、栄光の富を持っておられる」と言いました。そして、キリスト・イエスがその富を引き出すことができます。つまり、心の中に神さまを持つことが何よりも先決だということです。ジョエル・オスティーンのお父さんは牧師でした。ジョエルを含め、五人の子どもたちがおり、お家はそんなに豊かでありませでした。でも、ジョエルは貧しいと感じたことがなかったそうです。家族でビッグ・ヴァケーションに行くことはありませんでしたが、よく空港に連れて行ってくれたそうです。空港にはターミナルAとターミナルBがありました。空港には2つのターミナルを連絡する、無料の乗り物があったそうです。父親と子どもたちは飛行機に乗るわけではなく、ターミナルAとターミナルBを行き来しているだけです。ある人たちは、「この親子はきっと迷子になっているんだろう」と思ったかもしれません。でも、子どもたちはそれに乗るのがとっても楽しかったそうです。お父さんは、お金をかけなくても、楽しく過ごす方法を知っていたのです。

私たちは見方を変える必要があります。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって必要をすべて満たしてくださるに違いない」と期待して生きるならそうなります。「神さまはケチで、何もくれない」と思っていると、側にあるすばらしいものが見えません。私は朝、中川の川べり散歩をします。この春ですが、土手に薄汚れた桜の木がありました。もう、そめい吉野は散っているので、この灰色の木は一体何だろうと近づきました。なんとその木は山桜の木で、花が咲いていました。葉っぱと一緒だったので、灰色に見えたのです。「ああ、山桜だったんだー」と感動しました。4番目の息子が大学1年になり、淵野辺の校舎に行きました。アパートを借りるときにひと悶着ありました。私がひとりで全部決めたので、息子は不満だったようです。「せっかくやってあげたのに」と、ものすごく憤慨しました。でも、あとから思いました。「この間までおしゃぶりをしゃぶっていた子が、あんな大きな口をたたくようになったんだなー」と憤慨から感慨に変わりました。子どもたちと川の字で寝ていた寝室ですが、今は、すぐ隣に妻が寝ています。家内に「ああ、結婚したんだよなー」と言います。「何、言っているのよ、30何年もたって」と言い返されます。そうです。当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかったのです。神さまからたくさんのものを受けているのに、いつの間にか「当たり前」になり、無感動になります。古い家に住んでいる人は、屋根があることを感謝しましょう。仕事で忙しい人は、仕事があることを感謝しましょう。失業している人がいっぱいいるからです。足がきかない人は手がきくことを感謝しましょう。手がきかない人は口がきけることを感謝しましょう。口もきけず、耳もきこえず、目も見えなくなったら、永遠のいのちがあることを感謝しましょう。