2018.11.4「霊的飢え渇き エゼキエル47:3-12」

 イエス様はルカ福音書で「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」(ルカ6:20,21)と言われました。リバイバル(霊的復興、初代教会のような出来事)が起こるために必要なことは、飢え渇きです。私たちが主を切に求めると、そこに主のみわざが起こり、多くの人たちが救われます。きょうは、私たちはどのような飢え渇きを持つべきなのか3つのポイントでメッセージをさせていただきます。

1.神さまに対する飢え渇き

 ギリシャ語で「知る」は二種類あります。ギノスコーは知的に知るということです。もう1つはオイダであり、これは体験的に知るということです。新約聖書ではこのことが交互に使われています。ヨハネ5章でイエス様はユダヤ人にこう言われました。ヨハネ5:39-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」彼らのように、聖書を勉強することは大変良いことです。しかし、聖書はだれのことを書いてあるかというと、イエス様についてであります。たとえて言うなら聖書は非常口の表示板です。人々はその方向に非常口があると分かります。でも、だれも表示板そのものが非常口だとは思いません。ユダヤ人は聖書に精通していましたが、聖書が示しているお方を受け入れませんでした。彼らは知的に高慢になっており、イエス様が自分たちの考えているメシヤとは違うと拒絶しました。私たちは神学を勉強すると、神さまのことが全部わかったような気になります。神さまは「全能である」と頭では分かっています。でも、生活が困窮している中で、神さまが本当に助けになると信じていません。その人は神さまを知的には理解していても、全能の神さまを体験していないということになります。知性と信仰が乖離してしまうような勉強はしないほうがましです。なぜなら、聖書に「知識は人を高ぶらせる」(Ⅰコリント8:2)書いてあるからです。

 私たちはへりくだって主を知ることを求めなければなりません。ホセヤ6:3 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」「後の雨」は3月から4月頃に降り、穀物の豊かな実りをもたらすので、祝福の雨とされています。聖書で「前の雨」はペンテコステのことです。そして、「後の雨」は、世の終わりのリバイバルを象徴しています。私たちは世の終わりの時代に住んでいます。世の人たちは、聖書も読まないし、神さまを知ろうともしません。なぜなら、他に楽しいことがいっぱいあるからです。世の終わりの教会はラオデキヤのように「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と言うようになります。しかし、主は「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、私は口からあなたを吐き出そう」(黙示録3:16-17)と言われます。「もう、自分は豊かになった、乏しいものは何もない」と、飢え渇きがありません。終わりの時代だからこそ、私たちは主を知ることを切に追い求めなければなりません。このままですと、大収穫のないまま、世の終わりが来てしまいます。神さまは忍耐しておられ、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます」(Ⅱペテロ3:9)。私たちは飢え渇きをもって、主を知ることを求める必要があります。 

 ビル・ジョンソン師は「主を知るとは、主の臨在を慕い求めることである」と言っています。彼は『主の臨在をもてなす』という本の中でこう述べています。「詩篇16:11『あなたの臨在の中には喜びが満ち』とあります。どこに喜びがあるのか、臨在の中です。もし、家の中でも神の臨在をもっと意識するなら、家の中がどこよりも大きな喜びが満ちあふれるでしょう。ダビデのきわだった生涯を考えると、ダビデの成功の秘訣は主の臨在でした。ダビデは主の臨在に心を向けなければ、人生のコンパスを失うことを知っていたのです」(原本直訳)。私たちは聖書を読んで神さまを知ることができます。さらに、礼拝と祈りによって神さまと深く交わることができます。そのためには5分でも、10分でも、静まる必要があります。そこに神の霊が臨んでくださり、あなたは刷新されるでしょう。神さまとの人格的な交わりほどすばらしいものはありません。人と会うためには相手の都合を聞かなければなりません。アポイントメントを取らないと会えないかもしれません。でも、神さまはいつでも、私たちとお会いして下さり、親しく交わってくださいます。すばらしいことに、このことが聖霊によって可能になったのです。

 私たちは祈りといえば、「あれしてください」「これしてください」と願うことだと思っているかもしれません。嘆願やとりなしの祈りをする前に、私たちは主だけを求め、主と親しい時を過ごすことを優先すべきです。主のご愛と恵みと信仰に満たされて、はじめて嘆願やとりなしの祈りが力強くできるのです。とりなしの賜物のある人は、1時間も課題をあげて祈っても大丈夫です。しかし、普通の人は、まず自分が満たされるように祈るべきです。その後、人のために祈るなら霊的に枯れることはありません。先ほど、神学の勉強が必要でないような言い方をしましたが、そういう意味ではありません。神学は信仰を体系付けるためにとても重要です。神学は両脇の極端の溝にはまらないように、真理の王道を示してくれます。でも、それで神さまが分かったようになるのは大間違いです。その中味を満たすのは信仰であり、生きた神さまとの交わりです。神さまが本当に全知全能なお方なのかは、自分の生活で神さまと共に生活しないかぎり分かりません。子育て、仕事、人間関係、いろんな問題や困難を乗り越えて行く中で、「ああ、人にはできないが神にはできる」と分かるのです。頭の信仰ではなく、全人格的な信仰になったら幸いです。不思議なことに、そのように神さまを知るともっと神さまを知りたくなります。イエス様は「私が真理である」と言われました。だったら私たちも、真理を知るために時間をかけるべきです。そうするなら、真理の御霊が交わりの中で、親しく教えてくださいます。神さまを知れば知るほど、もっと知りたくなります。世の楽しみは中毒になって、身を滅ぼしてしまいます。しかし、神さまを求めれば求めるほど、満たされ、祝福を受けます。アーメン。

2.油注ぎに対する飢え渇き

 イエス様は天にお帰りになる前、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と弟子たちに命じられました。そして、ペンテコステの日、約束の聖霊が彼らの上に臨まれました。「彼らは聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました(使徒2:4)」。「聖霊に満たされる」は、ギリシャ語から2種類あることがわかります。第一つは「内側が聖霊で満たされる」です。これは聖霊によって支配されるという人格的な意味です。もう1つは「外側からすっぽり聖霊で満たされる」です。これは聖霊によってその人に力が与えられるということです。後者を「聖霊のバプテスマ」、あるいは「聖霊の油注ぎ」と呼んでいます。もちろん、教団教派によって考え方や表現は違います。奇跡やしるしを信じる人たちは、この立場を支持しています。実はイエス様も上から聖霊の力を受ける必要がありました。イエス様はバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けました。その直後、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエス様の上に下られました(ルカ3:22)。そのことは何を意味するのでしょう?それはイザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ」という預言の成就です。つまり、この時、イエス様は上から聖霊を受けて、メシヤとしてのミニストリーを行うができるようになったということです。3年半の間、イエス様は福音を宣べ伝え、病人を癒し、さまざまな奇跡を行ないました。この地上を去る前に、イエス様はこのようなことをおっしゃいました。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これは弟子たちだけではなく、私たちクリスチャンにも向けられている約束であることを信じられるでしょうか?その根拠は、イエス様はご自分の力ではなく、聖霊によって神のわざを行っていたからです。イエス様は私たちの模範であったということです。私たちも聖霊を上から受けるとイエス様と同じことができるという約束です。

 聖霊を上から受ける、つまり聖霊の油注ぎには、いろんな体験があります。初代教会の頃は、異言や預言を話したりしました。しかし、体験は人によって様々であり、それを定まった教義にしてはいけません。でも、私は油注ぎが1回限りではなく、何度も受けて良いものであり、また受けるものだと思っています。Ⅱテモテ1:6「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」おそらく、テモテは神の賜物が消えかかっていたのではないでしょうか。だから、それをかき回して、もう一度、燃え立たせる必要がありました。ここで、「按手」ということばが出てきます。パウロはエペソの人たちにも按手しました。使徒19:6「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」とあります。聖霊のバプテスマは個人で祈っているときにも与えられます。しかし、だれか神の人から手を置いて祈ってもらったときも与えられるということです。これを英語ではimpartation分与と呼んでいます。

私があこがれる聖霊体験を持たれた二人の先生をご紹介したいと思います。最初はランディ・クラーク師の証です。1984年1月、二人の執事とダラスの集会に出席しました。ジョン・ウィンバーとチョーヨンギ師が講師でした。最後に招きがあり、多くの人たちが泣いていました。私は跪いて、ちょっとだけ祈ってから帰ろうと思いました。なぜなら、この様子がテレビで放映されていたからです。主の霊が私に「両手をあげなさい」と言われたように思いました。私はバプテストです。バプテストはそんなことをしません。しかし、両手を上げました。その瞬間、神の霊が私を打ちました。私は混乱し、感情を失い、すべって最後には床にねそべりました。なんと、私が寝そべって体をゆらしているシーンが大きなスクリーンに映し出されました。私のプライドは打ち砕かれました。聖霊は再び私を打ち、私は1時間も床の上で横たわり、震えながら泣いていまし。私はその後、何年間も小さな教会でドーナツをあげなら牧会していました。1991年1月トロントの教会に講師として招かれました。46日間集会が続き、霊の力強い油注ぎの集会へと発展し、平安、癒し、体の震え、神の力によって倒れる、笑い、多くの異言などの聖書にある顕著な事柄が揃って現れました。かつて、ジョン・ウィンバーが「あなたには使徒的な召しがあります。あなたは世界中を旅して、聖霊を付与する人になります」という知識の言葉が成就しました。

もう一人は、ビル・ジョンソン師の証です。1995年2月、トロントの集会にスタッフたちを連れて出席しました。油注ぎがあまりにも強くて、歩くことができませんでした。私たちはそこからブレークスルーが始まったと信じています。その年の10月のある晩のことです。早朝3時に目がさめましたが、体を動かすことができません。私はベッドに横たわりながら「主よ、私の両手はそびえ立っています。私の両足もそびえ立っています。私の体もコントロールできません。」と言いました。私はそのとき「天に引き上げられるのかな」と思いました。その後、両手と両足が私の体からちぎれるほど乱暴に動きました。電流が私の体中を流れ、このまま死ぬかと思いました。「ああ、これは神さまだ。でも、神さまが何をしているのか分からない」と思いました。気持ちは良くありませんでしたが、喜びにあふれていました。正直なところ、とてもみじめな方法で満たされたと思いました。私は朝起きたとき「神さま、もっと与えて下さい」と祈りました。しかし、私はその代価を払わなければなりませんでした。お昼にお気に入りのレストランに行きました。突然、夜と同じように、手足に震えが来て、体からひきちぎられそうになりました。目の前に運ばれて来たばかりのスパゲィーがありました。「神さま、今ですか?」と思った瞬間、顔がお皿の上にのめりこみました。すべての威厳が私から取り去られたように思いました。

ビル・ジョンソン師は、15年間祈ってもだれも癒されませんでした。しかし、この時から、数えきれない人たちが癒されるようになりました。私たちは聖霊を上から受ける必要があります。そうすれば、賜物が開かれ、力が与えられ、すばらしいことが私たちを通して起るでしょう。聖霊の油注ぎは、自分が癒されるだけではなく、大いなる神の働きの突破口になるからです。聖霊の油注ぎによるブレークスルー、霊的突破口にあこがれます。

3.ミニストリーに対する飢え渇き

 ミニストリーとはイエス様が地上で行われた「働き」のことです。マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」と書いてあります。イエス様は「教え、福音宣教、病の癒し」をなされました。その他に、イエス様は嵐を静めたり、パンを増やしたり、死人さえよみがえらせました。いわゆる「しるしと奇跡」を行いました。私は神学校で、聖書の教えや伝道について学びました。しかし、それは、イエス様がなさったようにではありませんでした。福音書を見ると分かりますが、イエス様は聖霊による賜物を用いて伝道しました。サマリヤの女性に対しては、知識の賜物によって彼女に夫が5人いたことを言い当てました。一挙に彼女の心が開き、イエス様を預言者だと告白しました。パリサイ人や律法学者たちから難問をふっかけられました。イエス様の教えの多くは反対者たちとの論争から来るものでした。「カイザルものはカイザルに返しなさい」と答えたら、彼らは何も言えず去って行きました。イエス様はそのとき、知恵の賜物を用いたに違いありません。ザアカイに対してはどうだったでしょう。彼はいちじく桑の上で隠れていました。イエス様は木の根元に来て、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。イエス様は、ザアカイの居場所、名前、予定まで示しました。イエス様はこのとき、預言の賜物を用いたに違いありません。現代の教会は、音楽伝道、喫茶店伝道、英会話伝道をやってきました。現代の教会は、イエス様や弟子たちが行った伝道法とは全く違います。

イエス様は弟子たちにこのように命じました。マタイ10:7.8NASB直訳「行って説教し、天の王国が近づいたと言いなさい。病人を癒し、死人をよみがえらせ、らい病人たちをきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」これが聖書で言う伝道です。ところが、私が学んだ神学校ではこんなことを教えてくれませんでした。ある人は、「そういう目覚ましい奇跡は聖書の完成とともに必要でなくなった」と言いました。しかし、リバイバルが起こっている各地では、聖書の記述と同じようなことが今でも起こっています。40年前、私がクリスチャンになった頃は、インドネシヤのチモールにリバイバルが起きました。水がぶどう酒に変わる奇跡も起こったと聞きました。中国では死んだ人が何百人も生き返ったと聞きました。インドではらい病人が癒されました。アルゼンチンではなくなった歯が新しく生えたという奇跡も起こりました。イスラム教の伝道は最も難しいと思われています。イエス様が直接、彼らの現れてくださり、彼らがイエス様を信じています。現在はアフリカ中にリバイバルが起こり、聖書の記述と同じようなことが繰り返し起こっています。集会が終わった後に松葉杖の山ができるそうです。私たちが学校で習った神学はなんだったのだろうと思います。自分たちの神学と経験に神さまを押し込めていたのです。しかし、神さまは私たちの神学と経験以上のお方です。私たちは聖書を神のことばと信じるならば、その内容もそのまま信じなくてはなりません。

 ランディ・クラーク師は道端を歩きながら、「アルゼンチンで起っているようなことが、どうしてアメリカで起らないのだろうか」と思いました。自分の中には、渇きと懐疑心がありました。すると突然、声がしました。「Man、私はアルゼンチンにおけるリバイバルの油注ぎの下から来ている。私たちは多くの人々が癒されるのを見なければならない。ここでなければならない」。そのことばは彼を本当に励ましました。それまでランディは多くの癒しのミニストリーをやってきました。しかし、彼は体の中に埋め込まれている金属が消えてなくなるという奇跡を見たことがありませんでした。ある日、ビル・ジョンソンと一緒に集会を持っていました。ビル・ジョンソン師が「神さまが金属の埋め込まれている人を癒したいと願っています。その人は立ちなさい」と言いました。その時、祈りましたが、だれも癒されませんでした。非常にがっかりし、信仰的にも打ち倒されました。次の日はコロラドで集会を持ちました。きょうは金属のための祈りはしないぞと決心していました。食事をしようとしていたとき、だれかが大きな封筒を持って来ました。「ひどい痛みがあります」と表書きと名前がありました。封筒を開けると頸部のレントゲン写真が同封されていました。首のねじを数えてみました。23,24個、それ以上ある。それだけではなく、脊椎には4本の長い棒と横棒がありました。「昨晩もできなかったんだから、今晩はやらないことにしよう」と決意していました。

 賛美が終わると、私はそれをしてしまいました。「神さまが体に金属を埋め込まれている人を癒そうとしているのが見えます。金属を体に持っている人は立ちなさい」と言いました。47人の金属を持っているたちが立ち上がりました。ビル・ジョンソンが祈り、私も祈りました。23人の人たちが癒されました。その中の11人がステージに上り証をしました。次の日、その中の5人か6人をインタビューしました。彼らはモルヒネ・パッチをしていましたが、今はしていません。なぜなら、何年間も続いていた痛みが消え去ったからです。私は彼らが今までいていなかったことをするのを見ました。その日から、そのような癒しを受けた人の数を数えることにしました。1年間で180人の人たちが、金属が消えたと証をしました。私はブレークスルーを体験しました。今は2011年になりますが、400人以上の人たちが、金属が消えたと証をしています。

 ビル・ジョンソン師は15年間、祈っても一人も癒されませんでした。しかし、トロントで油注ぎを受けてから、どんどん人々が癒されるようになりました。ランディ・クラーク師も同じです。彼の場合は、知識の賜物で人々が癒されます。ある集会中ですが、「腫瘍」という文字そのものが見えました。その直後「腫瘍」と言いました。その時、会場にいた5人の人たちの腫瘍が癒されました。彼は私たちにこう勧めています。従うことです。遅れた従い方は、従っていないことになります。待っていると油注ぎがなくなり、みわざが起らなくなります。私は従うことを学びました。その時が来たら、瞬間に行動しましょう。神さまがあなたに何かを見せてくれたら、私がやったように「腫瘍」と言いましょう。その時、5人の人が瞬間に癒されました。私はことばが見えたら、瞬間に従うことを学びました。失敗を恐れず、従うなら奇跡は起こります。