2018.11.18「十戒と私たち Ⅰテモテ1:8-10」

 クリスチャンでしたら「モーセの十戒」を知っておられると思います。しかし、キリスト教会がそのまま全部守るべきなのか考えたことがあるでしょうか。私たちが救われるための条件はイエス・キリストの贖いを信じるという1点にあります。でも、救われてから、律法は役に立たないのか、全部破棄して良いのかというとそうでもありません。私たちは、パリサイ人や律法学者のように律法主義になってはいけませんが、律法に対する正しい立場を持つべきです。

 

1.十戒とイスラエル

 

 十戒は律法の中で中心的なものなので、きょうは律法と十戒を交互に言うことがあります。どちらも同じだと考えてください。モーセの十戒を分かり易くした数え歌があります。「1つ、1つの神を拝せよ。2つ、再び像を拝むな。3つ、みだりに御名を唱えるな。4つ、喜び安息守れ。5つ、いつまでも両親を敬え。6つ、むごい殺人を犯すな。7つ、汝姦淫を犯すな。8つ、やましい盗みをするな。9つ、こんりんざい偽証をたてるな。10で隣をむさぼるな。」では、モーセの十戒は一体誰に対して与えられたものでしょうか?私は法律の専門家ではありませんが、法解釈をするためには、その法律が制定された時点にさかのぼる必要があります。十戒は出エジプト記20章に記されています。しかし、その前に神である主がイスラエルと契約を結んでいる箇所があります。出エジプト記19:4-6「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」この契約はイスラエルをエジプトから解放した神である主とイスラエルが結んだものです。しかも、「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件付であります。後から、民は口をそろえて「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と言いました。その後、契約にくっついている守るべき条項、いわゆる律法が出エジプト記20章から31章まで長々と記されています。そして、十戒こそが数ある律法の中心的な戒めです。十戒のはじめに何と言われているでしょうか?「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出エジ20:2)となっています。ここで重要なことは、十戒とはじめとする律法はイスラエルに対するものであり、私たち異邦人に対してではないということを知らなければなりません。なぜなら、私たちはエジプトの国、奴隷の家から救い出された者でないからです。そして、私たちはキリストにあって新しい契約を結んだ民であり、十戒に代わる新しい戒めをいただいている者だからです。そのことは、次のポイントでお話ししたいと思います。

 でも、「私たちは、どの程度モーセの律法を守るべきか」という課題が残っています。パウロとバルナバが異邦人伝道を終えて帰ってきました。その後、エルサレムで会議が開かれました。ユダヤから下って来た人たちが「モーセの慣習にならって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張しました。パリサイ派から信者になった人々も立ち上がり「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言いました。そして、激しい論争がありました。どうなったでしょう?ペテロは「なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神をこころみようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(使徒15:11)と言いました。全会衆は沈黙していまいました。最後に議長のヤコブが立ち上がり、「ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきである」と決議しました。つまり、異邦人の私たちはモーセの律法を守らなくても、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということです。パウロが言ったように、キリストと共に死んだ私たちは律法から解放されていのです(参考:ガラテヤ2:19-20)。このことは、「律法からの解放」というメッセージですでに語りました。

 では、一体、律法はだれのためにあるのでしょう。Ⅰテモテ1:9-10「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」パウロは「律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです」(Ⅰテモテ1:8)と言いました。言い換えると、取扱い方を間違えると益にならないばかりか、害になるということです。律法の取り扱いにおける注意事項は何でしょう?「律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人…健全な教えにそむく事のためにあるのです。」私たちは、律法は正しいものであり守るべき戒めであると知っています。しかし、この世の多くの人たちはそれらを「時代遅れだとか、そんなの関係ない。俺たちは自由だ」と否定するでしょう。でも、彼らはイエス様を信じない人たちであり、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人たちであります。でも、使徒パウロは自分のことをこう言いました。「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。…私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:13,15)。パウロもかつてはそうだったんです。でも、パウロは悔い改めて、キリストによる救いをいだだきました。

 私はテレビのニュースを見て思うのですが、偉い人たちが平気で嘘をついているようです。殺人や姦淫も行われています。私は、「ああ、モーセの十戒を守っていたなら、そんな大きな害を受けなかったのになー」と思います。モーセの律法は、越えてならない、人生の道路の両脇のガードレールのような存在です。車に乗っている人は分かると思いますが、ガードレールを越えたら、大事故になるか、命を落とすことさえあります。でも、運転手はガードレールを直視して走っていません。道路の真ん中を見て、チラチラとガードレールを見ます。同じように、私たちは信仰の導き手であるイエス様を直視しつつ、超えてはならない律法をたまに見て生きているのです。

 

2.十戒とイエス・キリスト

 

 マタイ5:17,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」イエス様は、律法を廃棄するためではなく、成就するために来られました。ところが、イエス様は十戒をあえて破っておられるようにも思えます。安息日に関する戒めはどうでしょう?イエス様はあえて安息日に人々を癒されました。律法を厳格に守るパリサイ人たちは怒って、イエス様を殺そうとしました。なぜなら、彼らはイエス様が安息日に働いたと解釈したからです。また、ヨハネ8章には、姦淫の現場で捕えられた女性の記事があります。人々は「モーセの律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています」と主張しました。でも、イエス様は彼女を罪に定めませんでした。この時点でイエス様は十字架の贖いを成し遂げていません。また、この女性が罪を告白している様子もありません。それなのに十戒を無視して、簡単に赦して良いのでしょうか?また、汚れたものに触ってはならないという律法がありました。それなのに、イエス様は死んだ人に触れてよみがえらせ、らい病人に触れてきよめられました。きわめつけは、イエス様が裁判の席で、ご自分を神と等しくしたことです。これは十戒の第一番目、冒瀆罪に当たります。当時の大祭司は自分の衣を引き裂いて、「神への冒瀆だ。彼は死刑に当たる」と言いました。イエス様は、神の律法を守るパリサイ人、律法学者、祭司長たちから十字架につけられました。彼らは「イエスは自分を神とするとんでもない罪人だ」と裁いたのです。

 でも私たちは、イエス様は律法を破ったのではなく、律法を正しく解釈し、律法を成就したことを知っています。イエス様は律法の目的、律法の精神をよくご存じでした。律法の創立者が、この地上に来られて、正しく解き明かされたと考えることができます。そのことがマタイ5章から7章まで克明にしるされています。イエス様は「十戒」を取り上げながら、「私はこう言う」と解釈し直しました。それを聞いた人々はどう思ったでしょう?マタイ7:28,29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」「権威ある者」とは、authorityであり、「よりどころ」「出典」という意味もあります。当時の宗教家たちは、律法を誤用し、人々に重荷を負わせていました。イエス様はそのことをとても怒って軌道修正したのです。

さらに、イエス様は数多くある律法をたった2つにまとめました。律法学者が「律法の中で、大切な戒めはどれですか?」とイエス様を試すような質問をしました。イエス様はこのように答えられました。マタイ22:37-40「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」簡単にまとめると、神さまを全身全霊で愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛することの2つです。十戒で言うなら、第一戒から第四戒めまでが、神さまを愛するということです。そして、第五戒から第十戒めまでが、隣人を愛するということです。言い換えると、神さまを愛し、隣人を愛するという二つの戒めが、律法全体を網羅しているということです。なんとイエス様はスマート、頭が良いのでしょう。旧約の律法は200個以上あります。また、同時の宗教家はそれに「人々の教えや言い伝え」を加えていたので、膨大な数に達していました。それらをイエス様はたった2つにまとめたのです。「神を愛し、隣人を愛しなさい」これですべてがこと足りるのです。学校でこの2つの戒めを教えたなら、いじめがなくなるでしょう。刑務所でこの2つの戒めを教えたなら再犯率はぐっと下がることは間違いありません。実際、アメリカではこのことを実行して、ものすごく成果をあげています。ある人がクリスチャンになりましたが、社会的な罪の裁きを受けるために、刑務所に入りました。しかし、彼は大勢の服役中の人たちや刑務官たちを信仰に導いたという証を聞いたことがあります。

さらには、イエス・キリストによって古い戒めが、新しい命令になりました。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」文脈から見ると分かりますが、「古い命令」とは十戒を中心とする律法のことです。しかし、ヨハネは「新しい命令として書き送る」と言っています。古い戒めを捨て去るのではなく、renewalするということです。Renewalは書き換え、更新、復興と言う意味です。パウロはローマ10:4「キリストが律法を終わらせた(成就した)」と言っています。また、ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」と書いてあります。では、新しい契約と新しい律法とは何なのでしょうか?新しい契約はイエス・キリストを信じる者が義とされ救いを受けるということです。行いではなく、信仰だということです。新しい律法とは何でしょう?それは御霊による新生によって私たちの心の板に律法が刻まれているということです。教会でもモーセの律法を朗読しますが、そのとき、彼らの心には覆いが掛かかります。なぜでしょう?「ああ、ダメだな、自分は律法に達していないなー」と思うからです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」今日の教会は、キリストの恵みの中にあります。ところが親切にも、「モーセの律法を守らなければ神さまに受け入れられないよ」と言います。こうして文字は人を殺します。でも、私たちは律法を全うされたイエス様、そして律法を全うさせてくださるキリストの御霊を思うとき生きることができるのです。私たちは新しい契約の内に生かされていることを忘れてはいけません。

 

3.十戒と私たち

 

 第一は旧約時代、第二はイエス様の時代、第三は教会の時代と言うことができます。新約聖書で「教会」というと、ほとんどが異邦人から救われたクリスチャンをさします。パウロは「異邦人の時が満ちたら、ユダヤ人が救われる時が来る」(ローマ11:25-26)と言っているからです。ですから、新約聖書の書簡のほとんどが教会のために書かれていますので、そのみことばを私たちはダイレクトに学ぶ必要があります。書簡(手紙)を見ますと、モーセの十戒は記されていません。また、イエス様が律法をたった2つにまとめましたが、それもたった1つになっています。3か所開きますが、最初にローマ13章を見たいと思います。ローマ13:9-10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」第二はガラテヤ人への手紙です。ガラテヤ5:14「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」さらに、「御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」(ガラテヤ5:18)と書かれています。第三はヤコブの手紙からです。ヤコブ2:8 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」ヤコブは「えこひいきしないで、愛しなさい。自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい」と勧めています。注目すべき事は、ヤコブが「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が、最高の律法であると認めているということです。

これら3つに共通していることは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めだけが取り上げられているということです。そしてこの戒めは、それぞれ、「すべての律法を要約したもの」「律法全体を一語で全うするもの」「最高の律法」と呼ばれています。かつて、モーセの十戒がイエス様によって2つにまとめられましたが、最後は1つになっているということです。では、第一の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」が不要になったのでしょうか?このことに関しては、いくつかの答えがあると思います。簡単には言えません。新約聖書の書簡は、前半がキリストの贖いに関する教理的なことが記されています。そして、後半は信じた人がどう生きるべきかという倫理的なことがしるされています。ということは、前半のキリストを信じて神さまを愛するということが、前提になっているということでしょう。その上に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じられているのだという考えです。もう1つの考えは、「あなたが本当に神さまを愛しているのなら、あなたの隣人を愛するはずですよ」という証拠みたいなものです。ヨハネは第一の手紙の中でこう述べています。Ⅰヨハネ4:20-21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」なんと強烈なみことばでしょう。私たちは「父なる神さまあなたを愛します」。あるいは「イエス様あなたを愛します」と言うことができます。でも、「私のこの隣人は愛することはできません」「あの兄弟を、あの姉妹を愛することができません」と口では言わないかもしれませんが、思っているのではないでしょうか?ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言っています。イエス様の時代、パリサイ人や律法学者が宗教的な指導者でした。彼らは熱心に律法を守り、神さまをあがめ、神さまに仕えていました。でも、イエス様から「ああ、わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と呼ばれました。

 旧約時代もイエス様の時代も、「これこれの律法を守りなさいよ」と箇条書きにできるほど命じられていました。しかし、私たちの時代は、「神さまを本当に愛しているなら、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われているだけです。どっちが楽か?細かくてたくさんあるのも嫌ですけど、1つしかなくてあとは考えなさいというのも大変です。学校の時は、「廊下を走るな」とか「髪の毛が長い」とか先生から注意されました。ところが、大人になるとそういう細かい規則からは解放されます。同じように信仰を持つ前は、律法が私たちをキリストに導く養育係りでした。律法は「あなたはそれでは神さまから義と認められない、罪があるよ」と知らせてくれました。今度イエス様を信じて新しく生まれ変わりました。もちろん、私たちは旧約聖書のモーセの十戒を学ぶ必要があります。そして、新約聖書から教理と倫理についても学ぶ必要があるでしょう。でも、最後は自由な律法に仕え、御霊によって歩むしかありません。私たちが罪を犯さないのは神さまを悲しませたくないからです。私たちはイエス様から信頼されていますので、裏切りたくありません。私たちが戒めを守るのは、神さまから愛されているからです。地獄でさばかれるのがイヤだから、仕方なく守っているのは奴隷です。イエス様は私たちを友と呼ぶと言われました。ヨハネ15:14「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」イエス様は現在、御霊によってこちらにいらっしゃっています。イエス様が地上におられた頃、イエス様の周りにいた人たちが緊張したでしょうか?福音書を見ると分かりますが、12弟子たちは結構自由でした。取税人たちも一緒にイエス様と食事をしました。ベタニヤの兄弟たちはいつでもイエス様をお泊めしました。姉のマルタはイエス様にタメ口をききました。彼らがイエス様の近くで緊張していたという記事はほとんど見当たりません。

 私はこのことばが本当に大好きです。Ⅱコリント3:17「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれています(ローマ5:5)。私たちはその愛で神さまを愛します。また、その愛で「私の隣人を私自身のように愛する」ことができるのです。キリスト様につながっていれば大丈夫です。