2018.12.2「うしろのものを忘れ ピリピ3:12-14」

 啓発セミナーでも「肯定的に、前向きに生きる」ということが言われます。もちろん、そうだと思いますが、私は聖書的な根拠、神さまの助けがあってのことだと思います。きょうは、聖書の人物やみことばを取り上げながら、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むことの重要性に関してメッセージしたいと思います。

1.うしろのものを忘れ

 私たちは忘れてはいけないものと、忘れた方が良いものとがあります。もちろん、私たちは神さまの恵みを忘れてはいけません。私たちは罪からの救いだけではなく、たくさんの恵みを受けてきました。これらを数えて、神さまに感謝をささげなければなりません。ところが、私たちは忘れなければならない過去の出来事を、何度も思い起こしては、憂鬱になることはないでしょうか?パウロは「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」と言っています。でも、重要な真理は、うしろのものを忘れないと、前のものに向かって進むことはできないということです。たとえば、みなさんの家にクロゼット(洋服ダンス)はおありでしょうか。私のクロゼットはシャツや洋服がいっぱいで、家内から「着ないものは捨てなさい」と注意されます。「いつか着るだろう」と思っても、2,3年着ないものもあります。ズボンもそうですが、はいてみると、ウエストのところがパンパンで「無理!」というのも何本もあります。クロゼットもタンスもそうですが、古いものを捨てないと、新しいものを入れることができません。「人生の棚卸」があるとしたら、前に向かって進むためには、使用価値のない古いものは捨てなければなりません。

 かなり前に『アナと雪の女王』というディズニーのアニメ映画がありました。その映画の主題歌がLet it go.です。日本語の歌詞は「ありのままで」ですが、本当はそうでありません。この英語の本当の意味は「手放す」「あきらめる」です。ジョエル・オスティーンのある本に、Let it goのことが書かれていました。私たちは時々、過去の嫌なことを思い出すことがあります。私を捨てた人、裏切った人、ひどいことをした人を思い出すことはないでしょうか?私たちは機械でありませんので、完全に忘れ去ることができません。何の前ぶれもなく、嫌なシーンが脳裏をかすめることがあります。しかし、ある人たちは、映画のDVDでも見るように、カウチを持ってきて、そこに座ります。そして、ポップコーンを食べながら、「ああ、そうだったよなー」と辛い思い出に浸ります。すると、昔の嫌な感情が再現されて、憂鬱になります。しかし、それは良くありません。私たちにはリモコンがあります。そういうシーンが出てきたら、チャンネルを変えるべきです。英語でfillipと言いますが、そのシーンをはじき飛ばすのです。そこに留まってはいけません。私たちは自分の心を守る必要があるからです。特にトラウマの場合は、とてもやっかいです。いきなり、お化けのように出てきます。これは私たちの意志ではどうしようもありません。たった1つだけ解決策があります。インドネシアのエディ・レオ師が教えてくれました。トラウマとか誘惑が浮かんで来たら、「ハレルヤ!主を礼拝します」と礼拝の時にするのです。そうすれば、一日、何度も神さまを礼拝することができます。不思議なことに、「ハレルヤ!主を礼拝します」を言うと、トラウマや誘惑はさっと消えてなくなります。

 ある人たちは、「私たちは過去から学ばなければならない」と言います。反省とか内省を強調する人たちもいます。しかし、ほどほどにしないと、私たちは前に進むことができません。車を運転する人なら分かりますが、私たちはどこを見て運転するでしょう。全面には、大きなフロントガラスwindshieldがあります。そして小さなバックミラー rearview mirrorがあります。室内の小さいものと、両脇にもあります。ほとんどの場合はフロントガラスを通して、走る方向を見て運転します。でも、たまにチラチラとバックミラーも見ます。バイクが横をすり抜けようとする時があるからです。でも、後ろばかり見ていると、前方不注意になって事故を起こします。人生も同じように、過去のことは小さなバックミラーです。これから先のことは大きなフロントガラスです。この比率が重要です。過去が1であるなら、これから先のことは9くらいでしょうか?しかし、年を取ると「昔は良かったなー」となり、過去が7で、これから先のことが3ぐらいになります。それは良くありません。最も良いことは過去にありません。最も良いことはこの先にあるのです。神さまはもっと良いことを私たちに体験させたいのです。夢と希望を失ったら、年齢に関係なく、その人は老人です。30歳で老人の人がおり、80歳でも青年の人がいるかもしれません。日野原先生は104歳で天に召されましたが、ずーっと青年でした。なぜなら、やるべきことがいっぱいあったからです。

 使徒パウロにとってうしろのものであり、忘れるべきものは何だったのでしょう?ピリピ3:5-7「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」パウロはきっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人でした。あまりにも熱心だったので、教会を迫害したほどでした。「律法による義についてならば非難されるところのない者です」と自負しています。おそらくパウロほど真面目な人はいないでしょう。しかし、パウロにとって、そういうものは忘れるべきものでした。Let it go. 「手放す」「あきらめる」です。以前は、パウロにとってそういうものは自分が誇るべきものであり、良いものだったのでしょう。でも、「私はキリストのゆえに、損と思うようになりした」と言っています。8節では「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と言っています。なぜなんでしょう?もし、そういうものを自分のクロゼットにしまいこんでいると、キリストのすばらしさを自分のものにできないからです。パウロはキリストを知るために、身分も、プライドも良いものも捨て去ったのです。

 私たちが捨て去るべきもので、過去の良いものがあるかもしれません。テレビでサッカーのメッシの豪華な自宅が映されていました。家にはゴールデン・ボールなど、いろんな賞が飾られていました。でも、最近の試合を見ると全盛期が過ぎたような感じがしました。あれだけ賞をもらうと、ハングリーさが欠けるんじゃないでしょうか?だけど、「あれだけやったらいいかな?」という誰もが思うでしょう。私たちは神さまの恵み、神さまのみわざを忘れてはいけません。でも、過去の思い出に浸っていると、神さまに対する期待とかチャレンジ精神がなくなることも確かです。私は亀有に赴任して31年になりました。ここ数年前から、断捨離(だんしゃり)をしています。最初に捨てたのが、礼拝のビデオとカセットテープです。DVDやCDに全部コピーしました。ディボーション・ノート、セミナーの資料、本も捨てました。去る6月の役員会で、「音楽準備室にいらない機械がたくさんあります。処分してください」と言われました。ビデオプレイヤー、DVDプレイヤー、カセットのコピー機、OHP、全部で15くらいありました。それらを分解して、細かく砕いて、もえないゴミの日に出しました。これまで、いろんなセミナーに出席して学びましたので、カセットテープや資料のファイルがたくさんありました。それらを捨て去るのには勇気と信仰が必要でした。

 私たちの人生を振り返りますと、うまくいかなかったことがあります。あのときはうまくいくと思っていたのに、今はもう役に立たないというものがあります。英語でwork outは「うまくいく」と言う意味ですが、don’t work out.「うまくいかない」「結果が出ない」ということがあります。認めるのは本当に辛いのですが、捨てるしかありません。亀有に来て31年、色んなことを学んでやってみたけど「何が残ったのか」「どれがうまくいくのか」考えてみました。最後に残ったのは、説教preachでした。弟子訓練、セル、インナーヒーリングをやってきましたが、説教だけが残りました。「私は説教者preacherとして神さまから召されているんだ。それで良いや」と思いました。みなさんもどうでしょうか?人生の棚卸をしてみましょう。いらないものは捨てましょう。過去の傷、トラウマ、失敗、嫌な思い出を捨てましょう。そうすると、「これだけは捨てられない。これこそが一番大切なものだ」というものが残るのではないでしょうか?金の採掘場をテレビで見たことがありますが、1トンくらいの岩から何グラムしか取れません。佐渡の砂金なども川の砂利をさらって、あるかないかです。私たちの人生も結構、いらないものがあるかもせれません。悪いものだけではなく、一見、良いものもあります。プライドとかトロフィーとか、賞状、資格、学位などです。パウロは何と言ったでしょう?ピリピ3:8「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」イエス・キリストを知っていることのすばらしさが、人生のどれほどのウェートを占めているでしょうか?イエス・キリストが人生のすべてであるなら、いらないもの、どうでも良いものがたくさんあるのではないでしょうか?どうでも良いものを捨てるなら、これから先、もっとすばらしいものを入れることができます。最も良いものは過去にではなく、これから先にあるからです。

2.前のものに向かって進む

 第二のポイントの題名を「目標を目指して」にすべきかと思いました。しかし、学校の時から目標を掲げても、実現したことがあまりないので、プレッシャーをかけないようにしました。本当の目標は自分でひねり出したり、だれかから押し付けられたりするものではありません。神さまがその気にさせてくれなければ何もできないからです。イエス様はヨハネ5章でこのように言われました。ヨハネ5:19,20「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」イエス様は贖い主でありますが、私たちの模範でもあります。イエス様は自分からではなく、いつも父なる神さまがしておられることを見て行いました。ご自分も神さまですから、やろうと思えばできたはずです。でも、あえてご自分を制限なさっておられました。それは私たちの模範となるためです。私たちも神さまと親しい交わりを持つなら、神さまがなすべき目標を与えて下さると信じます。

 後半は「前のものに向かって進む」と題してお話しします。イスラエルの民は40年間も荒野をさまよっていました。なぜなら、カデシュ・バルネアで攻め上らなかったからです。彼らは不信仰のゆえに、約束の地に入ることができませんでした。それから40年たち、新しい世代になりました。主はこのように言われました。申命記1:6,7「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。」ものすごい意味ありげな表現だと思います。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。」彼らがその山に長くとどまっていたのは、不信仰に対する神さまの呪いでした。でも、神さまは「向きを変えて、出発せよ」と言われました。人生にはいくつかの段階があります。「次のステップ」「次のステージ」「新しいシーズン」、みなそういうことを表現することばです。私も65歳なので、「次のステップ」に進むべきだと思っています。前半では「私は説教者preacherだ」と言いました。でも、欲を言うなら、日本のリバイバルのために用いられたいと思います。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルこそが聖書的であると信じます。カルフォルニアのベテル教会にsupernatural school超自然の学校があります。アメリカだけではなく、世界中から2000人の人たちが集まって学んでいます。私はそこに行けないので、ビル・ジョンソンを始め、何人かの本を原書で読んで学んでいます。「もうこれしかない」と最後の人生をかけています。私の人生は競馬で言うなら、第四コーナを回ったところです。あとは直線ですから、ただまっすぐ走るだけです。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルのために神さまから用いられたいです。

 私たちは前のものに向かって進むためには、犠牲を払う覚悟が必要です。周りの人たちの意見を聞いて、「これで良いや」と妥協してはいけません。創世記12章にはアブラハムの召命の記事があります。まだ、そのときは「アブラム」でしたが。主はアブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われました。どこという場所は示されず、ただ、「出発しなさい」と言われました。それで、アブラムは主がお告げになったとおりに出かけました。でも、創世記11章終わりには、アブラムのお父さんのことが書かれています。アブラムのお父さんはテラです。創世記11:31,32「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。」たった2節から全部のことを掌握するのは無理です。でも、テラはカナンの地に行くためにカルデヤ人のウルから一緒にでかけました。何があったから分かりませんが、ハランまで来て、そこに住みついてしまいました。テラはそこで死にました。その後、息子であるアブラムにお声がかかったのです。彼はいくつだったでしょう?「アブラムがハランを出たときは、75歳であった」(創世記12:4)と書かれています。その頃は、現代よりも少し長生きしたかもしれませんが、それでも75歳ですから良い年です。アブラハムの良いところは、どこに行くのかを知らないで、出て行ったことです(ヘブル11:8)。新約聖書ではアブラハムの信仰が賞賛されています。

 私自身が感じているのですが、年を取ってくると情熱が失われるのではないかと思います。若い人は「何かをしたい」と夢を抱きますが、すばらしいことだと思います。前のものに向かって進むためには、夢や幻、そして情熱が必要です。年を取ってくると「現実は難しい」と思うようになります。なぜなら、これまでさんざん失敗して、苦い思いをしてきたからです。そのため「新しいことをしよう」という意欲がわきません。教会でも「こうしたい」「ああしたい」とアイディアを出す人がいますが、「うらやましいなー」と思います。私は「チャレンジ精神がなくなってしまったなー」と情熱のなさにがっかりします。これで終わってしまうと、年寄りの憂さ晴らしで終わってしまいます。ところで、情熱という英語は、enthusiasmですが、もともとは、2つのギリシャ語からなっています。エンとセオスです。エンは「〇〇の中に」です。セオスは「神」です。2つを合わせると、「神の中に」「神がかった」という意味になります。つまり、神さまがその人に情熱を与えるときは、年齢は関係ないということです。使徒2章に「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。つまり、聖霊が注がれると預言したり、幻や夢を見るということです。テモテはパウロの弟子ですが、激務のため、肉体的にも精神的に弱るときがあったようです。パウロは何と言ったでしょうか?Ⅱテモテ1:6「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」昔、七輪でお魚を焼いたことがあります。火が弱くなると、炭火をかき混ぜると酸素が入って、また火が強くなります。私たちは聖霊の油注ぎが必要です。イギリスのチャールズ・スポルジョンがこう言いました。「私たちは絶えず聖霊の油注ぎを受ける必要があります。なぜなら、漏れるからです」と。そうです。この世で生きていると、油注ぎがなくなり、情熱も失せてきます。だから、新たに聖霊の油注ぎを受ける必要があるのです。そうしたら、情熱も一緒に湧いてきます。

最後にハーランド・サンダースという人のお話しをさせていただきます。父親が5歳の時に亡くなり、彼は小学校の途中で行かなくなりました。何年もの間、職をとっかえ、ひっかえ、住まいを転々しました。そして、ガソリンスタンドのそばで、レストランを始めました。このレストランがほどなくしてはやりだし、通りの向こうにあった大き目の建物へと店舗を移しました。しかし数年後、火災によって店は全焼してしまいました。しかし、彼は焼け跡で、またゼロから再び店を始めました。彼の作るフライドチキンには11種類の秘伝のハーブとスパイスが使われており、その他にはない味が、多くの人々の心をつかみました。やがてその功績が認められ、ケンタッキー州知事はこのハーランドに「カーネル(大佐)」を名乗ることをゆるしました。カーネルが、もう仕事としては引退してもおかしくない60代にさしかかった頃のことです。ケンタッキーの彼の小さな町を高速道路が横切るようになり、交通の流れがそちらに取られて人通りが少なくなりました。そこが過疎地になり、カーネルのレストランは経営不振に陥り、結局は閉店へと追い込まれました。60代ともなれば、もう第一線を退いてもおかしくありません。やめてしまえば済むことなのです。でも、彼はその道を選びませんでした。カーネルは、「神様というお方はこの状況に対しても解決の道をお持ちのはずだ」と希望を捨てませんでした。

カーネルがレストランをたたみ、借金を全額返済し終わった時、彼の手元には105ドル(日本円にして3万円程度)しか残りませんでした。それが、その時の全財産でした。カーネルは今までの住み慣れた場所に見切りをつけ旅立ちました。決まった住所などありません。彼は唯一の持ち物であるトラックにフライドチキンを揚げるためのフライヤーを載せて、町から町へ売る旅に出たのです。そんな旅を続け、カーネルが70代にさしかかった頃です。「あの車で売りにくるカーネルとやらの揚げるチキンは、うまいらしいぞ!」といううわさがアメリカ中に広まりました。ついにカーネル・サンダースは自身の特別なチキンを『ケンタッキー・フライドチキン』と名付け、アメリカとカナダ全土にたくさんの店舗が建てられる運びとなったのです。今日では、KFCという略称で親しまれ、世界中に11万以上の店舗があると言われています。神様は、最終的には見事に彼の損失を回復してくださいました。カーネルの人生は、その全貌が見えるまでの通過点において、何とひどい人生だと見えたかもしれません。もう終わりだ。もう進めない。カーネルのような体験をすれば、そんなあきらめや絶望の思いに囚われるのは、いともたやすいことだったでしょう。でも、神様は、彼の失った機会や時間を取り戻させることのできるお方なのです。カーネルは、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む人物の模範です。私たちも神さまから目標と情熱をいただいて、前のものに向かって進みたいと思います。