2018.12.23「受肉した神のことば Ⅰヨハネ1:1-4」

 この世では人間が神になったりしますが、それは本当の神さまではありません。聖書には「神が人間になられた」と書いてあります。そのことを神学的には「受肉」と言います。しかし、そのことは当時の世界では、全く受け入れがたいことでした。なぜなら、霊魂は聖いけれど、肉体は悪であると考えられていたからです。きょうはクリスマス礼拝として、「受肉した神のことば」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

 

1.聞いて、見て、さわったもの

 

 Ⅰヨハネ1:1「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」。ギリシャの世界では肉体は悪であると考えられていました。プラトンがそういうことを強調しました。プラトニック・ラブという言い方はそこから来ています。しかし、聖書的は、肉体は神さまが創られたものであり、それ自体、悪いわけではありません。ただし、アダムが堕落してから、肉体に罪が入ったことは確かです。しかし、当時はギリシャ哲学の影響を受けていたので、肉体が悪であると考えられていました。そして、神さまがその肉体を取るなんて、全くナンセンスであるとキリスト教を非難しました。そのことに対する論争は、紀元後300年くらいまで続きます。でも、ヨハネがこの手紙を書いていた頃、すでにそういう兆候がありました。それは、グノーシス主義という異端であります。グノーシスとは「霊知」と言う意味です。簡単に言うと、神秘主義であり、霊的な満し(プレローマ)を求めました。宗教によくある恍惚状態(エクスタシー)であります。彼らの神観は多神教であり、創造主である神も信じていましたが、肉体と物質を創ったので下層の神であると考えていました。その代り、最もランクの高い神、至高神の存在を信じていました。他にも天使崇拝、神話も取り入れていました。一般的に、宗教にはそういう不思議な体験というものがあります。世界には教祖なる者がいますが、みんなそのような神秘的な体験をしています。マホメット、仏陀、モルモン教の教祖、新興宗教の教祖たちです。考えてみれば、パウロ自身も「ダマスコの途上でまばゆい光の中で復活のイエスによって地に打ち倒された。第三の天にまで引き上げられた」と言っています。だから、他の宗教の人たちから言えば、「同じだろう」と言われるかもしれません。とにかく、キリスト教の根幹をゆるがすようなグノーシスの神秘主義的な異端が出現してきました。そのため、ヨハネはそのことに警戒するように、この手紙を書いています。

 1章1節を見ますと、神のことばが、肉体をとってこの地上に来られたことが書かれています。「初めからあったもの」とはどういう意味でしょう?これはヨハネが書いた、ヨハネ福音書の書き出しを暗示しています。ヨハネ1:1,2「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」つまり、ヨハネが言う「初めからあったもの」とは、「ことば」です。ギリシャ語ではロゴスであり、その当時はとても意味深なことばでした。古代のギリシャ哲学では、「初め(アルケー)にあったのか?この世界は何でできているのか?」ということをものすごく探究しました。「ロゴスなるものが世界を創ったのではないだろうか」という考えが支配的になりました。ロゴスは強いて訳すと、「宇宙理性」と言えるかもしれません。でも、そこには人格的なものは含まれません。神であるとも言っていません。しかし、ヨハネはあえて「初め(アルケー)にロゴスがあった」と書いたのです。当時の世界はこれを読んでびっくりしたことでしょう?しかも、その続きがあります。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」「なんと?ロゴスは神とともにおられ、神とともにこの世界を創造したのか?しかも、いのちまであるとは?」とびっくり仰天したでしょう。なぜなら、ロゴスは単なる宇宙理性ではなく、神であり、人格があり、いのちがあると言うからです。現在は、グノーシスに似た、ニューエイジが世界中にはびこっています。彼らは宇宙に満ちる神と一体になることを勧めています。彼らの神は人格などありません。ただ漠然とした宇宙の大霊です。

 ヨハネはそのことばが、肉体をとられたことをこの手紙で書いています。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」肉体とは書かれていせんが、肉体の持つ性質は書かれています。それは「見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わう」です。ヨハネは「私たちが聞いたもの」と言っています。それは、ヨハネが神の子イエスが語ることばを聞いたということです。「目で見たもの」とは、イエス様をその目で見ました。しかも、じっと見ました。3年半、寝食を共にしました。ペテロとヤコブとヨハネの三人は特別でした。彼らはヤイロの娘のよみがえり、変貌の山、そしてゲツセマネの園の奥まで一緒でした。「また手でさわったもの」とは、ヨハネがイエス様にさわったということです。最後の晩餐のとき、イエス様が「この中のだれかが私を裏切る」と言われました。ペテロは「それはだれなのか」、イエス様に聞くようにヨハネに促しました。おそらく、ヨハネはイエス様の胸元に寄り添って、「主よ。それはだれですか」とささやいたに違いありません。そういう意味で、「手でさわったもの」と言えるのは、ヨハネがもっとも相応しいでしょう。つまり、イエス様は仮に現れていた霊的な存在ではないということです。ちゃんと私たちと同じ肉体を持っておられたということです。なぜでしょう?肉体を持っている私たちを救うためです。ヘブル2:14、15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アダム以来の人間は、死ぬ運命にあります。そういう私たちを死から救うために、神の御子は私たちと同じ人間となって下さったのです。蟻を救うためには蟻にならなければなりません。ある神学者が言いました。「神が人間になるとは、人間が蛆虫になるのに等しい」と。イエス様は神としてのご栄光を捨ててくださって、天から下って、人間としてお生まれくださったことを感謝します。これがクリスマスです。

 

2.永遠のいのち

 

 Ⅰヨハネ1:2.「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──ヨハネは「いのちが現れた」と言っています。いのちとは、イエス・キリストのご自身のことです。ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。このいのちは、ギリシャ語ではゾーエーであり、単なる「いのち」ではありません。人間のいのちは、プシュケーであり、「地上の生命」あるいは「肉体のいのち」です。ヨハネが言うゾーエーは、神のいのちであり、永遠のいのちです。これは人間にはないものです。ヨハネは私たちが救いを得るとは、神のいのち、永遠のいのちをいただくことであると定義しています。パウロは救いとは罪が赦され、義とされることであると法的に定義しています。一方、ヨハネは「神のいのち、永遠のいのちを得ることなんだ」と生命的に定義しています。最も有名な箇所はヨハネ3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」でも、どうして御子イエスを信じるなら、永遠のいのちを持つことができるのでしょうか?それは、創世記まで遡らなければなりません。エデンの園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。アダムは園のどの木からでも思いのままに食べて良かったのです。ただし、善悪の知識の木から取って食べてはいけませんでした。主なる神は、はっきりと「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言明されました。それだけはっきりと禁じられていたのに、ヘビに化けたサタンにそそのかされて食べました。それで、人間は堕落し、死ぬようになりました。ただちに霊が死に、後から肉体が死にました。主なる神は、アダムが手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように、園から追放しました。しかも、ケルビムという天使が回る炎の剣を持って、いのちの木の実を阻止しています。

 おそらく、園の中央にあった「いのちの木の実」はイエス・キリストの予型でありましょう。ところで、人間はみんな死の毒にやられています。誰でも、この地上に生まれたなら必ず死ぬ運命にあります。あなたも、私も死に向かって生きています。だれが死のからだから、私たちを救ってくれるのでしょう?ヨハネ3章16節の有名なみことばの直前に、イエス様がこのようなことを言われました。ヨハネ3:13-15「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」この物語は民数記21章からの引用です。イスラエルの民が荒野で「パンもない、水もない。ここで俺たちを殺すつもりか」とつぶやきました。すると主は、民の中に燃える蛇、毒蛇を送られました。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人たちが死にました。民たちは主とモーセに「罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってください」とお願いしました。その時、モーセは主から示されて、青銅の蛇を作り、それを旗竿の上につけました。主は「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。毒が体に回って死にかかっていた人も、青銅の蛇を仰ぎ見ると生きました。何故、ヨハネはそのことを引用しているのでしょうか?人の子であるイエス様は天から降りてきて、十字架にかかりました。十字架は神の刑罰であり、へびのように呪いの象徴です。信じるとは、十字架のイエスを仰ぎ見ることです。すると、死にかかっている人が、生きるのです。地上のすべての人は、死の毒にやられています。しかし、十字架のイエスを仰ぎ見るなら、つまり信じるなら滅びないで永遠の命を持つことができるのです。ここに逆説的な真理があります。細かい理由は分からなくても、父なる神が人類を死から救うために、御子イエスを与えました。どこに?十字架の上に贖いの供えものとして与えました。イエス・キリストは私たちの罪の代わりに罰せられました。父なる神は御子イエスを信じるなら、滅びることなく、永遠のいのちを与えると約束されたのです。

 イエス・キリストはゾーエーといういのちです。ゾーエーといういのちは、死に打ち勝ついのちであり、復活のいのちでもあります。ヨハネは「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」と証をしています。証というのは、目撃者の証言であります。裁判の席で立つ「証人」という意味でもあります。彼らが偽りを証言したなら罪になります。しかし、ヨハネは「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし」と言っていますが、何のことなのでしょうか?それはイエス様がよみがえった日の夕方のことではないかと思います。ユダヤ人を恐れて戸が閉じてあったのに、イエス様が来られ、弟子たちの中に立たれました。「平安があるように」とその手と脇腹を彼らに示されました。弟子たちは、主を見て喜びました。どんな喜びでしょう?イエス様が死に打ち勝たれたと言う喜びです。ヨハネは「このことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)と言っています。いのちとは、永遠のいのち、神のいのちです。どうすれば滅びないで永遠のいのちが与えられるのでしょうか?私たち人間にはプシュケーという肉体のいのちしかありません。これは年老いて、やがて死ぬ運命にあります。なぜなら、アダムが犯した罪の毒の影響を受けているからです。この肉体のいのちには全く希望がありません。いろんなサプリメントを飲んで、アンチ・エージングを心がけても不可能です。唯一、まことの方法は、いのちであられるイエス・キリストを信じることです。信じるとは、神が与えたイエス・キリストを信じるということです。そうするなら、あなたの中に神のいのち、ゾーエーが付与されるでしょう。クリスチャンは2つのいのちを持っている存在です。1つは、プシュケーという肉体のいのちです。そして、もう1つはゾーエーという永遠のいのちです。いつか、肉体のいのちは消えてなくなるでしょう。でも、私たちはもう1つのいのちを持っています。このいのちは肉体の死とは関係ありません。

 

3.神との交わり

 

 Ⅰヨハネ1:3「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」このことは、クリスチャンになってからのことが書かれています。救われた私たちは、神さまと親しい交わりを持つことができるのです。交わりはギリシャ語でコイノーニアと言います。コイノーニアは、交わり、交際、親密な結合という意味で、英語ではfellowshipです。でも、他に、共有、分け前に与かるという意味もあります。つまり、持っているものや、喜び、いのちをやり取りするということです。では、ヨハネが言っている、私たちが持つべき交わりとは何なのでしょうか?それは「御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。これはどえらいことです。御父と御子は永遠から親しい交わりを持っておられます。神が愛であるということは、ひとりでは不可能です。神はお一人であられますが、ご自身の中に父、子、聖霊という三つのペルソナ(位格)を持っておられます。つまり、父、子、聖霊が互いに愛し合っているということです。このところには、御父と御子の二つのペルソナ(位格)しか書かれていません。聖霊はどうなったのでしょう?実は、この聖霊なる神が、私たちを御父と御子の交わりの中に加えてくださるのです。毎週、礼拝の最後に祝祷をいたします。そのとき、「聖霊の交わりがあるように」と祈ります。そうです。聖霊こそが、私たちをして神さまとの交わりを可能にしてくださる霊なのです。ヨハネ4章にまことの礼拝について記されています。ヨハネ4:24「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」イエス様は「神は霊である」と言われました。そして、礼拝者は「霊とまことによって」礼拝しなければならないと言われています。ここで言われている「霊とまこと」とは、私たちの霊であり、まことです。しかし、私たちの「霊とまこと」では限界があります。そこで、私たちの霊の内に住んでいる聖霊が霊なる神との交わりを可能にしてくださるのです。だから、「聖霊の交わりがあるように」と祈るのです。聖霊によって、御父および御子イエス・キリストとの交わりが可能になったのです。

 でも、その後に、神との交わりを邪魔するものが書かれています。それは何でしょう?それは罪です。ヨハネは「やみの中を歩む」とか「偽りを言っている」とも言っています。でも、7節以降にははっきりと、神との交わりを邪魔するものは「罪である」と言っています。Ⅰヨハネ1:7-10「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」福音的な教会でありながら、この箇所を未信者がイエス様を信じるときのことばにしている教会があります。特に1章9節がバイブル・キャンプなどでは、救いのみことばとして取り上げられています。子どもたちは、何か犯した罪を悔い改めて、そしてイエス・キリストを救い主として信じる祈りをします。ただ、信じるだけではダメなのです。自分が犯した具体的な罪を告白する必要があるのです。しかし、それは行為義認であり、本当の福音ではありません。救いは行いによらないというのが、福音の本質です。なぜ、そんな間違いを犯してしまうのでしょう?それは、ヨハネ第一の手紙が未信者向けではなく、すでにイエス様を信じた神の子に宛てられていることを忘れているからです。その証拠として、Ⅰヨハネ2:1「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは…」と書かれています。Ⅰヨハネ5:13「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」このように、既にイエス様を信じて、神の子となっている人たちにヨハネは手紙を書いているのです。何のためでしょう?第一は既に、神のいのちがあること。第二は既に、神との交わりがあることです。そして、第三は、交わりを妨げる罪を取り除くことです。ですから、Ⅰヨハネ1章7節から10節までは、すでに神との交わりを持っている、神の子どもたちに書かれているのです。

 では、救われて神の子どもになったら、罪を二度と犯さなくなるのでしょうか?Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません」と書かれています。これは、「継続的に、常習的に罪を犯さない」ということであり、「二度と罪を犯さない」という意味ではありません。神の子どもでも、再び罪を犯す可能性があるので、ヨハネはこの手紙を書いているのです。もし、私たちが罪を犯したならどうすべきでしょう?1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。「言い表す」はギリシャ語でホモロゲオウ、「同じことばを言う」という意味です。つまり、「私はこれこれのことをしました」と神さまの前で告白するということです。「ごめんなさい」と言うかどうかは、強制されていません。むしろ、ありのままを認めることの方が重要です。よく、お母さんが子どもに「ごめんなさいと言いなさい」と強要します。子どもの方は、悔しくて絶対口を開こうとはしません。それは逆効果です。では、私たちが罪を告白して、どうして赦されるのでしょう?第一は、イエス・キリストの血です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」と書いてあります。Ⅰヨハネ2章には「罪のためのなだめの供え物」と書いてあります。第二は、神さまが真実だからです。「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書いてあります。でも、なぜ、「神が真実で正しい」と関係があるのでしょう?それは、神さまが御子イエスの血を通して、あなたが犯した罪を見るからです。真実で正しい神さまは、矛盾することなく、いつでもあなたの罪を赦して、きよめるということです。第三は、「御子イエスが御父の前で弁護してくださる」とⅠヨハネ2章1節にあります。このクリスマス、肉体を持っている私たちを救うために、神の御子が人となってこの世に来てくださったことを感謝しましょう。