2018.12.24「貧しくなられたキリスト Ⅱコリント8:9」

 クリスマスのイヴ礼拝で最も引用される箇所は、マタイ2章の「東方の博士」か、ルカ2章の羊飼いの話でしょう。イエス様がお生まれになった夜を「聖夜」と言うようであります。Holy night ということばが、讃美歌やクリスマス・キャロルによく出てきます。なんとなく、ロマンチックな気持ちになり、恋人たちが愛を告白する日として利用しているようであります。昔は、イヴ礼拝を止めたときもありました。なぜなら、準備に忙しいわりには人が来ないからです。その日の夜、隣の亀有福音教会に行きました。その教会にとってイヴ礼拝は大伝道集会であり、聖歌隊が降誕劇・オペレッタをやっていました。その後、高木牧師が甲高い声で50分も説教し、最後に「今晩イエス様を信じる人」と招きまでしました。暗いところで、2時間もいたので、拷問のように感じました。私の良い所は、説教が短いことです。また、信仰を無理強いしません。

今晩のメッセージは「貧しくなられたキリスト」ですが、キリストはどのように貧しかったのでしょうか?これからキリストと言ったり、御子イエスといったり、イエス様と言ったりしますが、みな同じ人物です。まず、誕生の時のことを考えたいと思います。マタイによる福音書とルカによる福音書にはキリストの誕生のことが記されています。まず、キリストはマリヤの胎をお借りしてこの地上に生まれることになりました。23日の説教では「神の御子が私たちと同じ肉体を持たれた」と言うことを学びました。マリヤはどこで御子イエスを生んだのでしょうか?なんと、家畜小屋です。岩をくりぬいた横穴にスダレをかけたような寒いところでした。マリヤとヨセフが人口調査のために、ベツレヘムを訪れました。ところが、宿屋には部屋がなかったので、二人はその家畜小屋を案内されたのです。そこで、マリヤは男の子を産みました。助産婦さんもいないでどうやって生んだのでしょうか?神の御子がそんな不衛生なところで生まれたのです。しかも、寝かされたのは「かいば桶」でした。馬や牛がたべるエサ箱です。今日ではダンボールがすぐ見つかるかもしれません。御子イエスは王なるキリストになるお方です。人間の考えでは、エルサレム宮殿で生まれるべきでしょう。だから、東方の博士たちは、ヘロデの宮殿に向かいました。「ユダヤ人の王だったら、そこに違いない」と思ったからです。でも、そうではありませんでした。

 アフリカのモザンビークは最も貧しい国の1つと聞いています。親から捨てられ、ゴミの山で暮らす子供たちがたくさんいます。大都市のスラム街では、生まれたばかりの赤ん坊が捨てられる場合もあるでしょう。そういう意味では、イエス様も彼らと同じだったと言えば、それまでです。しかし、ピリピ2章には私たち人間と異なるところからやって来たことが書かれています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」御子イエス様は単に貧しくなられたのではありません。本来、神であられるお方が、神のあり方を捨てて、無になり、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくされました。つまり、神が人間となるということ自体が、卑しいことなんだということです。父なる神と一緒に全宇宙を創られたお方が、地球という小さな惑星の、滅びゆく小さな人間として生まれました。これよりも卑しくて、貧しいことはありません。ある神学者は「神が人間になるのは、人間がうじむしになることと同じだ」と言いました。これはイエス・キリストにとって、想像もできないくらい厳しいことです。神の御子は「イエス」と言う名前で生まれましたが、この地上では、あえて貧しい姿で生まれました。生活もそんなに豊かでなかったようです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタイ8:20)と言われました。それでも、イエス様は、衣食住は満たされていたと思います。なぜなら、多くの女性たちがイエス様と弟子たちに仕えていたからです。イエス様は罪人や取税人と食べたり飲んだりしていました。本来は、すべての所有者でありながら、人々のお世話になりました。そして、最後には、極悪人がかかる十字架にかかって死にました。墓がなかったので、アリマタヤのヨセフの墓を借りました。でも、丸三日で不要になりました。なぜなら、よみがえられたからです。

 しかし、パウロは神の子、イエス様が貧しくなられた理由をこう述べています。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」使徒パウロは、キリストが貧しくなられたのは、私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためだったとはっきり言っています。なのに、キリスト教会のある教派では、清貧が美徳であると思われています。カトリック教会では、聖フランチェスコはすべてを捨てて献身しました。修道士たちは、従順・清貧・貞潔に生きました。イギリスの国教会を批判した、ピューリタンは清貧を美徳にしました。戦中戦後、ピューリタン的な信仰が、アメリカを経て日本に入って来ました。きよめ派の教会は彼らにならって清貧を美徳としました。私の恩師の大川牧師も少年時代はとても貧しくて、修学旅行にも行けなかったと聞いています。一般の信徒ならともかく、牧師や伝道者は清貧の模範を示さなければなりません。牧師が、自分の家も持つことなどありえません。イエス様が枕するところがなかったのですら。服装から食べ物までチェックが入ります。大川牧師は中学生のとき、教会に火をつけてあげたいと思ったそうです。なぜなら、教会は偽善者の集まりと考えていたからです。しかし、今から40,50年くらいまえ韓国で大リバイバルが起こりました。戦後の韓国はとても貧しかったのですが、キリスト教会のお蔭で国がとても豊かになりました。その当時、韓国で最も大きなヨイド教会のチョー・ヨンギ師が日本のリバイバルのために来られました。チョー師はⅢヨハネ2から、魂が恵まれ、すべてのことに恵まれ、健康であるようにという「三拍子の祝福」を説きました。チョー師が病の癒しや繁栄を説くので、日本の教会はこぞって、「それはご利益宗教だ」と拒絶しました。ところが、大川牧師はそのことに共感し、チョー師と交わりを持つようになりました。そのことが原因で、某教団から去って、単立教会になりました。

 今晩はそういう恨み辛みを言うために講壇に立っているのではありません。キリスト教会の中で、長い間、清貧は美徳とされてきたということを言いたいのです。ところが、教会は教会運営のため、宣教のために、会堂を建てるために献金してくださいとお願いします。でも、クリスチャンが貧しかったら、教会に献金できるわけがありません。明らかに矛盾しています。もし、貧しくて病気がちなクリスチャンが、「イエス様を信じたら私のようになります」と言っても、だれも見向きもしないでしょう。旧約聖書を読んだらが、父祖たちであるアブラハム、イサク、ヤコブはみんな富んでいました。申命記28章を読むと、あなたの神、主の御声に従うなら、このように祝福されるという項目が列挙されています。申命記28:3-6「あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」さらに、このようなことも約束されています。「それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。」何と、その祝福は日常の細かなところまで及びます。病気にもなりません。アーメン。しかし、主の声に聞き従わないなら、どうでしょう?地の産物はのろわれ、さまざまな病気にもなります。すべてのものが敵に奪われるとも書いてあります。これは、主に従わないことからやってくる呪いです。貧しさと病は呪いであるとはっきり書いてあります。聖書を正しく読むならば、清貧が良いことであるとは書かれていません。貧しさは呪いであるとはっきり書かれています。

 私がこういうメッセージをするとそれは「ご利益信仰だ」とか「繁栄の神学だ」と言われます。そういうことを言う人たちは、清貧を美徳とるすピューリタンの信仰を受けた人たちです。少し開きなおりますが、繁栄のどこが悪いのでしょうか?ヨシュア記1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」これは主の律法を守った人に与えられる祝福です。しかし、生まれつきの人間は神の律法を守り通すことができません。だから、申命記28章の祝福ではなく、後半の呪いを受ける運命にあるのです。病や貧困や敗北は律法を守れない人にやってくる呪であります。その呪を打ち破るために、イエス様がこられたのです。ガラテヤ3章にどうしたらアブラハムの祝福がやってくるのか書かれています。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。このところから分かることは、イエス様が十字架にかけられることによって、律法の呪いとなってくださったということです。律法は1つでも従いきれなかったなら違反しているとみなされます。99点でもダメです。ということはすべての人間が律法の呪いを受けること間違いありません。しかし、イエス・キリストはまことの人間になり、律法を全うしてくださいました。全く罪のないお方が私たちの身代わりになられ、刑罰を受けてくださいました。このイエス・キリストを信じるなら、すべての罪が赦され、神の義がその人に与えられます。そうすると、申命記28章に記されている祝福がその人のものになります。クリスチャンは誰でも、アブラハムの祝福を受けるにふさわしい人物となります。

ところが、問題が1つあります。それは、「貧しいことは良いことだ。富むことは罪だ」という間違った考えがある場合です。イエス様は受けるより与える方が幸いであると言われました。人に与えるためにはまず持っていなければなりません。イスラエルに行くと2つの湖があります。1つはガリラヤ湖です。もう1つは死海です。ガリラヤ湖はヘルモン山から水を受け、ヨルダン川に流します。だから、いつも新鮮です。ところが、死海は受ける一方です。湖面から水が蒸発し、生物が住めない塩の湖です。クリスチャンは神さまから得て、それを人々に、あるいは御国のために与えるのです。そうすれば、神からの祝福は止むことがありません。でも、それを自分のためだけに使うなら、たちまち祝福は止んでしまいます。本日のメッセージに戻ります。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私は8人兄弟の7番目に生まれました。父はあまり働かなかったために、家にはあまりお金がありませんでした。クリスマスの日、母は「うちは苦しみますだよ」と言いました。それでも姉や兄が、クリスマス・ケーキを買って来てくれました。しかし、父は酒を飲んでくだをまいていました。とても暗いクリスマスでした。秋田の片田舎ではクリスマスは遠い外国の話でした。「どこかにサタンタ・クロースがいたら良いなー」くらいの知識でした。しかし、神の御子が栄光の座を捨てて、この世に来てくださいました。しかも、だれよりも貧しい姿でお生まれになられました。しかし、それは、希望がない人たち、暗くて貧しい人たちのために救いを届けにやってこられたのです。その救いは精神的なものだけではなく、全人格的な豊かさを与えるためです。