2019.6.9「御霊に導かれる ローマ8:9-16」

ローマ8章9節をそのまま読むならば、クリスチャンとは「神の御霊」がうちに住んでおられる存在です。その直後に、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言い直されています。11節の「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」というのは、聖霊です。聖霊は「神の御霊」であり、「キリストの御霊」であり、そして「御霊」です。そして、私たちの「霊」があります。新解釈聖書は「御霊」と丁寧に訳していますが、新共同訳はすべて「霊」です。だれの霊なのか分けるのが難しいのです。旧約聖書の時代は聖霊が人の内側に住むということがありませんでした。一時的に、特別な人の上に留まっていただけです。イスラエルの民は、神さまの御声を聞くために、預言者や祭司のところに行かなければならなかったのです。彼らは、神さまの代弁者になって、「主はこう言われます」と民に告げました。つまり、しかし、これだと限界があります。そのため、エゼキエル36:26,27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…私の霊をあなたがたの内に授け、私のおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行わせる」と預言しました。つまり、人が霊的に生まれ変わり、聖霊が内に住むということです。このことを言っているのがヨハネ3章です。イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。この預言が成就したのが、ペンテコステの日です。例外的に10人の弟子は復活の夜、イエス様から聖霊を内側に受けました。ペンテコステの日120人の弟子たちは、内側からも外側からも聖霊を受けたのです。ペンテコステ以来、キリストを信じる人の内側に、聖霊が住むようになったのです。これは、最もすばらしいことです。なぜなら、神が私たちと共に住むということが実現したからです。クリスチャンの内側には聖霊がいらっしゃいますので、預言者や祭司に聞く必要はありません。確かに教師や牧師も教えるために召されていますが、真理の御霊がその人におられますので、ちゃんと教えてくれます。それなのに教会は、「牧師に指導してもらわないと、間違えてしまう」みたいなことを言います。クリスチャンは、教理的に教えられていなくても、救いに関する知識は、みことばを読むとき、聖霊がちゃんと与えてくださいます。聖書を読めば基本的なことは内側におられる聖霊が教えてくれるのです。

これまで、私はペンテコステのメッセージをするとき、聖霊が内側に住むことよりも、上から力を着せられて神の働きができると強調してきました。しかし、旧約聖書にはなかった、聖霊が私たちの内側に住んでくださるというすばらしいことが成就したのですから、もっと強調すべきであります。ところで、多くのクリスチャンが誤解していますが、私たちが新しくなるのは、私たちの霊であります。霊がイエス様を信じたとき、生まれ変わるのです。生まれかわるのは、肉体でもなく、また魂でもありません。霊が生まれ変わるのです。soulということばがありますが、欧米では、魂と霊の区別がはっきりしていません。特に、心理学を学んだ人はそうです。Ⅰテサロニケ5:23「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」人間は3つでできており、しかも、この順番が大切です。最も内側にあるのは霊です。人がキリストを信じると、霊が生まれ変わり、そこに神の御霊が臨在してくださいます。そして、神の御霊は、私たちの霊を通して私たちを導かれるのです。第二は魂です。魂は知性、感情、意志を司っています。しかし、この魂は生まれ変わりません。この魂は神に逆らい霊の言うことも聞きません。だから、ローマ12:2「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。魂が砕かれ、変革されることによって、霊の言うことを聞くようになります。第三は肉体です。肉体は5感をもってこの世界と触れ合ってています。しかし、肉体と魂の境目に肉が宿っているので、罪を犯してしまいます。古い人は十字架につけられていますが、私たちがすべきことは自分の意思をもって肉を十字架に付けることです。パウロはローマ12:1「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と言いました。だれがあなたのからだをささげるのでしょうか?あなた自身がささげるのです。あなたがそれを扱わなければ、それは決して少しも扱われることはありません。私たちは天国に行くまで、私たちのからだは悪いことをしたがります。私たちが肉の中に住んでいる限り、罪の問題を持つことになります。しかし神に感謝すべきことに、悪魔を取扱い、肉を取り扱う方法や力や権威は、神のことばを通して私たちに与えられています。人間を外側からまとめていうとこうなります。①あなたがたの、からだをささげなさい。②魂に対しては、心を一新にすることによって変えられなさい。③私たちの霊はどうでしょう?神の命と性質は、あなたの霊の内にあります。その内側の人を霊によって支配者にしてください。霊の内に住んでおられる御霊に耳を傾けてください。神があなたを導かれるのは、あなたの霊を通してなのです。きょうは、神の御霊は私たちを具体的にどのように導かれるのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.内なる証し

箴言20:27「人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す」とあります。このみことばを現代的に訳すと、「人間の霊は主のランプ、ライト」となります。神さまは私たちの霊を通して、私たちを照らし、私たちを案内してくださるという意味です。私たちは、自分のからだの感覚が言うことによって、神がどう導かれるか判断することがあります。しかし、神さまは私たちの感覚によって私たちを導かれるとはどこにも書いてありません、また、私たちは知的な視点から物事を見て、それに理屈をつけようとするところがあります。しかし、神さまが私たちの知性を通して私たちを導かれるとは、聖書のどこにも書かれていません。聖書は、人間のからだが主のともしびであるとは言っておらず、人間の知性が主のともしびであるとも言っていません。「人間の霊が主のともしびである」と聖書は言っているのです。私たちの内に住んでおられる神の御霊が、私たちの霊を通して働かれるのです。「内なる証し」とは、神の御霊が私たちの霊を生まれ変わらせたのち、神の御霊が私たちの霊に語るということです。その後、私たちの霊が魂に語るのです。言いかえると、御霊ご自身が直接、私たちの魂に語るよりも、生まれ変わった霊が私たち語りかける方がはるかに多いということです。だれが何もなくても、自分は神の子どもであると言うこと知っています。ローマ8:16 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ある教会では、洗礼証明書を発行している教会もあるそうです。その人が救われているかどうか、調べる方法はとても簡単です。「あなたは救われていますか?あなたは天国に行ける自信はありますか?」と聞けば良いです。御霊ご自身が、あなたの霊とともに「あなたは神の子です。救われていますよ」と証ししてくださいます。これは「内なる証し」です。

ケネス・ヘーゲンに、イエス様が現れてこのようなことを教えてくれたそうです。「私が私のすべての子どもたちを導く第一の方法、主要な方法は、内なる証しによってです。もし、あなたがその内なる証しに従うことを学ぶなら、私はあなたを豊かな者としましょう。私は、霊的なことと同様、経済的なことも、生活のあらゆることであなたを導きましょう。私は、私の子どもたちが豊かになることに反対ではありません。私は、彼らが貪欲になることに反対です。」ケネス・ヘーゲンは、今まで、その内なる証しに従ってきました。だれかが、「あなたは百万長者ですか?」と先生に尋ねました。「豊か」ということばの意味を正しく理解していない人々がいます。「それは十分な供給」という意味です。それは「豊かに備えがある」という意味です。ケネス・ヘーゲンは、友人の「百万長者」のことを書いていました。だれかがアイディアを持ってきて、投資をしてほしいと言う時、その人は初めは頭で考えます。イエス様が「あなたは祈るとき、自分の奥まった部屋に入りなさい」と言われました。彼はこの意味は、物事を心の中から締め出すという意味だと思っています。自分の霊が何というか聞くまで待ちます。時には断食もします。三日間待つときもあります。ほとんどの時間、自分が何をすべきかを内なる証しによって内側で知るまで、ただ待っているのです。頭が「おい、そんなことにお金をつぎ込むなんて、おまえは馬鹿じゃないか。一文なしになってしまうぞ」。けれども、自分の心はこう言います。「前進して、それに投資しなさい」。自分はそのようにするのです。そして、今まで長年の間、私は1ダイム(10セント)も損をしたことがありません。彼は言いました。「私はいつも、私の霊に耳を傾けています。私の霊がせよということを、私はします。私はその内なる証しに従っています。」アーメン。

詩篇18:28「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」主がともしびをともされるのは、外なる人としてのあなたにではなく、内なる人、内側の人に対してなのです。何度も言いますが、神があなたを導いてくださる第一の方法は、その内なる証しによってなのです。私は1987年に、当亀有教会に赴任させていただきました(昔は来てやったと思っていましたが、今は砕かれたのでこう表現しています)。2つ目の神学校が卒業真近なとき、当亀有教会の山崎長老さんから大川牧師のもとに「だれかいないか、新しい血を入れたい」とラブコールがありました。当時、亀有は日本基督教団でした。神学校では、基督教団はリベラルで信仰がないと教えられていました。家内は「あなた一人で行って」と言いました。しかし、大川牧師が「日本基督教団から招聘を受けることはまずないから行ってみろ!」と言うのです。「先生、私が不要なのですか?」と悲しくなりました。祈るとイザヤ61章のみことばが来ました。でも、それはイエス様のメシヤ預言なので、私とは程遠いことだと跳ね飛ばしました。でも、追っ払っても、またそのみことばがやってきました。ついには、降参し、二歳と五歳の子どもを連れて家内とやってきました。頭と感情では来るつもりはありませんでした。しかし、「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」というみことばに、私の霊が従いました。ケネス・ヘーゲンのことばです。「あなたはどんな超自然的なしるしも必要ありません。異言と解き明かしも必要ありません。あなたはどんな預言も必要ありません。あなたはあなたの内側で、何をすべきかを知っています。内なる証しは、幻などと同じくらい超自然的な導きなのです。それはあまり目を見張らせるものではありません。が、多くの人々は、目を見張らせるものを捜していて、いつもずっと存在している超自然的なものを見逃してしまっているのです。」つまり、導きを得るために、だれか預言者のところに行く必要はないということです。預言はあります。しかし、多くの場合、すでにあなたに語っていることへの確認を与えるためです。

2.内なる声

ローマ9:1「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。」御霊が私たちを導かれる第二の方法は、内なる声によってです。この内なる人の声を私たちは「良心」と呼んでいます。あなたの霊には声があります。あなたの霊はあなたに語りかけます。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこのように書いています。「霊は良心、交わり、直覚からなっている3つの部分あるいは機能があります。良心は容易に理解できます。私たちはだれでもこれを良く知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。」アーメン。でも、ここで1つの問題が生じます。「イエス様を信じていない人でも、良心があるか?」ということです。実は良心はほとんど機能していないというのが、本当です。でも、良心がないわけではありません、ヘブル10:22「私たちは、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ」と書かれています。この世では「あなたに良心のかけらでもあるなら」と言うような言い方があります。でも、生まれ変わっていない人の良心は神の目から見たら「邪悪な良心」なのです。ですから、イエス様を信じて、霊的に新しくなるとき、良心もはじめて機能するようになるのです。もし、あなたの霊が新しくされ、神のいのちの性質を内に持っているなら、それは安全な案内役なのです。Ⅰヨハネ5:13「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」「持っている」というのは、現在形です。私たちは永遠の命を、今持っているのです。あなたが新しく生まれたクリスチャンなら、あなたは自分の霊の中に、今、神の命を持っているのです。あなたは自分の霊の中に、今、神の性質を持っているのです。人が自分の霊に従うことを学ぶなら、それは何とすばらしいことでしょう。Ⅰコリント2:16「いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

ケネス・ヘーゲンは、ただ死を待つだけの少年でした。医学が「私にはこれ以上何もしてあげられない」と言ったとき私はどうしたでしょう?私は「もし、私に助けがあるとすれば、それは聖書の中にある」と考えました。時間があまりなかったので、新約聖書から始めることにしました。マルコ11:23,24にたどり着きました。私の外側の何者かが、どこからか私の知性に言いました。「それはあなたが肉体的に、物質的に、あるいは経済的に願うものは何でも」という意味ではない。「あなたがたが霊的に願うものは何でも、という意味である。病気のいやしのことは除外されている」と言いました。私は牧師に来てもらってマルコ11:24を教えてもらおうとしました。ようやく一人の説教者が来てくれました。彼は私の手をさすり、専門家のような口調で言いました。「がまんするんだよ。あと二、三日もすれば、すっかり良くなるからね」。私はその意見を受け入れて、死を予期しつつ、そこに横になっていました。それから二か月たって、私は聖書を開き、マルコ11:23,24を読みました。私は言いました。「主よ、僕は、だれかに助けてもらおうとしましたが、できませんでした。僕は、あなたのおことば通りにあなたを受け入れます。あなたがこの地上におられた時、あなたはそのみことばを言われました。僕はそれを信じようと思います。あなたがそのことで嘘をつかれたのでなければ、僕はこのベッドから出られるでしょう」。私の霊が私にこう言いました。「あの節で『信仰の祈りが病人を救う』と言っていることに気づきましたか?」私は大きな声で言いました。「はい、その節でそう言っています!」その時、私の内側でこういうことばが語られました。「その祈りはだれででもできるし、あなたにもできます」ハレルヤ!私はもう九か月かかりましたが、「私は健康であると信じています」と言いました。その内なる声が言いました。「では、起き上がりなさい。健康な人々は、午前10時30分には起きているべきです」。私はそれまで体が麻痺していました。それは1つの戦いでした。私は自分の体を引っ張るように動かしました。突然、私は真っ直ぐに立っていたのです。それ以来、私は今までずっと真っ直ぐになっているのです。私は私の霊に耳を傾けたのです。信仰は霊から出るのです。

3.聖霊の声

使徒10:19、20「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。』」聖霊が私たちを導かれる方法は3つあります。第一は「内なる証し」です。神の御霊が私たちの霊に直接話しかけることによって私たちを導かれます。第二は「内なる声」です。私たち自身の霊が私たちに語る、静かな声です。第三は「聖霊の声」です。聖霊があなたの内側で語られる時は、もっと威厳があります。その声があまりにもはっきり聞こえるので、耳に聞こえる声であるかのように思われることもあります。そういう時、だれが話したんだろう、と周りを見回すことさえするかもしれません。耳にはっきりと聞こえたように思われるので、だれかが後ろから何かを言ったのだろうと思うかもしれません。けれども、自分の内に語られたのだと、後で分かるのです。旧約聖書の中で、あの少年サムエルが「サムエル、サムエル」と自分の名前を聞いたことがあります。彼はエリが自分を呼んでいるのだと思いました。しかし、そうではなく、主がサムエルに語っていることを後で知りました。私も信仰生活40年たちますが、イエス様の声を聞いたのが2回あります。私が第二礼拝で証をする番だったのに、直前になって大川牧師から「第一礼拝で証した田中伝道師にしてもらうから」と言われました。私は礼拝堂の一番、後ろで座っていました。田中伝道師が証をし始めた時、「馬鹿野郎、ふざけるな!」と叫ぼうとしました。その時、イエス様の声が聞こえました。「お前はだれのために証をするのか」と。あの時、叫んでいたなら、今日の私はありません。

ケネス・ヘーゲンは「御霊の声をみことばによって吟味する」ということを教えています。聖書は、神の御霊と神のことばは一致すると教えています。神の御霊が語られる時は、それは常にみことばと調和しているはずです。人々はさまざまな『声』を聞き、考えられるあらゆる種類の『啓示』を受けています。しかし、「私は声を聞いています」といつも主張している極端な人たちもいます。神さまが初代のクリスチャンたちを導かれたのと同様に、神さまは今日も私たちを導いておられます。ローマ8:14「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」ですから、私たちは神の御霊がどのように、彼らを導かれたかを知るために、使徒の働きや聖書の他の箇所を調べる必要があります。ある人たちは幻を通して導きを受けたことがありました。御使いが現れて、何をすべきかを告げることにより、導きを受けた人々もいました。しかし、そのような現象は、そういう人々の人生で毎日起ったわけではありません。ですから、そのようなことは、神さまが導かれる通常の方法ではないのです。私たちは、ほとんど毎日、天使がだれかに現れて、人々に何かを告げているかのような印象を持っています。そうではありません。神さまが私たちの霊と一緒に証しし、神がご自身のみことばで言われている通りの方法で私たちを導びこうとしておられるのです。それなのに、私たちは幻とか天使の出現とかのようなもの望んでいるために、耳を傾けないことが多くあるのです。

ケネス・ヘーゲン師がこのように勧めています。あなたの人生を夢や幻、預言の上に建て上げてはいけません。あなたの人生を、みことばの上建て上げてください。それ以外のものは、二の次にしてください。あなたが内なる証ししか持っていなくても、その内なる証しに従うことに満足してください。あなたの霊を教育し、訓練し、開発し、内なる証しがあなたにとってますます現実のものとなるようにしてください。もし、超自然的な訪れや現れを神がよしとして、それをなしてくださったなら、神にただそのことを感謝してください。あなたの霊がみことばを思い巡らし、みことばを実行し、みことばを第一にするという特権にあずかっているなら、あなたの霊は権威ある案内役なのです。…2000年前のペンテコステの日以来、キリストを信じる者の内に聖霊が住むようになりました。この聖霊はキリストの御霊であり、神の霊です。私たちは聖霊の宮であるとも言えます。すでに、大いなる導き手である聖霊が私たちの内におられるのですから、聖書を読みつつ、このお方の声に耳を傾けましょう。聖霊はあなたに他の人々には、隠されている道を教えてくれます。知恵を与え、創造力を与え、あらゆる解決を与えてくださいます。そして、キリスト様のようなきよい心を与え、柔和で愛の人にしてくださいます。私たちはもっとすばらしい神さまご自身を心の中に有していることを忘れないようにしましょう。